想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

とんびか鷹か

2009-04-29 08:53:08 | Weblog
青空。高みを旋回している鳥はカラスでないことは確かである。
羽ばたかずすーっと飛んでいるから。
それからカラスなら上空を飛んでもすぐに向こうへ逃げて行く。
この付近はうさこの縄張りなのでカーッという大声で威嚇されるからね。。
山のカラスはすれていないので、勝負しがいがあるのだ。
今のところここのカラスは策を弄したりしない。
真っ向勝負しかできないうさこにも相手になれるんである。

発声のコツは思いっきり頭のてっぺんから出すこと。でも元気な時しかできない。
いまいち弱気な日に、カラスのカーッという鳴声が聞こえても、ちらっと上空を見ても
聞かなかったこと、見なかったことにしてしまう。忘れよう忘れよう‥‥である。
カラスは勝負相手がいないとしつこく鳴かないし、飛び去っていく。
しかし、うさこが元気な時に現れたカラスは不運である。
ヘッという感じで逃げ去るので、笑いながらそれを見る。
つまり小さな小さな優越感である。カラスに勝つ、カラスにカーッツ(オヤジ化です)


やっぱ、とんび(鳶)でしょうね、タカ科だからかっこいい。
鷹はまだ近くで見ていないけど、夕暮れだとふくろうがたま~にバサっと木の枝に止まる。
その羽音があまりに大きいので振り返るとデカイ顔の方がちらっと見える。
裏山は鳥たちの基地のようである。
これから夏へかけて、庭(といっても山の続きだが)の木に巣箱をかけようと
カメが企んでいる。とりあえず巣箱作りが課題だなあ。誰が作るのか?
「なんでも作りますよう」なんて大口たたいてたU氏の言葉は真実か否か。
(ここで書いてプレッシャーを与える作戦である)



椿、たくさん花がついてきれいだった。
一号棟(最初に建てたからね)の台所脇の部屋の小窓からよく見える。
壁も床も窓枠もすべて木でできたその部屋は今の想風亭が建つ前の数年間、
作業の合間に昼寝したりしてた(夜もだけど)から愛着がある。
毎年椿の花の頃には遊びに行って、小窓から眺めるのを楽しみにするとしよう。
いや広々とした表に出て眺めてもいいんであるが、なんとなく‥‥その‥‥
小窓からというシュチュエーションが楽しいのである。
椿の咲く頃に遊びに来たらお試しあれ。
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つづき、山菜採り伝授

2009-04-28 00:40:28 | Weblog
    親分が念じているのは「ちょうだいちょうだいちょうだいちょうだい」
    お経のようなものでぐるぐる回っていると思いますが、残念ながらここでは
    効き目はありません。
    すでにコーヒータイムなので、ムナシイ努力です。
    おっかあは、雨だ雨だ、寒い寒いと引っ込んで出て来ないし。

    という退屈至極な日を耐えて迎えた翌日は晴れ! 行くゼー。
    と裏山を走ります。



    どうして君はそんなに元気なのでしょうか?
    いつもの脚イタイイタイはどこへ消えた?
    止めても聞かないでずんずん先へ行く親分ですが、目指すはもっと先。
    そうです、この道の先には「たらの芽」が群生しています。
    幅10メートルくらいのところにずらずらっと生えているのを発見し、
    先週も様子を見に行って、あと一週間くらいでちょうどいいなと目星を
    付けていたのです。


      (先端の芽が全部摘みとられている、残念なたらちゃん)

    金曜日の夕方近く、裏山から下ってきたあのオッサンが全部採って行ったのに
    違いない。うん、たぶんあのオッサンだなあ。
    親分を避けたし、あたいとすれ違うとき目が泳いでたもの。
    採られてしまったけれども、しかし! あまりがっかりしていないのは、
    昼過ぎには他所の山から、遠いところのあの方が採りすぎたたらの芽の分け前を
    あげようと電話をくれたから。それを待つ間、裏山を歩いたのであった。

    カウボーイハットのやまざるさんは、うさこにたらの芽の木を正しく伝授し、
    年季の入った可愛いウマ、じゃなくてサーフに乗って次の油売り先へと去った。
    紙袋いっぱいのたらの芽に喜びつつ、来年こそは自前で採ろうと決意をした。
    山の中で暮らしてるから、自然食やエコに熱心な人なんてとんでもなく遠い誤解を
    されているので、ちったー近づこうかと思うのである。
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テントの下で

