想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

ゴチ! シマコ親子

2009-11-30 02:37:11 | Weblog
日曜の昼過ぎに現れたシマコ、なんだかそわそわと様子が変かなあと思っていたら、
変なわけがわかった。
しばらくするとシママがやってきたから。
コブチャがくるのを期待してるのだけれど、シママは前年のシマコの子で物置小屋で育った。
コブチャたちが生まれる前まではたまに顔を見せていたけど、久しぶりの縁側登場だ。



それにしても、あんた。
デカイんじゃない?
その首、その手、その足ったら‥‥、バア様のみゃーちゃんにそっくり。
あたいもさ、よく母親に母さんに似てるって言われるけど、つまり母さんの母さんだから
あんたと同じ婆ちゃん似らしいよ。
会ったことないからねー、婆ちゃんには。物心ついたときにはこの世にいなかったからね。
だから似てるって言われてもねー、でもあんた、似てるよ。その首と二重あご!!!




こっち見てるその感じ、みゃーちゃんの貫禄に負けないね。
シマコママがずいぶん小さく見える。
シマコはあんたがそんなに大きくなってるのに、子どもがおなかいっぱいになるのが嬉しいって顔してる。
カメもあたいもシマコの満足そうな顔が見れたから、あんたがいくら大食いでも勘弁してあげようって事に
なったわけよ。
それにしても、一口に入れる量、もちっと遠慮はないんかい。

「子どもの貧困」一番胸にこたえること。
貧困の連鎖、そこから抜け出す方法を国家はいまだ示さず。
貧困は個人の事情という狭く、低い社会意識しか持てず先進資本主義国というならば
それはエコノミックアニマル(コレ、相当古いのになあ)と揶揄されて然り。
持たざる者にこそ仕合わせと光あれ。
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ピースフルと空腹

2009-11-28 00:29:44 | Weblog
ピースフル・トゥモウロウズの講演会で女性メンバーが話のあとにギターを
つまびきながら歌った「この地上に平和が満るときまで‥」という詞が胸に
沁みた。(BS20周年ベストセレクションHVスペシャル、11.26深夜再放送)
ジョーン・バエズみたいな、よく伸びる澄んだ声だ。看護師が仕事の彼女は
9.11で家族を失くした一人だ。
「わたしたちの家族の名において報復の戦争をするというのなら私たちの
家族の名前を犠牲者のリストから削ってください」というメッセージを掲げ
テロと闘うという大義名分で戦争をする政府に反旗を立て、真の平和を訴え
ている。「我らの悲しみを平和への一歩に」に詳しい。

他人の悲しみがわからない人も多い。
頑迷でわからないのではなく、平和のなかに溺れているからわからない
というわからなさだ。平和や反戦なんて自分には遠いからという。
遠いのを近くに感じるのは想像する力と知ろうとする思いなのだけれど。

大げさなことはわからないし…というなら大上段に構えなくてもいい方法
がある。体制を変えようとするのではない。政治に直接的に関わるだけが
変革ではない。
ふつうに、個としての自分自身を変える地道な一歩を踏み出すことだ。

たとえば怠惰に時を過ごさない自分へ。
たとえば欲にまかせて食べ飲み過ぎるのを慎む自分へ。
たとえばまあいいかと棚上げにする癖があるなら棚卸しを義務づけて。
たとえば、流してしまわずに、一度くらいなぜ?と問える自分へ。
今より少しだけでも厳しさを課す。
少しずつ重ねていく。

そうすれば、いつか自分とは関わりないことなどとは思わない自分になる
かもしれない。
他人の、遠い国の出来事にも、胸を痛めるようになるかもしれない。
テレビや映画を見て安い涙を流す、そういう悲しみではない悲しさを
痛みをわかるようになるかもしれない。

それは、いつもいつも腹一杯ではわからないものなのだ。
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漱石、動と静のあいだ

2009-11-26 16:56:47 | 
端粛(タンシュク)。
「人間の活力の動かんとして、いまだ動かざる姿と思う」、
それがもっとも美しい理想の姿である(ギリシア彫刻において)という。
漱石の「草枕」の中で画工がのたもうているのであるが、その説明を
つらつら読み進んで、かならず膝を打ちたくなる。
合点がいく。
だよね~と言いたくなる。

