想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

オレの寝床

2010-10-29 11:05:00 | Weblog

おいらのトーキョーでの安眠スペースはここだ、特別に見せるぞ。


ここはオイラ専用である、来客はそばにあるちっさな椅子へ
自然と座ることになっている。昼間も夜もオイラがいるからな。



でも、おっかあと晩ご飯のあとにこうしているのが一番いいぜ。
ここで寝るのがいいぜ、でもおっかあが「あんたはネコかい!」と
言いながら立ち上がるのが、残念だぜ‥。
すぐにイビキかいて寝たふりするけど、バレるんだぜ、もちょっと
こうしていたいぜーーー。

もっといいのは、おっかあとずっと一緒にいられる森の家だぜー。
帰るぞーーーー。

(ってなわけで移動中でございます)


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冬支度のしたく

2010-10-28 10:15:53 | Weblog

いきなり寒くなった気がしてならないのは猛暑の夏の記憶のせい
だろうか? 通りすがりに、なんか急に冬だもんねーと言い合う
子連れの若いママさん達の声が聴こえた。見ればフリースの下は
ブルージーンズではなくコーデュロイのパンツにブーツだった。

うちはまだ物干竿にTシャツとジーパンばかりが並び、上着も厚手
とはいえ綿素材しか出ていない。
衣替えもしないまま冬突入の状況に、もはやどうでもいい感じに
なってしまう。何年も着なかったファーコートをひっぱりだして
これ羽織りゃいいや、とTシャツを畳んで仕舞う手間を省く魂胆
である。

そういえばセーターもないなあ‥、購買意欲がとんと失せたのは
ユニクロのせい、ってことにしておこう。
無印のカシミヤ、次はユニクロのカシミヤ、あ~今年はもう
着たくない。
むかしむかしの正絹の着物地でもほどいてまきつけて過ごそう、
そのほうがたぶん、美しいし、それはあったかいはずだから。



森はいまは最も美しい季節(真冬にもそう言うね)‥、なのに
雨が降るとただただ寒いだけでさみしさが募るようでなあ、
たまらん。
曇天でもいいから雨はあがってほしいと願うが、お天道様に
にわかに平身低頭ヘイコラしても通じませーん。

なぜだか雨合羽を着てでも外を歩いていたい心境だ。
紅く化粧した木の下で、きれいどすなあ~と声をかけて熱い
紅茶をポットから出して飲むと、冷気のなかへ白い湯気が
立ち上る。
そういう妄想だけでも、まあ、少しは気が済んだ。

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楽しきかな秋の夜長

2010-10-27 09:39:02 | Weblog
先週末の続き。
前日より少し欠けて14夜かな、でも明るい。
月の光に照らされた森、いつまでも外にいたい清々とした空気だった。
ひさかたぶりに訪れた人は都暮らしですっかり忘れていたものを
たった一日で取り戻したようで、思慮深い顔になった。



眠くならない人たち、いつまで座ってんだろと思ってたら
代わるがわる立ち上がり、防寒着を着込んで座りなおすのであった。
もう寝ようかと、誰も言わないしすぐに戻ってくるので終わらない。
秋の夜長、一人で本を読むのもいいけれど、とことん話すのもいい。
熱が籠っても、人の気は分散して停滞しない。

時間に追われない場所では、自己といやおうなく向き合うことになって
それを非日常だからと言う人がいるが、日常のための訓練としないなら
こんなへんぴな場所まで来る意味は、モノズキなだけってことになる。
まあ、うさこはモノズキだしカメは変人かもしらんが‥、そういう皆も
ほんとうのところはどうなんだい?

