想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

野望と純潔のあわいで

2014-01-30 11:08:42 | Weblog
2009年の、今おもえばほんとうにしあわせだった頃の
風景です。
川辺で影絵のふたりを撮りました。




雪の日、よく遊びました。
外で遊びまわることがあたりまえの暮らし、走りだすのを
ダメよ、ホーム、と制止せずに済んだ頃、楽しいのが普通。

家庭菜園ができないくらいなんてことはないと思うけど
子犬をここで走らせるのはもう心配のほうが大きくて
楽しくはないだろうから、あきらめています。
除染のために土を入れ替え、芝生を植え替え、できるかぎり
伐枝した森庭の範囲内に活発な犬を留めおくくらいなら
山の中で暮らしている意味はないと思います。

わたしは動けない樹のように、ここに留まり、終の住処に
しようと思っています。
風が運んでくるのが植物のタネだけでなく、毒物も混じって
しまって、ほんとうに残念です。

どうか、すぐそばに不幸のタネが見えないからといって
自分には関係ないのだと安心しないでください。
日本列島をぐるりと一周縁取るように、海辺の町や村の
人気のないところには原発があります。
原発誘致で道路を作ってもらい、助成金で施設を作りました。
でも、若い人は土地に残らずに出て行くので、せっかくの
道路も原発関係者のためにあるようなものです。
期待した未来はありませんでした。

止まったままの原発があちこちにあるこの国で、日々電気を
使って暮らしているわたしたちです。
小川の水を手に掬い顔を洗ったり、足を濯いだりできるのは
ささいな幸せかもしれません。
水がきれいだということ、土が汚れていないこと、その大切さ
に失ってから気づいても、もう取り返しがつかないのです。

ホウシャノウは生きている間、ずっとそこらへんに居座って
います。ホウシャノウに罪はなく、人が犯した罪です。

原発ゼロ政策へ舵を切る、そう訴える細川さんを支持することは、
野望と純粋さの入り交じった重い選択です。
けれど今なによりも前へ進むには、姿の見えない野望をも
踏み台にしていくしかないのだと、そう思っています。







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ひこうき雲

2014-01-24 10:59:07 | Weblog

街宣も信号機の音もない、車が走ってないから騒音もない。
ゴーッと遥か遠くに聞こえると、これです。
飛行機が真上を通過して北へ、南へ。
空路の下にあたり、遮蔽するものもなく空が澄んでいる。
よく見える。
ひこうき雲がくっきりときれいに見える季節。



そらを見ていると、トウキョウの選挙のことを忘れて
ホウシャノウのこと…も
ちょっと…忘れる…と…はいかないのであった。

脱原発が争点、ではないと言い張っているオッサンたちは
見苦しい。こどもにもわかるようなウソを公共の電波で言う。
もう倫理以前、ひとでなしが堂々としている姿はおぞましさを
通り越した。何に操られているのか、バケモノの手下である。

原発、要するに電力会社、東電をどう扱うかが争点でなくて
なんだ? 原発がなくても今現在トウキョウも工場も動いて
いる。嫌がらせのように燃料値上げして脅されても、そんな
ことはとっくにバレている。

貧困問題を加速させた小泉には目をつぶり、
肥後の殿さま、まだ人であることをお忘れでない細川さんを
応援しようという人が増えている。
宇都宮さんには今回は申し訳ないけれど、と。
それほどに、勝ちたい選挙である。
それほどに、原発と手を切って、再生する社会のしくみへと
チェンジしてほしいんである。

投票権はないけど、応援はできますけんね。
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こねこは三匹

2014-01-23 09:35:13 | Weblog
物置から江戸がこちらへ向かってくる、その後ろにチビが
見える。望遠レンズに換え、できるだけそーっと窓を開け
覗くと、チビは三匹!
揃ってのおでましは初めてなので、ちょっと興奮した。

