想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

テキトウに撮ったら

2010-01-30 14:21:56 | Weblog


川べりの雪が少し融けてきたし、ついこないだまで雪をかぶっていた
ベンチも陽に照らされて乾いている。
つい、寝転がりたくなるんである。
空を見る。見上げなくても、寝転べば見える。
木も見える。木のてっぺんがやすやすと見える。

ベイビーが隣にきて、ハーハーと熱い吐息。
カメラを適当に向けてシャッターを押したら、ベイビーのでかい顔が
ばっちり写っていたのである。



おっかあと一緒、影もふたつ。
昼間の天気、照ったり雲に翳ったり、でも今夜は満月のはず。
そして夜が明けたらカメの誕生日でござる。
師のお生まれになった日でござる。
自分の誕生日より祝いたい日であるなあ。感謝、感謝。
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我がためにあらず、あるべきようは

2010-01-29 03:04:52 | 
「真正の知識を求めて正路を聞かずんば、徒らに心の隙のみ費やして得道の
益あるべからず。
況や、生死速やかなり、後を期すべきにあらず、急ぎ正知識を求めて猶山深き
幽閑に閉じ籠りて修行せん」
とは、京都栂尾高山寺の明恵上人の言葉、十二歳にして思われたことである。


(雪の下には氷)

この気持ち、わたしは三十歳のとき、カメのもとへ入門を許された日の帰り道思った。
間に合わない、間に合わない、遅すぎる、とかなり焦った。
いままたこうして、仏教の入り口で学んだ明恵上人の文献を手にしていると、
あの頃のことが思い出される。

発心し、学ぼうと打ちこんでいくのと同時進行でわたしは世間の諸々についても知って
いった。それまで世間知らずでいたことが、発心に幸いしたのであると今では思う。
世の中を知っている、身過ぎ世過ぎに長けたような人は仏など求めないものなのだ。
ましてやカメが伝えるのは神道の奥義、神道には文献などないに等しい。あっても
旧事本紀大成経くらいで、それさえ読むには仏教の素養のみならず儒教も道教も
学ばねば理解できないのであった。
バカが幸いすることもある。なまじっかな小知恵などある者をカメは受け付けない。

仏教もまたカメに教わったのだが、自習用の手引きとなったのが明恵上人の
「あるべきやうわ」、あるべきようはは分相応とは似て非なること。
その微妙な違いを知るにはまず仏を求める心をさぐらねばならない。
僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきよう、帝王は帝王のあるべきよう、臣下は
臣下のあるべきよう、このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり。
聖徳太子の十七条憲法の冒頭に通じる文言ではないか。
一切悪しきことにならぬように、あるべきようで生きるようにと諭されているので
あるが、あるべきようとは、私を滅すことに他ならないのではないか。

発心の行く先は、大慈大悲の心であるのだから、「私」などあっては何も始まらない。
されど、「私」以外のことに何の興味もない者ばかりが世にのさばってはばかって
いるなかで、「私」と「私の他」と「公」の区別が見えないゆえの悲惨が多い。
人殺し、死刑にせよ、償えといえば、それまた人一人が殺されることであると誰も
小さな声でだって言えないでいる。それを世間というのであると、子どもはいつ知る
のだろうかなあ。ならば知らないままに、アホなうちに発心せよ。
そのほうが救われるというものだ。強く生きることもできよう。

明恵上人は請われても栂尾の山から降りなかった。
高山寺の石水院の縁側で向かいのやまやまの緑と流れる雲をながめていたカメが
雲のあいまに座する上人を見たのだと、かたわらにいたわたしに語ってくれた日。
そんなこととはつゆ知らぬわたしは庭に茂る雑草を見ていた。
なんと変わった寺院であろうかと思いながら。
草が刈り込まれよく形成された庭ばかりの京都の寺にあって、初めて行をする処を
訪ねた気がしたものだったが、今、世界遺産ともなれば現在の様子はよくわからぬ。

いつになく冷え冷えとしたこの冬、森のなかで「急ぎ正知識を求めて」修行じゃ。
(我のためにあらず、を忘れぬように記す)