ベイビーは椅子の脇に、みんなのいるところにいたいらしい。
BBQの肉目当てではありませんって顔をして待ちつかれ‥寝てしまった。
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まねびの喜び

2010-10-24 12:31:37 | 
「学問をする喜びとは形而上なるものが、
わが物になる喜びだったに違いない」(小林秀雄:
『本居宣長』より)

「学問が調べることになっちまったんですよ」(同上)

「説きにくい意味合いが、表現のくどさによく現われている、
そこが大事なのだ。だから、私には大変たくさんの引用が
必要になったんです。宣長さんの学問は、引用して、その
物の言い方を読んでもらわないとわからないものでできて
いるんですよ。また、その事を彼自身、よく知っていたの
ですよ。」(同上)

『本居宣長』をめぐって、と題された江藤淳との対談での
小林秀雄の言葉を上に書いたのはあることに気づいたから。
旧事本紀の学び方と小林が本居宣長を読んだ(研究した)
方法はよく似ているということ。
もちろんわたしはカメの講義を聴かなくては自ら研究など
できていない。カメの講義の論法が『本居宣長』の特徴と
重なるということだ。

カメの講義は、旧事本紀という古書にある言葉の意味を説く
のに引用と比喩を重ねていき、現代語と今の時代に通じる
物事に置き換えて解説される。そうでないと今の人には
やまとことばの意味をダイレクトにわかることはできない
からだろう。
しかし、「つまり小林さんのおっしゃる道というものは、
発見を続けていって、その果てに見えはじめるという
ようなものだろうと思いますが……」と江藤淳が対談で
答えている通り、引用と比喩から始まったまねびがいつか
直感で伝わりひらめくときがやってくるのだ。

その喜びがまなぶことの醍醐味である。
理解しがたい言葉の数々と向き合って、実践しなければ
わからない、なぜなら言霊は実感であるからと言われても
何をどう行うかもあいまいに歩み始める、たいていの人は。
知ったかぶりや生かじりが通じる世界ではないので仕方
ないのである。その我慢ができずに道から降りて勝手な
方向へ踏み出すというか踏み外す人のほうがもちろん多い。

けれど、ある日ひらめきがやってきて、一と聞けばその一
の意味がどの一を指すか、五なら、九なら、何のことか、
それらが脳内で形をとって表れ次に比喩の言葉も引用も
浮かんでくるようになる。その興奮がたまらない。
おもしろいことは他にもないことはないが、わたしには
カメに学ぶ旧事の世界が世界の扉であり、渡る橋である。


もうずっと前、共にカメの元で学んでいたI君にわたしは
エテカッテ大明神とあだ名をつけ、当人もヘラヘラと自称
したりしていた。怒らないし奮起しないし意味がなかった。
その彼が学びを止めてもう何年もたつある日、よからぬ噂が
聞こえてきた。
知り合いに声をかけ教団を作ろうという話を持ちかけ勧誘
して歩いているというのである。
迷惑がって断った人は今も学び続けている人だから自然に
伝わってくる。

よりによって誘う相手が違うだろ、そういう分別がとんと
ないところなど、エテカッテ大明神らしさ全開であるが、
あのバカが、やりおったなあ…と私は苦い気持ちであった。
「知が足りない」のである。
教団とは作るものではなく、聖人の足跡を辿る人が集って
自然とできあがるものが本来の姿で、勧誘して組織すれば
それを維持しよういう「私事」と信仰のあるべきようとは
矛盾を生むこと必須である。
それに勧誘と布教とは似て非なる事だよ、絶対に。

エテカッテ大明神は教祖にはなる器ではない。で、傍らに
ひっついていたある女性のことが思い浮かんだ。
当時テレビで有名になっていた霊能者女史を真似てか霊感が
強いと言っていた。

霊感アルアル、霊能者女史と同様にド派手大阪風ヒョウ柄系、
髪型は今でいえば盛り系(キャバジョウスタイル、当時は目を
引いたなあ)早く言えばお水系なファッションの女性であった。
職業はたしかアパレル関係と言っていたが扱う商品はバッタ物
であった。
彼女もまたカメの元に出入りしていたが、あることから
「先生は私の頼みを聞いてくれないんですね!!!」と叫び、
出て行ったらしい。そんな、聞かないだろうさ勝手な頼みなど。
それきり消息がなかったが、ある時メトロの入り口でバッタリ
会った。真正面からだったので向こうも逃げようがなかった
らしく、気まずそうな挨拶をされた。
「私、とんでもないことを先生に言ってしまって、すみません
でした、うさこさんにも顔向けできなくて」とか言ってたなあ。
別人のような地味さだったが、漂う波動は昔と同じものであった。
元気にしてるの?と尋ねただけでその時は別れ、それきりだ。


