森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。
午前8時、朝の光と空の色。
そして午後2時、光の色が変わり
空の青が薄くなった。
お日さまの熱で雪が溶ける。
ほっとしていると急に曇がかかり、
吹雪になる。小一時間くらい降り、
溶けた分くらい再び積もる。
気が済んだみたいに雪が止み、
また陽がさしてくる。
雪の量はこの時期にしては少ない方。
いつもなら4、50センチは積もる。
除雪車を待って、かなり不安に
かられるのだけれど10センチほど
少ないだけで、いくらか雪見の
気分でいられる。
降らないと寂しいし、降りすぎると
やっかい…
ここにはあまり降らず雪ん子は
西の方へ遊びに行ってたらしい。
母に電話したら、これからこたつを
出すのよと慌てていた。
雪が降ったから気温が下がったと。
土曜日にはS君が雪かきしてくれて
通り道だけは確保できた。
金曜日に一人でスコップを振り回し
格闘したけれど、調子に乗ってると
腰痛に見舞われるので途中で止めて
おいてよかった。
S君は肉体労働とは縁のない
生活をしているのだが、
どこにそんな力があるのかと
思うくらい、よく動く。
ふだんから力仕事をしている人
との違いは、効率である。
上から下へ 重力の法則を
使わないので、S君の方法は
とても無駄が多い。
筋トレを兼ねているのだろうと
黙ってみていたが、とうとう
みかねて、口出しすると、
は~いと返事はいいが、結局、
下から上へ雪を放るのであった。
そして、次々に雪を片付けて
しまった。
彼の生き方そのものだなあと
思ったが結果オーライな顔の
S君、いい汗をかいたのだろうか。
表に出ると、すぐについてくる
この子たちに満足の二文字は無い、
ミャオ~(なんかくれ~)だと。
散歩から先まわりして帰った猫たち。
部屋に入らずに庭にいると…
ジョリコが甘え声を出して呼ぶ。
知らんふりしていると、気づいて
すばやく降りてくる。
そして、ゴロニャン。
寝返りを二三度、チラ見しつつ
ゴロゴロ。
こっちおいで、と言っても
ゴロゴロ。
ジョリコに話しかけていたら
チビも混ざってきた。
ったく、真似ばかりする。
似てないよ。
ジョリコは飽きたらしい
おやつをくれないなら
用はないのよ。
すたこらさっさ、
脇をすり抜けるときには
かならず匂い付けを忘れない。
スリスリ、ごますり。
え?
どうする、次どうすんの?
チビはぽっか~ん。アホです。
では、やっと本題入ります。
中野信子氏の講演録を読む。
(日々の新聞で連載中)
1/15号「オキシトシンの裏表」
赤ちゃんが産道を通るとき
分泌されるので名付けられた
オキシトシン。
しあわせホルモンとも呼ばれ
よく知られているけれど…
身近な人への愛着を深め絆を
深める物質だけれども、その
逆に排外的な気持ちも強める
ことになる、ネット右翼や
ヘイトスピーチをする人々は
オキシトシンが高い人なのかも、
そういう例をあげて中野さんは
説明していた。
集団維持のために作用する
物質とも考えられると。
そして、気になったのは
自閉症患者にオキシトシンの
投与をした結果、効果が
見られたという臨床報告の記事。
向社会性を高めるのに役立つ
のではないかと結論づけている。
脳内物質の研究が進んで、
治療に役立つのはいいこと
かもしれないが。
そもそも人が自然から著しく
離れた生活をして、人らしく
いるのは努力がいるってことを
科学者はあまり考えないようだ。
たとえば、ペットを撫でる、
撫でられたペットも飼主も
オキシトシンが分泌される。
という実験例もあるわけです。
でも、ペットにも選ぶ権利が
ありますね、撫でてくれれば
誰でもいいってもんではない。
撫でる以前に相性はあります。
犬猫がなつかない人って
いるんですよねー。
そこで、オキシトシン効果には
ある一定の条件が必要なのでは
ないか。
それは愛しいと想うこころ
大事に思うこころが伝わる
ことがあってのことではないか、
と思うわけです。
古くは「和徳」ともいう、
いまどきは「愛」がわかりやすい
かな。
脳内物質分泌を前提にして、
オキシトシンが幸せを
感じさせる=作り出す、
そういうとらえ方がされてしまう
ような話だと、ちょっと近視眼的
というか科学オタク的というか…
ぶっとんだ中野さんらしい
といえばそれまでですが。
対症療法を好み、結論を急ぐ。
研究、発見、実効性の追究、実験、
臨床実験、観察。薬事法のクリア。
患者にできるだけ多く投与。
経過観察…。(以後、諸問題は
あってあたりまえなので問題なし)
科学者じゃない、ただの人としては
現代のこういう流れに違和感を
