想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

世界じゅうに塵が満ちあふれ

2012-01-25 23:01:38 | Weblog

塵、人のことだ。不要品の無機物のゴミのことではなく、人。
仏は三千世界に漂う塵と人を云い教えた。それを実感すると
なるほど自分は小さいわい、と納得し、安心したものだった。
塵とわかったからといって考えないわけでも食べないわけでも
ない。このごろ自分が塵であることを忘れかけて生意気なこと
をつぶやいたりしてみて、少々うんざりして、なぜにこんなに
うんざりと重たいかと湯船に浸かるたびに思うであった。


前の日、一日中降り続いて夕暮れに10センチほどの積雪だった
からたいしたことはないと高をくくっていたら夜のあいだじゅう
降り続いた。20センチを超えると少々不安になり、さて除雪車
は来ないし、さては融けるまで閉じ込められるかなと思ったり
1時間に数回は雪の高さを気にするようになる。
一方で、水気を多く含んだこの日の雪が青く光っているのに
見とれたりしている。


山のなかで暮らしていると自然に圧倒されて、ハイハイと空に
従い風に怯え、合間にはしゃいだり跳ねたりしつつ、総合的に
攻撃性というよりも受容する力や耐える力の方がついてくる。
謙虚になるというほど出来てはいず、怯えるのほうが近いわけ
だが。どっぷりと自然に包み込まれていると、塵であることを
思い出してきたわけなのだった。

考えてみると、日夜ツイッター上で野田ブタがどうの東電の
バカ野郎がどうのと言っている者同士が自分も含めて野田ブタと
どのくらいの差があるというのか、人間は世界中で悪なきものを
まき散らしながら命を長らえていて、それがみな数珠つなぎに
なっているのを、上から見下ろしたらさぞかし塵塵と汚いこと
だろうなあと想像した。



前の週に降った雪は柔らかく、ちょっと降ってみましたよ位の、
雪女がシナを作って挨拶しているんだろうと笑っていた。
ところが今度は、オレだオレだと旦那の雪男とその息子の悪ガキ
がどんなもんだいと太鼓(なぜか雷太鼓)を叩きまくって暴れて
どかーんどかーんと降りやまず、雨だったはずが大雪になって
はた迷惑なことこのうえない状態になったんである。

そんなことを想像しながら、塵であるわたくしをかえりみた。
野田ブタは正真正銘のブタ野郎でどじょうなんぞと嘘ぶいて本音は
欲たかりで食い意地の張った塵の中でも最悪の塵には違いない。
ああいうふうな輩が何度もこの国の人々を、ただの塵である人々を
自分の食い扶持のために踏みにじってきたという歴史。
そのことを雪男の悪ガキの目線から眺めてみると、緊迫して苦しい
胸の中に少しづつ隙き間ができて、ざわざわが去っていく。


我が我がと思う心は、心というよりも末しょう神経の反射と脳みそ
が勝手に作り出した感情。正しい感情なら良いではないかという
反論はさておき、正しいか否かではなく感情か否かが問題で、
感情で物事は見えないのだ。
私情を根底に隠しながら仕事をすれば、おのずと自分の利を貪る
道を取ることになる。外道である。

情を静めて事に当たることができなければ公僕は務まらないし
代議士など務まらない。誰の金で食わせてもらっているか忘れて
エラそうな顔をして着るもの履物、髪形、食べる物などに気を取られ
実際にはどんどん下びた顔つきになる。
日夜そういう顔をテレビや新聞で見せられて、働く意欲も減退する
というものではなかろうか。

勤勉だと言われ続けた日本人、今はハッピーマンデーでおでかけ
三昧があたりまえになって今年は文句を言う人が続出なんだと。
それというのも考えてみれば頼んだわけでなし、観光業者と結託
し、外資に媚びるしか能のない官僚の思いつきで、後先考えない
から暦が文化であり、文化を失えば民族のアイデンティティーは
損なわれるということすら考慮できないのかしないのか、しない
方なのだろうけれど、とにかく勤勉さは消え失せつつある。
野田ブタが映った瞬間、声が聴こえる寸前にチャンネルを変える
そういう塵諸氏諸君と仲間のわたくしは、そう、小さい人間だ。
だが、同じ塵でも、公私を分けること、己の分をわきまえること、
嘘はつかないくらいの人の道は守っている。
野田ブタは人でなしで、こっちはかろうじてまだ人の道からは
堕ちていない。名も知らぬ仲間たちもみな人だ、美しい人々だ。
それが小さい差か、大きな差か、それは野田ブタも私も夫々が
死に際にははっきりと覚ることだろう。





