想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

雪道をゆく

2010-12-31 23:52:37 | Weblog

九州、西日本にも珍しく雪が降って空の便が大混乱しているそうで、
帰省旅の途中だった方はお気の毒である。
こちらはいつも通りの雪の年末年始、なので普段通り。誰も同情も
してくれない北国暮らしである。
スリップ事故を教訓に用心用心のうさこであります。

この一年、呆れかえることもなく当サイトへお越しくださって、
本当にありがとうございました。
夜が更けて除夜の鐘が鳴りだすまえに、御礼申し上げます。

「ただ時が流れるだけ、いつもどおりさ」と平静のカメ先生に言われたので
ございますが、世間の倣い、忘年会などにもまいりまして、大晦日を静かに、
内心ちょっと楽しんでおります。非日常のアレですね。
課題は山積み、正月元旦午後から普通に戻します。
では皆様、美き歳となりますように。

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色無く私無く

2010-12-30 10:20:48 | Weblog
雪が降る前の静けさ。
しんとしている、けれどわたくしの耳に届いていないだけだ。



自我の壁がもろもろの音と声を遮ってしまうことを忘れないように。
耳に頼らずに、自身を過信せずに。

目を閉じ、聞かず、そのまま、そこに座していよ。
カメ先生が言った。
そのまま、聞こう思わずにそのまま。

神を感じたければ、そのまま。
「色無く聞くたなつものなく」を観ぜよ。
25日の講義はすばらしかった。それぞれに「在る」を考えた一日。
私を滅すなんて言ってませんよ、私は無い世界、そういう世界だ、
先天本紀に伝えられる神を説いてカメ先生がそう言われたのが
心にずっしりと響いた。

音楽が聴こえる今、うつつか夢か、それにこだわらない。
大事なことはもっと他にあった。
人は肉体を恵まれて「勝手」という不自由を得てしまった。
永遠の心まで、遠く遠く離れている。
そのことを自覚し、わたしはもう一度「響き」ある方へ進みたい。

雪、これから本格化の模様です。
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焼き芋見張り番

2010-12-28 10:08:37 | Weblog

バラの根巻きに使った残りの藁で焼き芋をした。
イモ姉ちゃんだからではないぞ。
イモが大好物、ってのはここにいるみんな同じなんだかんな。
見張りもついてるし。



でも結局、藁で火床を作り上手に火を絶やさないようにできるのは
カメだけであった。いつまでたっても覚えんねえ。
だめである、サバイバルはできないのである、男どもももう中年を
過ぎようとするのにインスタントな暮らししかできないとは情けなや。

山ん中で無農薬栽培の米を作って生計をたて子育てしているオヤジさんが
数十キロ先におられる(幡谷農園)。
テレビに出てるよと教えてくれたのは、遠くはなれた九州からの電話で
あった。
全国津々浦々、テレビとネットで繋がっていることの実感である。

だがしかし、わたしは実際の暮らしを知っているので、テレビには映らない
苦しさを慮る。それをふまえての喜びであるのでテレビで観たくらいでは
わからない。わかったつもりにはなれるが。
あの方の、真似もできないわたしである。
そして天然記念物級の子供たちの姿が視聴者の親御さんたちに驚きを与えた
だろうと思ったりしたが‥。

いい環境で育つと子どももいいコになる、なんちゃ簡単には言えない。
コとて、親の姿を見ているのである。
コにも心があるのである。心をつないだのは、親の正直さではないかと
思ったのであった。
翌日の電話でそういう話をまたしあったのであったので、二度おいしい
番組であった。複雑でもあった。心ないコを近くで見ているので、なあ。

ジャスコで買ってきたという安納芋は今イチ、ブランド通りの甘みがなく
種子島で作っている人から直接買ったのと比べると物足りなかった。
でも藁で焼いた分、焼き芋としては格別なできばえであった。
電子レンジは便利だが、ほんとうの味を引き出すことはできないんだと
改めて思い知る。レンジ愛用者としては反省反省。
○○と道具は使いようという大事な言葉もあるので、使っているわたしが
足りないんである。