江戸はまず先に縁側へきてごはん頂戴を連呼する。
かなり大声である。そしてお皿の中身が十分であると確かめる。
不満であるとみゃあみゃあと大声。
さっきは納得したらしく、すぐに降りて行った。
そしてチビ三匹を連れて戻ってきたのであった。
いらっしゃ~い、待ってましたこの時を。



こねこを育てなくてはならんのよ、と江戸はいろいろとねだる。
そして自分でまず食べてしまうので、また別にこねこ分をあげる。
そうとわかっていても甘い甘い、どうしても甘くなってしまう。
猫用ミルクをいつもよりたくさん用意しておいた。
一匹だけまだママのミルクをもらっているようだったが二匹はもう
離乳時期らしい。これからちょくちょく遊びにくるといいなあ。

この日はぷ~ちゃんの一周忌、空が晴れていい気持ちだった。
円墳でいつものベイビーソングをハミングし、そのへんをぶらぶらと歩く。
小鳥がどこかでさえずっているので、ひやかしに口笛で応じる。
口笛が珍しくうまくいくので調子に乗って続けていたら、鳥も負けじと
さえずりが多くなる。
どこにいるのかと見上げて探すと、赤松のてっぺんあたりにいた。
三本、てんてんと離れてある松の、梢から梢へ飛び交いながら歌っている。

首をずっと上向きにして疲れたので口笛をやめて、またぶらぶら。
ひさしぶりに歩く。
ひさしぶりに楽しい。
ひさしぶりに、空が青かった。





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死を弄ぶなかれ

2014-01-14 04:12:46 | Weblog

古伝(古事記、旧事紀)のなかに青人草という表現があり
人を指す意味であることが知られている。
しかしながら草、植物の草に人をなぞらえ、人も植物という
学者の解釈には幼稚すぎて辟易する。
植物のように人も土に還るというのは夢があっていい、
自分は好きだと学者センセイが講義し活字になっている。
還るというのだから人が生え芽吹いてくるというわけで、
ちゃんちゃらおかしいぜと学生は言わないのであろうか。
古伝はもっと奥行きが深く、古代国語音韻の研究などを
もってしても、たやすくこじつけたりできるものではない
ことがよくわかる。
まるでテレビ並みに軽くわかりやすく大衆迎合の姿勢で
語られる言葉は胸くそが悪い。忍耐して読んだ。

好きずきは勝手だが学問の域で語るには幼稚すぎて古伝が
もったいないではないか。
生命の起源を求めて天体望遠鏡を駆使する科学者のほうに
軍配があがってもいたしかたない気になる。

我が師、カメ先生の講義は最新の物理学をコネタのように
挟みながら話は行きつ戻りつしながらイメージを喚起させ、
文語体の古伝の難解さを克服させてくれる。
字のままに勝手に想像していく気ままさはなく、厳密に考察を
重ね、そのことでよりリアルに近づこうとする。
専門外の知識を新たに知ることも要求されるけれども、そこを
追求するわけではないので情報としての知識レベルでいい。
古伝の記述が昔にはわからなかったが今だから何を指して
いるのか理解することができるわけだ。
それとイメージの展開とひらめき。こじつけではなく。

古伝だからリアルでなくていいというのは間違っている。
現代人が今の感覚で知るかぎりの常識をあてはめて解釈
したあげく結局、荒唐無稽な物語と結論づけるのは傲慢な
ことである。荒唐無稽なとは意味のないことと言うのと
同じで、そんなにバカにした話もないだろう。
おのれの無能と想像力の欠如を棚に上げてはいけない。

古伝とは死者の言葉である。
死をもてあそぶなかれ、という叫びが聞こえる。
もう数百年以上、いや千年と数百年かな、死が死から遠のき
軽んじられてきている。
死は象形である。



死をおろそかにしない。
死をもてあそばない。死は言葉ではなく一生のカタチである。
人も動物も草も木も皆、生まれて死を経る。
死という勲章。

生きている者から勲章を奪われては死を全うできない。
死を死として認め、地に刻まれ、生きている者の胸に刻み
つけなければ全うしない。
死は奪われない。生きたものの一つの到達。
その勲章に位階はない。
なにびともそれに位をつけることはできない。
死は死者のものであるから。

死をもてあそんではならない。
生きたことの、そのままの象なのだから。
そうあるべくしてすべて生まれてきた。
死は、いかなる死も、その時を迎えて尊い。

死がもたらすのは平等である。
abcの呼称に、死者は貶められない。

ある死は、死を想う人によって全うされる。
神社ではなく、神のもとへ還る道すじがあるのだから
生きる者は障壁になってはならない。
死を悼むとは、道を開けること。

************

靖国神社という装置は、人の死を、人の御霊を軽んじる
ために作られたと、時の総理及び閣僚の参拝問題が明らかに
してしまった。
宮司預かりならよしとするというA級戦犯合祀の理屈も
戦犯と指されることも、御霊には迷惑な話。
敬っているのか軽んじられているのか…
生々しい欲によって汚しているだけではなかろうか。
遺されたその他大勢の人々の静謐で厳粛な祈りを
かえって奪い続けてはいないだろうか。
靖国神社は政治によって作られたのだから政教分離の建前が
適用できない。つまり現世の欲に翻弄される場所なのである。
鎮魂にふさわしい場所にはなりようがない。
これもまた戦争の傷跡である。

わたしは死を弔う日々に縁を得て、古伝に出会った。
古伝にというよりカメに救われ、そして学ぶようになった。
死の世界は、蘇りと、命の世界であった。
それまで死は恐れと悲しみの淵でしかなかったから、驚き、
知ることは喜びであった。
仏教の修行では辿りつけなかった世界だった。
いままたその原点を思い起こすことで、このところ続いた心身の
強ばりがようやくほぐれていきそうな気がしている。

夜更けに、たどりついた感覚。
死によって人は生きることを知る。
死を忘れれば、人は驕り堕落する。
生をおろそかにしてしまうともいえる。
五感を研ぎ済ませば、死も生も混沌として身の周りに、
隣に迫り、異界ではないことがよくわかるはずだ。
怖れず、尊ぶことである。












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青年、初詣へ。神頼みの秘訣を伝授の巻

2014-01-02 20:28:08 | Weblog

まずはこちらから~



お肩もみもみで~ごまをする。
神じゃなくてジョリちゃんに甘える江戸ヒメ。



赤ちゃんがおっぱいを吸う時に小さな手でママ猫のおなかを
右左右左と押すのである。あの癖がいまも抜けない江戸ヒメは
ジョリちゃんの背中、ある時はおなかをモミモミして遊んで…



ジョリがしょうがないわね~と耐えているのをいいことに



いつもこういう体勢でひなたぼっこしている。
猫神さまに守られている。

タイトルに秘訣と書いたので、気をもまれている(笑)方が
おいでかもしれないので、さっさと本題に入ろう。

元日に初詣に行くという若もの君がいて、さてどこへ行くべきか
というのでささっと調べた。
基本、願掛けなら無理やよ、と言い放ったのだが、そこは正月、
若ものがせっかく張り切っているので知恵を貸すことにした。
見返りを求めない年長者らしいところを年始早々行動に移した、
ふふふふ。

探せばあるのものだ。
ネットでさっとピックアップした中に、「少彦名命」を祭神に
した古社があった。合祀されているのが菅原道真公というのも
理にそっていておかしな組み合わせでないのも合点がいく。
かたや人ではあるが、腕力とか栄達とかではなく「智慧」ある
ところが共通点だ。道真公は学問の神様、少彦名命は大貴己命
の智慧袋で國造りを輔けた天神の御子なんであるからして、
なかなかご利益がありそうなのだ。

「お願いごとしたいの」
「え、まあ、せっかくなので、そうです、したいです」
若ものは珍しく本音をハキハキと言うのであった。
正月は奇跡が起きないともかぎらない。
「じゃあね、そこの少彦名命さまに純粋な気持ちでお願いを
してみたらどう? お願いします、とちゃんと言ってね」
「はい、そうします」
なかなか素直である。普段とはやや違う。
すでに神がかったか?

「お詣りしました、帰りまーす」とメールまでよこした。
奇跡はすでに起きたかもしれん、と思ったのであったが、
化かされているのがあるいはこちらかもしれん…と用心は怠らない。
ふだん、まったく信仰心もない青年が神頼みする、解せないこと
だが、それが日本の正月と思うことにした。

神名には意味がある。
それぞれのハタラキを表し、役割がある。
有名どころに行き、(例えば天照皇大神)賽銭をちょっと奮発し
今年も良い年でありますように、しあわせになりますように、
こんなかんじのざっくりとした口上、あるいは胸中のつぶやきで
二礼二拍手一礼は一応キマリ通りにしたからヨシ、こんな感じ?
残念だが何かを期待しようにも、とうてい何も起きようもない。
けじめがついた感じで自己満足のいい気分だけは残るのだが。

自分の思いと行いを一致させるべく、ある意味宣言するような
ここちで、神の前で誓うのに、見当違いの神さまのところで
やってもしようがないのである。
神とはハタラキである。何かを期待する、起きて欲しい何か、
その何かをまず自分の中で明確にしているか、そこも大事で。

気はハタラキの乗り物であるからして、純粋にというのは
気を乱さず集中せよ、ということで重要なことだ。雑踏の中でも
集中する、それができるのが神前である。だれも笑わない。
そして、そして、目当ての神さまのところ(そこにおられるとは
限らないしほぼ不在だと思ったほうがいいが)詣でる。
そして、思いをまっすぐに申し上げる。
賽銭は多寡ではなく気持ちが籠められているかどうかだ。

これが気分よく清々しくやれたなら、三日くらいはしゃきっと
働けるのではないか、三日続けばあと三日も勢いでいけて
しまうかもしれないではないか。
そうやって一ヶ月くらい乗り切れば、あれれ、なんか違う風が
吹いてるような気がするぞ…気のせいか…いや違うぞ…ということも、
もしやあるかもしれんということなのです。
気持ちが晴れ晴れとしてきて、それが十日も続いたらたら、
しめたものです。
神さまにお礼を忘れずに。

神頼み、みなさまはどこかへ参られたでしょうか。

うさこはずっと雪見です。
そして書棚から貴重な文献を探しだし、ほくそえんで正月二日目を
過ごしました。
「日本書紀」の書紀なるものの謂い間違いについて折口信夫が
大正15年くらいに書いた小論ですが、帝紀についても触れた
箇所があり、それを探していたのでした。
記紀、旧事本紀、帝紀、帝紀本紀と諸々の呼称のそれぞれの
位置づけを再考し、明らかになった旧事本紀の意義をまとめる
作業をする中で、直感の人である折口信夫の言葉には多いに
勇気づけられます。
神事の真の意味を骨抜きにしその権威主義だけを残してしまった
学者の誤りは悪徳政治家に利用されてきました。
知るものの責任として伝えようと思っています。

混迷を極め続けるこの国の行方に憂える新年ではありますが、
いにしえの紀や教えを為政者の都合で改ざんされたままに
しておくまいてと、非力微力ながら頑張ろうと思います。
(頑張るなんて言ったことないので、ちょっと恥ずかしいです)
古伝の中には、人がいかに生きていくかという智慧が満載で
権威づけのために都合のいいところだけ抜いて使われるなんて
もったいなさすぎます。

エコもベジタリアンも、日本人の古代の教えから考えれば
ごく当たり前の事で、それは私が最も気にしている脱原発にも
まっすぐにつながっています。
拙いことだらけですが、今年もどうぞよろしくお願いします。




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