雪はその感情を冷まし、純真な理由なき喜びを与えてくれる。
純真な畏れも教えてくれる。
夕刻にカメがやってきてユンボを出動させ道を作ってくれたので
ほっと安堵していたら、村役場の除雪車のおっさんがやあやあやあ
と手ぬぐいをかざして振り回して合図していた。
遅れたすまんかったなあと。

視界に広がる白の風景を見ていると、ざわざわとした気持ちが
静まり、ざわついた理由をしばし忘れる。しばしのことだが、
次に思い出したときは、しょせん塵の思考だ、と切り捨てて
体勢を持ち直すことができる、それがこの場所の効能である。

この門を出て雪道の坂をいくつも昇り下りして峠を越え村の
灯りを眺めながら高速道路の入り口へと走っているうちに、
胸のなかのざわつきがまた始まる。
311がまた廻ってくるというのに、失うものを数える日ばかり
続いて、悲しみの量子があちらこちら残像のように塊り、
声に出さない嘆きが道々を被っている。
行き場のない人魂が彷徨って、呼びかけてくる。
塵を愛しめよ。










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FIT構想って知ってますか~?

2012-01-24 11:15:20 | Weblog
ちょっとびっくりした。
FIT構想推進協議会というので何のことかと尋ねると、
FITはつまり福島、茨城、栃木の頭文字であったね(大笑)
TNSを低燃費システムとか言ってる上司に目が点になる車の
CMみたいでこっちも笑うしかないけれど、これは行政の仕事
なので笑うとこじゃないのがちょっとなあ‥ということです。

銀座ふるさと暮らし情報センターで田舎暮らしセミナーが
あるので興味のある方はどうぞ、とオススメということなんだ
けど、さらに目が点、である。
一応、日時は2月3日午後6時半~。
場所は銀座ふるさと情報センター。



FITは今もっとも嫌われている場所なんだが、そこへ移住を
する人を誘う話であるよ。
人それぞれいろいろな考え、生き方がある。
しかし、今この国に暮らす人に降りかかった災難は放射能汚染
である。FIT、なかでもFIは人々が逃げ出したいが土地と家を
残して逃げるに逃げられない、賠償してくれ、いやしない、
除染すれば住める、いや住めない、子どもを逃がせ、いや残せ
と大いに揉めている場所なのである。

そこへ「いらっしゃ~い、いいところですよ~」という話を
どういう神経でするのだろうか。支援制度があるようだから
家や仕事を斡旋するということか?
人口が減らないように、世情に疎く無知な人を勧誘するのか。
そんな猜疑心を抱いてしまうのである。

東電が原発からの放射能拡散が昨年12月より高まったという
発表をようやくした。そんなこと、発表される前から知ってる
人は知ってるんだが、公式発表されればテレビニュースや新聞
にも載るので広く一般に伝わる。しかし遅い、遅いなあいつも。
この森の周辺と下った村の学校などは逆に線量が下がっている。
これまでで最も低い数値の空間線量で0.2を切ったところもある。
風向きは北茨城、さらに下って千葉、海岸寄りに東京へと流れ
ていく。


(全身、コレ心がモットー、寝る時も心して丸く)

今はどう生きるか、考えざるをえない時であるけれど、未だに
考えるという行為すら、「それってどうすんの?」と聞かれて
びっくりするが、実は聞いてくれるだけマシだ。
思うと考えるは似て非なる行為であることをカメに再三教わり
苦労して理解したので、わからない人のことがよくわかる。
考えていると思っている人が意外と思うだけという場合は多い。

とりあえず自分は考える方だと思っている人はどのくらい自我
と感情を制御できているか振り返ってからだ。
感情が入り込んで頭でひらめいて、次々に思い浮かんで、
ああだこうだ、は思うのレベルでしかない。
考えるとは、つきつめていく行為なので感情は邪魔になる。

思うと考える、両方できて志が生まれる。
ああ、忙しいもんでセカセカと尻切れトンボな話で失礼します
が、ほんとにもう、ごめんなさい。
書きたいことがあるけれど、また今度。
で、銀座には行ってみたいですか?
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ツモリ‥である

2012-01-18 10:41:18 | Weblog
停滞中であります‥、で、走っているツモリでもやってみた。
最初は、こう↓。手と足がいっしょ、走れるか!



