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つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

津幡の「味噌伝説」。

2010年11月27日 10時03分53秒 | 日記
「今日の一枚」は、津幡町にある「舟田味噌店」。
200年近く昔から醸造業を営んできたお店で、勿論今も現役である。

藩政期の津幡町は境界線に位置していた。
津幡より北が「能登国」。 ここは「加賀国」の北端である。
「加賀味噌」は、赤色でやや辛口…比較的塩分が高く、長期熟成型が伝統だ。
やはり「前田軍」の糧食として発展した歴史があるためだろう。

応仁の乱以降続いた戦乱の時代。
カロリー源のお米と、栄養源の味噌は戦の必需品。
それを確保するか否かは、軍団の戦闘能力に関わり、勝敗を左右するため、
味噌の醸造法が発達した時代だった。
加賀味噌が辛口で塩分が高いのは、軍団の遠征…
つまり長期運搬に耐える保存を考慮し、
戦いで失われた塩分を補給するためだったのではないだろうか?
もちろん「前田利家」以前も味噌は作られていただろうが、
「今も食べられている味噌」となると、前田時代が発端という事になる。
そして、塩分と植物性たんぱく質を同時に摂取できる
滋養豊かな味噌を必要としたのは、人間だけでなかったらしい。
津幡町に、こんな伝説が残っている。

■「山姥堂」の話(津幡)
『寛永14年(1637年)夏の終りの夜中のことです。
 津幡村の百姓家の門をたたく者がいました。
 主人はまだ寝ついていなかったので「だれだ?」と尋ねると、若い男の声で
 「山姥が近くでお産をし、味噌汁をしきりに欲しがっています。
  少しいただけないでしょうか」というので、不思議に思ったけれども、
 有り合わせの味噌汁に団子をそえてやりました。
 翌日、外へ出てみると麻畠の中に人の足跡があり、器だけが残っていました。
 次の日もまた夜に味噌団子を器に盛って麻畠においたところ、
 やはり器だけが残っていました。
 村人に話すと、皆不思議に思いながらもそなえたところ、
 必ず器だけが残っていました。
 ある時、病気の子供のために、山姥に団子をそなえて頼んだところ
 急に病気がなおりました。
 不思議な事であるが、我も我もと頼んだら大方の願いがかないました。
 この話が金沢にまで聞こえて、その百姓のところへ団子をお供えするために
 お金・米などがどんどん送られるようになりました。
 いろいろの病気が治るというご利益があったので、
 参詣者やお供え物・寄進がますます多くなり、九尺四面の社殿もできました。
 そして、金沢から身分の高い家のご夫人が多くのお供を付けて来たり、
 若侍や老人なども珍しがって参詣するようになりました。
 このことが殿様の耳に入ると、お供え物・寄進は禁止となって、
 今はその跡もなくなってしまったそうです。』    (津幡町HPより、原文ママ)

味噌が「物の怪」にも重宝されたのは、「舟田味噌店」ができる、ずっと以前の話だ。

<追記:2012年5月15日>

 

津幡中央銀座商店街に、前述した伝説にまつわる小さな橋、
「姥土(うばど)橋」が架かっている。
かつて、この橋の辺りに山姥堂があり、薬師如来が祀られていたそうだ。
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