想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

弥生雪三昧…

2010-03-31 15:10:19 | Weblog
(出がけに撮った庭に降りだした雪)

東京も山と同じくらい寒くてちょっとがっかり。南下すれば暖かいという
期待を裏切られた北国の旅人の気分。
雪ならば目で楽しめるものの、切り刻むような風が吹きつけるだけという
のはキビシいだけしごかれている気分。

スパルタ教育のあとにはごほうびがつきものでなければならぬが‥‥、
でないと人間歪んでイジケルだけであると思うが‥‥、いやなに大福が欲しいと
いうのではないよ、団子より花‥、今はね。
桜があれば寒風もまた我慢できるというものである。
ごうごうと花満開の山の虚空とは違う都会の桜は、ほどよくあたたかいはずなので。

でも、まだちらほらだった。寒いほうが勝っていて、背中を丸めて歩く。
ベイビーの足取りも悪し、ステロイドが抜けてきてつかの間ハイテンションも
終わったな、それでよいそれでよい12才だかんな、ゆっくり歩こう。

花よりも 犬見て和むみやこびと。

追記:そして昨日の夕方、森タワーに反射する光が赤いので西を振り返ると、
日暮れのセレモニーが静かに進んでいたよ。
コンパクトデジカメでパシッと一枚。東京は夕暮れ時がいい、毎度同じことを
思う自分を笑うのであった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ただの犬活動

2010-03-29 22:21:56 | Weblog

おいらの部活、樹の根元をクンクンして歩くのだ。
本数がけっこうあるから時間がかかる。誰かの痕跡があれば上書きせねばならないのだ。
おっかあが大声で呼んでいてもすべてチェックするまで帰らない、シンケンっす。
時々葉っぱを口にして、怒鳴られる。えええっ、そこで見てたの、知らなんだ。

  
            

ビワもあります、クンクンしようとしたら叱られました、急いで逃げるのだ。
逃げたと思われないワザは、ちょっと斜めに横っとび。そしてカニ走りしてたら‥(後足が
前に出てしまうのだ、慌てすぎて)カメに目撃されてしまった。

笑われたがその昔カメが飼っていた亀は「泥がめ」らしい。
ふーん、とうなづくおっかあに、「ただの泥がめ、ただの」とカメが言っている。
ただのが上につくとなんだか存在感増すなあ。
ミドリガメでもゼニガメでもない「ただの泥がめ」ですよ、昔だものと言うけど。

おいらも「ただの犬」。これからも「ただ犬活動」でいくのだ。
薬の錠剤を飲んだフリして吐き出すのが得意な「ただの犬」、自由だ。‥‥ピシっ。
叩かれてしまいました‥‥、おっかあはこのごろちょっと油断、いや調子にのるとコワイコワイ、
イケナイでしょ!と声デカイです。
まだ治ってないよ、と言われてゴリゴリと頭をなでられます。

今週はステロイドを減らして投与し、次週は空けてその翌週から別の抗炎症剤で
治療を続ける予定、出血がまだ完全に止まっていないのでありますがステロイドの
影響で肝臓のGPT値が203と上昇著しいので止めることを決めました。
(正常値は17-78、投与前は64だった)
医師はステロイドを止めて出血が増す可能性もある、この範囲ならもう少し投与
してもいいかも、と言いながらも迷っているふうでもありました。
これはわたしが判断すべきことと思い、薬を変えてもらうことにしました。
長期的に治療する場合はいずれにしろステロイドは使用できないからです。
医師もいろいろと迷うのだなあということを発見、そりゃそうだけど、さ。
医師であるまえに謙虚な人なんだろうと思います、患者側からすれば大事なことです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忍ぶれば春

2010-03-29 00:58:51 | Weblog

晴れの天気予報を期待していたのに‥‥、いろいろ予定があったのに‥‥。
森に肌を刺す冷たさの空気が満ちてくるので、もしやと思っていたら曇天ののち、粉雪が
降ってくるのでした。
もうすこしで暖かくなる、週末ごとにそんな言葉を交わしながら、忍ぶ季節がまだ続きそう。
まだ春への境が見えません、ちょっとでも過ぎたらあっと言う間もなく春はそこにいる、
たぶんそんなふうに、唐突に移るのでしょう。ゆるやかなおだやかなという形容とは逆の。
その分、喜びは倍増だぞうううう。