決して走らないこの方は、空を見上げている。
お天気博士と別名もあるが、実態はカメである。
カメはこの冬、雪はこれ以上いらないよと地神へ通信中‥かもしれん。
いや風向きをみているか? 放射能数値はこの日、東京並みだねと。

広葉樹林、落葉樹の多いこの森は今、放射性物質が雪に埋もれて
しばし休息中。雪解けし、芽吹き、数年は大丈夫だが、十年先は
わからない。微量でもおそらく樹々は地中の放射能を吸い上げ、
そして枝葉から放射されるだろう。その数値がどうなるか、まだ
わからないが‥、チェルノブイリに学んで考えるべきだろう。



表面が固くなった雪の上をサクッと音をたてて歩いていると、
大きな足跡を発見した。ここは敷地内である。小川から昇って
きて小さく一周してまた戻っている。



そこそこ大きめの足あとなので、何者かと詮索する。
熊か? いや、熊では小さすぎる。
うちの黒い熊もどきのオヤジ犬は実は意外と小さい足跡なので
省くとして、シカか? いやここらでシカは見たことない。
ウマかシカかそんなんじゃないのか‥という声もあったが、
判明せず。
いずれにしても撤退した模様なので、よしとした。

脱原発の勢い、いま一つ‥。反対に旧型原発を40年限度を60年
に延長可能を認めると政府。こっちは撤退しない模様‥敵もヤルネー、
悪いやつほどずうずうしいんだ。懲りないんだなあ。
福島第一原発は型式が古いまま改善せず放置したことも事故要因の
一つだというのに。
まだ終わってもいない脱原発、いや本当に始まっているわけでも
ない脱原発。止まっているだけなんである。
忘れないでほしい、多くの福島の人々が今も流浪していることを。




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ふたりの関係

2012-01-12 11:26:31 | Weblog

関係は、親子です。
産んではいませんが、うさこはぷ~ちゃんこと親分のおっかあです。
親孝行とは子が親を超えることと教わりました。
超えるとは、ちゃんとした人になって大人になることです。
ちゃんとしたというのは、金持ちのことではありませんし
家を持って車をもって大きな会社で肩書きのある名刺を持って
いることでもなく、どこそこの主でもなく、心根のことです。

生きながらにして成仏すれば先に死んだ親を供養し仏様神様の
元へ極楽往生して下さいと案内できます。
生きて成仏する、これは古来から高僧達の悲願でしたね。
そんな難しいこと何言うてるねん、とツッコマナイで下さい。
美い心根、美を求めて生きる心、美とは表面のことではない
ですね、根っこです。それは成仏への道ですけんね、難しい
難しいと言い過ぎです。難しくありません、むしろこっちの方が
優しく健やかではないかと思います。
修羅を生きるのは、難しい、そう思います。

成仏はいい心根で生きていること、ぷ~ちゃんは、成仏した犬。
ですからおっかあ孝行してくれています。
うさこは犬神さまに導かれていますよ。
怒んないで、こっちだよ、こうだよ、といろんな要望を出して
くれるので、従っているうちにやさしい気持ちを思い出すことが
できるのですね。譲りっぱなしで、譲るここちよさを知ります。
どんどん手ぶらになっていきます。



夜更け、夜中、明け方、よく起こされます。
もう親分は高齢犬になって、用足しの時間が定まっているようで
いないので、外に出たいときに起こしにきます。
フラフラのまま寝間着にコートをひっかけていっしょに庭へ出ます。
毎晩そういうことで、寝たんだか寝てないんだか、ベッドにいる
時間は変わらないのに睡眠不足な感じで身体の調子がイマイチです。

自分のやることをやっちまうと、そばですやすやと寝始めます。
起きていると、なんかちょうだいコールをしてまとわりつき、
かわいい顔をして近づいてくるのですから、人であれば都合の
いいヤツということになるのでしょうか。
でもぷ~ちゃんは人ではありません。犬です。そして子どもです。
ずっと、生まれたときからずっと、年を取ってもずっと、子ども。
子どものまま、まっすぐにこちらへ向かってきます。

生きるのにはおっかあのやさしさが必需品です。
やさしさを食べていきていられるのがこの犬です。
他にあれ買ってこれ買ってと言わないし、与えられることを喜び
として不平不満を言いません(吠えませんし辛抱強いのです)
そうやって毎日毎日やさしさをひっぱりだしてくれるのです。

親子のようで相棒のようでトモダチのようで、先生のようでも
あります。(あ、先生はカメでじゅうぶんですから先輩とでも
言っておきましょう)ふたりの関係は、おわりのないずっと
つづく風景のようなものなのです。