2009-04-27 11:58:08 | Weblog

さてと、雨ん中をバーベキュー敢行じゃ!
     ということで土曜日は雨降りの中、風の谷に到着したN君の意志に変わりなし。
     ではでは、ブルーシートと脚立を物置から持ち出して、簡易テントを仕立てました。



     キャンプ用品など使いませんって(無いからなんだけど)、ここでは代替品と
     それに頭を使え(これは一応ついてはいるからね、一応だけど)というのがモットー。
     U字溝に石を置いて、炭を入れて網を置けばよし。



     みよ、この嬉しそうな顔。U君が屋内の調理場でしたくしている隙に先にベーコンの
     味見をしようとするN君。カットの仕方が厚すぎないか? と聞くと、
     「このぶ厚いの焼いて食べたいからやってんですよ! 薄かったらやる意味ない!」
     だそうです。これって、男性のDNA、狩人の本能でしょうかねえ、それとも単なる
     食い意地なのか。そこんとこは追求しません。うさこは菜食系なのでいずれにしても
     関係ないもんねーという顔してたら、まあまあとすすめられ一切れいただいた。
     食べたら、「ジューシー!」って料理番組のレポーターの猫もしゃくしも使う言葉が
     頭に浮かんで、ぐっと呑込みました。言いません、それだけは。
     美味しかったです。
     左手の隅、カメの脇にへばりついて煙にいぶされてる親分は「ほら、おいしいぞお」
     ともらっているのはハムでもベーコンでもなくて、焼きキャベツ。
     カメは親分用のキャベツを取り分けて火を通し、「ほら、おいしいぞー」と差し出し、
     親分はそのたびに、素直にありがたそうにしてました。ああ、けなげだねえ。
     肉の匂いをおかずにしてるんだわ。



     振り返るとすぐ後ろにシマコも来てました。
     「アンタら何やってのよ~、おバカだね、雨ん中‥」という冷ややか目線でしたが、
     彼女もそこを動かないのでした。



     翌日、早朝は土砂降り。でも風も強く、雨雲をどんどん吹きやって西の方から
     青空がのぞきはじめ、お昼前には天晴れ、すっかり晴れたんだけど、で、で、
     あなたたちはなにゆえに、晴れの日ではなく雨ん中でバーベキューだったわけ?
     なぜ待てなかったわけ? と皮肉る言葉にも、へらへらへらと明るいヤツらでした。
     雨の日は食った後はひたすら瞑想した二人、他の人が来なかったのをいいことに
     カメを質問攻めにして秘訣を教わったんだそうです。
     なにやら陽がさしたように、なにかを掴んだような明るい表情に変わっていて
     うさこはびっくりしましたよ。
     この午後にはもう一人、珍しいお客さんがやってきました。続きは明日。
     
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バーベキューとパン

2009-04-25 03:37:16 | Weblog
晴れて光りがまばゆかった日に、春だ、春だと浮かれる。
今年はもう雪はないな、と決めてかかっていると‥‥、やっぱり降ってくる。
毎年同じ浮かれたり沈んだりを繰り返して干支一巡りしたのだから
いいかげんに悟りそうなものだけど、今年も同じことを思ったアホなわたし。

週末の天気が期待はずれになりそうなことは天気予報でわかっていたけど
こんなに寒いとは思わなかった。油断はしてなかったけど、がっかりだ。
(芽を出してきたバラや花の木がかわいそうだしなあ)
夜が更けて、窓の外を見ると靄がかかっていて庭の灯りで幻想的だなあと
よく見ると小雪が舞っていた。
すぐに止んだり、また降り出したり、朝まで続くのだろう。



朝になったらN君たちがやってくる。
N君はまだ冬時分から外で「火を熾して肉を焼いて食おうぜ」という望みを
抱いていたが果たせていない。この天気はさぞかしがっかりしているだろうと
思っていた。
でも、晩飯どきの電話の声は違っていて
「網、用意してますから! あ、それから美味いパンをかみさんが用意してくれた
ので持ってきますよ。うさこさんの分もありますから~」と言った。
N君の奥さんは結婚してからは専業主婦であったけれど、つい最近働き始めた。
パン屋というよりブーランジェというフランス語のほうがぴったりくるような
店である。