「動と名のつくものは必ず卑しい。運慶の仁王も北斎の漫画も
全くこの動の一字で失敗している。動か静か。」(「草枕」)
この二行の前にある数行に合点がいくのである。
だから動でも静でも悪くはないが、動なら動の、静なら静の定まった
ところの責任というかすでに背負ったものを引き受けねばならんと
いう、そういうあたりまえなんだけど、意外にやっちまったなあ的に
陥る平凡を突いている、そこが漱石の神経症的な笑いである。

白黒、善し悪し、行く行かぬ、二つのどちらかに急ぎ断ずることが
美徳ではないというのである。
表面にあらわれるそれらの結果の裏側に秘された「アワイ」を
瞬時にきりとる才を霊能というのではないか。

霊しき、それそのものは「アワイ」に満ちて、そこからどうかわり
(易り)定まるかは瞬く間のことである。
きりとったそれを画面に白紙に乗せるのは、心の技であるから、
迷うことや、待つことを厭う健康なる凡人には観ることが難しい。
画工の話は現実の女人のことに及んでいくのであるが、物語のそれ
よりも行間にのぞく漱石の思索が面白くてならない。

漱石の孫である半藤末利子さんの著書「漱石の長襦袢」が出たので、
時間があるときの楽しみメモにしてある。まだ手元にないのだけれど
すでに読んだ気分なのが変だ。旅先に行く前から行った気になって
楽しいのに似ているな。

(半藤末利子さんは昭和史物を描けばこの人をおいてなしの作家、
半藤一利氏夫人、前作に「夏目家の福猫」「夏目家の糠みそ」)



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オヤジになっても

2009-11-26 05:50:44 | Weblog
チビだった頃の親分、お尻も小さい、あんよも小さい(けど太い)。
からだ全体に比べて頭が大きかった。バランスがとれないからよく転んだ。
テントを張って篠竹と雑草と大木の根っこと闘いつつ造成作業をしていた頃、生後二ヶ月を少し
過ぎたくらいの頃である。
ちょろちょろして危ないのでつないでおく。長い長いロープにリードの輪っかを通して移動距離を
長くしてくれたのはカメ、おかげでそばを通る人をロープの端まで追いかけることができる。
それ以上ついていけないところまでくるとキャンキャンとないた。
現在のウーファー音とは想像もつかない、まだ可愛い声だった。

この頃の写真が数枚しかない。デジカメはまだ業務用であったし、最初のサイバーショットを
手に入れる前年、インスタントカメラで撮った一枚だと思う。ハハ的には育てるのに必死で
写真を撮る余裕などなかったというのが正直なところ。まだ体重7キロで抱っこして歩けた。
ほんとに可愛くて、駐車場から事務所までの道200メートル弱を抱っこして通っていたら、
通りの途中にある本屋のオヤジがほどなくしてラブラドールの子犬を飼うようになった。
(おまけに名前はベイブ、時代を感じるでしょ。そっちはイエローのラブ)
すれ違うOLさんたちに「きゃー、かわゆ~い」と声をかけられ、わたしの腕の中から愛想を
振りまいていたベイビーであった。



体重40キロ弱に変貌するのにそう時間はかからなかった。マッチョだからギュウギュウである。
サーファー御用達ショップのTシャツ。当時、松たか子が愛用しているのよ、と言っていただいた。
元々色落ちさせた渋い色だったのが年季が入って、親分の小雨の日散歩用になって、そろそろ親分の
足ふき雑巾へお下がりなので、着納め。



トド化する日々、このごろは自分で枕(カピパラのぬいぐるみ)をして寝るのがお気に入りだ。
寝こむと外れる。朝はそれをくわえて、わたしのベッドへ起こしにやってくる。
よだれまみれのカピバラをつきつけられ、笑いながら目覚める。



遊びに来たM子にピタっとひっついてトロケそうな顔をしている。チビの頃からの仲だ。
ずっとここから動かないんだからもう、なんちゅうことなの!
話し込んでるM子の肩、髪などに鼻先をつけてビミョーな表情をしている。おっかあから
見られているのもなんのそのの恍惚ぶり。「お姉さん好き」の三つ子の魂は変わらない。