「男でもなく女でもなく長年の友人でもなくてましてや他人の気楽さ
もない、そうまるでふたりは風景」by浅川マキ[ふたりは風景]
別れる歌ではあるけれど、分ち難い関係ですね。
そう、身体は別れていくけれど、続いていくのだということは
ふたりがよく知っている。
マキさんの歌声を夜中ずっと聴いて、いろんなことを思いました。





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オレ政府を信じてるんで‥

2012-01-11 10:49:55 | Weblog
このところ、とみに思うことがあります。
国家って何? こんなことを考えたことはなかったというのは、
国家という言葉自体を受け入れない何かアナーキーな感覚が
自分の根っこにあったからのような気もしますが‥。
それがまたなぜいまごろ国家か?
国家と人民、そういうことをおもわざるを得ないのは大震災と
原発爆発事故があってから、政府発表、関係閣僚、官僚たちの
記者会見がそれ以前に比べてぐんと増え、その内容が看過できない
お粗末な内容であったことではないか、そんなふうに考えました。

注視せざるをえないから見てみた「国家」の体は、汚れていました。



仕事場の近くで近所の若者と、とあることで立ち話をせねばならず、
その時、相手の若い男の人が口にした言葉がタイトルにある通りです。
「オレ、放射能、だいじょうぶっす、政府の発表を信じてるんで」
バカ者がいるんだなあ、と呆れました。
いまこの時期、このごに及んで、政府を信じていると聞かされると
目の前に立っている真顔なのかふざけているのかわからない平たい
表情のバカ面から目をそらそうか、そらすまいか、ちょっと固まって
しまいました。

話をそれきりにしようとすると、なんでですか、あぶないんすかと
追いすがって話をしようとするのでありました。
振り切ることも断ち切ることもできない性分のうさこであります、
トホホホなまま、そのバカ者、いや若者君に、放射能は降っています、
あっちもこっちも降ってます、降ったのも残ってます、政府も今じゃあ
認めています、新聞、テレビにも書いてあります、見ないのですか?
と応えました。

大学では法律しかやってなかったもんで~放射能のことはちょっと
よく知らないっすよ~、で~仲間が南三陸に行って活動しているんで
自分もそのうち行こうと思ってて~様子見てこようと思ってるんすよ~
ほんと、昨日も呼ばれてて~そのうち行くって返事したんすよ~。
そんなことを若者は話しました。

三陸は福島じゃないよ、と言うと、そうでしたっけ、ととぼけました。
放射能の話から逸れてガレキ撤去のボランティアに参加する話を始め、
福島がどこかもわかっていない。放射能と津波と、ごちゃごちゃで、
なんか大変だってことはわかってる、自分も助けようと思ってる、って
言いつのるわけですが、最初に政府を信じてる、だいじょうぶと主張
したのは、実は事実関係をよくわかっていないことの弁解だったのだと、
すぐにわかりました。政府を信じているなんて今言われるより、むしろ
そのほうがまだマシであります。

思いつくままに軽くその場しのぎの言葉を並べたて、自己防衛する
のを、いつから身につけたんでしょうね。
それが習性となって嘘が日常茶飯事、そんな感じではないかと。

国家も嘘をつく時代。
これは今に始まったことではないけれど、それでもまだ律儀な人はいた
気がします、かつてのこの国に。
国家とは何か。憲法では確か、人、そして国土であると位置づけられて
いるのではないかと思うけれど、悠久の流れの中で、すべて幻であった
というのがその実、まことではないか、そんな気さえしてきました。

いや、今思い起こせば、カメに出会ってすぐのころ、わたしはその事を
カメの教えのなかに気づいた時から、元気になっていったのだった。
そうでした、すっかり忘れかけていた、幻の現世という密かごと。

眼前のことだけ視るのではない。
視るは目だけでもない、耳で見よ。
聴くは耳のみにあらず、全身、これ耳となせ。
あってなきがごとく、空(くう)心(しん)となせ。

愚か者総出演のテレビなんぞに憂えている時間はもうありませーん。
ひとりが国家、ひとりが真、そういう流れになってきて、大きなうねり
も巻き起こり、揺れ戻し、さらに押しして流れていくのでしょう。
そのなかのひとつの真、それを忘れないように。