N君はまだ奥さんが勤め出す前にその店の様子を見に行った。そして試しにと
パンを買って持ってきてくれたことがあった。味見である。
それはいいパンだった。よく発酵させしっかりとした生地で焼いてあった。
調理パンの具は味がよい。それでいてみかけのセンスも保っているので、
バランスが良い、あるようでなかなかないものであった。
「近くにあれば、買いに行くわねえ」と感想を言うと、
こういうのを焼く店なら勤め甲斐もあるかなと思うんですけどと、N君はとりあえず
不安の半分だけは解消したような話をしていたのだった。

それでも長くブランクがあって外へ出るというのは勇気がいる。
最初の一歩がなかなか出ない。一歩を出す努力は本人のものだ。
傍らで見ているしかないN君は心配だったのだろう。
昨夜の電話の声にはそれが杞憂にすぎなかったような「かみさんがね、」という声。
ちょっと浮かれていて、ただのパンじゃないんだぜい! ということである。
不安と心配の分だけ、いつも喜びは大きい。
そして、彼はだんだんやさしくなっていく。



春の雪は真冬より冷たい気にさせる。けれどやはり、春は嬉しい。
雨でもテント張って、外でバーベキューやると決めた。
あ、でも長靴とゴム手袋をはめ小川の川ざらいをしてからね。
(これが意外と大変なのだが、やらないと夏の大雨のときに溢れるから)
落ち葉がたくさん溜まっているので集めて囲いの中へ入れて腐葉土を作る。
囲いの木枠をカメが作ってくれるそうなので。
食ってばかりじゃ、ありませんよー。



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歳月…取り返しのつかないこと

2009-04-23 14:16:53 | Weblog

不始末があると「すみません」と言う、あるいは言われる。
いずれの立場も人は生きている間に何度となく数え切れない
くらい経験するもっとも使用頻度の高い言葉だ。
たとえば「ありがとう」と同じくらいに。



ある時は謝り、あるときは礼を言う歳月のなかで、
「すみません」は使われすぎてしまった。
本来の意味が磨り減り、もはや「おはよう」と同じくらい
何気ない言葉になって、すまないはずのことをどうにか
「取り返したい」という切実さは失せてしまった。

すみませんで済むなら警察いらんだろう、法律いらんだろう
なんて言い草も同時に思い起こすが。
警察や法律がかかわらないところに、本来の「すみません」
はあったはずだった。

「取り返せないことを取り返すために」という話を定義集
(大江健三郎:朝日新聞連載中)で読んだ。
晩年の大作家が懸命に言葉を尽くし、どうしても語って
おかなければならんのだという想いがこの度もじゅうぶんに
伝わってくる。
そして、この話は
「取り返せないことを」だから「取り返しのつかない」
ではないのだが。
取り返せないこと(不可能あるいは不条理と絶望)をも
取り返そうとする、それこそが取り返しのつかないことを
改めて生かす方法であるのだと、経験を積んだ年長者達は
教えてくれる。
簡単にやり過ごし、都合よく諦めたり忘れたりすることの
その罪深さを指摘してくれる。

思い出したのは「おろそかにせず」という言葉。
カメの教えの中で「私を滅す」と並んで重要なことだった。
人は何度でも、どんなに深くへも落ちていく存在。
自ら落ち、もぐり、這い上がってくるのだ。

すみません。
心を込めて言える人であろうと思う。
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ごんごんフレンズ

2009-04-23 08:50:15 | Weblog
   里山の春、ってタイトルでなくてスンマセン。

「タンスにゴン」のシーズンです。
う~さぎさん、くまさん、ねこさんが横一列に並んでゆったりと
腰くねくねダンスをするCMがこのごろ気に入ってます。
あのテーマが流れてくると立ち上がって、う~さぎさん、くまさん、と
歌いながら腰を回します。いい運動です。

タンスにゴンといえば、浮気にでかける主婦役のちあきなおみシリーズが
インパクト最強だったけど、このゆるいバージョンも地味だけどいいわあ。
防虫剤は「タンスにゴン」と「ニームの葉っぱ」が欠かせない。
今年は桜を何度も見れる春だなあ。
まだこれから咲く予定の山桜が残っているし、腰回しダンスみたいな
なんだかくね~、ゆる~っとした余裕である。



現実の仕事に余裕がない反動で、とかくゆるいものを好むという見方も
なきにしもあらずだが、それでもぬいぐるみを着て腰回しをしている人を
想像すると、なんだかおかしいんである。
わたしが腰を回して、くまさん~と歌っていると、親分がぬいぐるみを
くわえてきて、それに加わるのである。