(食べ終わって夜更けまで話し込んだ夜、月が明るかった)

そもそもこの二人組がなぜカメのところへ出入りするように
なったのかは門戸を開けているカメの学び舎だから問うても
せんなきことだが、わたしは初めから天敵みたいな存在だった
ようである。なぜなら学ぶことと霊能者ごっこは相反するので
彼らを真っ向から批判したし、彼らが霊能力と思い込んでいる
レベルは迷信の類であることを事あるごとに証明したからで
ある。それよりあんた、己を知る方が先だろ、と言い続けた。

カメの講義録や書籍や機関紙の類を引用、いやパクッている姿
を想像するに難くない。
エテカッテの彼がかつてレポートの束をわたしに持ってきた
ことがあったが(何のためかわからんが)、その内容はすべて
カメの講義録のパクリであった。
いやパクル自覚もないレベルである。ただ真似て引き写して、
それを反復することでわかったつもりになっていた。
その先をつきつめるんだよ、当時あきれて、何度そう言ったか
しれないが、そのうちいなくなったので束だけ残った。本一冊
分くらいのレポート用紙の束はコピーされたもので使用した紙
は勤務先のロゴ入りの用紙。勤務中に書いていたらしい。
本末転倒、その後彼は管理職だった勤め先を解雇されている。


そういう人が教団とかなんとか銭儲けを企むのはいかにもな
ことで驚かないが、他人をまやかして不幸にすることは大きな
罪である。家を建てたと吹聴したり、教団作ろうぜと言ったり
自由すぎる(アホな)行動はカメの元では絶対にできなかった
ことばかりだから、ほとんど反動にも映るが本音の表れでも
あるだろう。
それでもわたしは、あんた馬鹿だねえと言うだけで怒る気には
なれない。本当に無知ゆえのことであると思うからである。

そういうバカ者の言葉につられ、これまた金銭を巻き上げられ
ありもしない運命を言い含められては不安におちいり、その
たびに金を払ってなんとかしてもらおうとする、さらに愚かな
人も存在する。
しかし、そう騙され続けた者も、どうにか助かろうという本気が
あるならば、学ぼうとする者ならば、不幸にはならずにすむ。
バカを踏み台にして真実に目覚める可能性もあるからだ。
そのことを祈っている。非力な者が救われないわけではない。

まねび、つまり学ぶ相手は何も聖人と限ったことではないので
否定することから知を高めていくという方法もある。
疑問は知ることの始まりだ。カメは最初に我を試せと言われた。
信じよとは言われないが試すにはまず素直にならねば出来ない。
下心のある者はこの最初の一歩で、「信じます」と言い何も
試さないので学ぶことも、発見することもないのである。

回り道、寄り道は至難のこと。だけどつまるところ果てまで
あきらめずに辿りつけた者が喜び、笑える時が訪れる。
そのとき、悪党には蹴りを一発入れてやればよし。
もちろん、自分の肉体なぞ使わずに…神業を以って。
この場合の神業とはどういう意味か? それはまたいずれ。

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爪が甘いです

2010-10-22 07:49:55 | Weblog

小首をかしげてこっちを見ている顔があまりに愛らしい。
ブチャは母猫シマコを真似て縁側へ座るようになった。
なんでも真似るのが見ていておもしろい。
縁側のガラス戸を開けると、ハァーッと威嚇するのも真似らしい。

東京での住まいの近くに野良猫の赤ちゃんを発見した。
この子を拾って下さいとばかりに道路脇で寝ていた親子‥5頭。
クルクルとした眼で母のお腹の上から周囲を見ていた。
用事を済ませて引き返したらチビはもういなかったがどうしたものか。

かわいい子をみると我が家のベイビーを思い出し無性に気になる。
このごろ夜寝るまでかまってあげる暇がないことがずっと気がかりでも
あって、ベタベタついて回るのをテキトーにハイハイとやりながら仕事
している毎日。だからよけいに気になるのであった。