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sayonara

2010-01-26 10:03:54 | Weblog
人はいつか死ぬとわかっているはず。
なのに突然やってくる別れにはどうしようもなく打ちのめされてしまう。
浅川マキさんが亡くなって数日が経って、古いレコードを取り出して
夜のあいだずっと聴いていた。数時間、あっというま。

どうして涙があふれるのかと考えた。
感動させられるのは常なのが浅川マキの歌声なんだけど、今宵の涙は
それと同じなんだろうか、と。
まったく知己でもないわたしさえそうだから、そういえば渋谷毅さんは
どうしていらっしゃるのだろうかとふと思った。

最期になった名古屋のライブでやっぱり渋谷さんはマキさんと一緒だった。
渋谷さんのピアノ、セシルモンローのドラム、三人での公演だったことを
渋谷さんのブログで知った。
「どうしようもなくただ悲しい」と書かれていた。

別れはゆっくりと、しずかに、夕暮れから闇へ移り変わっていくように、
それをじっと眺めているときみたいに、そんなふうなさよならを言いたい。
できれば、ふいにではなくそっと見守って別れたい。
突然さよならは、悲しすぎる。
もちろん、いつだって死は残る人にとっては突然なのだけれど、
ベッドの脇で見守っていたって死ぬ瞬間まで、願って祈っているときは
その時間が少しでも引き延ばされるように思わないときはないだろうから。
わかっていても悲しいことは悲しい。
だから、せめて突然ではないようにと願ってしまう。

心配性のわたしは、いつでも死に別れる覚悟をして生きているのであるが
覚悟って言ってもカクゴなんだかどうだか。



大事な人と、ゆっくりと別れを確かめて死ねるような、
そんな生き方をしよう。神様が決めることだからな、よしよししょうがないなと
許してもらえるように生きていこう。
浅川マキ、愛のかたまりのような歌声。
ああ、愛って言うと陳腐になるなあ、命って言ってもおんなじだ、声って
すごいなあ。言霊と音魂。やっぱりマキさんの愛だ。

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適度な運動の理由

2010-01-26 02:41:15 | Weblog

かあちゃん、お餅食ったら山歩きだぜ。
食って寝て食って寝て、おいら考えるにかあちゃんも適度な運動が必要だぜ。
マッサージに頼るのはよくないぜ、運動だぜって、食って寝てはあんただよ。
そんなに走って、だいじょうぶかなあ(おっかあはあんたのアンヨが心配だ)




お餅っていうのは、わらび餅のことです。
なにかに憑かれたようにハマるってのが年に何度かありますが、いつか終わりが
やってきます。それがこの日。わらびもちに満足しつくしてわらび餅ブームが
一段落したのです。
分析したところ、わらびのプルプル感に参ったというよりも、どうやらきな粉味に
突如として目覚めたのが理由のようでした。
きな粉は普通の餅をアベカワ餅にしてもいいわけで、わらび餅の独占的役割はオシマイ。
ああ、よかった。
日々、わらび餅がどこかにないか? と思わないですみます。
セブンイレブンのわらび餅もどき(150円ですね)を何度か買いましたが、コンビニに
行ってももう寄り付かなくてすみます。売り切れているかどうか気にしたりしなくて
すむので、すっきりです。
スプラウトの話を前にしたのは、実はスプラウトが目的ではなくわらび餅を欲しかった
からなのでありました。
あそこの「やまもと」のわらび餅は絶品でしたよ、ふふふふ。

そもそも高速の東北道、蓮田PA(下り)には巣鴨六地蔵前「もとこ」のわらび餅が出店して
いて1箱700円、店番のおじさんが楊枝に刺して「ほら、ほら、うまいよ」と差し出してくれ
るので、それをうっかり食べたのが事の始まりでした。いつもはそんなのを受け取らないのに。
おいしかったので2箱買って山へ持ち帰り、あれから二ヶ月、やっとわらび餅とおサラバ。
またいつの日にか、ということは当分ありません。燃焼しつくした感じ。
実際に食べた量、回数はたいしたことありませんが、思いの丈がねえ‥。わらび餅って意外に
どこにでも売ってはいないということも発見しました。
(わらび餅であんこをくるんだわらび餅あんこ入りはどうも邪道な気がします)
わたしの本命、柏屋の薄皮饅頭、その一等の地位はゆるぎないもの。

