キャンプサイトから谷川に沿った道を20分ほど歩いて村のバス停へ行き、パンプローナの町へ。バスは30分ほどで旧市街近くの大通りに着いた。
地図を頼りにカスティロ広場へ向かう。途中にこのパンプローナで一番有名な祭り(通りに荒れ牛の群れを放ちその前を走る勇気のある(または狂った)男たち)の銅像が堂々と立っていた。その横を見ると通りの向こうに闘牛場が見える。この祭り今年は7月6日から14日まで行われ闘牛場までの850メータの通りを怒り狂った牛の前を男たちが走るもの。これで怪我をして一生歩けない人もまたは死ぬ人も出るのに、全くどうしょうもない人たちだ。
一度闘牛場へ入ってみたいと思うが、牛を目の前で殺して喜ぶスペイン人たちは見たくない。この闘牛場の一角にあでやかな枝垂桜が咲いていた。今年初めての桜でとっても嬉しい。近寄ってしばし見とれていた。
カスティロ広場は真ん中に演壇か音楽壇があるスクエアであちこちに設置されているベンチはスペイン人のおじいさんでいっぱい。一つのベンチに4人くらいづつ座っておしゃべりに夢中だった。おばあさんの群れが無いのが不思議だ。
1844年に闘牛場が作られるまでこのスクエアで闘牛が行われたとの事、それも1385年から行われていたと言うから闘牛も長い歴史がある。
サンタ・マリア大聖堂は有料で外観だけで入らなかった。
この大教会の近くに、サンティアゴ・ラ・コンポステーラまでの巡礼行路が示されていた。 このパンプローナからだと800kmほど歩くことになるのだろう。
町の北部は高台になっていて、ここに王宮や博物館が並んでいる。王宮はどう見てもモダンな博物館様で誰も出入りしていなかった。入り口に旧市街の模型がありその写真をとっただけで、隣の博物館へ行くことにした。
まだ幼稚園らしい子供たちがてをつないで博物館への坂道を登ってゆく。自分の体と同じくらいのリュックを背負って歩いてゆくのがほほえましい。こんな子供たちをつれて歩く先生も大変だろうなと気の毒になった。
博物館内はローマのモザイクや遺跡の発掘物からモダン絵画まで5階建ての各部屋に相当数並べられ結構楽しく見て歩いた。
この中世の宗教画はどこかで見たような気がする。もしかして同じものが何枚かあるのかもしれない。
モダンな闘牛の絵はピカソかと思ったが、ホアン・バホラ(1919-2004)の作品でバダホズの画家。色彩が鮮やかで私の好きな作品。
この巨大なモザイクはあまりの大きさに感激してしまい、ローマ時代のものか近代のものか調べるのを忘れてしまった。あまりに完全な姿をしているから古代ローマのものとは思えない。
これはローマ時代の円形モザイクの一部で部分が紛失している。それでも色彩も形も素晴らしい。
パンプローナの町のど真ん中にあるのがシタデルと呼ばれる城砦で1571年から1645年にかけて建設された。5角形の城砦の周囲に深い堀をめぐらしてあり、スペインのルネッサンスの傑作と言われる。外壁を一周しようと思ったがあまりに大きく帰りのバス時間までに間に合わないのであきらめた。
たったの数時間の町の散策ではあまり大きなことは言えないが、全体としては昨年11-12月に訪れたメリーダやカセーラス、バレンシア、ザラゴーザの町には及ばない。
3月末に無事帰国できたが、我が家にインターネットがつながったのが2週間後だったから、やっと今回の旅の最後の締めくくりが書ける。
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パンプローナからN121A山越えでフランスの国境へ向かった。山道を走っているときにキャンパーの前方に大きな鳥が見えあわてて写真を写したがピントが外れた。ちょうど道端の崖の上に着地寸前だったからチラッと見た瞬間だったが驚いたことに20羽近くの禿げ鷹みたいだった。思わず我が目を疑ってしまった。
高速で走っているキャンパーの中からではそこにカメラを向けるのも無理で、山道ではユーターンも出来ずしっかりした写真が撮れなかったのが心残りだった。
