想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

みどりみどりしてきた

2015-05-28 15:04:35 | Weblog
文章を漢字ではなく、かなで書くと子どもっぽくなる、
漢字を多用すると賢そうに見える、この思い込みに
囚われ続け早1300年余のニッポン、かな文字が好きで
ございます。

漢字はたしかに表情豊かでおもしろい。今となっては
便利な日本語となっている。けれど…。
心の奥底で、ちがうちがうなんかちがう、これじゃない
という気持ちが残りつづけ、どう表したらいいのかと
迷うことが多いのであります。

三十一文字などのおもむきには、無意識に惹かれていて
すんなりと入ってくる。だが、それも無条件でない。
戦後すぐの前衛短歌などは、もう漢字まみれ、技巧的
理屈先行のきらいがあって共感しにくく苦手であります。
あの頃はなんだか、みながみな憧れのアメリカされど
憎しの占領軍アメリカで、混乱の極みだったけれど
それを新しいと評価していた…のね…なんだかんだと。
二律背反に陥って。いたしかたなきことだとは思う。



それでもう戦後70年、されど70年、沖縄にはまーだ
米軍基地があって、またまたジュゴンの海をのっとって
新基地を作ろうという国策ですから、二律背反は表替え
をして積極的平和主義になっちまって、もう漢字どころか
英語をしゃべんないと雇わないという会社まで現れて
どんどん、かなは遠くなる
という2015年の五月。



五月だというのに連日、福島は真夏日。東京も熱し。
梅雨は遅くなるそうだけど、森の樹々、草花が心配。
心配はシンパイであたりまえに使うけど、
心の底では、いとしさとかなしさとこころぼそさが
まじりあったいろをしていて、心配と書くとそれが
ざっくりとなってしまう。

くにつかみを国津神と書くのと地神と書くのでは、
意味が変わる。そのことを知らない国学者が普通にいて
引用や孫引きであまり疑問視もしないまま使われる。
これ1300年前の混乱期を今にひきずり、儒学を奨励した
徳川幕府の恐怖政治のたまもの(?)でもあるけれど、
そろそろありがたがらずに、捨ててしまいたいものです。
日本人が器用に言語を慣らし使いこなしてきたという
けれど、あとづけの都合のいい幻想でしょうに。

今日のゆかいなニュース。
イノシシのママたちがウリ坊を引き連れて現れ、全部で
30頭だったそうな。広島でのできごと。
群れに突然でくわした車中から撮影した映像が流れてて、
珍しくコメンテーター達は「かわいい」を連発し、いつもの
農業被害がうんたらっつうような話は一言サラッとあり
あとはひたすらウリ坊がかわいいにかき消されていた。
非情に嬉しい珍しいニュースでありました。

うちの庭に来たウリ坊は3頭、連れていたのはママイノシシ
だったんだなあ…。イノシシは母系で行動するそうだから
(猫科と同じですな)
森はみどりみどりしてきたから、秋までは谷には降りてこない
だろうけど、またドングリ食べに出ておいで。




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子育てちゅう

2015-05-21 01:13:05 | Weblog
元祖ハナクソのヒメ、江戸ちゃんの画像はひさしぶり
ですよね、ヒメというよりおっかさんですが
五月晴れの下、無事ご出産で目下子育てちゅうの模様、
ご飯を食べたらとっととねぐらへ戻っていきます。
いっしょにいるのはジョリの子でもう一歳半ですが
まだくっついて歩いてます。
子猫のお守りをするでしょうね。

ねぐらはどこか、例年どおり井戸小屋のようです。
まず、井戸小屋で目が開くまで。
ときどきミーミーという小さな声が聴こえるなあと
気にしていると、そのうちなくなります。
おっかあ猫はチビをくわえて引っ越しします。

引っ越し先は一号棟の縁の下あたり、もしくは物置小屋
の棚の一番上の段のダンボール寝室あたりです。
いつぞやは、一番上ではなくふつうに目につく真ん中の
段にあった使い古しの空プランターの中にいました。
コロコロした子猫が重なりあって寝ているのを発見し、
そーっと音を立てないように離れました。
内心ものすごく嬉しいのをぐっと押さえて。

生まれてまもない子猫ほどかわいいものはないですから。


(2009年のシマコと赤ちゃん、江戸ちゃんの何番目かの兄弟たちです)

江戸ちゃんは警戒心がずいぶん解けましたが、でも動物の
本能はちゃんとあって、みつかるといつのまにか移動します。
そのくせ(というか)そのうち歩けるようになった子猫を
連れて堂々とご飯を食べに現れるようになるのです。
そして縁側保育園が始まります。
そしてミルクを催促します、あたし~赤ちゃんいるのよ~
と目で訴えます、グイグイと。