いろいろあって、忍ぶれば春だかんな。
柚だって、雪に埋もれてもだいじょうぶだかんな。
百年ドウダンをいただいたけど、まだ植えてないもんなあ、すまんこってす。
百年ドウダンの幹はすごく太くて、背も高くて、まあオジイさんツツジなわけだけど、
まだ土に立っていないのでどんなお顔かよくわかりません。
とても楽しみであります。百年、いろんな声を聞いて、いろんな事を見てきたドウダン、
今度はうちにきたから、うさこの良い子ぶりっこをたくさん見るでしょ、アハ。
そしてさらに長生きして、八千年の春を、八千年の秋を過ごし、迷う人が訪れたときは、
忍ぶれば春八千年とゆさゆさと語ってくれるでしょ、楽しみだかんな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨に流れて、暗い夜の後に

2010-03-26 11:13:27 | Weblog
この雪の良いところは雨に流れて形をとどめないことです。
このまま凍ればその重みは樹に負担をかけるでしょう、だから雨に素直に
流されます。

思い込みの激しかった若い時分に、我が胸中に溜まった思いの重さにかえって
自分を失っていました。
思い込むときに正しいかどうかなどと考えているわけではない。むしろ正しいか
間違っているかではなく自分を守ろう、どんなことがあろうと守ろうという
無意識に近い防衛本能のようなものでいっぱいになってしまうのでははないかと
思います。
「自分」ではなく「脳」がはたらいてそうなるわけで、それを制御するはずの
自分よりも、猛然たるスピードで脳が先走り命令し思い込みの牙城が築かれる。
ましてや今自分の胸のなか、頭のなかでかけめぐる思いを「思い込み」などと
いう無駄な考えとは気づきようもない確固たるものになっていきます。
それが最初は迷いから始まったことなど、もう忘れてしまいます。

そうなると、その思いの始まり、きっかけをさかのぼり思い起こすことも
できなくなっています。考える余裕などありません。
思いの重さで苦しさから逃げることへ考えはひたすら向かいます。
守ろうからはじまって逃げるになり、逃げて守れるわけもないのだけれど、
それで自分をかたくなに守ろうとするのです。

しかし脳は命令を継続したりはしません。その時その時目先のことでしか動かない。
一夜明ければ、昨日の思いは薄れています。薄れたところで落ち着いて考えれば、
思い込みが変化します。
けれども昨夜の記憶が生々しいままに、なかったことにすることが今度はできないのです。
昨夜の自分の考えた思い、自分を占領していた考えに、今度は脳ではなく自ら縛られ
またそこからどうやって逃げるか、なかったことにするかと、考え始めます。

思い込みの檻から抜け出すのは、なかなか難しいようです。



わたしがどうやって檻から脱出したか? それはまた別の機会に書くとして、
一つ言えるのは「私」「自分」を守っているのだから、「私」「自分」を勘定から
外す、数に入れない、消してしまうのです。
うさぎは逃げ足が速い! 特にアホなうさこですから、命令に従順です。
思い込みの元凶である脳ではなく、覚ったカメに「考えるな」と一言命令されて
それをひたすら守りました。
考えるな、となれば「私」を思うことをやめるしかないのでした。

かくしてわたしは早足のうさぎ、軽い軽い自由なうさこに戻れたのでした。
自分に努めて頭をからっぽにするようにしたのです。元々アホですからたいした
こと考えていません。
この効果はてきめんに顕われました。

けれど、そうした暗い夜を幾晩もすごした若い時のことを、そういう時代が自分に
あったことを今もよく覚えています。似たような人をみかけると、ああ難儀なことだなあ
と気の毒です。
どうか脱出し、明るい場所を知ってほしいと思いながら見守るしかないのですが。