でもな、言うとくけどな、ピチピチMちゃんもつまりいい歳になっとるんよ、あーたがオヤジに
なったんだからM子だっていつまでもツルツルのOLさんやないよ、今じゃアラフォーの、
バリバリの働く女の人なんよ。ついでにお一人様なんよ。

その、最後の要らないんじゃないっすかとM子がツッコむが、それでも離れないんだね~。
いい匂いがするってか。ボクがいるじゃないっすか、と言ってる目。
お一人様歴を更新中であるM子は、君に惚れられてもなあと複雑な笑い。



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海へ行く約束、必ず

2009-11-25 11:11:24 | Weblog
ベイビーは声だけするのにうさこがどこにいるのかわからないからうろうろしてて
カメに呼ばれて駆け寄ってます。
そしてひっついてます。
ひっつき虫が住んでるから仕方がないんです、我が家の体質です。





懲りずに屋根に昇る。
遠景の山をどうにかして撮りたいし、手持ちの望遠レンズで距離が足りないのに
撮りたいのであります。



トーシロカメラマンがレンズを増やしていくのはこういうことなのでしょうね、わかるわかる。
でも写真を撮るのはシロ/クロ(素/玄)の問題より被写体とチャンスとセンスと、最後に技術と
道具のような気もするけど、その最後のところまでいくと銭金の問題だからそこで降りるとして。

正月明けたら母と海へ行く約束をした。
冬の海だなあ‥‥、母はいまわたしがいる場所によく似ている山の麓で育った。
海は遠く、遠く、想像のなかにあるのである。
海への憧れは親子共通である。
わたしは初夏に葉山の海へ行ってその欲求を晴らしたけれど、母は一人ではでかけられない。天草の海を見ようと決めた。
必ず実行しよう、約束は。



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わかっているとは言えない

2009-11-24 10:51:52 | Weblog

朝方目覚めてすぐに窓の障子を開けて外を見る。
ここにいると天気が一番気になるからだけど、この季節は楽しみがあって。
それは「雪」。
この日も、あっと叫んで、ゆき~と言ってしまった。
‥‥、ちがいました、霜柱でした。
十センチほどもある霜が立っていて、一面銀色だったので雪がうっすらと積もったみたいでした。
すぐに融けるくらいの雪がゆうべのうちに積もったのかと、期待したんだけれどハズレでした。
でもまだ寒いのにからだが慣れていないから、もうちょっと待ってたいなあ。



陽がさすときは、ここに寝転んで空を見る。



ゆうべはこのブログはちょっとしたにぎわいだったようだ。
検索からやってきたお客さんたち、富士丸君ファンの方々なのだろう。
みんなさみしくなったんだな、そして気にしてるんだな、わたしも時々思い出す。
ブログでしか会ったことのない犬だったけど。
いろいろなことを複雑に思うのである。

昨日は久方ぶりの友人に会って、「動物は歯に気をつけていると長生きしますよ」と
教えてくれた。「だから犬も同じね、だいじょうぶ、歯が命です」とアメリカ人の彼は
言った。すごく確信に満ちた話し方であったので、なんだかだいじょうぶな気がして
単純に励まされたのであった。
マジ、単純なわたし。

ベイビーがそばにきて、首を二三回振っている。ん? と思ってゴロンチョをさせて
耳の中を見た。また悪くなっていたので、治療薬をさしてマッサージ。
動物は人が倍も三倍も四倍も気をつけていなければと思う。
声に出して訴えてはこないから、こちらからいつもみつめていなければわからない。
みつめていると必ずサインがあって、気づいたときにスマナイ気持ちになる。
薬をさしたあとのベイビーは、わかった?という顔をしている。
はい、わかりました、すんませんねえと言ってゴロンチョのままおなかもゴシゴシとマッサージ。
何年経っても「彼のことはわかっている」とは言えないのである。