さて、今回はどんな色柄の子どもたちなんだろうか。



子猫の時間はあっという間に過ぎます。あんなに可愛かった
のに、なんじゃオマエは…とガッカリしたのがブチャ。
みな性格が違って特徴がはっきりとしてきます。その中で
縁側に残るのは子猫の時からなんとなくわかるように
なりました。おっとりさんの女の子ですね、代々。

何をするにも遅くてぼんやりしている子を心配してママが
残すのだろうと思うのです。競いあってご飯を食べるように
なっても輪からはみ出てしまって食べそこなってしまう子
が縁側族の跡継ぎになってきました。

でも、おっかあになると、なんのその。
したたかに、たくましく、みーんな魔女になりました。
上の写真のシマコ(江戸の母親)は2011年の初夏が
最後でした。カメは時々江戸のことをシマコが…と
まちがえて呼んだりします。
よくなついていて、縁側の両端にベイビーとシマコが
それぞれゆったりと寝ていた光景が懐かしく思い出されます。

土や草木、風が、自然のままにあればこその幸福でした。


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良寛さま

2015-05-15 10:39:13 | Weblog

呼んでないのにこっち向く。
呼んでる時には毛づくろい。
勝手きままな猫道だけど、耳目はあーたよりマシなのよ
縁側や庭でくつろぐ猫たちに、言われた気がする今日この頃。

良寛禅師は、さま付けで呼びたい。何故か。
子どもの頃から手まり歌の良寛さまとして教えられ
やさしい、偉いお坊さんと刷り込まれているからである。
多くの人がその御名に覚えがあるだろうけれど、
良寛さまが何を為した人なのか、どういう生涯であったかに
ついて多くを知っている人は少ないのではないだろうか。

うらをみせおもてをみせて散るもみじ
良寛さまにつき従った貞心尼が編み遺した「蓮の露」に
良寛さま辞世として記された…詠みひと知らずの歌だ。
二十数年前、カメの教えを乞うために門を叩いた、その初めの頃の
講義で板書されていたことを思い出す。
執着を離れた心を説いていただいた。
良寛の象徴のように覚えている。

寺院という組織に拘泥せず、また束縛もされず自由に生きた
といえば聞こえがいいかもしれないが、実際にそれを行うとは
どういうことか。
生半可な信仰では私心を捨てきることはできない。
捨てれば軽やかに自由になる。
それを頭で知っても身体で拒む人間の根底にある本能と、
永遠の魂を天秤にかけ、己を凝視しつづける。
そうやって覚った者にしかできないことである。

想像すると今の自分の小ささ、未熟さを恥入りたくなる。
まあ、聖人と呼ばれた人生と自分を比較するのはおかしいと
嗤われるだろうけれど、先人に学ぶという意味で言っているので
お許し願いたい。塵みたいな私…ではなく塵なんである。

テレビで「ぶっちゃけ○○」なんたらで、坊さんたちが寺のしくみ
の裏側を暴露して稼いでいるが、あれは仏教徒でもなんでもない
袈裟をつけたリーマンだということだ。自営業者でもない。
なぜなら寺は宗派で組織されてこそ、寺院と名乗れるからだ。
組織に上納金をあげなけばならない。サラリーマンでなければ
フランチャイズの店長ということだ。
仏教ではなく葬祭請け負い業の一端である。葬儀社は別にあって
式の段取りを皆してくれるからお経をあげるだけだから一端だ。
こういう坊主だけではないということもわかっているが、
いったいどこに行けばそうではない僧侶はいるのか?

そのことが良寛さまを思えばよくわかる。
仏道を行く僧侶は、袈裟もつけず、乞食同然の姿で世にまぎれ
さしづめ半俗半僧であるだろうから、寺にはいないのである。
寺にいて修行はできない、仏には会えないと覚るだろうから。

出家とは世俗を離れることだが、今のテレビは世俗も世俗、
俗の悪臭を集めたような箱だ。
世俗の中にいて、わが胸中に宝塔ありという生き方をする
それがとても難しい。
その難しいことをしている僧侶の汚れなき姿が人々の崇敬を
集めたのだから、仏教を宣伝すればするほどに大衆の心は
離れるはずなのだが…、今の人はこの道理さえも通じない。

日本仏教は傑出した聖人を出してもきたが、それは後世に
見いだされただけで、生きていた当時には世の中からは
見捨てられた人生だったという皮肉。これを悲しむべきこと
とも思わない。なぜならば、当事者とその直近の者たちだけ
は真を分かち合っていただろうことが推測できるからである。
さきに上げた貞心尼のように良寛さまの心を受け継ぎ伝えた
人がいたことに、本当に慰められる。

仏教の頽廃は、お釈迦さまに責任はない。承知のことかと
思うなり。


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草花の背丈で

2015-05-10 22:49:09 | Weblog

猫目線って、このくらいでしょうか。

鳥目線も試してみたいですが、高いところへ昇るのは
苦手なので、無理ですな。



この前の、折れ落ちた幹が小川に浸かったままのあれ、
枝先にたくさん新芽がついてたのが若葉になって、
花のつぼみもいくつかついていて…あら嬉し、です。
写真でよく見えないですが、樹が横たわったまま
ちゃんと葉をつけて、生きています。