そんでもって、失敗した。
爪切り! ベイビーは緊張するので切っている最中に足を引っ込めたり
する。だからほんの少しづつ削るように切っていく。
なのに引っ込めようとするのを止めようとしたら、切りすぎてしまった。

血が止まらないので、大慌てで消毒し、雲母液で血止めした。
舐めると血が止まらないのでバンドエイドを貼るが、3枚貼り替えて
やっと舐めなくなった。
その間ずっとひざ枕してもらってベイビーはごきげんちゃんであった。
こっちはドジな自分にうんざり、ごめんごめんと謝りっぱなし。



爪切りで思い出した。
死人を見守る神を冥爪神(くらつめのかみ)という。
冥界へすぐには移行できない死人を葬礼が終わるまで見守る。
爪は手足の端っこで身体内と外界との境である。
ツメとは押し迫る最後をさす言葉でもあるが、死は生の終わりであり、
また死後の幽身の甲(始め)である。

そういう意味から冥界のツメを見守る付き添い神を表す名を冥爪神と
言うのである(旧事本紀、陰陽本紀より)。
諸神が死人の汚れと醜さを忌みてそばにいないのでそれらに代わって
付き添う神、ありがたきことかな。

爪は大事である。
物事、ツメが甘いと失敗する。ま、いいや、では事は済まない。
「おおざっぱ」はおばちゃんの専売特許と心得るので気をつけている。
生来、ツメないと気が済まない質(タチ)であったので若い頃から
周囲に疎ましがられた事も数々あれど、歳を重ねてきたらことさらに
注意しないとツメが甘くなることに気づく。
逆だろ、オマエって自問する日々である。

「まあいいか ひとりごちたら オバタリアン」


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体感すること

2010-10-20 10:06:38 | Weblog
今年初めての秋らしい陽のあたる日、あたたかいので川へ入れた。
でも案外すぐに上がってくる、やっぱ水は冷たいらしい。


この斜面を昇れるときは、親分の体力がまだある。でも実はハラハラ
してみているのである。


          
テラコッタがおもいがけなく咲きました。最後のバラ、よく香ります。

      

山道から移植した一株のりんどうが敷地内で咲いてくれました。

東京にいるとバタバタして時間が過ぎるのが早い、まとまって思考する
時間がなくすぐに深夜になってしまう。
眼の疲れは風邪のせいもあるかなあ‥、とりあえず写真で失礼しまーす。

追記:神を知るとは、文字で知って頭でわかることではなく体中で
理屈抜きに実感することですから。
それは普段は分離している心身がひとつになること。稀な瞬間。
長続きしないけど、じゅうぶん生まれ変わったここちを感じられ、
諸々の雑多に溜まった自分の中のゴミを一掃できるはず。

しかしながら言うは易しで、神を実感した人などそうそういない。
神のようなもの‥なら少しはいるかもしれんというくらい。
ホンモノの神さましか長続きしないし、無常を超えていられない。

カメは同じ場所で同じ名で変わらず在って、変わらなすぎて
さりげないし、神の威光など着ていない。
その人が神につながっている者だということを人がうっかり忘れてしまう
くらい自然にそこに在って、やさしい。

けれど、うさこはほんとうのことをかたときも忘れない、だから
神さまの領域(常世)のスソ野の平安に身を置かせていただいている。
そのことを感謝しても、いくらしても、足りないので時々呆然として
困っているのである。

困るとき、どうしているかというと、ベイビーを抱き寄せて
ゴシゴシ、ゴシゴシ、スリスリ、唐突だがそうするのである。
すると、ちょっとだけ感謝が分散して、困った感が薄れていく。
こんなことを日々繰り返している、アホうさこである。
もっと実のあることに精出すべきだとわかっているが‥
とほほなヤツだ。







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しあわせの瞬間

2010-10-18 23:39:39 | Weblog


夕日にそまった空を窓からみつけ、あわてて外へ出て、そして撮った。
ついてきたベイビーとじゃれながら歩いて、ふたたび空を仰いだら
空は白く色を無くし、しだいに灰色へと暗さを増していった。
ほんの数分間のことだった。

一日の幸運がこの一瞬にぎゅっとつまって、胸のなかがさーっと
明るくなった。しばらく続きますように。

ベイビーはからだをくねくねさせて、笑っている。
今宵は星空かな。



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ケモノの話

2010-10-16 12:27:08 | 
この方もいちおう獣族に入るのであろうか…?