鬼平犯科長の何話か忘れたが「おとうと」という章がある。
親分にも弟分がいるが、流し目の弟もだんだん愛嬌が
出てきて野山暮らしの記憶など遠くなっていくようで、ほっとしていつの日かまた
この山のなかをトラもウマも連れてこずに兄さんと走り回れる日がきたら嬉しいなあ。
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桜と競輪

2009-04-21 01:29:09 | Weblog
今年も桜が咲いた家路への並木道。
桜の木の下を、競輪選手が練習走行している。
真冬以外は一年中、彼らをみかけるけれど、花盛りのこんな日には
彼らもゆったりと走っていた。



後ろからゆっくりと車でつけながら、片手だけ窓から出して撮った。
さっさと追い抜けよ、と自転車もゆっくりだったが、カメラに気づくと
なーんだといわんばかりにスピードをあげて見えなくなった。
桜と競輪、意外な組合せだが一点通じるところがないわけでもない。



友川カズキ(最近はかずき→カズキらしい)は歌手以外に競輪評論家として
活躍しているらしいが、ライブの日も競輪帰りだった。
「今夜、コンサートがあることをすっかり忘れていて、慌てて渋谷まで
来ました。わたしはそれどころじゃないんですよ」なんて言って笑わせる。
でも本人は本気なのだから、客は笑うが。
「自分でも恥ずかしいくらい競輪を愛している」とか、
「両脇に警備員がついて、両手に紙袋をもってゆっくりと歩いてくる自分を
思い浮かべている」とか、
「ほんとは、おけら街道っていうんですけどね」とか
競輪を知らないと想像できない話を歌の合間にしまくる友川カズキは、片手に
酒のコップを持ちながら、酒が足りないと言い、酒がまわってくるや
「おお、チューニングがうまくいったよ。やっぱ酒が入ると違うねえ」と言ったり
して、何度もギターの弦をキィーンと鳴らし、なかなか歌わない。
‥‥地獄である。

地獄なのにすっくと立ち、汚れない。そんな人はめったにいないので
全身のエネルギーを使い果たすほど疲れきった。
妙な涙が出てくる。感動とか言ってしまうと、がっかりしそうで言いたくない。

カメはずいぶん前から友川かずきはいいよーと言って教えてくれていたが
わたしはライブを見る機会はなかなかなくて、やっとだった。
桜並木の下を走る競輪選手を見ながら、先日の東北なまりの怒った声を
思い出していた。
「失礼な、おかしいですよ、あの人たちは。失礼な!」
と何度も言っていた。礼を知っている歌手も珍しいではないか!
ほんとうのところ、怒りの理由が筋目を通さないという事にあるなんて
そういう人の無礼を見逃さないなんて、そうそうできるものではない。
たいていは流してしまうし、後のことを考えて黙ってしまう。

積もりつもって度を超えた悲しみは怒りとなり、
怒りもまた度を超えて、変人扱いされている友川かずき。
ライブ会場で休憩時間に
「月に一度の大事な会合なんですよ、ケータイの電源切ります」と
ケータイに向かって話していた背広姿の青年をじっと見ていたら、
目が合って、青年はニッと笑った。

ステージの上と客席の間の温度差は埋めようもないが、世間をうまく
渡ろうとしてる者もガツンと頭のてっぺんに石をぶつけられるので、
おもしろがってばかりいられない。
感動なんてなまやさしい。
客のほとんどが常連のように見受けたが、病みつきになるのだろうなあ。

「みなさん、えらくなろうとか思っちゃいけません。
どんどん、ダメになりましょうよ。人間もともとダメなんだから。
もっとダメになっていいんですよ」
シニカルな話があたたかく聴こえてしまう。
いうなれば鎌倉時代の修行僧みたいな、そんな壮絶な感じ。
比叡山から降りてきて山野を巡り、市中では乞食の虚無僧である。

おおかたが平凡に事無きをえて生きることを望んでいるけれども
そういう人にかぎって、非凡を愛する。
俗な自分の隠れ蓑になるからなんだろうなあ。
非凡を超えて狂気の領域に踏み込んで、そこを出たり入ったりして
いるのが普通になってしまうくらいでないと、何がほんとかなんて、
わかりゃしないんであると思うが、考えるのをやめる人がおおかたである。

