想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

光をとらえる

2013-05-23 01:14:17 | Weblog

な~んか身軽と想ったら1眼レフを仕事場に置き忘れた。
で、ipodで撮った。撮らなくもいいなあと思いながら庭を散策
ついでに、やっぱり撮った。
レンズ越しにフレームで視るのと、そうでないのと違うんだなあ。
一点集中してる感覚が好きなのかもしれんなあ。
なあ、なあ、と言ってる今夜であるが、なんだかなあ…。
溜まっていた仕事をようやく片付けたので、ほんとはすっきり
のはずだが、なあ…って感じが抜けない。



この方がいないせいではない…といいたいが、たぶんそうだろう。
円墳の芝生計画、予想通りの虎刈りっぽい生え方ですな。
小鳥ちゃんにタネをゴチしたのと、雨が多かったので斜面から流れ
やすかったのと、だから予想通り。
カメはすぐ脇の平なところに小さな真四角の緑絨毯を作っており
用意周到です。それを切り取って貼付けるからいいんだそうで。

テレビの音はノイズにしか聞こえないから、それがない分、
森の時間は疲れがとれます。視なきゃいいじゃんっていうけど
トウキョーって街全体がCMやってるみたいで、テレビつけようが
つけまいがあまり変わらないもの、疲れる場所です。
若い、好奇心旺盛な年頃にはおもしろいかもしれないけれど。
でも、昔ほどドキドキする風景はないなあ。
前衛って打ち出しても、どこがじゃ~と思うんだ、歳取って
たくさん視てたくさん聴いていると、新しいものはあまりない。
新しいものよりも、古くて知らないものの方へ行くほうが新しい。

仕事以外でほとんど無口。
それでちょうどいいよと陰口が聴こえますが、その黒ブチ眼鏡が
もの言いたげでウザイからなんだと。
去年の昨日、手術からちょうど一年って書いてたな、ということは
2年は生きなかったわけだけど、だからって手術してもしなくても
ってことにはならないから、老人も老犬も年だからもういいでしょ
的な扱いはしてはなりませぬ、はい、おしまい。



コメント (2)
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自然に還りたし

2013-05-13 15:51:40 | Weblog
この三ヶ月、旧事本紀の講義は地津神(くにつかみ)の章である。
カメの講義で十数年前に一度聴いた時はわかっていなかった。
膨大な量のクジキのなかにちりばめられている地津神を纏めた章を
改めておさらいしている。
それが今回はほんとによくわかる。
それがなぜなのか、もわかる。
ポンコツ頭にもよくわかる。
ポンコツが治ったからではないのである。

その頃はまだぷ~ちゃんと暮らしていなかった。
文鳥のチッチやうさぎのぐみちゃんはいたけれど。
犬と暮らして、次にバラの魅力に気づいたのがこの十数年の
変化だ。
この二つはわたしの知らない世界を気づかせてくれた。
世界はまだまだ広いのでほんの入口だけど、そこまで連れて
いってくれた犬は残念なことに寿命がきてしまった。
しかし、犬が神さまの元へかえっていったことのショックがさらに
私に新しい扉を開いてくれたのである。
なんどもお世話になることよ、生きてても死んでも犬に教わる。
で、残ったのはバラである。

    

命あるものは大事、という。その言い方はちょっと舌足らずで
あるものすべて命があるから大事、ということではないかと思う。
命が溢れている世界。



バラのやわらかな、ひらひらの先に停まっている虫めが~と
思うけれど、虫もいのちの世界の一員である。
いのちがせめぎあったり、しらないうちに助けあったりしている。
ここに繰り広げられていることに善悪はない。
それぞれの命の定めに乗っている。

バラの新芽の穂先にアブラムシがたかる。
にくたらしいことこのうえなく、ニームオイルの希釈液の入った
スプレーを片手に虫との攻防に余念がない。
穂先についた小さな緑の塊(幼虫)を取ろうと手を伸ばした。
ようやく手が届く高いところだ。
そっと触れたつもりが、ツモリであった。あっけなく細い茎が
折れてしまった。まだ小さな生まれたばかりの蕾が二つついていた。
虫よりも、不器用な自分、そそっかしい自分にがーん。
がっかりした。