新釈遠野物語(井上ひさし著)は本家遠野物語
(柳田国男著)を今風にいえばリスペクトして
書かれたものだが、電車の中や就寝前の頭休めに
読み継いで読み終えた。

途中、きつねのはなし(森見登美彦著)も寝つき
薬に混ぜたので飛びとびになってようやく終えた。
共通点はケモノの話だということで、主に狐が出て
きてイタズラというか人にとってはワルサする。
幻惑される側の心を映す物語である。

この手の話が好きであることに今回気づいた。
そして夢を見るのである。当然の成り行きなんだが
夢から覚め、午前中目覚めているはずの身体がふわっと
していて、記憶が前後したりする。
物語に取り込まれてしまっているのである。狐は出ない
がうさこがケモノの目線になってしまう。そして
見ている相手もうさこなんである、不思議不思議。



だいたいにおいて、現世(うつしよ)に居ていない
ような暮らしぶりをしているのでふだんからシャキッと
してもいない。が、この数日間はとくにひどかった。
そのことに気づいたのは今朝で、だから今はもう帰って
きているはずである…。

父に言い訳しているような謝っているような、いや、
謝らねばならぬので一生懸命なにやら画策しているような。
しかしながら、父はとうの昔に死んでいないのである。
そのことをなぜか忘れていた、ような…気がする。
ああ、父さんはもういないのか、と今朝眼が覚めて
気づいたのであった。

秋の陽射し、晴天で嬉しい。


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他力で自力な猫たち

2010-10-14 02:15:09 | Weblog
この子の名はブチャ、ぶちゃいくだからブチャと名付けたが
ぶちゃいくはかわいいと同義語である。
だみ声で鳴いていたんだが、このごろはハハを真似て澄んだ
声になってきた。すこーしだけだが。

ごはんを食べ終わるとかならず、「びゃ~ん」という感じで鳴く。
みゃ~ん、ではない。びゃ~んびゃ~ん、だ。
そして舌なめずりしてハハからちょっと離れて陣取る。
ハハが見える範囲のところで、何度か鳴いてみる。
なに言ってんだろうな、とカメは観察している。

他力本願。
猫とカメの関係はそれである。
シマコはやさしくたよりなげに、みゃ~と声をかけて小走りにやってくる。
そうすればカメがかならず「おーシマコか、どうした」と立ち止まって
くれることを知っている。信じて疑わない。
疑われないカメは、その声に応える。決して裏切らずシマコに与え続け、
見守り続ける。シマコは時に気ままであるが、それもまた良しとして。

「わたし(ぼく)って他力本願なんです」
依存心、なんでもだれでも頼って自分を助けてもらおうとする人が
言い訳の代わりに口にするが‥。

ちゃうちゃう、ちゃうちゃうちゃーう(犬ではない)。
ノーである。他力本願って言うなってことである。
他力を頼ると間違えて使っている。
ツーカー、ってな感じ~とかごまかして使えない仏教用語なんである
から信仰心と無縁なところで使えば場違いである。
どこで覚えたんだろうね、でもみんなで渡れば恐くない方式で使われて
いることも事実である。コワイだろうに。

親鸞の教えであるところの他力は親鸞を研究する上で、また信仰する
立場においても最も重要な核を為す部分である。
解説書の類はたくさんあっても、本を読んで理解できることではない。
信仰という実践の場に身を置いて、己の本心と向き合わねばならない。

そして、いかに強欲でいかに保身が強く、他人よりも我先にと、ただ
助かりたい一心の生身の自分に気づくところがまず一歩目。
気づいた己を捨てることが次の一歩。
捨てられないから、捨てたり拾ったりしながら次また半歩下がり。