覚えております。
で、この話になぜ色々と考えて
しまったかというと…。
カメ先生のところへ、自閉症の
お子さん連れた親御さんが
こられます。
当事者であるお子さんは
カメにすぐになついて
少しも緊張しない。
親御さんは困りごとを話す、
いいわけのようでもある、
いっきにしゃべりまくる、
そして話すだけ話すと落ち着き
やっと子どもの変化に気づく。
そして、ハッと目を見開く。
あるいはカメと話をする子をみて
ただ首を傾げている親御さんも
います。
親御さんのことはいいですが、
子どもはうれしそうにしている。
そういう感じなのです。
それが大事なことなのです。
社会に適応している人間は
健康であるという考え方から
すれば、自閉症は「問題」扱い
にし異端として接する。
それを一番近い人がやれば、
病気は治りようがない。
病気でなくとも病気になります。
そういう例を見てきたから
であります。
ちなみに、ぷ~ちゃんも
カメのそばでよく優等生
みたいな顔して、おすわり
していましたね。
いい子だね~と撫でようと
する手をぷ~にするっと
よけられてしまうヒトも
いましたね~。
その間に流れる目に見えない
素粒子よりほのかに小さな
ものを、愛と呼ぶのじゃ
なかろうかと思います。
オキシトシンは愛が流れた
あとの滓ではないですか。
仕事場から見える建物はみな
コンクリート製である。
ビルのガラスが夕陽を受けてギラギラ
もう慣れたが、森ビルが建った時は
異物以外のなにものでもなかった。
かつては海の気配を感じさせた空も
狭くなった。
突き上げるようにいくつもの高層ビル
が建ち、東京タワーを見下ろしいる。
成り金がエラソーにしてる感じ。
焼野原から経済成長へつき進む
その始まりにあった東京タワー。
どこからでも見えた。
けれど、人のおごりはとどまらない。
倫理より経済、金がないと始まらない
そう考える人が増え過ぎた。
東京タワーは必死で立ち直ろうと
した、まだ人が善良だった頃の
象徴のようにも見えてくる。
かわいいもんである。
だからというのではないが、
東京タワー愛は変わらない。
夜になるとカーテンを開けて眺める。
でも、東京にいると土がない。
ベランダの植木鉢の土を雀たちが
荒らしにくる始末である。
きみたちは公園へ行きなさい、と
いくら言っても散らかしていく。
こないだ代々木公園を歩いた。
原宿にちょっとした用事があった
帰り、公園沿いに停車していたので。
陽は射していたがとても寒い日で
散歩には不向きなようだが、公園へ
入っていく人が多いのである。
靴が汚れるのを気にしないで、
舗装されていない、落ち葉のある
ふかふかした土のあるところを
歩いた。
ほんの短い時間だったけれど、
土を踏んでいたら、森を思い出した。
ああ、これこれ、と。
猫たちははだし。
森のふかふかの土を、歩く。
トーキョーの猫や鳥は、土の匂い
を嗅ぎ分けてたまには散歩してる。
土が好きなのはヒトも同じである。
放射性物質で汚染された土を袋に
詰めて、あっちへやっても
あっちからまたあっちへ
移動させるばかりで、元の土には
返らない。
歩いているうちに、うれしさが
悲しみに変わった。
土を返せと、シュプレヒコール
高波のように襲ってきた。
大江健三郎が「定義集」で
繰り返した原理力発電を
終わりにするための言葉がある。
「私ら市民の運動において
それが未来に向けての
人間の生の、つまり倫理的な
おおもとにすえられることを
熱望します。」
この「倫理的」ということは
経済より上位にくるもので
あるのを、忘れてしまわない
ようにしたい。
縁側を陣取って日向ぼっこしてる
この子たちもいい気なもんです。
明けましておめでとうございます。
雪のない正月、山暮らしで初めてのことです。
暖かな陽射しが雪解けの頃を思わせますが、
まだ油断はしてません。
積雪の大変さは身に沁みて、今日一日を
あったか~いと喜ぶくらいにして
おかないと…。
それにしても今年こそは除雪機を注文
しようと思っていたのです。
忙しくてネットで探して注文しようか
どれにしようか、と思っているうちに
45%オフのセール期間が過ぎてしまい
迷っていたら、あったかいんだから~
というわけです。
1月終わり頃にドカンと降られて
また嘆くかもしれません…ね。
ぷーちゃんの円墳に挨拶をした後
散歩しているとジョリコがミャアと
鳴きながらついてきます。
門を出て、山の方へ歩いているのに
どんどんついてくる。
足にまとわりつくので歩くのが
大変なんですが。
ベイビーの代わりに猫と散歩かよ、
と、一人ツッコミなぞして、
なんだか楽しくもあります。
お天気がいいと、いいですなあ。
トウセンボかい!