どうだんつつじの花は近くでみるとこんなに可愛い。
離れてみると、緑の葉にレース飾りのようで綺麗で、
大好きな樹です。今年はいつもよりたくさんの花を
つけています。



手前の2本はもみじ、実生から育ったまだ若い樹で雪解けと
同時にここへ植え直しました。元気な小学生って感じです。



残念ながら、山桜はすっかり葉桜なので写真がありません。
3日ぶりに帰ったら、前夜の雨で散ってしまった後でした。
いつものように、地面に散ったピンクの花びらをじっと見た
のでありましたーーーーーー。ガックシ。

大好きなバラの季節がもうじきやってきます。
ここではバラはなかなか育たないので、大事に大事に
見守っています。
虫対策は農薬ではなくニームです。
くんくん親分に害がないようにニームしか使わなかった
のですが、よく効きます。
竹酢液と合わせると、いいようです。

知人が開発した肥料の効能がざっくりしていてイマイチ
不明なのに困りました。
園芸は土と肥料とおてんとさま、そして育てる人の想い
で左右されます。

バラの魅力は花びらの形、色、香り、どれも欠かせない
ですが、特に香りに惹かれたのでした。
花屋さんのバラは大きくくっきりと形のよい花ですが
香りはしません。ここで育ったバラに慣れていると、
造花のようで、魅力がないのです。

庭にバラが咲く季節、表にでるとその香りが漂っていて、
一瞬で幸せな気持ちになります。
その香りが失われてしまうとすれば、それほど残念な事
はありません。
バラ好きな人ならそりゃそうだ、とうなづいてくれる
でしょうけれど、形しか見ていない人にはたいした
ことではないでしょう。

なにごとも同じ。いつの世も変わりなし。
さりとて僻んでいるより、草花にすっぽりと隠れる
セキレイや、それを狙っているツモリの子猫の仲間に
入れてもらうほうがよほど楽しけれ、ですわ。




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花待ちの日々

2015-05-01 12:43:20 | Weblog
(写真を差し替えました)

青森の桜が満開だというのに、ここはまだつぼみです。
ゴールデンウイークの真ん中あたりに毎年咲くので
今年もそのあたりかとふんでいるのですが…
満開の一番いいときに山を下りていて、ちゃんと見た
ことがないのです。
来年こそは、今年こそはといいつつ今年で19年目の
山暮らしになりました。



前回の椿の移植をカメがやりなおしてくれました。
庭造りはやっぱり…トーシローには難しいですなあ。
カメも庭師ではありませんが~

大きな板を削って腐食防止のペンキを塗り、それで
土留めをし、黒土を入れ、たくさんやることがあって
椿は数m移動しました。
(黒土は放射能数値を計測し安全な土を使用します)

新しく白い椿、侘助も加わって、あと一本分のスペース
を残して椿コーナーが出来上がりました。
少しづつ伸びていくのを楽しみにしています。
雪に耐えてくれるといいのですが。

で、今年こそは花見と、今から待ち構えているのですが。

桜を観た日のことをここで書かなくなった
のは、アレとアレのせいだった。
でも、今年は待ち遠しいのです。

一つ目のアレは空間線量のこと。
二つ目はベイビーのこと。

忘れたわけでも気にしなくなったわけでもない。
逆です。
思いっきり、ど真ん中くらいに、意識しています。

両方があって、自然と、地神のハタラキについて、
深く考えさせられたわけです。
より自然に近づき、より謙虚にならざるをえなく
なった、その分、桜の花を待つ気持ちも強くなって
いる、そんな感じです。

人がなんでもできる、作れると思い込んでしまった
のは、いつからなのでしょうか。
今も昔も、肝心なところでは、人はなんにもできない
ままです。
それを悪く思ったり、卑下したり、悔しがったりする
曲がった気持ちが強くなったのはいつからなのでしょう。

人は自然の摂理を学んで模倣したり工夫したりする
知恵があったけれど、いつから遠慮がなくなったのか。
教わっている、恵まれているという気持ちを忘れた
まま、人は増え続けてきました。

このまま行くのは止めようという人々が、3.11以降
に動き始めた、それが一時的なことで終わるものでは
ないということを感じます。
自分にできることはとても小さいけれど、
そもそも、世の中は、小さなことが集まってできて
いる。まず、そのことに気づくのが大事でした。



魂は大きな魂も小さな魂もない、重さはいっしょ。
人一人を助けることは大勢の命を救うことに劣ったり
しない。
生きものは人だけではないし。

そんなことをたくさん考えて、春、本番になりました。



猫パワーが庭に満ちているんだわー。
イジケテ、おまえではなし、とは言いません。
おまえでいいよ、おまえはかわいい、くらい…






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