捨てるにはあまりにもしのびないので、ティッシュに包み
水を入れたガラス瓶に挿してある。
水を吸って、幼くて赤い葉が緑に変わってくれればいいのだが。

風が吹いても、雨が降っても、光に水がきらめくのを見ても、
あ、あ、と新しいものを見ている気がする。
自分という殻と外の境界がその瞬間、溶け出していく。
再び殻に戻ると、とても寂しい。
わたしはわたしの命をしばって生きてきたということが
よくわかった。

犬がいない生活は、とてもムズカシイ。
東京にいるとそう感じる。
ぷ~ちゃんのいる山の風にあたっていると、それを忘れるけれど。

人間の感情はいうなれば直線で、自然界は曲線で成り立っている。
尖っていないものを尖らせて使うのが人である。
元へもどるのがきまりごとなのが自然、ゆっくり過ぎると
何かと急がせたがるのが人である。効率とかいう率にこだわる。

慌てないこと、ゆっくりなのがけっこうゆっくりでもなく
かえって大丈夫なことは犬と暮らして身につけた。
スローなのは確かなことであった。失敗の数が減り物事がよく
見えるようになるから。

広かった森庭ももとは雑木林であった。すこしずつ木を植えかえ、
花の株を増やして、庭に見えるようになった。
効率を考えてやるのがカシコイ方法と思っていたが人は自然の中で
効率を思えるほど自然に勝ってはいないし予知できない。
だから溶け込むこともできない。
その結果、ゆっくりとやるのが一番早いのだった。
ゆっくりとは、さまざまな楽しみをもたらしてくれるオマケ付きだ。

犬は神さまだが、けっこうアホである。
人はアホになれずに利口ぶる悪い癖があるので、アホな犬になついて
いるとアホが沁みてきて、潜在的なアホが滲み出してくる。
アホっぷりがまだ足りないわたしを残して逝ってしまった犬を、
思い出してはクスッと笑う。
笑って元気を取り戻し、アホな自分に急いで戻っていく。















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花待ち、思わず

2013-05-05 08:56:38 | Weblog

一週間前の山桜、きりりとしてます。



ぷ~ちゃんの円墳に芝の芽がほら、かわいいです。
朝夕のとても冷え込んで日照時間が少ないけれど、顔を
出してくれました。

小鳥たちは梢のうえからカメが芝タネを撒くのを見張っています。
カメはタネが露出して目立たないように手作業で砂、土をかけ
保護していました。食べられずに芽が出てきてよかった。



五月終わりころから一斉にみどりの景色に変わります。
春と初夏の境目は、森の木々、草花と小鳥たちに教わります。
どんなときもみんな変わらない、変えるのはヒトのしわざですから。
自然の中でヒトは変革者ではなく、巻き込まれ恵まれて生きる、
それがしあわせです。
思わず、聴くこと、観ることかな。


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春まだき…

2013-05-04 08:52:53 | Weblog

江戸ちゃんがお腹を大きくして帰ってきたのは一週間前。

こんな顔してました(笑)

雪が融け、風が止み、ようやく陽が射してきたので、縁がわで
極楽極楽、芝タネを撒くカメを横目に寝ています。
時々、チラ見して体位を変えて、また寝ます。
身重なんだもんという特権、そうでなくても甘えてくれハル、
食いしん坊ですわ。
まだ食うか、とツッコまれてもニャニャ(yes)と答えて甘える。


   遁世中の女王さま(芍薬シャクヤク)

     いまはまだかわいいがすぐに増殖するギャル族(西洋タンポポ)

  放任主義で大きく育った(ギボウシ、本名はあるけどギボウシ)

書きかけのまますぐに日が経って、いまはもう少し背が伸び
森庭ぜんたいの土の色もみどりがかってきている。
桜のつぼみがいよいよ大きいけれど、まだ咲かない。
GW中に咲いてくれるなと念じているのである。
こちらの勝手な都合なので桜の精が知らんふりして咲いても
それはそれ、ああ、咲いた、よかったと思うんだが。

山桜満開の庭で、眼を瞑って想い旅をしてみたや。
少しはいい人間になれるかもしらん。
そのような願望がまだ咲くな、まだま…もうちょっと先まで待ってと
忙しいGW中は座って眺められないものだから、そう思う。

そして、毎年、あ、咲いたんだね…あ、あそこ残ってる…と
おこぼれのような余韻にしがみついて桜桜と喜ぶのである。
まあ、あれだけの災難があったあと、桜が咲いたと思えるのは
じゅうぶんにしあわせ、ということではある。
猫とほぼ変わらない。





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