ところで、アニマルウェルという
言葉は日本ではまだあまり浸透して
いないようです。
捨て犬捨て猫の殺処分禁止への
取組みなどは以前に比べると盛んに
なりましたが、それでもまだまだです。
ましてや、家畜飼育法への関心
農水省のホームページにもあります。
あるだけ、というテイタラクです。
DAYS JAPANの1月号にNPO法人
アニマルライツセンター代表
岡田千尋さんの記事「絶望の豚舎」が
掲載されています。
私たちは何を食べて生きているのか、
食べものが豊富で、食べたいものを
選べる環境にあると何をという意識
は自分の嗜好へだけ向けられるのでは
ないでしょうか。
「妊娠ストール」というのは母豚を
入れる檻のことです。当たり前のように
いまだに使用されているのは日本の
農水省が許可しているからですね。
同じような飼育法は牛にもあります。
搾乳牛が繋がれた狭い柵がずらりと
並び、そこから牛の頭だけが見える
牧場が通り道にあるので、視線を反対
へ向けて通りすぎるしかありません。
小さな牧場でもあり放牧スペースも
見当たらず、あっても今の福島では
限られた地域しかムリなことです。
この辺りで放牧はありえないですね。
見ないようにして通っても、いつも
同じ気持ちになります。
安い牛乳が出回っているということは
幸せな牛は少ないということか、と。
身体の大きさぎりぎりの枠に入れ、
向きを変えることもできないので
様々な肉体的変調を来して当然です。
動物のことは肉体だけしか見ないので
対症療法で薬を投与するか、ダメなら
殺すか。
動物も涙を流すのに、商品としての
肉として扱われます。
子豚への処置も同じく残酷です。
ここで書きませんので上記のサイト
をご覧ください。
するのだから、同じことと
言った人がいました。
同じことではないでしょう。
たとえば、こぶた畑という南足柄に
ある農場の豚は、まったく違う環境
にいて育ちます。
子豚が母豚のお乳をもらっている
写真と、与えている母豚の姿は
幸福そのものです。
そうやって育てられ育ち、それを
食べるのは残酷、という発想には
なりません。
命がめぐることを感謝する気持ちが
湧いてきます。
そして、豚にも土にも陽射しにも
草にもその環境のすべて、働く人
にも感謝して、いただけます。
この農場の豚肉は地元で定期購入
する人に販売されています。
理想的な地産地消ですね。
昔の狩人が獲物をまず神に感謝し、
そして獲物にも祈りを捧げ、血の
一滴をも無駄にすることはなかった
ことを思うと、文明という偽善で
ごまかしている現代人の堕落ぶり
がどうしても見えてきます。
大量生産の方法はたいていが米国
から始まっていることもなんだか
象徴的です。原爆原発と同じ流れ。
世界にさきがけて非人道的反自然の
行為をやってのけるということで。
そして、誤りに気づいても止める
という選択をしないということも。
妊娠ストールも化学肥料、飼料、
抗生物質投与もみなそうです。
地産地消という小さな経済で回して
いた時代が、実は健全で人間的な
営みであったことがわかります。
アニマルウェルフェアの認証シール
を張った食肉が日本でも普通になる
日が早く来ることを願っています。
いつからか菜食(ほぼ)になり、
どんどん肉離れが進んでしまい、
食べない方が調子がいいという
状態になっている私ですが、
家畜を想像したことが大きな
要因かもしれません。
こぶた畑の豚さんを見たら、
美味しそうに見えて、不思議な
気持ちだったことを白状します。
国際的な動物の福祉基準は以下
の通りです。
日本では法令化が遅れていますが
人間の飼育下におかれた全ての
動物が含まれます。
(動物園もペットも家畜も実験用
動物も)
5Freedom 5つの自由(解放)
1. 飢えと乾きからの自由
2.肉体的苦痛と不快からの自由
3.外傷や疾病からの自由
4.恐怖や不安からの自由
5.正常な行動を表現する自由
争いのない世の中が来る日を
願って努力すべ~。
新年の抱負。