見張ってたわりには分け前が少なかった親分は不満である。
でも我慢している、いいコである、親に似ず。






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ホワイトでした

2010-12-27 11:03:31 | Weblog
(犬は喜び駆けまわるの図)

例年ほどではなかったけど、お約束のホワイトクリスマスでした。
イブの夜からちらちらと一晩中降り続けて、薄化粧。
遠くから訪ねてきた人がビビらない程度の雪で、よかったのかもしれません。

なにせ、いつも通りだとフワフワと大きな雪が落ちてくるので(降るではない)
あっという間に30センチくらいになって、帰れないーと大騒ぎする人が
いるのです。かくいうわたしも初めての時はドキドキしました。

自然に憧れはするけれど、ホンモノを体験していないとまずはホシミ、保身が
先に立つっていう情けなさ。今もその時のことを笑いつつ教訓にしています。
そういうときに落ち着いて思考できるかどうか、うろたえずにいられるか
どうか。生きる力は自然のなかで試されます。

なかなか慣れないし、いつも雪の季節の始めはドキドキしてしまいます。
除雪車を電話で呼べるし、JAFだってあるしとわかっていても、です。
地元、雪国に育った人に笑われています。
でも笑う彼らは実はこんな山の中には来ないし住まないわけで、最初から
用心し恐れているのです。
正月に訪ねてきても、早々に引き上げていきますから。
あんたモノズキでねえか、と言いながら。

恐れるではなく、畏れつつ、雪が降っても電話線が切れませんようにと
祈ってます。







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ギリギリ

2010-12-22 14:02:38 | 
庭石のうえに白く凍りついたままの雪が証拠みたく残っていて
降りましたぜって聞こえる。
ときどき雪が舞っているがまだ本格的ではない。



ipod touch はまるで小さなmac、スマートフォンのような機能が
満載だが、この森にいるとただのipodとほぼ変わらない使い方になる。
Wi-Fiのエリアは遥かに遠し。屋内ネットもISDN回線のまんまだし。

どんだけ田舎なのって、田舎じゃなくて山ん中であることを
持ち込んだエッジなモノが無能化するのをまのあたりにして
実感したしだい。そんなことしなくてもわかっているはずなのだが、
頭の中が都会の便利さにすでに汚染されているせいと、渋谷の
apple storeで遊びすぎ洗脳され、その足で高速に乗ったせいか、
時間差で納得のまぬけさである。



ビミョーに脱力する。

散歩しながら音楽は、いらないのである、この場所では。
逆に邪魔。ipodをポケットに、は街中でなら似合うだろうし、室内
ではもちろん便利だ。
でも森では風の歌や小鳥のさえずりのほうがよほど落ち着く。
人の作ったものでないほうが、ひらめきにいい。

このところ、だんだんとなんもいらんぜ、という心境になって
いくのを自覚する。
草衣の心を求めてという初心は忘れないので当然のなりゆきで
あるはずだが、心外なかたちで変わっていくのである。
それをもう一人のわたしがみつめていて、バカだなー、だけど
そんなもんだなあーそうだよなーと笑っている。笑うしかない。

厳しくひたむきに、とかじゃなくてゆるくて、ガクッガクッと
ドジな感じでさとること多し。
ま、詳細は省くとして(言えないねえ、いや書けないねえ)
ここんとこ、いろいろと思うことあり。
年寄りを尊敬します!
 
そういえば読んではいないが、「老いの才覚」という新書を新聞広告でみた。
売れているそうな…、ほんとに? 才覚だと。
赤瀬川原平センセイの「老人力」のほうが断然ためになると思うのは
うさこだけでしょうか。
才覚とか○○の品格とかいうのがまだ流行ってるのか? とほほである。
なめてますねえ、上から目線‥。庶民の野路のパワーを知らん人が書いた
ものはつまらん、そう思って近寄らないことにしている。

渡辺京二氏の第三十七回大佛次郎賞はほんにうれしい、すばらしきかな
人生というニュースであった。
受賞作品名は「黒船前夜ーロシア・アイヌ・日本の三国志」(洋泉社刊)