それにしてもスペインに禿げ鷹とは想像しがたい。
カーナヴィの道案内で道路はN121Bの山深くに入り込み、時々通り過ぎる村がフランスともスペインともかけ離れたまるでスイスやオーストリアの風景を見ているような気持ちになった。そしてこの日は土曜日、山道でトレーニングするサイクリストが多く自転車の後ろを追いかけることになった。それと不思議なことにこの国境付近がスペイン側もフランス側も同じくらいにディーゼルが安かったこと。まさかこの国境だけ無税であるはずがないだろうに、フランスもスペインより安いと思ったのが間違いで、カレーに向かうほどにすこしづつ値段が上がっていった。
ボルドーの南のキャンプサイトで一泊し、翌朝ボルドー100km北にあるオングレム(Angouleme)へ向かう。ここには昔ロンドンで働いていた頃のランニング仲間が家を買って住んでいる。帰りに立ち寄って欲しいと連絡が来ていて一泊することにし、早くついたので、オングレメの旧市街へ行ってみた。教会がそびえる小高い岡の上には戦争慰霊塔やお役所などの建物が並び公園の中にバルザックの記念表があった。
バルザックはこの町で生まれ,死後はこの町に埋葬されたと言う。
ボルドーからパリ周辺までは辺りは平野で耕作地が地平線まで続いているのに、オングレムの郊外へ行ってみると大きな川が流れ水車が廻り、夏には子供たちだけならぬ大人まで川に飛び込んで遊んでいると言う。国道だけを走っているときには見えなかった素晴らしいフランスの田舎だった。
国道を北に向かって走ると上下線ともトラックの多さに驚かされる。国内の物資の移動はやっぱりトラックがメインになるのだろう。
フランスの友人宅ではじめて新月の近くの明るい2星が月と直線に並ぶ金星(ヴィーナス)と聞き、翌夜撮ったもの。ポルトガルでは毎夜明るく輝いている星を見ていた。
フランスにはシャルル・ドゴール通りと言うのがよく見られるがそのほかにも面白いのがこのような1945年5月8日通りなどと言うのがある。この日はヨーロッパでの戦勝記念日。フランスの国道を走っていていつも思うのは通り過ぎる村や町にほとんど人を見かけないこと。おまけに農場でも働く人たちをあまり見かけない。
パリ北西郊外のキャンプサイトで一泊,木の間に沈む夕日が印象的な一日だった。
フランスは国土のほとんどが広大な農地で、このような広い麦畑などを見ると豊かな国だと実感する。英国に近いカレーからドーバーへのフェリーが出ている。このカレーの町を囲むように頑丈な城砦が散在する。この晴天の午後城砦の周囲の公園で遊ぶグループが多いのに気づいた。
カレーのフェリー港の対岸に長く突き出ている堤防は魚つりの人たちでいっぱい。水曜日の午後だというのになんと働いていない人たちが多いことか。この堤防の近くにはフリーのキャンプサイトがありこの夜約50台のキャンパーが停車していた。堤防の反対側は長い砂浜が延びてここの海岸へ遊びに来るフランス人も多いと見える。キャンパーの多くがフランス・ナンバーで、英国車は翌日帰国する人たちらしい。
5ヶ月近くもこの国を離れていた間にまた春がめぐってきて、ロンドンへ向かう高速道路の両脇は真っ白のさんざし(Black thorn)の花盛り。土手には黄色のラッパ水仙が群れ咲き誇っていた。やっぱりイギリスの春はいい。我が家へ向かう通りは桜の花盛りだった。
昨年9-10月に手入れして裏庭の肥えた土を入れた前庭の花壇には、去年落ちたからし菜の種がいっせいに育ち、菜の花畑になっていた。これぞ花より団子で、毎日からし菜の漬物や煮つけを食べている。やっぱり我が家が一番いい。
今年はオリンピックがロンドンで開催されるから、秋までどこへ行くつもりも無くEU圏内をすべて廻ってしまったから、特に行きたいところが無くなってしまった。英国の夏を楽しむつもり、無事に帰ってこれて亭主には今回も感謝している。