富士丸君と山の家で暮らせなかった富士丸父ちゃんのさみしさを、山の木立の下を歩きながら思った。

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ふかふかの散歩道

2009-11-22 00:03:43 | Weblog

整備された遊歩道とは違う落ち葉のたまったままのフカフカの道。
道路との境界線に続く細長いコミチ。カメが数年がかりで造った。
この春、榊の植え込みをみんなしてやったとき、丸太を積み直した。
ずっと前からこうしてここにあったような風情の道になっている。

どんな手で、どうやって、どのくらいの時をかけて、それが造られた
のか、そういうことを考えて物事を見るのはいい。
素通りしていかず、ユエンやユイショ(所以、由緒)を思うことが
できる時、そういう時間は「旅」であるな。
いつもいるところであっても、旅している気がする。

だいたいにおいて、今ここにこうしているのがあたりまえ、みたいな
感覚のほうがわたしにはぎこちない。
めったにそんな感じのときは来ない。
それはずっと以前、子どもの頃から今に至るまでそうなのである。
ほかの人はどうなのだろうか。
そんなこたああるめえ、って言ってるそこの人、ほんとかしら?
あなたは自分のアシでそこに来たのかしら?自分のイシで。

旅もできないとき、具合が悪い。調子くるってる感じ。医学的に言うと
自律神経が不調なわけだが、ザワザワするので脳が勝手にシャッターを
下ろして本日休業と張り紙してしまっている。
閉店されてしまって、出勤した店員が(あたしね)うろうろしている。



フカフカの道を歩いていると、めまぐるしく回転する脳とほどよく疲れる
身体のつりあいが取れてきて、旅の途中の充実を感じるのである。

旅人のお方、遊びに来たならこの道をご案内しませう。
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シルエット・ロマン図

2009-11-21 12:00:38 | 
落ち葉が積もって、歩くたびにザクザク音がする。
寄り添うふたりの影が川面に映っている。ラブラブな影絵である。
でも実際にはベイビーが早く歩けよとそばで催促して手でつついている。
それは映らなくて幸い。



朝方の気温は0度。陽が昇ってきたので少しは上昇したかもしれないが寒い。
あたりの景色もこの通り、木はすっかり葉を落として見通しがよくなった。
初雪もすぐだろうから、明日あたりはタイヤ交換へ行っておかねば。
冬仕度がまだまだあるのでちょっと外仕事もやらねば。

ねばねばの事がいくつかあるけど、ここでの「ねばならぬ」はいやいやでは
ないので苦にならない。すべては冬を越し新しき春を迎えるためである。
自主的ねばねばは楽しいのである。

さてさて、ニュースはあいもかわらず暗い。
「暴力」と「退屈」で死の淵をぶらぶら徘徊することしか知らない若者に
本当に楽しいことを教えてあげられないものかと思うばかりである。
すべての子に親があるものを、親もまた誰かの子であるものを、反面教師
だって親であるものを。

[乳と卵]で痛快な出世を果たした川上未映子の初長編「ヘヴン」を読んだ。
いじめの告発書、それをできるだけ美しい表現を保ちながら綴られたレポート
のようであった。苛めの横行する世代と近い作者ならではの本領発揮かとも
思うし、いや作家だから想像力のたまものであろうけれども惨いことを美しく
書いたことでタイトルを裏切っていないのであった。

ラストの美しい光景、ということであるけれどもわたしはそこに希望を見出せず
かえって悲惨であった。「発見した感覚」を味わったことが確かにあるが。
そこに作者の意図を測ることができず、もどかしい気もしたのであった。
だがそれにもまして心に残る作品にはちがいないと思う。
手垢のついていない感触がいいのかもしれないし、この人の外見や言動とは違う
けなげな感じが伝わってくるのであった。
小説作品というのは存外、意図以外の人間性が滲むのであるから。

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朝焼け、お得な気分

2009-11-21 08:14:55 | Weblog
午前中から来客予定なので仕度の遅いうさこは用心のため早起きした。
早起きは三文の徳、三文はいくらぐらいなのか知らんが、洗面所に
差し込む光で外を見ると、あれま、朝焼けであるぞ。