人がゆえなく思いに囚われれて、それが元で病気になるほど、狂うほどにふりまわされて
不審な行動に出るまでに追い込まれることも知っています。
その原因に対処することをカメにはたくさん教わりました。
理論的にもわかるようになりました。祈祷したりお祓いしたりしてもらいに行く人が
いますね、あれとは違いますよ。人頼みで脳みそ占領から解放されることはありません。
いや、神頼みであって人頼みではないと言われるかもしれませんが、お祓いしてる人が
神なのでしょうか? あるいは神に通じているでしょうか?
通じていればおそらくカメのように「やめよ」と言われるのです。祈祷だけすることは
ありません。悟った坊さんならばお祓いしますかなんて言いません。

本当の自分をみつけること。そしてみつけた本当の自分を大切にすること。
それは自己中とは真逆です。自分を捨てることに至る道、そう思います。
そこが道の始まりの地点です。
人に道ありと、カメに教わってから思い込みとは無縁であります。

ベイビーは治療第二段階に入り、融ける雪のようにおなかの腫物が消えてくれるよう
願っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪と井戸小屋

2010-03-25 02:39:15 | Weblog
この愛嬌のある小屋は井戸用で、カメの門下生が作った苦心作、いや苦し紛れの作。
屋根の線が傾いているのはシュールなデザインというわけでもない。
板の打ち方が下手だったためである。でもこれはこういうもんだと思われるらしく
誰も傾斜について尋ねない。
尋ねられないと、「あのね、これね、まちがえたのよ、M君とS君がさ間違えてさ」
と、あのうさこが口をとんぎらかして言うのである。まるで子どもである。
誰も相手にしてくれないので、書いたりする。大人げない、ふふふふ。
当年とって幾つかは、それは秘密である、アホに歳は関係ない。

この小屋は井戸以外にも多々活用され役立っている。
昨年夏にはシマコが赤ちゃんの隠し場所にしていた。赤ん坊は健やかに育ち、ここで
授乳期のあいだじゅう遊んでいた。
眺めていられる場所に隠してくれて、でかしたぞシマコと思ってミルクなど奮発しておごった。
おかげでこんな写真も撮れたのである。


ここの二匹、右側はコブチャと名付けた。ときどき夜になると遠慮がちに訪れる。
いまではこの愛くるしさは消え失せ、どぅえん(くるねこ語)な体型。シマコの
倍ほどの胴回りである。それでもシマコにすり寄って甘える。
いったい誰に似たのじゃ? しっぽだけはシマコに似ている。それから額の小判柄。
顔立ちは微妙に親子だとわかる。わかるとよけいになんとなくおかしい。
あたりまえのようだけど、形だけは親子、絶対に似るわけである。
ネコにも反抗期とか、反面教師な関係とかあるんだろうか? ないよなあ、たぶん。
シマコはいい母さんである、ああ見えても。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜の森の満開の下

2010-03-24 11:11:15 | 
若い頃、このロマンチックなタイトルを目にするたびに強い憧れと、閃光で眼が
くらむようなとまどう思いとが同時にあって、惹かれていた。
坂口安吾の小説であるが、読んでいると「羅生門」の三船敏郎が思い浮かぶ。
若山富三郎と岩下志麻で映画化されているけれど、わたしのイメージでは
主人公の山賊役は三船敏郎の顔で桜の山の中を必死で駆け抜けていくのである。

森より町中では桜の下で宴会、どうしてもなじめないニッポンの慣習である。
わたしは一度もそのゴザの上に座って宴に混ざったことはない。
これから先はどうだか。
ずっと誘われるような環境がなかったということもあろうし自ら花見の宴を計画
したりもしなかった。横目に見ながら通り過ぎ、目を背けて歩いてきた。
ホシミ(欲)の宴であるからして小鬼(又の名ザコオ)が集っていそうだと内なる
虫が知らせて遠ざけるのである。

安吾のこの小説を読んでからそうなったわけでもないが、読んだあとは自分は
正しいぞと思ったりした。
毎年今どきは、山桜を見上げて花を待っている。そして葉桜になっても桜の木を
大事にし、誇りにさえ思っているようなところもある。
庭に桜の、それも山桜の木があるよと誰にともなく言う、そんな誇りかたで、
かわいいもんである。
その下で、安吾が書いたような孤独を感じたりはしないからだろう。
孤独はないが、そこを突き抜けたところの虚空というのはもしかしたらあるかも
しれない。
虚空のはての悲しさも、おそらくあるのだろうと思うのである。