悪口は書かんようにと自分の掟であるが、本日ギリギリのここちなり。
すんません。




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ツレと歩く道

2010-12-21 01:43:33 | Weblog

いつもは歩かない方へ、山を下る道を行く。
うさこも運動不足なので日が明るいうちに歩こうと思ってツレとでかけた。
けれど、ツレの様子を見ると、トコトコと調子よくついてくるんだけど
トコトコと来過ぎるのである。下り坂、なだらかな‥。
ブレーキがちょっと壊れかけているような気がしないでもない。

1キロも行かないうちに引き返すことにした。
もう短くなったね、ふたりで歩く距離。いいよ、いいよ、帰ろう。
悪がった顔をするのである。ツレはほんとうはもっとつきあいたいと
思っているけど、足がついていかない。いいよ、いいよ、ゆっくりいこ。
帰り道は山の方へ向かって歩くから景色がいいね。



春先に具合が悪くて死ぬんじゃないかと不安だった頃を思うと、
こうして今もいっしょに歩いていられることが、とてもしあわせだ。
ボチボチ、様子をみながらできる分だけやっていこう。
ギュッと詰まった日々、みかけはボチボチだけど、中身はギュッとだかんな。
しあわせだぜ、ベイビー。

夜にはとてもいい映画を2本見た。
「剣岳、点の記」
「インビクタス 負けざる者たち」
どちらも私心を捨てて公に尽くす心意気を描いていてスカッとしたぜ。
お互いを認め合えるのは偏狭な「私」を捨てるからだ。
美しかった。
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薔薇の実その2

2010-12-19 15:27:12 | Weblog
小さな植木鉢に薔薇、赤い実がとてもかわいい。
「お誕生日の贈り物があるよ、薔薇のボンサイだよ」
と遠く新潟から電話があって、帰京するのを楽しみに
していた。お誕生日にいないから先にあげるよと。
友人のI君は高崎、新潟と取材で出向いてどこかで
この植木鉢をみつけたらしい。ボンサイと言ってたけど
これは薔薇苗を鉢植えにして市場で売ってるアレでは
なかろうか。

I君はアメリカ人だからボンサイはアメージング!と思う
らしい。盆栽と鉢植えの区別は育てる人の意図であると
思うので、今後はうさこの責任であるな。盆栽には
しないと思うね、たぶん…、植え替えちゃうね、たぶん。

彼はこういう話をしてくれた。
「お寺ですけど、大丈夫ですか。お参りするところを
撮りたいんですが、だいじょうぶ? クリスチャンでしょ、
お参り、だいじょうぶ? 拝めますか?」
そう繰り返し彼に尋ねたのは日本人のディレクターで
対して「だいじょうぶ、神さまはひとつです、神さまは
ココ(胸をさして)にあります、拝めますよ」と言った
そうだ。



ふだんからよく宗教の話をする。宗教の話、つまり神さま
の話である。わたしは古神道を始めとして旧事にある神仏儒
を学んでいるけど、キリスト教の彼と対立などしない。
ふたりとも、自分が神さまでないことは確かで、ふたりとも
ヒトなのだから人同士として神さまの話をする。
つまり信仰とは何か、ということはよく話し合う。

お寺であろうが神社であろうが、礼をもって敬い参拝する
ことは難しいことではない、彼は同行のディレクター氏に
そう言いたかったらしい。
日本語で上手に会話をするが、根本的な心の話となると
伝えるのは日本人同士でもむずかしい、外国語ならなおさらだ。

白洲正子のエッセイに、イギリス人から「あなたにとって
神さまとは何ですか」と尋ねられ、我が胸を指差し「ココよ」
と答えたという話がある。それで互いにうなづきあったと
いうのだ。アレ、ココ、というような言葉で。
簡略な話にしてしまったが、言葉で言い尽くせぬことも
互いの了解があれば言葉を越えて理解しあうことができる
のではないかと思う。
逆に「了解」の意思疎通は心でしかできないといえるのでは
なかろうか。

I君のテレビ取材の旅は寺巡りだったのに、信仰の姿など
どこにも映し出さない観光案内だったと残念がった。
「外人はそんなの喜ばないのにわかってないね、日本のTV
ディレクターは何見てもワオーとか大げさに驚くのを求める
けど、ボクは歴史もわからないものを驚けない。
考えもしないで何がわかるの? 外人をバカにしてない?」