そしてオヤツのあと、ふたりで裏山を一周。
餅を食べたのはわたしだけだけど、ベイビーと一緒なので楽しく歩き、好きな物を食べるという
小さな罪悪感を消化したのであった。
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雪と大脳辺縁系

2010-01-25 00:43:58 | Weblog
ここの雪景色はたいへんに脳を落ちつかせてくれます。
音を吸い込んで静か、でも光が倍増してまばゆいばかり。
わたしはおちついておだやか、でも親分の脳は逆に興奮しているようで、
クンクン度がアップしてます。

大脳辺縁系を心の脳という学者がいますね、確かに情緒を司る場所だから
そうかもしれないけど、短絡的な気もします。どうして心なんでしょうね。
自律神経系と内分泌系を関係する部位、そして記憶に関わる海馬体があるから?
では指先のつま先の方、ハジっこは心から遠いか? 触れる指先に心はないか? 

道と名のつくお稽古事(華道茶道剣道香道、色々あるね)をやったことがあれば
わかるんだけど、どれも指の先まで心が通ってないとダメ、足先まで、目を閉じて
いても見えていないダメよと教わります。指先に神宿るくらいでないと師範には
なれませんね。逆に頭デッカチを叱られますし、頭使うなと言われたりしたでしょ。

あまりに大脳のしくみにこだわって、脳を刺激すればよい結果が出ると考えるのは
期待しすぎです。それにそんなこと思っても実はできないから。
大脳辺縁系をよく働かせるために、アロマセラピーや瞑想が効くという話は最近とても
よく聞くんだけど、アロマで脳が活性化して、そして心が‥‥、ってそれこそ理屈って
もんです。

花を好きな人のなかにも意地悪な人、腹グロの人、いますよ~。
心はどうなってるんでしょうか。
アロマのガッコへ行って、調合士の資格を取って、アロマのお店開いた彼女は天使か?
否、経営に必死でストレスのあまり十円ハゲができたりしてて‥‥

何かをやれば「よくなる」という考え方をしないのが一番よくなるのかもしれない。
よくなろうとして、現代人はストレスを感じている気がするなあ。

バラをこれからまた増やしていこうと思ってるけど、それで何するわけじゃなし。
バラ好きなんですね、こんなにたくさんどうするんですか、と言われたりします。
バラが好き、この香りがたまらん、気持ちよくて、虜になってしまった。
その分仕事が増えて出費も当然かさんだりしてというあたりまえのことがついてくる。
それらを特にどうということもなく、続けているけれど、アロマが脳に良いから
そのバラを使って何かやらない? と言われるとストレスでありますな。
何もしないんですよ、楽しんでいるだけですよ、どうぞご一緒に、というだけで
商売に変えないことが一番いいようです。

生きていて、何かになろうとするのは、人間だけではないでしょうか。
木は木、花は花、人は人。
人は人になろうとはせずに、何になろうとするっていうのかな。

一つ知っているのは、瞑想の確かな効果として記憶がよくなるというのも
鼻が効くようになるというのはありますねえ、
うさこの鼻はカメに出会う前にはぜんぜん利きませんでしたから。
こんなに鼻が効くようになったのは、それはやっぱりあれですかねえ。
脳を良くしようなんて思った事もないけど、結果として大脳辺縁系は前よりよく
はたらくようになっているのじゃないかとは思います。
ハタライていないのにアロマに頼ってもなあと思います。
アロマの前にまず、何もしない時間を自分に課すことが先のように思います。
「何もしない」はとても難しくお高くつくと思われているようで、なかなか行う
人がいないんですけどね。

「何もしない」を瓶詰めにしてラベルを貼って値段をつけたら買っていくのかなあ?