ゴールデンウイークに咲くうちの桜、裏山の桜、その下では森の生きものが
駆け回る。鬼が入るスキなどない。
鬼は都からやってくるのである、車に乗って。
門番、黒犬がワンと吠えて、鬼を追っ払ってくれるのでうさこは安心して花を
待っていられる。
あと何回、雪が降れば花が咲くだろうかなあ。その頃には親分も治るかなあ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵐が止んだ合間に

2010-03-23 11:06:53 | Weblog
おとといの作業風景。
前日の雪が融けて風が止んだその合間にと取りかかったら、
すぐにまた降り出してしまった。
淡い粉雪なので積もらないだろうくらいに思っていたら、前日の写真の通りであった。
ごうごうと風も雪も、なかなかにしぶとくて、さすが山ん中だけのことはある。




白木蓮の隣は木瓜、もう花がついていたのに、雪に降られて可哀想なことだ。
でもここに馴染んでくださいな、とお願いするばかりであった。


あっという間に風景が変わるのであるよ。

もっとやらねばならないことがあったが、これで作業撤収した。
先生は作業が素早いのであるが、うさこは猫の手、いやネコを押すのがやっとであった。
植え込みの時、大きな木蓮の根株を穴へおとし込むときには、一緒に落ちそうになった。
おまけに幹が傾いてこれまた一緒に押したおされてしまうありさまであった。
結局、先生がユンボから降りてきて手を出さねばならんのであった。
ま、そういうことでしたがすっきりと片付いて、よかったよかった。
葉を茂らせる頃に、遊びに来たら「ああこれがうさこが倒れそうになりながら植えた木か」
と笑って眺めてください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春嵐と白木蓮  早春4

2010-03-22 00:20:02 | 

ここは風の谷、強風大風は珍しくないけれど……一日前の暖かさが
ウソのような嵐であった。
ゴウゴウとうなる風の音に訪れた人はびっくりしただろう。
うさこは慣れたけれど、犬も猫も外に出たがらないくらい荒れた。
雪の下にあった落葉がクルクルと渦巻いて押し寄せてきていたかと
思ったら、やがて雪が舞い始めた。



春の雪をことのほか冷たく感じるのは気持ちのせいもあるだろう。
春、春と温もりを求めて喜んでいるところへひんやりと降って
くるのだから後ろへ引き戻されたような気になるのだった。
こういう日を繰り返して本当の春がやってくる。そうだと知って
いても春の嵐はめいわくな、意地悪なものである。

日曜日午後からカメの手伝いで植木を移植する作業をした。
今年もまた宇都宮の宮司さんが18本もの若木を運んでくださって
それを急ぎ土へ戻してやらねばならなかったのである。
春の嵐なぞ言っていられないのであった。さっさか片付けて、
あとは大物のドウダンツツジ5本だけ残して終えた。

庭の特等席から見えるところへ白木蓮を、その手前の中央へ紫木蓮を
据えた。紫が好きだと言ったら、このあたりは生育する北限で無理で
はないかと言われていたのだが持ってきて下さって予想外でうれしい。
小さなつぼみがついている。育ちますようにと願いながら植えた。

白木蓮は最近マイブームだった「真田太平記」(池波正太郎著)で幸村
が好きな花として出てくる。
物語られると眺め見るにも前とは違った風情を感じたりし、白がただの
白ではなくみえてくる。

幸村が白木蓮を好きな理由は、「おこう」という名の真田の忍びの者
との出会いを思わせるからであった。
強く凛とし、春とともに必ずや咲く花、純潔と信念を表しているという。
白木蓮は物語の大事な脇役で、変わらぬ想いという言葉など花言葉に似合い
そうであった(そんな言葉は小説には出てこぬが)。
花のイメージを人に重ねる、池波正太郎の小説には時々そういう場面が
あって、男の戦場や盗賊改め、仕掛人の梅安など殺伐とした世界を描き
ながら深い情をも感じさせる。
好きな理由はそういうことにもあるかもしれない、まだまだ奥深そうで
よくわからないが…。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自力な犬