いやバカにはしてないよ、彼がおばかさんなんだよ、そう
答えると、それはわかってるんだけどさ、疲れたんだよ。
疲れる仕事もあるもんさ、お疲れお疲れと言って肩を抱いた。
彼は家族のいるアメリカへクリスマスのために帰国する。
そして主イエスのために祈り感謝する夜を過ごすことを
とても大事に思っているのだ。

大晦日除夜の鐘、百八つの鐘の音を聞いて穢れを祓い、
正月元旦は歳神さまを感謝の気持ちでお迎えして新年を祝う、
この日本人のやり方を彼が東京へ戻ってきたら教えようと思う。
ああ、おんなじなんだねと納得して安堵するだろうから。

神とともに生きる、そう考え思う人は弱いからと思われるかも
しれない。
そう、人は弱いのだ、そのことに気づいた人は他にやさしい。
そのやさしさは、親切やみせかけのやさしさとは違う。
ときに形を変え猛ることもある。
まごころというとてもいい日本語があるが、真のやさしさは
それではないかと思う。











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ウツロノキミ

2010-12-17 11:18:07 | Weblog
思慮の慮(リョ)、訓読みはオモンバカルだけど、ハカルはどういう
字を当てるのか考えた。
謀るではないことだけは確か、なはずだが実際はどうだろうか。
世間では、じつのところ謀るが主流で、計っている人は少ない
のではないか。

謀るはだますとか下心の意味で、計るでも量るでもないから
おのが思いを問いなおすということにはならない。

どうしたら自分に都合がいいかと思いをめぐらすことを、簡単に
「どうしたらいいかと思って」という言い方をする。
そういえば中身は知られないと思うだろうが、そうもいかないので
結局のところ、謀りごとというのはその人の波動のような、気配の
ようなもので伝わっていく。疑念の芽が芽生えていても、その根拠
がわかるまでは放っておかれるからうまくいく気がする。
バレるまでは、である。

「私を滅す」は人の道を歩く前提であるけれど、それ以前のもっと初歩的
な倫理的道徳的な問題である。
思慮のないオンナ、オトコ、ヒトノオヤ、ヒトノコはゴマンといて世間を
のし歩いているのだから、そこに混ざっている限りおのれ一人位の勝手を
誰が知ろうかということなのか、鈍感に下心を丸出しにしている。
そうは問屋がおろさないのであるのに。
この場合の問屋さんは天の神さま。
神さまは個別に天罰など下すわけではないけれど、理というもの
があって、神さまといえどもこの理に沿ってはたらく。
人も理に沿わないで外れていると、外したなりの結果へたどりつく。

理はすべからく、流れ定まる。
よってオレがオレがオレがと思う末は、オレが独りの世界に至る。
そこは殺伐として冷たく、吹く風もなく音もない。
上も下もない無限の茫漠とした域であろう。
酷薄に、情のない人のさまが思い浮かぶ。

その域を支配するものの名を天魔雄命(あめのざこおのみこと)変じて
天九間虚王(あめのくまのうつろのきみ)。
その母の名を天逆毎姫尊(あめのざこひめのみこと)。
このカミは八極の理にそうことに耐えられないので居場所は
虚の世界にしかないということ。
(第五巻 神祇本紀)

おもんばかるから考え始めて、神話にいきついてしまったが、
神話は心のものがたりとして読むことができる。
こころを胸をさしてココといい、カミも同じ処を指したりするが、
あいまいである。
ものがたりはそのあいまいさを細かく、一つ一つ明らかにして教えてくれる。
カミが万神(よろずのかみ)なら心も万華鏡のようにくるくると形を変える。
コレ、コレと指差し、一つ心と掴めるまで「私は何者か」の答えを自らに
示すことができず、迷い続ける。







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気持ちだけ助っ人

2010-12-16 00:50:27 | Weblog

雪をかぶった頂上が見える。この日はちょうどそこに雲がかかり
雲なのか雪なのか写真ではあいまいだけど、肉眼で雪が見えた。
冷え込むはずだ。チラチラと細かい氷雨のようなものが時折舞う。