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縁側食堂、シマコの指定席

2010-01-23 00:09:43 | Weblog
地面が凍ったままだけど冬のたよりない陽射しだけど
猫はひなたぼっこが好き。半日くらいここにいます。

夜になると、シマコの子(と言ってももうシマコより大きな図体)が
ご飯しにくる縁側食堂。昼間は応接間、シマコの指定席です。

東京から戻ってきて、まずここの雨戸を繰るんだけれど、シマコはもうそこで待機
していて、ずっと前は金属製の雨戸の大仰な音に驚いて飛び退いたりしてたのに
今では動かない。
それどころか、ある日のこと、あれっここに居たのにどこ行った? と思って
シマコ、シマコ、シマちゃんと呼びながら庭の方を探していると、小さな鳴き声が
して振り返ると台所の方へ行ってるんだもの。驚きました。
それからしばらく追っかけごっこがありまして、シマコは内に入りたかったのかな
と考えたりしたけれど、そうでもないらしくガラス一枚隔てたところでゴロゴロして
いるのがいいらしい。

ここから眺めていると、シマコの耳がときどき向きを変える。
そのうち沈んでほとんど見えなくなって、ああ、シマコは眠ったなと思う。
こうして見ているのが好きです。時間が止まったような風景。

修行者が山に籠るというのは、何が大切かって、それは自律心であります。
そういうことを明恵上人がキチッと言われたのが伝記に残っておりまして、
それなどを紙に書いて貼っておかねば、シマコに釣られて昼寝などして
しまいそうであります。

ひとり永平寺の日々は下界で思うより、きびしー。
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雪の日に毛ガニ

2010-01-22 09:49:50 | Weblog
今年はお初がいろいろありまして、おうち毛ガニを経験しました。
昨年末にはズワイガニを激写したりして、大変に満足していたのですが、
北海道に住むガクちゃんママから「不肖の息子がご迷惑をおかけして」と届いたのが
この毛ガニです。
別に迷惑などかけられていませんが、ママというのは遠くはなれていると
何かと心配されるものなのですね。たとえ我が子が幾つになろうとも、です(笑)
親心を頂戴いたし、感謝して「うんめええええ」と言いながら食べました。
もちろんカニオンリーの食卓、おなかいっぱいなので炭水化物は要りません。



本当はうさこに、ではなく、カメにと届けられたような気もするのですが‥‥
そこは「ひとり永平寺」、修行の身にはたまには功徳もあろうかと勝手に言い訳して
美味しく頂戴いたしました、はい。
南の方に住む我が母も、同じような思いでいることだろうと、もっと安心してもらおうと
思ったしだいです。


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3R、おいしく食べて生きましょう

2010-01-21 23:08:44 | Weblog
つかの間の晴れ。
すぐにお日様は雲がくれするけど、ひなたぼっこしたいなあ。
風は静まったけど気温があがらず、あまり長く外にいられない。
真冬だからな、しゃあないな、…。
この場所を捨てて町へ降りていかざるをえなかった元移住者の
苦労をひしひしと感じるのがこの季節である。



むかし山村の冬は食べる物が不足した。なかでも野菜がなかった。
秋採れた菜っ葉類を漬け物にしたり根菜類を干したりする工夫が
できる場所はもっと降った低地である。
ここみたいな山麓では一年を通して日照が足りず雨と風が厳しすぎて
野菜もイモも難しかったと聞いた。
母が育った村も同じような土地だったらしい。わたしは生まれて間もなく市街地から
母の実家のある土地へ移り住み子ども時代をそこで育った。けれども当時、野菜に
不自由していた記憶はなかった。それは、高原野菜を地場産業にした農家が増え、
山村にも新しい農業技術やそして何より農薬の時代になりつつあったからである。
大変驚いて母の苦労話を聞いたのであった。海から隔たって魚が貴重だということ
は想像がつくが、野菜がないことなど思いもよらなかった。
土があれば植物は育つくらのことしかわたしは考えていなかったのである。

岐阜県中津川はヒノキの産地。
それが「ちこり」を育てて生産量日本一だという。
家庭の食卓ではなじみのない「ちこり」もイタリアンやフレンチの
レストランではよくみかけるので消費量もそれなりにあるのだろう。
野菜のスプラウト(新芽)を数種類、ネット通販で買ったのだが、
オマケ好きの購入動機はそれがダンボール箱ではなくヒノキの箱入り
だったこと。木箱ってなかなかオシャレなのである。
色も三種類あって生成りとオーク色と焦茶とあって生成りを選んだ。