2010-03-20 01:48:12 | Weblog
水がぬるんできたようだ。
親分が川に足をつけてジャブジャブと水を飲むようになったから
わかるのである。



上流の方まで川のなかを歩いて、なるべく落葉が溜まり澱んで
いるところを避けて澄んだ水を飲む、うむ、賢いのう君は。
日々おっかあとの駆け引きで学んだのだろう知恵がついて、
効率的な行動をとるのである。

そんなベイビー、病で薬(ヤク)漬けのせいかハイテンション
なこの頃、こんな写真を見られると病説がうさこのでっち上げ
ではないかと疑われるやもしれんなあ。
でも本当なんです、残念ながら。
宇都宮の禰宜さんからお見舞いの金一封が届いたのであるが、
カメに「おまえもエラくなったなあ」と頭をなでてもらって
どたっと横になり甘えている。

この頃は犬猫などペットの医療用の保険商品がある。
しかし高齢犬は加入できないのである(ヒトと同じ仕組であるな、
歳とるとリスクが高い、つまり保険屋が損するから排除ってことだ)。
無保険だと全額実費となる。年一回の予防注射やちょっとした手当て
は数千円だが、手術や検査を受けたりするとまとまった費用を要する。
心配性かつ備えあれば憂いなしと考える飼い主は加入し、同時に動物
病院は繁盛するわけである。
ペットというより大事な家族と考える人々にとっては金を惜しんで
治療を放棄するなどということはありえないその弱みに「保険」である。

わたしはベイビーがまだ若かった頃から保険のDMが届いたり、ペット
フード屋さんで買い物の際にもらうチラシなどで知ってはいた。
だが「こんなものに入ると病気するような気がする」という理屈をつけ
今日まで入らずにきたのである。いまや高齢なので加入資格がない。
よって突然の変調に直面しベイビーの治療費のレシートを手に複雑な
思いなのであった。
そこへ思いがけずお見舞い頂戴し、薬代1週間分が助かった。
心配してくださるお気持ちも嬉しいし、そしてお札はありがたい。
ベイビー、おまえはエライのう、自らを助く犬なんだから。

これから誰かの病気見舞いに行くようなことがあれば、花より団子で
いくことにしようと思ったりしたのであった。
これまで花を届けるヒトであったが、花も団子もいるのだ。
必要なときに必要なものを届けるのが何より相手のためであることを
よくよく考えようと思ったりしたのである。
禰宜さん、ありがとうございました。
何よりわが犬に金一封のお心がうれしゅうございました。
一人前に扱ってくださって、うれしゅうございました。

早くよくなってお礼しようなあ、ベイビー。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

つづき、雪は消え春の陽

2010-03-19 18:00:00 | Weblog
午前5時半撮影。朝陽で雪が融けだす前に急いで撮った。
親分は用足し散歩くらいに思って外へ出たのに、おっかあが
歩き回るからはしゃいでいた。起きぬけから元気じゃのう。
もちろんわたしは撮り終えてすぐにふとんの中へ直行した。
サブイサブイ、春だけどまだまだ。



時は流れ、思いも流れ、何一つ残るものはない。物だけがそこにあって
人を縛っている。そして肉体も物もいつか朽ち果てるのである。
撮られた記憶を時々開けてみれば、無常の中に真実が見えたりする。
写真は流れる時のなかに住んでいる過去未来永劫に変わらぬものを
捉えているかもしれない。
写されているのは形という輪郭だけではないように思う。

うさこは撮られるのが嫌いである。
おのずとここにあるものは油断したときのものでアホ全開である。
たまに登場する犬連れの女の写真がうさことは限らない。
確実にアホの気配があれば、それがわたしであるが。