そうこうするうちに歳月が流れ、いかに愚かでもこうして生きてある
我と我が身の不思議。
そのゆるぎない事実を仏(阿弥陀如来)に感謝する気になれたら、
少しだけ保身から遠のいている。ほんの少しだが‥。
つまり我を助けてくださいと願っているうちは他力からは遠い。
他力も自力も一枚岩で、表裏一体の信じる力、信じる誠をさすのだから。

信じるゆえに理の流れにゆだねることもできよう、我は滅却し。
これを現世で生身でやるとどうなるか?
それは愉快で楽しい、活き活きとした日々だろうな。

「わたしって~他力本願なんですよね~」と言った君、君の信じる
ものは君でしょうが。
ならば、君自身に助けてもらえばいいんじゃないか?
そのていどの問題でしかなくて、幸いかな、いや本当に。
ギリギリ、崖っぷちで下で砕ける波頭を見下ろしながら、足を震わせて
いるわけではない何よりの証拠。
「わたしって~頼っちゃうクセなんですぅ」と言い換えたほうが正直だよ。

かわいい顔して、ぶちゃはその日その日がギリギリ真剣。ハハを真似て
少しづつ大人びていく育ちざかりだ。
冬までにもちょっと大人になってないとな、生きてゆけない森だかんな。






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空っぽの効用

2010-10-12 00:03:54 | Weblog

コフクセイキョウハミチヲナスノカタチナリ。
虚腹清胸は道を成すの象なり。
道霊造化は道を成す眞なり。

「腹に虚(そら)を呑み、清を呑んで、人の仁、人の義も無くす」

はー、空っぽは難しいでござるが、空っぽこそが道の極意でございます。
と、旧事本紀の気を養うの項に書いてあるね。
競争社会を生き抜く極意でもあります。闘うには、こういう備えが大事。
平和を求める人ならなおのこと、自身の養生に必要。

深呼吸して吐く、吸う、吐く、吸う、出す、呑む、出す、呑む(息をですよ)
を繰り返しているあいだ、そのあいだは確かに空っぽになれます。
前頭葉でごちゃごちゃと計算することも、記憶の糸をたぐることも
しないですみます。
そうなれば五感も出番がなくて、静か静か。
胸のなかは清く澄んでまいります。

アホでもバカでも悪人でも、小さな善人でも、みんなそれは同じです。
そういう仕組みになっている。
とりあえずそこが第一歩で、理屈はあとから。
胸を清くしないまま理屈をこねても筋が通っているようで通らない。

聖者は仁義を腹に之を入れ、虚を以て精きをもちいるなり、でないと、な。

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長雨のあいまに

2010-10-11 22:44:48 | Weblog



こんなに降り続けたのは久しぶり。予定が狂ってしまって困ったが、
雨の日なりの過ごしかたをみつけるもんである。
親分はもっぱらベタベタ甘えて、いつもは立ち入り禁止の居間のど真ん中に
居座ってごきげんだった。



やらずの雨ももう止んだのにいっこうに腰をあげないね、ふたりとも。
かわいすぎて、許す~。



そしてニンゲンはめずらしく手間をかけてコーヒーを淹れ、美味しい香りに
安らいだりしてた‥。





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外は雨なので

2010-10-10 00:07:45 | Weblog

朝からずっと雨がやまないので、おいらは寝てるさ。
約束の人も雨で道が悪くてなかなか着かないし、
雨の音に消されて静かな一日だった。

おっかあは忙しくて相手してくれないので
ここに居坐ることにした。なかなかいい感じである。

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秋空のしたで愚かものたち

2010-10-06 10:21:12 | Weblog

今年もいろいろあった、まだ秋が始まったばかりなんだけど
年の暮れのような感慨だわ。
コフクセイキョウ、深呼吸して整えよう。
ざざざざっとざわめく周囲に惑ってばかりいられない。



惑ってばかりいるこの人も、もう不惑とっくに過ぎてるし~。
みんな歳を重ねていく。
肉体は確実に変化していくし、それは眼に見えているが
では魂はどうだ?