桜もまた尋常を超えた情熱を誘う木だった。

友川かずきを知らない方は、三池崇史監督「IZO~以蔵」を観ましょう。
今月末に新しいCDも出るそうですよ。
「ここにいる人が一人5枚ずつ買うだろうからだいたい売れてしまう、
買わないと死にますよ」なんてライブで言ってました。
みんな死にたくないので買うんでしょうねえ。


拙文長文読んでいただいてありがとうございます。
      コメント欄を開きました(返事はいつものように遅くなりますがお許しを)







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格闘技じゃなくてプロレス派

2009-04-19 09:21:26 | Weblog
あご乗せしてリラ~ックスしていなさるなあ、親分さん。いい天気だものね。
毛玉のついた靴下が、ゆる~いムードをさらにゆるくしてますなあ。

と、油断しているところへ、ヘッドロックをかけるのである!



まだ父が生きていた頃のことだが、その父の影響でプロレスファンになった。
テレビで全日本プロレス中継全盛の時代、わたしたち三姉妹は父と一緒にプロレス
を観た。拳を握りしめて。
特にすぐ上の姉貴はアントニオ猪木に熱をあげていた。

ジャイアント馬場はブッチャーの反則にあって、始まる前からいつも額が割れていた。
凶器を使いまくるブッチャーはやがて馬場の空手チョップと十六モンキックの反撃を
受け、自らも血だらけになるのだった。
アントニオ猪木など、アントキノ猪木そのまんまである。なぜか腰を低くして
構えるあの姿が目にやきついて離れない。猪木というと、あの姿である。

成長して独りで東京で暮らしていて、ある夜テレビのチャンネルをザッピングして
いたらプロレスをやっていた。興味は失せていたが、なんとなくそのままにして
いると、なんだかドラマチックな試合なのである。
三沢光晴の若い頃、まだシャチョーになる前のうんと前の緑のパンツがまぶしい頃
である。この人はエルボーが得意技で、よく飛ぶ人なのである。
それもそのはず、二台目のタイガーマスクなのであった。
そういうことは、その夜から三沢ファンになったわたしが週刊プロレスを愛読する
ようになって仕入れたささやかな知識であって、すでに彼はスターなのであった。

ときどき親分にヘッドロックをかけたり、伏せているときに押さえ込んだりして
1、2、3 とカウントをとる。
親分は、いい具合に3のちょい手前で首をあげるので、それで試合は続行される
のである。いい感じである。

世の中はいまや格闘技ブーム、K1の時代なのでプロレスは冬の時代だろう。
K1の決勝は録画して観たりするのであるが、おまけに魔裟斗が勝てばブログに
歓びを書いたりはするがそれは単にわたしがミーハーなせいで、今もプロレス
ファンに変わりない。
そう思いたいのは、昔、うちの茶の間の珍しくおだやかな家族らしい風景が
プロレスの時間だったからなのかもしれないなあ。
父は猪木を好きではなかったことなど、今はその気持ちよくわかる。

おまけ:桜情報。


親分とふたりで座っているところの真上に枝を伸ばしている桜の木、
蕾はふくらんでいるけれども、まだ開花は先のようで例年どおりGWだろう。
家への道すじに見事な桜並木があるが、そこは満開だった。
見に来る人のほとんどない、貸し切り状態で桜見物できる場所である。
さて撮れるかなあ、撮れたら次は桜の予定なんだけど‥‥。
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拾い食い禁止

2009-04-18 13:27:49 | Weblog
拾い食いしたんじゃないかと、疑い深いうさこに詰問されて
とぼとぼと歩き、無罪を訴える親分である。
さっきまで庭先で、なにやら嬉しそうな顔をしているのでよく見ると
口をもぐもぐしていたのである。現行犯! ノー、シットステイと
叫び近づくとごくりと呑込んで逃げ去った。
何を食べたのか、心配なので押さえて口をあけさせてみるがもう無い。
食べものなど落ちていないはずなのだが‥、もしやシマコ姫の○んち?