庭仕事を手伝ってもらう横で、親分がつきあう。
手伝っていたガクは、ほんとうは肉体労働が苦手なんである。
応援してるんであるが、親分も〈おぼったま〉だかんね、
見てるだけであるよ、猫の手とかわんないっすから期待しても
ムリね。橇を引くんじゃなくて、橇に一緒に乗ってくる犬だもん。
助っ犬です。



木瓜の花、冬の紅一点で咲いてくれるとうれしいなあ、期待を
込めて追肥、ほぼ全部の植木に終了。

人の信をどこに見いだすか、行いであると言ってしまうのは浅はかで
あると思う。行いたくとも行えずの信とてある現世。
ときじくのかぐのこのみ、懐に抱きて確かめん。

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野茨の実、ローズヒップ

2010-12-15 02:18:16 | Weblog
敷地境界線を縁どるように、小川が流れている。沢ともいうが、
小川と呼んでいる。
雑木の森は浸透した雨水が蓄えられ、そこかしこで泉がわいてくる。
水源の泉はすぐ目と鼻の先で、沢はすこしづつ川の体をなして、
土地を区切り、流れを早くしていく。
我が家の裏庭は、その流れを借景にしているのである。

そこあたりに白い小さな花をつけている木を発見したのは開墾中の
頃だ。都会から来たばかりで花の名もよく知らない、木のこと
など全くもって無知であった。
いまだってそんなには知らないが、その白い花はあまりに可憐で、
すぐに目にとまった。調べてノイバラであることを知った。

鋭く長い棘があるので広い方へ移植したくともできないままだったが
家を建て、周辺の木々を間引きしたり、下草を刈ったり手入れを
重ねているうちに、ノイバラも居心地がよくなったのか年々花を増やし、
秋には毎年たくさんの赤い実をつけてくれるようになった。


ローズヒップはビタミンCが豊富で美容にいいのでハーブティーとして
食されているが、ノイバラの実はよく似ていて同じバラ科でも野性味が
強く、効能(利尿、下剤等)は別である。
花瓶にさして眺め、愛でながら、通販で買ったほうのローズヒップティー
を取り出して、お茶を煎れた。
酸っぱい味、おいひー…と言ってみたいが…。

あまりおいしいものではないのに、女人は美容にいいというフレーズに
めっぽう弱い。わたしもオンナという自覚がまだ強かった頃、宣伝に
つられて大量に買い込んだわけである。そして友人知人にもどうぞ召し
上がれと盛んにやってみたが…、酸っぱい味のせいか、お代わりをする
人はほぼいないのであった。欲しがる人もいないのであった。

当人からして毎度、どれにしようかなと迷ったあげくカモミールやミントや
ジャスミン、ローズ、レモングラスなどの競争相手に目が移ることとなり、
大量買いの赤い実の袋が食糧棚の隅で余されることとなった。

賞味期限も切れているけれど、乾燥した実だもの、飲めなくはないと
なんだか気の毒な気もしたり、うしろめたい気もしたりで飲んでいる。
美容のためと思っていないことは言うまでもない。
罪滅ぼしの気分である。

追記:ノイバラの実は薬草として販売されているが、素人が調合する
のは危険かもしれない、かなり強い効能である由。
山に入れば、繁殖力旺盛なノイバラなのでわりにみつけやすい。
「効く」という言葉に弱い人は、どれどれと誘惑されるかもしれんが
山菜、薬草の類、はモチヤハモチヤ、主義がいいと思うしだい、
なにせ我々は、自然から遠く離れてしまって、生きもののカンが鈍って
いるのである。親分みたいに、ペッとすばやく察知して吐き出したり
できる人しかおすすめできない、念のため。老婆心。
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空、樹をみる

2010-12-14 02:27:49 | Weblog

飛行機を発見。南西方角へ飛んで行くのをみるのは初めてかも‥、と
珍しがってパチリ、写っていたので正直、棚ぼたな気分である。

この樹、肘を曲げ、天をさす腕に見える。
樹膚がとても美しかった。あらいあげられたように、清潔なかがやき。
いままで気づかなかった。
もう寒風に晒されているのに、樹はちぢこまったりしないですくっと
立っていて、その間を縫って歩いていたら胸のなかが洗われ、
嫌なことを忘れていくのであった。