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疾中に書かれた言葉

2012-01-06 11:00:31 | 
1月3日記。山の天気は変わりやすい。
さっきまで日が照っていたのに、ふと窓の外に
目をやると吹雪き始めている、そんなことが
いつものことで、冬の特に正月明けての数日は
そうである。今年は降らないか、そんなことを
いつもいつも思うので今年もまた苦笑いである。
降らないわけないじゃん、ってことで積った。





お客さん1号は、なんと江戸猫。カメが名づけた。
江戸猫はずいぶん久しぶりなんだが当人(猫)はそうでも
ないらしく堂々とというか、なついた感じで縁側に出して
おいたご飯を食べていた。

ガラス一枚隔てて親分の黒い図体があるのを見ても
食べ続けて、時々わたしの顔も見てくれる。
目がコンニチワ、なのである。はい、コンニチハ。
ずっと来ていていいよ、カメがあーたのファンだからね、
ブチャよりあーたに会いたがってたよ、だから来週あたり
またおいで。来週にはカメも来るかもしらんからね、と
言ったんだけど通じたろうか…。通じたな、テレパシーで。
猫は都合のよいことには敏感である。

オールハート動物病院の鍼治療で足を長持ちさせようと通院
し続けているが、効果はあって、間があいてしないと悪くなる。
老化にともなって出てくる具合の悪さは人間と同じであるから
憂えてもしかたがない。くれぐれも放射能にだけは当たらない
で欲しいと願うばかり、なにせ犬の背丈は危険区域内だ。
ヒトも犬も猫も、樹々も、土も、今では死がお隣さんになった。

病とつきあって、考えたり、うろたえたり、ちょっと具合が
いいと治癒していなくても喜び、生きていることを実感する。
それをしあわせと思うか、めんどくさいこっちゃと思うか。
人それぞれの思いがあろうけれど、思い出すのは好きな詩人が
病に伏しながら書いた詩に、幾度も支えられたり励まされたり
してきたことだ。

八木重吉、宮沢賢治、若山牧水しかり、子規しかり。
瞬間に生き、永遠を旅する人たち。
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キモチよい新年を

2012-01-04 13:22:49 | Weblog
想像力はどうやって表れるんだろうかと考えた
ところ、やっぱり人は頭の中に浮かんだ言葉で
自分の目や耳がとらえた形や物事のイメージを
置き換える作業をしているのであるね。



もしも人に言葉がなかったらどうするんだろうか。
目に映るものは感情を誘い、その感情を表すために
身体を震わせ奮わせ振るわせる。ふるいかたも色々
あって言葉がなくてもふるうことはできるけれど、
ふるいかたのひびき、ひびきがこまやかに分かれて
いることに気づくかどうか。


(ぷ~ちゃんアンヨが悪いのに雪に奮い喜びを
全身で表しています、たぶん良い雪なんでしょう)

ひびきの違いに気づいた人がああこれはあれ、
あれはこれ、と覚えるようになって、いつかしか
言葉(記号)を作ったのではなかろうか。
言葉のもともとは、ひびきであることは確かです。

観音さま、あのやさしいおだやかなお顔の仏様を
観音と漢語に訳する以前のサンスクリット語で
なんといったか知らないけれど、意味をそのままに
漢語に置き換えてはいるんだろうから。で、意味は
音、ひびき、ほとけのひびき、神さまのひびきを
伝えている姿であるね。
それを拝んでいるとき、たしかに人の気持ちは静かで
ざわざわした気持ちは澄んでくるのではなかろうか。

仏の世界とこちらがわを繋いでいるはたらきを観音
と名づけた言葉。それをお姿に彫ったらどうしても
不動明王の憤怒の顔とはならなかったんだろう。
ひびきを感じ取ること、そして形にすること。
あちらとこちらを繋いでいる仕事。
言葉がそれを助け、完成させ、また次へ伝わっていく
助けをしている。

言葉がなければ頭からっぽで、想像は生まれない。
ひびきを失くした現代人は目先、鼻先の触覚しか
使わなくなったから言葉だけが頼りになった。
言葉を知ることは入り口であり、出口である。

そんなことを除夜の鐘が鳴る前後、あらためてでは
あるけれど思っていた。
「ひふみの祝詞」の、ひふみよいむなやこともち
ろらねし~をゆっくりと上げて。
今年も言葉を知り、言葉を大事に、と思う。

なにもかも「再」とつきそうな新年が始まったが
再生ではなく、新生のほうが力強い気がする。
新しき年、キモチの良い事がたくさんありますよう、
お祈り申し上げます。
キモチの気は脳みそではなく心の方へ持っていく
であります。




コメント (2)
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