文章でもアホっぷりが露見せぬように心がけている。しかしそれさえ
難儀である。そこへ顔まで出しては水の泡、もともこもない。
そんなことをしては他人に自信を与え勇気づけることになり、他人を
利しおのが墓穴を掘るだけである。
よってそういう意味のないことは極力しないよう控えているのであって、
これから先、犬連れの女が出てきてもそれはわたしではないと思って
ほしい。
ではなぜたまにでもそんなお眼汚しが出てくるかといえば、長文を読んで
いただくのは申し訳ない、なので挿絵代わりなのである。
周囲の森や空、水など自然を写したものにはもちろん意味がある。
本日のように、うつろう時間を撮ったりしたものはわたしの人格とは
まったく関係ないのでみていただければうれしい限りである。


午前11時頃撮影。
樹上の雪はすっかり消えゆうべの景色はあとかたもなし。
ゆうべの景色は夢のよう、だったなあ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早春3 雪みちと写真

2010-03-19 14:13:13 | Weblog
東京からの帰り道、天気予報がめずらしく当たった。
宝くじはとんと当たらない今日このごろ(昔も今もハズレなり)である。
こうぴったりと、「山沿いは雪になるでしょう」が当たると、
油断していただけにちょっとドキドキしたのであった。
もう今年の雪も終わりだ、終わりだと口々に言いながら、降っても粉雪
舞うくらいだ、と言い合っていたりするこの地元の人も驚いたかもしれん。
水っぽい雪でみぞれよりすこし固いので積もりそうであった。
気温は0度、少しずつ下がっていきそうで零下1度くらいにはなろうか。



車のエンジン凍結が気になるので夜更けに外へでてみた。
おおおっ、樹氷っぽくなって美しいではないか! と即カメラを取りに
戻った。今撮らないと朝になれば消えてしまうのであるからね。
見慣れていても撮りたいのである。
カメラ小僧ならぬカメラおばさん、うふふふふ。
どうしてかなあ、自分で見る、多少の周囲の人が見てくれる、保存して
後で懐かしむ、と撮る理由を並べるがどれも当てはまらない。

絵描きが書く、物書きが書く、見たものを描いたり書いたりと同じで
撮るというのも理由などない気がする人間の感性の延長にあるのでは
ないだろうか。
そこに便利なカメラやPCがあるのだから使ってしまうということだ。
わたしはケータイも画素数の高いカメラ付をこだわって選んだりしたが
ほとんど使っていない。
もっぱら持ち歩くのはデジタル一眼レフカメラかコンパクトカメラだ。

過去に撮ったものを眺めていると、記憶は蘇り物語もついでに立ち上がる。
写真は記憶の箱を開ける鍵のような、そんなものかもしれない。
撮っていなかったならば思い出すこともなく、今をすごすだけだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本日もごきげん、難しいは楽しい。

2010-03-18 09:28:44 | 
ごきげん嬢、それはあたしよ、とシマコ。
それはそうでしょう。停止していないシマコを真正面から撮れたのは
初めてなので、こちらもごきげん嬢(嬢って‥‥?)いや、単にほのかに
嬉しいである。

朝からベイビーがわたしのそばをぴったりとついて離れない。
朝食のシナモンロールが狙われているのである。好物なのである、お互いの。
でも、ダイエットには禁物である、お互いの。
‥‥、ところで昨日の記事を読んだカメがまた一言、「孤高に立つ、役立たず」
なんちゃって。単に語呂がいいのでおもしろいのかと思ったら、その下にあった
写真を見て笑われたようである。
「孤高に立つ役立たず」と声に出して言ってみると、ほら、意外に肩の力が抜けて
いいでしょう? 

被写体の方々、ごねんなさいねーネタになっちまって。木工はむずかしいもんね。
懲りずにまた作ってくださいませ、邪魔になるから要らないと言われるまでは。
この継続というのが最も難しい。

小林秀雄が言っている。「難しいことをやるから面白くなるんだ、やさしいことを
やってもつまらないでしょう。プロはみんなそう、野球選手だってやさしい球を
打てても面白くもないから練習して難度をあげていくんだ、その過程が面白いのだ」
要約するとそういう話なんだけど、(全集対談、岡潔と)。
簡単にやれることしかやりたがらない人はあきらめが早すぎるのである。