自然の力はすごいなあとしみじみ思う。
人間いっぴきの業など、吸い込んでしまう。

「進歩する科学文明とは、より手のこんだ合法的な野蛮世界へ
逆行する暴力支配をいうにちがいなかった」
(石牟礼道子著「苦海浄土 第二部神々の村」より)

古の文に学ぶようになって、わたくしはだんだんと自然に近づけて
外身より中の芯のほうが丈夫になっていくようだ。
外目には凡庸でも、芯は日に日に強くなっていく。
変化は自分にだけ感じられて、外見は逆にすべすべと角をとって
飾りをとって目立たなくなっていく。

冬の、裸になった樹に寄り添って、言葉になる前の想いを感じる。
ここでなら生きていける、そう思ったかたほうの心が、
川向こうから轟いてくるオートバイの爆音にすくみあがる。
自分の弱い心に、世にいうPTSDなど便利な言葉など使うまいと
思う。因果応報、超えられる障りならまだ救いがあるのだ。

救われようもない宿業を背負った小さき人たちのことを思うと
どんな困難も、まだ不幸ではないということがよくわかる。
不幸ではなく、恵みのうちにいることを気づかされる。
泣いていてはならない、起きて、歩け。
歩いて、五体を、六根をはたらかせねばならない。

そっと、樹は手を引いてくれた。



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視線のさき

2010-12-13 01:42:04 | Weblog

なに? なに? どこみてんの?
と視線の先を振り返ったら、このかたが忍び寄っていました。



あーたは、何ですか!
こんなとこまで進出して、いいんですか!
イケナイでしょ、とおっかあは言いつつ、この顔をみたら
笑ってしまった。

シマコがきて、うさこのシマちゃんシマちゃんという声がきっと
気になってやってきたんだろうと思う。
オイラもまぜてよ、って。

ベイビーはいつもは玄関脇の一畳分がハウススペースで、ずっと
そこから出ないお行儀のよさだったのに、この秋から突然のこと
リビングとキッチンまで征服してしまった。
やりたい放題な気がする。いや、やられ放題‥であるね。
ダメよ、と言われてすごすごとハウスへ帰るのもかわいいし。

後ろと前にかわいい方たちがいて、なんだかしあわせだった。
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ともに歩む

2010-12-12 17:11:01 | Weblog
  (ただの犬…?)

かみさまとともにあゆむ、ってどういうことですか、
そう聞いた人がいました。
かみさま、がわからないのか。それとも歩む自分の
ことがわからないのか、聞きたいのはどっちかな?

たずねた人も、聞き返されると混乱したふうな様子で
考え考えするけれども、結局同じことを言うばかり。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ、風ニモマケズ…略、
そういう人にワタシハナリタイ」にあるように、
ほめられもせず、でくのぼうと呼ばれ、他人の苦しみを
我がことのように嘆き、他人の喜びをともに祝い、
でもって、こころのうちはいつもほっかりと温かくなり

欲張って飯を食らったり、アレコレとグルメなんてせず、
着たきりすずめは周囲に迷惑なので気をつけるとしても
洒落た服に執着したりなどはせず、20年前の服をいまも
着れるよう体重に変化もなく、顔や手の皺に一喜一憂して
ヒアルロン酸の効果を思案することなど無縁であるし。

ただし急ぎの用事に走れるよう、人に肩を貸せるよう、
筋肉の必要性は否めないでいるのが、いかんともしがたく、
あきらめつつふがいなさにひそかに涙したりする。
けれども命あるだけで、恵まれていることをふと思い出し、
そうだ、できることの限りを尽くそうと思い直す。
そういう人はきっと神仏両方の光のわっかのなかに
いるのではないだろうか。