早起きではなくて、夜更かしのついでに見る明け方の空はよく見るが
ちょうどいい朝焼けを見るのは珍しいので三文以上の得した気分である。



ベイビーを誘って表に出た。ベイビーも親同様に朝寝坊の日々だから
なんだ、なんだ、まだシッコには早いぞという顔だったが、外に出る
のはやぶさかではない。
すぐに走り出した。
樹々が赤く染まっている。夕焼けどきとはまた違った輝きだ。
朝の静けさは、なにかこう力がじわじわと湧いてくる感じである。
で、うさこにも力が湧いてくるかどうかわからんが、なにか一人前な
感じがしてうれしかったのであった。
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THIS IS IT を観て

2009-11-20 20:02:43 | Weblog
ファンらしき人で客席はいっぱいだった。
エンドロールが流れても立ち上がる人がいなかった。
途中、すすり泣く声が聞こえて、それはあちこちで広がった。

彼は一流のエンターティナー、そう書かれ言われる。
一流の前にオンリー・ワンがつく。
歌声よりも話すときの声がいい。

わたしはファンではないのに、若い人に誘われて観た、しぶしぶ。
観ておいてよかったとも思ったし、観てやはりつらいことであるとも
思った。脱力感を味わうのを避けているこのごろだから。

今週末の上映館は観そこなうまいとする人でいっぱいになるだろう。
何度もくりかえし観たという人が多いようで、コンサート会場のモニター
よりも近いうえ普通に話をしているマイケルを観る機会など本来なら
ないのだから当然のことだ。なんという幸せ!そう感じるだろう。
彼が逝ってしまったからだということがファンである人もそれほど
でもなかった人も振り向かせてしまう理由になってしまったことが心を
重くする。
素晴らしすぎて、気が重くなった。

これから4年で環境破壊を止めさせよう、今だ、今こそそのときだ、
その通り、このツアーが実現していたならばマイケルが生きていたならば
壮大な夢の力で人々の良心を動かすことができたかもしれない。
切ない願いだった。
映画にまとめられたメッセージを遺言と受け止めて執行するのは
観客の役目だ。賛辞を送るより、行動せよというマイケルの言葉に
忠実であることが冥福を祈ることにつながるだろう。

若い人は友達に話すと言っていたが、彼らは何を話すのか、今度
会ったら聞いてみたい気もするし、聞いて脱力するのがコワイ気もする。
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雨天決行、バラの施肥

2009-11-19 13:33:32 | Weblog
ハウス!さっきから、おっかあに何度も言われてるのに、
雨のなかに立つ親分。気のせいか、顔怒ってるみたいな?
どや? 男らしいやろ? 濡れてるねん(なぜ大阪弁?)



作業してるねん。
バラがぎょうさん咲いてくれよったからに、お礼ぇせなあかんからな。
牛ふん、鶏ふんが混ざった発酵堆肥を穴を掘って土に混ぜて入れる作業や。
背が高いのがワシの子分や(ちゃうと思うよ‥‥、その人はオヤツくれる人やろ?)
スコップの使い方、教えたろか? え、そこの若いの。

おっかあもそんなとこで、見物しよったらあかんで。
茶~でも出さな。
な、雨ん中、はたらいとるで。

あのな、雨でちょうどいいねん。
スコップがスカスカとささるから、背ぇ高いのは意外に力ないねんて(母の声)
それよか、ボクはよ家へお入り、濡れたら風邪引くよ。
親分ごっこやめて、はよ、ハウスしなさい! ガムあげるよ。

いやじゃ!


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屋根に登って

2009-11-18 23:17:58 | Weblog
この森へ来て最初に立てた一号棟の北側には桜の木があった。庇に切り込みを入れ、
桜をそのまま伐らずにおいた。
年々育って、枝下ろしなどしてきたけれど、今年気づいた。庇を押しのけるほど幹が
太くなっていることに。

素人集団で建てた記念すべき一号棟には愛着がある。
庭にも二号棟にも想風亭ももちろん大事に思うけれど、そのどれよりも大事に思っている。
最初のだから老朽化も一番進むのでいずれにしろ手入れは順次必要となるのだが、壊れた庇を
屋根を作り直すのはけっこう大変そうである。
考えた末、桜を庇の下まで伐ることにした。根を残す方法である。
家の西側の花壇には切り株から育って今年はたくさんの枝葉をつけた桜がある。
まだ紅葉した葉が落ちていない元気ぶりだ。だから根を残すことで子孫に希望をつないで、
屋根の上まで伸びた枝と幹を思い切り伐ることにした。
よく育った、そしてその歳月の分、無事に過ごせてきたことを感謝。