もしくは生来無精‥? いや、それはないな。生来なんてないない。人は始めから
無精に生まれついてくるなんてことはないのだからね。
おもしろいことに出会うチャンスがないだけなのだろうと思う。
成し遂げる甲斐のあるものに出会っていないのかもしれないが、簡単なことばかり
やっていると出会うわけもない。 

旧事本紀の原文を初見のときはまるでとりつくしまもないものであったけれど、
3年、5年、10年、そして20年とたって、パッと開いたページを立ち読みし思わず
そのまま読みふけってしまうようになった。
理解できるようになっても、理解のその先をまだ理解していないので、楽しい。
楽しくて、生きていてよかったと思う。

そういうことが世の中にはたくさんあるのだろうと思う。それは独り占めにせずに
誰彼にいいふらしているのでここにもできるだけ書きたいが、書くのが一番難しい。
人にわかるように書く、伝えるということが一番難しい。
結局、人は「言葉なのだ」と小林秀雄がくりかえし言っている。
言葉ありき、言葉がなくて何をもとらえることができないというのである。
思索する時間が言葉を生み出していくので、伝え合うというのは、できれば顔を
向き合わせてというのが一番理想であろうかと思う。
呼吸をし、間があり、相手の思索から生み出されようとするのを待つ。
待っている間に、空間をすでに走り始めている伝達の粒子、それが輝くような対話。
それも生きている喜びである。

いろいろと、簡単を求めすぎて、難しいを嫌いすぎて、おもしろくなくなった時代だ。
自分から求めていけば、時代に流されることはないからな。
時代から浮き上がって孤高に座って生きよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孤高に立たず‥‥

2010-03-17 10:15:30 | Weblog
昨日の記事を見たカメの一言、「孤高に座る、だな(笑)、ヤツはエラい」
わかる人にはわかるシャレばかり言っていつもふざけておられます。
高みに座ってへらへらと笑っていられるのはベイビーくらいなもんです。
ヒトは孤高にてはなかなか意固地さから抜けられないから。
笑いなくして真剣勝負できませんってことですなあ。
犬はいつのまにか覚ってる。

日曜日は木工をやっていました。わたしはいつものように注文つけだけ。
ネストスツールのような、サイドテーブルのようなものをお願いしたのですが。



端材や残っていた木材にカンナをかけるとみちがえるように綺麗な板になりました。
カンナかけと切断でミリ単位でずれたのが重なって、5ミリほど歪んで出来上がり、
なんてことは気にしない気にしない。作ることに意義がある。
集中している時間、きっと波立っていた諸々の感情はどっかへ行ってしまうだろうし。

昨晩はベッド脇に置いて使ってみたら木の香りがなんともいえず清涼で、いい寝覚めに
なりそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10センチの高み、早春2

2010-03-16 00:10:43 | Weblog
雑木林越しに山の白い頂が見える。青と白、単純に喜ばしいコントラストだ。
親分、ちょっと痩せてますよ、ダイエット1キロ経過中(で、37キロだもんね(汗))であるが、
なぜだか屋根から落ちた雪が融けのこって高さ10センチくらいのところに立つ。
キリリと立っている。



視線の先は‥‥、えーっと、なんにもございませんって。
しばらくやつれ顔だったのが、今度は若返って幼な顔になってきて眼がぱっちり。
かわいいベイビー、登ってる高みは10センチ。
ま、ミーちゃんハーちゃんの憧れはきっとここより低かろうと思うんである。


北海道は富良野の原野へ移住され、かの地名を今日のように有名にされた脚本家、
劇作家の倉本聰さんが、その拠点である富良野塾を閉じられるという話。
理由は正論だけになんとも複雑です。
「この数年来、入塾希望者のレベルが下がりすぎて教えようがない、大学生ならまだ
しも幼稚園から教えるなんてできないから」だそうで。
これは導く側に立つ人ならではの苦悩であり課題なので、長く考えられた末の結論
なのだろうと想像します。
本当に学ぼう、教わろうとする者ならば、シェイクスピアくらい知っていてほしい、
だそうです。そう思います。え、それなんですか~?なんて言われちゃ嫌だろうなあ。