そういうことを言ってみたくもあったが、期待はずれの
返答であることちがいなく、言わずにしまいました。
そこで、思い出して、新藤兼人脚本の「宮沢賢治その愛」
映画を見直し、ああ、これだ、やっぱりコレコレと安心
しましたね。
信仰の姿(日蓮宗ですが)、神道であれ仏教であれクリスチャン
であれ、帰依する気持ちは同じですから。

ただ犬神さまがついているうさこより。

PS:今朝からシマコ姫が帰ってきたよ、なんだかしらないが
すごく馴れ馴れしくて、ゴシゴシすりよってきたりして、
えー、野良やめんの?っていうくらいに甘えてくるので
びっくりしてます。うれしいんだけど。
腹減ってるだけかしらん、と思ったり、ぶちゃと張り合って
いるのかしらんと思ったり、わかんないけどずーっと縁側で
猫の鳴き声してる珍しい日です。
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クリスマスの日は

2010-12-12 16:46:34 | Weblog
(冬だな、こりゃ冬だわな…、すっかり冬だ。アッカンベーダ。
コドモハカゼノコ、オイラモカゼノコ)
いいや、あんたは風の谷の子でしょ。おまけに子でもないしさ。

毎年のこと、ここ風の谷はクリスマスには雪が積もります。
今年はたいしたことないかなあ、と思っていても必ず降るね、
だいたいね、でもわかんないけどね。
真っ白に化粧した森は昨年の日記でご覧いただいていると
思いますが、降りかたも量も風景もその年々で違うように
思えて、(忘れっぽいからじゃないよ、たぶん)自然の
作り出す妙味にいつも心打たれます。


(まじめぶりっこ)

神社参拝しても仏教でお葬式やっても、12月25日はケーキ、
いやケーキ食べなくても、いくつになってもクリスマス!と
なんだかはしゃぐんですね。
イブはデートとかありえなーい年齢になってるのに、晩御飯を
奮発したりするんですねー。
いったいどうしてなんでしょうか?

思うに、信仰とは関係なく、祭りだワッショイ化(イベント化とも
いいますね)してるからってことじゃないかしら。
ワッショイ!アーメン!ワッショイ!アーメン!
これを交互に掛け声出して…なぜかキンキラキンの山車も
担いで、これまたなぜかフンドシ姿で走り回る、周囲は雪。
という画を思い浮かべ、一人で笑っちゃいます、妄想癖。

今日、知人は職場のクリスマス会だったと電話で言ってたし、
世間はジュンジュンとイベントにいそしんでるんでAすねー。
うさこはここでのクリスマスはまだ雪が珍しくて、橇を作って
みんなで遊んだ事を思い出します。
あの頃だって平均年齢はすでに30代後半じゃなかったっけ。
アホまるだしで子どもに返ってましたね。
雪の魔法にかかって。

でも今年のクリスマスはフルゴトのお勉強でござる。
それはとても楽しみであります。

旧事本紀の話が聞ける森の学校、12月25日に開講
ケータイでご覧の方は表示されないかもしれません、
すみませんがお問合せは(support@kuzihonki.com)へお願いします。

それから長らくお待たせしました、カメ先生こと源宗(げんしゅう)先生の
ウエブサイトAwanomiya.com更新。


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やさしい手

2010-12-09 10:47:30 | Weblog
ロックンロールが一晩中流れていた昨夜。
ジョン・レノンの命日、30年という歳月に色褪せない。

どうしてなんだろう、若い頃よりも、いまのほうが胸に
沁みてくる歌声。歌詞の意味の前に、声が響いてくる。



わかっている人のこころは、泣いている。
わかっているから、悲しいわけじゃないのに、泣いている。
求めて群れた人は欲しがり、わかりたがる
けれども、彼らのこころが泣いていることを知らない。
彼らの幸福の分け前にあずかろうと群れているだけで。

わかりすぎると、泣けてくる。
こころが疲れ、からだが疲れ、泣けてくる。
そんなとき、彼らは日向のほうへそっと身を寄せる。
彼らの身体のぶんだけ、そこだけ、ほっかりとあたたかい。
泣いていたこころをゆるめてくれる。
他の誰も割り込めやしない、わかっている人の避難所。

泣いている人の手はやさしい。
そして、熱い‥‥カメの手も。



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