年に何度か屋根に登る仕事がある。
屋根を塗り補修をする、雪を降ろす、夏には備品の布団を日干しに、秋にはこの桜の手入れ等々。
そして登ると必ず、そこでお茶タイムとなってなごむのである。
和んでいる時間の方が長いのである。



光を背に受けて、このどこかにうさこがいるよ。
(立ち上がれるようになった~、進歩進歩、高所恐怖症を克服中)
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夕空晴れるか晴れまいか

2009-11-18 10:59:26 | Weblog

晴れていても夕刻、西の空が染まるとは限らないのだなあ。
じっと待っていたけれど、前日のようにはいかなかったのである(↓)。



山を隔てて、こちらとあちら、彼岸は曇っていれば暗い闇へ沈んでいく。
こう書くとなんだか意味深長になってきて、彼岸は黄泉のそれとも思えてくる。
赤く焼けた空を待って、屋根に昇っていたけれど冷たい風になぶられるので
根性なくて降りてきたのだった。
待っていても日本海側は低気圧で雲が厚く、やがてこちらがわへも雨がやってくると
カメに教わってしぶしぶ引き上げた。

そういえば、中国はオリンピック開催の時にも降雨を人工的に操作したと聞いていたが
今回も大雪を降らせ水不足による飢饉対策のための実験と発表したようだ。
その雪はピンポイントだけで周辺に影響はないと思っているのだろうか。
それとも、そんなこと知ったこっちゃないということか。
地も、水(海、河)も、空も、ひとつづきで切れ目もつなぎ目もないことが
あるときは嬉しく、あるときは悲劇をもたらす。
人は不自由で愚かしく生きているなあ。

己の阿呆、嘆かぬ日々はなし (兎子)。


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ふりしきる紅葉

2009-11-16 05:20:23 | Weblog
ふりしきる紅葉。
最後の最後まで、恋はわたしを苦しめた‥‥というのは「夜間飛行」の歌詞。
歌ったのはちあきなおみ。
このフレーズとこの景色。
苦しさが去ったあとに残る名残り、ですかね。
華と苦しさは、表裏、一重の違いではないでしょうか。

(本日、移動に次ぐ移動、また移動なのでまた後ほど)



歩き疲れたので、本日はおやすみ~なさい~。
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バイク野郎

2009-11-15 16:15:38 | Weblog

秋風は冷たさを増しているけれど、今日の午後は南風で
あたたかかった。
買い物しに下界へ行った帰り道、オートバイ野郎に抜かれて
しまったので、パチリ。
おじさんライダーなのでそんなに飛ばしてはいない。

オートバイで中国の西安から敦煌を経てイスタンブールへ
抜けるルートを走るツアーがあるらしい。
U氏がトルコへ行ってくるけんね、と旅立って一ヶ月後、
骨折したよ~と電話してきたのは二年前の夏のこと。
その折の話はあまり深く聞かなかったので詳細を聞いた
のは昨夜のことである。
転倒して大怪我をしたので敦煌で引き返さざるをえなかった
彼は、よってトルコへは行っていなかったことを初めて知った。
笑い話のように語ってくれたが、中国の公安に賄賂を渡して
大陸を通過するツアーなぞによくも行ったものよ。
引き返してよかったんじゃないか、紛争だらけの土地だもの、
と言うと、いやー残念無念、そんなこと考えたこともなかった、
そういうこと一切無知、気にもしなかった、ただ走りたいだけ
だったんだと言った。
荒涼とした赤い大地をひたすら走り続けたことしかほとんど
記憶にないと言った。
ああ、そんなバカな。
騎馬民族の土地を日本人おっさんライダーたちが駆け抜ける夢。

旅もいろいろだけど、おじさんになったら、あるいはおばさんに
なったらもっと違う旅しようよと笑ったのであった。
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