おそらく役者になりたいという「夢」だけ食いにくる、芸能界へのコネ、足がかりを
作ってもらえるだろうくらいに思って門を叩く人が増えているのでしょう。
どこも同じようなものなんだなあ、と思います。

しかしながら、今の時代の人は‥という嘆きはあたらないのです。
いつの時代も軽薄な人間の方がむしろ多く、自ら強いて勉める者の方が稀でごく少数
なのですね。
おまけに、求め続け自らを律して極まれる人を敬う心も持ち合わせていないのでしょう。
注意受けると逆キレしたりメソメソと落ち込んだりする、それをなだめすかしてまで
教えるのは困難なことです。それこそ幼稚園生じゃないんだからってこと。
(保育士さんだってあまり聞き分けのない子は放ってますからねー、○○ちゃんダメよ~
と遠くから声かけるだけ、いい子を見てあげるのに忙しいからね)
すなわち自分勝手な都合を持ち込んで郷に入っても従わず、望みと欲だけ一人前って
のが勘違いしてやってくるとしたら、倉本先生はもうヤメヤメ、俺がなんでこんな苦労
せないかんのじゃ、ザケンなよって堪忍袋の緒もキレるわなあ。
怒られるのもあたりまえだと思います、惜しいことです(うさこ想像)。

仏教の古伝書などひもとくと、親鸞も明恵上人も同じような問題に直面し、それぞれに
方法は違えども、志低い者を強いて率いて行こうなどとはされていません。
むしろ排除の方が強い。排除といえば高慢に聞こえますが、導く側が奥へ奥へと
引きこもっていくやり方で、どんどん手が届かなくなるだけのことです。
高みにいる方のそばへ寄りたいのが人の情けでもありますが、私情あっては近寄れず。
導く側も教わる側も人対人、人の礼を外しては成り立たないわけです。

役者志望者が演劇の古典をも知らずに入門する、
人いかに生きるか気にもとめず目先の欲だけ叶えたいとカメに頼る、
いずれも礼なきがゆえのことです。
教わる側であるうさこは同輩の無礼を見るのは嫌なことかぎりなし、何より嫌なのです。
腹も立てないというほど覚っていないもんで怒りは腹に溜まり、重さでぐったりする日も
あり、そんな日にベイビーが慰めてくれます。ヒトよりオイラの方がええで~と。

簡単に都合よく手に入る、パクったり利用したりできると考える人には本当の価値は
一生かかっても死んでもわからない。
境界の一線は見えないだけに、そこを越えるには命がけでなければならない。
命がけなんて大げさな言い方が気に障るなら、イッショケンメイ(一生懸命)でもいい、
同じ意味なので。
一所懸命になれないなら、せめてフツーにマジメにやれってことだわなあ。


(なぜだか、ここが好き)

追記/ご心配いただいておりますベイビーのおなかの出来物の具合は、
ステロイド薬治療の効果が一日一日、ゆっくりとですが顕われているようです。
いろいろと、ありがたいことです。感謝申し上げます。
抗炎症剤なので脚や節々が痛かったのも軽減されているそうで、よく走ります。
ベイビーもなにやらうれしそうです。
裏山へもひさびさ積極的にお出かけになりまして、トットッと先へ走ってゆき、
後からゆくわたしが立ち止まって呼び戻したくらいです。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上を向いて歩こう 早春1

2010-03-15 13:26:21 | Weblog
静かな森のなか、風のない日にはジェット機のごおーっという爆音がよく聴こえ、
快晴の空に白い痕跡を残して飛び去っていく白い粒のような機影を眼で追いかける。
いつまでも見ていて、あれは札幌行きだ、いや、太平洋の方だよ、と言い合う。
カメは北上する飛行機の窓から、この森のこの地点を見下ろし確かにココと認めた
ことがあるので(ブルーシートテントを目印に、森の中にぽっかりと)
自信ありげに、あれは千歳だね、とか言うんである。
本日は少しコースがズレてるからな、わかんないなあ、とかなんとか。
上向きのままで話し合って、首が痛くなるんだな、これが。
混ざってる犬は、空ではなくそういう人を眺めているのである。










上を向いても下を向いても、ここでは天然。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする