神仏の意味を、神とはなにかを学んできた二十年余の歳月、ミナマタ
から遠く離れ、場所ばかりか思いも薄まってくるような気さえしていた。
この稿を書いた最初の日から四日間途切れている間に、水俣病関係の
新しいニュースが一つ流れた。
新潟水俣病の患者へ現環境大臣が直接謝罪するというものであった。
事件からすでに半世紀の時が経っての行為であることに注視した言葉は
「初めて謝罪」という表現だった。しかしそのことに思いいたる人が
はたしてどのくらいいるだろうか。
(新潟阿賀野川流域で発生し、新潟水俣病と名づけられた。
すでに熊本で同じ症状の水俣病が発生していたにもかかわらず、無策
で手をこまねいていた政治、行政の無責任が大きな非難を招き、結果的
に両水俣病の救済の道が前進するきっかけとなった。大きすぎる犠牲)
「漏れたり、手をあげなかった人がいないようにしたい」という患者救済の
一時金二百万円について言及したにしても、それを恒久法へという要望
については返答を先送りするという中途半端な「大臣の言葉」であった。
半世紀以上というのは、生まれた子供が老いの域に近づく年月である。
オレの人生ほぼ決まりと思い出す頃である。
その間、放置され進展しないまま、結論先送り、担当官僚は何代変わり、
大臣何人目なのだろうか。犠牲者の命は無念のまま尽きてしまう‥。
わたしは熊本の出身である。
海から遠く隔たった山間部で育ったけれど、魚は天草や大分、鹿児島の海から
市場へ揚がる。庶民が買うのは近海モノだ。
それがにわかに途絶え、地域の魚店は消え、ミナマタは地元の人々にとって
対岸の火事ではすまなかった。
「これから貝や近海モノの魚を買ってくるなよ」という父の言葉を覚えている。
何をいまごろミナマタか、という問う者はいないだろうが、自らに向けて
それを思わないではない。
ミナマタに終わりはない。重すぎる四文字だ。でも単にそれだけが理由で
考えているのではない、理由は他にある気がする。
石牟礼さんはある意味偶像であった。偶像を崇拝するやからが多々いる中で、
知ったかぶりする大人たちの中で、下っ端の若い者たちは考えたり感じたり
することを止め、その一人であるわたしもビラ配り要員であり集会の頭数と
して駆り出されていくのが常であった。
患者支援運動や訴訟は紆余曲折の長いみちのりを経て、年号が変わり世紀を
またいでようやく一応の終結をみた(ことになっている)
熊本学園大学では水俣学も開講し、現在は水俣市全体が風化させない活動に
とり組んでいる。
そして水銀ヘドロが堆積した湾は埋め立てられ、産廃処理施設の用地となり、
それを被うように公園が造成された。明媚な湾は変形し、父祖の思い出語りに
出てくる地名を辿りようもないくらい変わった。
長い歳月が経過した。
患者も市民も、人は生きていかねばならない、終わらない業を抱え、人生を
送らねばならない。
ゼッケンをつけバスに乗り集会へ行く、市内の繁華街でビラ撒きし、街頭で
ハンドスピーカーを片手にスローガンを叫び、カンパを募る。
そういった日々にはまるで感じていなかったことが、一昨年ごろからむず痒く、
しかしどこと知れない痒みで、対処できない苛立と、もどかしさがあった。
胸の奥まったところにそれは生れ、小さな瘤を作って消えなかった。
この森のある意味ひとつの浄土に身を置いて十年余りが経った。
もちろんずっといっぱなしではないけれども、ここで過ごす時のほうが主となってから
そのことの意味を自覚しはじめた頃と重なっている。
「苦海浄土」は医学的資料び裁判、交渉過程の資料以外の本文は、ほぼ
水俣弁で記述されている。
水俣弁は熊本市内やそのほかの熊本近郊の方言と相通じている。
わたしは時々長距離電話で話す母の言葉を思い出す。日常では使わなく
なったふるさとの言葉。それは翻訳なしで直に感情を刺激する、コトダマを
内包していた。
字面を目で追うと同時に音のひびきをもって頭のなかで語りかけてくる。
それは、過去に現地に足を運んだ経験よりよほど重く、ずっと大きな力で
わたしを束縛してしまうのである。
言葉のひびきがこだまして、胸の奥のほうでなりやまず、つぎつぎに湧き出し
流れ続ける水の音のように、読み終えているのに止まらない。
眠るわけにはいかず、夢のなかで思い続けるのである。
そして考え始めた「浄土はどこにあるか」ということだが、答えは最初から
あったのに等しい。
それがわかっていることが、掻痒感の原因となっていたのだから。
知っていて、わかっているはずのことをそれと認めない、あるいは行わない、
そういうかい離が、アレルギー反応を起こした。
海は穢され、人間の身体も容赦なく傷めつけられた。
泥に咲く花を覚えておいでだろうか。
仏の指差す花は泥沼の上にある。泥ゆえに花をつける。
苦海となったふるさとで生きていかねばならない人の、その魂はしかし
水銀に狂わされなかった。
身体五感が意志に反して退化し滅びゆく。神経は役割を放棄し、脳幹だけが
人体の最後の砦となるという特質が病状にあった。
このことをカメに問うと、だから傍目に映っている姿と、当人の内面は
全然違うということになるね、波立たず透明な湖みたいな場所を感じて
いるかもしれないよ、と返ってきた。
その身体の上に、輝く魂が立ち顕われているのを、おそらく作家は最初に
みてとったのではなかろうか。胎児性などの重症な患者ほどその傾向が
強いことに気づいていたのではないか。
三部を成す苦海浄土は、現代人が忘れかけた人間の尊厳を、つまり魂を綴った
作品である。多くの人が胸を打たれ、現実を知り、またわたしが思ったように
仏の浄土をそこに見いだした人も少なくないかもしれない。
浄土とは、美しいという言葉と裏腹な、残酷で厳しい世界であると思うのだ。
しかしその奥まった箇所まで手を伸ばせば、たしかにゆるぎない安らぎが
あるのだった。
それはカメが教えてくれた世界と同じである。
そこへ至るには、鋼よりも堅い信と強さがなければならず、その強さは
形容しがたいが、悪の手の及びがたいものとでもいえようか。
そう信じることができたから、わたしは今こうして生き、浄土の樹々と生ける
ものらと語らって、遅々としてだが学んでいられる。