届いたスプラウトを早速サラダに。ドレッシングはオリーブオイルと塩。
抗酸化食物のトマトちゃんを添えてばっちりである。
日中、電話の重なってエライ疲れた日だったが、新芽の栄養素がバシバシ身体を
かけめぐり、血が清められてサラサラと巡っていくような気がするのである。
身体は正直なので、と言いたいところだが身体が先ではないんだな、これが。
気持ちの問題。

町、村起こしは困難な仕事である。
この「ちこり」生産はもやし栽培と同様の方法で育てられている。ちょっと違うのは
最初の行程だけである。多種類あるスプラウトも同様にして栽培されている。
一種類の作物に頼らず、多種多彩、方法は一つ、これは効率的だ。
そして、売るためのコンセプトも一つである。
これを考えついた人は、単に食物を生産して売る、買ってもらおうということだけを
考えたわけではないようだ。
買う側と売る側に同じように必要なことは何か、すべての人に大事なことは何かという、
言ってみればあたりまえのことを、しかしビジネスの現場では見落とされがちなこと
(利益追求に走るあまり)に軸足を置いている。
それが3R、リデュースReduce リユースReuse リサイクルRecycleだ。
これは新しい試みであるし、かつ有意義である。ビジネスは儲からなければ意味がない。
だからといって四半世紀前のようになりふりかまわぬ商法に消費者はついてこなくなっている。
ちょっとくらい悪いことしなきゃ儲からない、やったもん勝ち、言ったもん勝ちで
真実などどうにでも作り出せるなんてことをいまだにホザイている人もいるけど、狭いなあ。
狭すぎる了見でしかないのでいずれ破綻する。
正しく、まっすぐの方がよほど効率がいい、なにより気持ちがいいということを知っている
人がけっこうたくさんいる、不景気な話ばかりでもないのである。

継続すること、そして発展させること、それには気持ちいいを実感しつづけることだ。
まだコアかもしれないが、食物は生きることの基本、そのことを真剣に考え、作る人にも作物
にも敬意をもって相当の対価を払うことを考えている人たちがいる。
それが気持ちいい、おいしいを与えてくれると知っている人たちがいる。
健康の秘訣はまずなによりノンストレスで作ることだということを昔の人は知っていたわけで、
もともと日本はそういう国であったはずだよね。イライラしながら金勘定ばかりでは旨くないし
お天道様に恥ずかしい、そういう農耕民族の基本が原点にある。



サラダのあとの楽しみは京都のオオヤコーヒーだ。
生豆から買って焙煎して楽しもうという人には、それならフェアトレードで仕入れた問屋で
できるだけ購入しようねとレクチャーも忘れない大宅さんが焙煎したコーヒー豆なのであるよ。
よって値段は安売り競争している珈琲豆屋に比べると高い、当然な値段である。
今回入手したものは100gで700円のコロンビア、大宅さんが卸しているカフェから取り寄せた
ので実際はもっと安いだろうけど、このカフェもボッタリしないような感じ(建仁寺の隣)だし。
良心的で、おいしい。
安いものをガブガブじゃなくて、一杯を丁寧に淹れて「ふおー」とか言いながらいただくのである。
冷蔵庫の野菜室は届いたスプラウトで満室状態、賞味期限は3日。3日分以上ありそうな‥‥。
毎日食べなきゃならんが、見ているだけで美しくなりそうな気がする。菜食中心のうさこには
安心の冷蔵庫風景である。

食べることは生きることなのである。
できればおいしく生きたいのであれこれと遊んでいる。
遊んだあとは、このからだとこころでなにをReするか、そこんとこであるなあ。
とりあえず腹一杯で寝る、というふうにはならないので○。

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3D すりぃでぃ?

2010-01-20 14:39:29 | Weblog
らんらん同盟名誉会員

おれ、まえのりてぃ。すりぃでぃ?
ボキャブラ天国みたいなギャグが流行っているみたいで喜ばしい。
それで?って言われるより、3Dってこられたほうが笑って返せる。
まえのりてぃ、はマイノリティがわからないと笑えないかもしれないが
雰囲気で察して笑えばよろし。

ヒップホップっぽさというか、ラップもどきというか、変な歌詞を
リズムで歌ってるのはむずがゆい(はずかしー)ので苦手であるが、
オレンジレンジの「オシャレ番長」は好きである。
ところでベース(米軍基地)の町コザ出身のオレンジレンジは
辺野古ヘリポート建設のことをどう思っているのだろうか。
彼らはノリノリで海を歌って稼いで、それでごきげんなんだろうか。
沖縄の若者はトウキョーで未来の夢をつかもうとする。
掴んだ後に「マリーンズ・ゴー・ホーム!」と歌ったら昔のキヨシロー
みたいに仕事がなくなるってえのかい?
わからないよ、やってみなきゃ、逆に喝采を浴びるかも。

話がそれたが人間、あまりまともすぎないほうがいい。
優等生はつまらん。わかってる人ほどおもしろくない。
わかるって、どんどん過ぎ去っていくことだからね、わかったことに
こだわって、ふりかざしてしまう人はオクレてます。

       らんらん同盟会員番号1号


わからないことに勇気を持て!
別に勇気がいるとも思わないが、あまりにわかってるつもりの人が
うざうざといるので、つもりはやめて踊る。
上の二方が励ましているぞ、踊れバンチョー。
わからんらん同盟書記うさこは、本日もヤンキーゴーホームダンスを
めちゃめちゃなステップ踏んで歌っている。
究極マイノリティである。
寒さ防止にもってこいなのだ。
だから、3D?とつっこまんといてください。

次回は3R(R、R、R、さて?)の話。







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新宿pit innの夜

2010-01-18 17:54:38 | Weblog
アングラ歌手の女王、浅川マキさんが急死(読売新聞) - goo ニュース

浅川マキが逝った。
心不全だそうだ。
病床に就いたりせずに、この世とおさらばしたんだな。
もうこの世に浅川マキがいないということを暮れなずむ空を
みながら考えている。
多くの、無口な人が、おなじようにそっと悼んでいるのだろうな。

こんふうに過ぎてゆくのなら

渋谷毅のピアノ 山下洋輔のピアノ 川端民雄のベース 近藤等則のトランペット
そして山内テツのギター。セシルモンロー、ボビーワトソン、本多俊之。
浅川マキを取り巻く男たちもまた、みなカッコよくて才気あふれていた。
ホンモノに触れられた若い日、金はぜんぜんなかったけど熱かった。

アングラ歌手って、女王って、陳腐な形容‥‥だ、
あんなカッコいい女(ひと)!に出会えなかった若い人、うらやましがってくれ、
新宿の夜pitinnに集った日々をそっと黙って胸に抱いている大人たちを。

暗闇にタバコの煙がたなびいて、黒ずくめの黒く長い髪、長いまつげの浅川マキに
みんな魂ごと吸い込まれて幸せだった、そこにいたすべての人が熱かった。
金沢の冷たい雨に降られた話をマキさんがして、笑わせてくれて、そして
じっと聴いた。YouTube でしか知らない人は、ザンネン(とマキさんも言いそう)。
ブルースを形にした女。クレージーが常識だった女。
目の前に見たのは初めてで最後、たぶん、この国にはいないだろうから。

苦悩を何かの形にすること、生きるというのはそういうことだ。
苦悩なしに、生まれるものはない。
楽で薄くて笑うだけの世間に残るものなど、何もないんだ。

「ふたりは風景」って曲が好きでレコード(CDじゃないよ)で繰り返しかけて
聴く日がある。素のわたしである日。

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おはよう、おはよう

2010-01-16 00:37:34 | Weblog
おはよう、ベイビー。
おはよー、おっかあ。
おはよう、おはよう。

生きているね、今日も。
生きているよ、今日も。

おはよう、おはよう。
おはようと返せて、ありがとう。

尻尾をぶんぶんしながら、前足で調子とってパタパタ。
おはようは、嬉しい。
おっかあと今日もこれからもいっしょでうれしい。
ああ、べいびー、おっかあもおんなじだよ。

運がいいとか悪いとか、そんな話なんなのさ。
昨日は大型トラックにぶつけられたっけ。
運は悪くないさ、リアシートに寝ていたベイビーはそのまま
眠りつづけたんだもの。
ウーウーとサイレンが鳴ってパトカーがやってきたときも
ベイビーはちっとも起きなかったさ。
わき見運転のアホトラック運転手はちっとも反省してなかったけど
おっかあに怪我はなし、車がへこんで風が吹けば桶屋が儲かる、
いや修理工場が儲かるってわけで、運は悪くないさ。

運は悪くない。それは運がいいってことでもない。
「アナタハ絶対運がいい」、なんて言葉にひっかかって根拠のない
話を信じ、運が良くなれば幸せ掴めるってぼんやりとした望みを
抱くのはむなしいねえ。損な話だねえ。
そんな話は、よくよく聞いたり読んだり、その根拠がどこに示されて
いるのか、理はあるか、確かめること。
「思う」話を信じるより、自分で「思え」そして「行う」方がいい。
運がよくなる方法を書いた本は読むなかれ、読まずに目の前の事実を
目をみひらいて見ていたほうがまだましだ。




そもそも運ってなんだよ?!
今日一日を生ききるだけなのさ。

べいびー、おはようって言ってさ。
毎日一日があるだけさ。
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雪まみれ、結界

2010-01-15 00:14:29 | Weblog
今年初の記事、トップはやっぱりこの方、風の谷の親分でございやす。
おひさ~でやんす。
雪、雪、雪、日本列島のちょうどどまんなかあたり福島県檜枝岐村は積雪量が2メートル
近くらしい。そこから山二つ越えたあたり(かなりアバウトだけど)の国有林の麓、風の谷も
もうすっかり雪まみれですよ。
どうです、いいでしょう、雪まみれ。

だーれも来ません。さすがに道に迷って入り込んでくる人もいません。
役場の人も今年は経費節減らしく除雪をしぶって、いやケチってきませんね。
おかげで静か、鳥と猫が来るくらいです。猟師の姿も見えません。

昼夜続いた吹雪で車が凍りついたのは不覚でした。JAFを呼ぶしまつです。
JAFが一台やってきたのはきたんだけれど、首を横にふるだけの人でした。
しばらくして本隊から参りまーす、しばしお待ちをーと電話がありました。
ってことは、あの首フリにーさんはウソモノ? いえ、下請け? しゃあないね。
で、しばらくってどうなのよ? と思っていたけど。
しつこくいじって車が直ってしまった頃にレッカー移動もオーケーよというJAFさんが
堂々現れました。いやー、直りましたか、ワリーワリーってな調子で。
せっかくだからといろいろ見てくれて、あたりの景色も見てくれまして、いやーいやー
としきりにうなづいて「いやー、いいとこだわ!」と笑顔で帰っていきました。
どうして? って感じです。
雪が福島現地人にも珍しいのか? みちのくの人なのに?
そうか、町なかに住んでいて、アスファルトで融雪するから雪まみれにはなれないのだなあ。



気分は「ひとり永平寺」、山奥に閉ざされるのは理想であります。
こういう日は旧事記に没頭するか座禅をするか、おしるこ食べるか、いずれにしてもしあわせの極地。
とにかく静か、いいです。
たとえ明日もあさっても雪雪雪で車が再び三たび凍って、山を降りれないとなっても
それはそれ、しかたがないことで、となるわけです。
雪が結界を作ってしまったわけで。
都へ戻らないのは決して我一人わがままになせることにあらずして。

いやなに、俗世を離れて草衣の心を知るって書き始めたブログでしたが、都会と行ったり
来たり、来客も絶えずなのでとんと離れず覚らず、二年も過ぎて歳だけとる始末で。
そこへ今年は予報を裏切って大雪。
雪ならば音も消え、俗臭も消えようと、これまた他力本願的な思いつきで、うさこは
あいかわらずでございます。

またとびとびになりますが、今年もよろしくお願い申し上げます。
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