永遠の嘘、人はつけないんだな、これが。
嘘のない人生も、ないしな、これが。
だからどうするか。
だまって頭を垂れて(内なる命かみへ)願うしかない。
誰にも聞かれたりしないから、嘘はいらない。

それを祈りというが、祈らない人が増えた。
祈りそのものを知らないまま、迷ったまま死へ至るという人生。
お賽銭はいらないから、おのが内なる命(かみ)を確かめよ。
コフクセイキョウ、深呼吸して頭を休めて、しばし肉体を離れよ。

魂ははたらき(人を助け)、愚かな肉体であったにしても。
それだけがどんな世の中にあっても平等である。
願ったあとは、にぎりしめた手をほどき、威張った肩を落として
待つのみ。
この「待つ」時間、間(まどき)というが、ここがポイント。
一番大事なところです。( 旧事本紀)
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別世界にて

2010-10-05 00:05:27 | Weblog
昨年10月、突然の訃報をニュースで知って驚いた。
あれから一年が過ぎようとしている。
逝ってしまった加藤和彦の歌を聴きながら秋の雨。
~Memories~(パパ・ヘミングウェイに収録)

トノバン。好きな日本のミュージシャンがみんなそこにつながってた。
好きな作家が尊敬した作家の本をまた追いかけて読むみたいなのと
おんなじで、うさこが中学生の頃好きだった歌手はトノバンの影響を
受けた人たちだった。つまり、オサレ。

元祖オサレの代表格、伊丹十三も死んだ。
我が青春のアイドルふたりとも自殺したことに、すくなからず胸が痛んだ。
一年二年と時が過ぎても、何も消えない。

亡くなって、忘れられる人と、時とともに重みが増す人。そのちがいは
その人がどう生きたかなんだな。
金持ってたかどうかじゃないわけさ。有名だったかでもないわけさ。
どういう信念で生きた人かそれが重みなんだなあ。

粋に生きる格好良さ、そういう人が生きにくい時代にどんどんなって、
ガメツいヤツ汚いヤツがのさばる世になっていくなあ。
別世界の森にいると、生きる道はもっとこんなふうに広がっているのに
と思う。都会で金にまみれて視野狭窄になって、魂をうっちゃって。
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もう少しでこうなりますけんね

2010-10-04 20:24:56 | Weblog
去年の秋景色、10月25日前後の森の様子である。

この紅、赤、アカを毎年見られて、しあわせ。
木もだんだんと成長し、幹が太く枝を増やし、上へ向かって伸びていく。
たたずむ親分の顔にこのときよりも白いものが今年は増えて、
うさこのほっぺたもやや削げたり重力に負けたり、変わりゆく。
日々、この世は無常なり。

無常であるが、しあわせ。
それは常なるものをしっかと胸のうちに抱いているからであるね。
それってな~にって?
カンタンですよ、魂です。若者にはスピリットと言っておきますか?
違うんですね、その訳じゃだめです、ソウルでもなし。
魂はタマ、霊もタマと訓めるね。

そうねえ、命と書いてミコトと訓むんだけど、カミとも訓む。
魂はどちらかというと、その日本語の親戚です。
英語で置き換えられない、なぜって英語だとソウルと言えばR&Bを
連想しちゃったりして、オーティスレディングの声が聴こえてきそう。
もっとわかりやすいのだったらマイルズのトランペット。
スピリットなんて日本で言ったら江原なにがしと金髪の女男がノシノシ
やってきて、ラスクバリバリ食べたりしそうだもんなあ、チャウチャウよ。



言葉の正しい意味を伝えるのって難しい。
とどのつまり、言葉は意志を伝える道具で、意志が伝わるには実感しかない。
うわっつらだけで言葉を使ってるとその言葉には魂がないからただのノイズ。
波動と波動のぶつかりあい、とどのつまり我と我のぶつかりあいなんだ。

共鳴したように思えても利害の一致程度にすぎないから時に耐えられず
嗚呼、無常。チャンチャン(ジ・エンド)。

(バカげた事で非常にお疲れちゃんであったので、更新できませなんだ‥
すんません、親分はまあまあの元気を保ちつつ静養してます)




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