お願いだー、それだけはやめてくれーーー!
 ベイビー、病気になっちゃうよ。

道路や公園内に置き去りにされた糞から病気感染する都会よりも山の中のほうが
ある意味安全である。
来週は例年のフィラリア検査や予防接種の予約をしているわけで、よって今は
ちょうど谷間なのだ。薬切れ状態なんじゃないかと思い、○んち?はビビった。

シマコちゃんは野育ちだから予防注射してないしね、シマコ運はもらわなくて
いいんだよ。気化したうさこ運からは逃げるくせして、どうして○んちが好きなのよ!
(犬など動物の習性とはわかってはいるがなあ、目が離せません)



これは膨らんですこやかに育っていますが、隣の大輪咲きの白い蕾は
なんと首からちぎれておちていました。犯人は誰だ?
うたがい深いうさこは前日の防犯ビデオをチェック、でも何も見当たらず。
留守の間に大風が吹いた形跡があるので、風で飛んだのかもしれないけど、
とてもがっかりしました。いただいたものだけに、二重に残念。
あと3本と、もっこうバラは無事でした。


たんぽぽは、まだ2、3本しか顔をださないけど、咲いているところに
虫が集合して合コン、あるいは異種交流会ですね。
「ここんとこ、みつ蜂君は見かけないけど、海外旅行でも行ったのかしら」
「いや、あの人たちはワーカホリック気味だもの、休みなんかないわよ」
「じゃ、病気した?」「そうかもなー、うちらも気をつけよう、食べるっきゃないわ」
「そうそう、早いもん勝ちよ、これ食べて次行くー?」
「行こう行こう、ニームかけられないうちに行くわよー」
「あ、それ私の分よ! ちょっとどきなさいよ」
とたぶん話しています。オバン虫です、たぶん。
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まくらが濡れた話

2009-04-17 17:00:41 | Weblog

ごうごうとオヤジのようないびきをかいて寝ているのである。
うさこの大事なカピバラコレクションを奪いとって枕にして
いやがるのである。
ごーせーなイビキで、知らない人が音だけ耳にしたらば、
あ~ら、うさこさんたらオヤジと一緒じゃないの? 独り身とか
いいながら、隅に置けないのねとか言われるかもしれないが
独り身と言ったおぼえはないよ、11歳のオヤジとふたりだ。

枕が変わると眠れない、と話には聞く。わたしはホテルなどに
泊まることも多々有るが、眠れないときがたまにある。
枕のせいではなく、気配のせいで。

気配というと、何か出る? とか言う人もいるが、そうではない。
出ればいいのである。部屋を変えてもらえる根拠になるから。
気配だけなので、他人にはわからない。
気配を共有できる人は稀なのである。

ある夜のこと、枕が濡れて寝れない、という夢を見た。
ホテルの大きな枕、あの白いカバーのついたふかふかのアレです。
だから濡れていない方へ、端へ端へと頭をずらしながら、なんとか
寝ようとしているのだが、こんどは首のあたりも濡れてきて
ついには足下まで水があがってくるのである。
溺れてしまうかもしれないと思い、とうとう起き上がった。

灯りをつけると、夢ではなく天井からぼたぼたぼたと水が降ってきている。
窓の外は大雨で、木製の雨戸が外れ窓も半開きであった。
雨漏りのホテルは、今、争乱中のタイ、バンコクから北へ北へと行った場所であった。

驚くのを通り越すとわたしは冷静になるクセがあり、フロントへ行くと、
なんとそこにいたのは黒い顔をしたひげ面の大男だった。
そのまま逃げ帰ろうかとためらったが、しょうがないので部屋へ来いというしかない。
ソーリー! と大仰な声をあげた男はバタバタを走り出て行き、
ホテルのオーナ―らしき人が現れたが、その人も大男ですっかり眠気は飛んでしまった。

うつらうつらとしていると、気配だけ濃厚に顕われる。
ぬぐいきれない気配もあって、それはどこまでもついてくるのである。
白昼もうろうとして、不覚にもバッタリと倒れてしまったこともある。

場数を踏んで用心深くなったので、今ではよく知らない場所で変な目にあったり
しないが、よく知っている場所で油断して先日などは不覚にも倒れてしまった。
相手もよく知っていたので。

わたしはそれを売りものにはしていないが、見えないものを観る。
聴こえないものを聴く。
方法を知りたがる下世話な人にはわからないことである。
しかし、文章を書くということも音楽を創り出すということも絵を描くと
いうこともみな同じで、そういうことに携わる人で見えないものが見えたり
聴こえたりしない人はいないのではなかろうか。
理性で否定し、単なる妄想、想像の産物と片付けようとするのは、そもそも
たいした事ではない。理性を保ったままにして、観るのであるから。
どだい肉眼で認識できることをすべてとする方がかたよりである。

わたしはカメの元で教えをこうて、元々のバッタリ倒れるだけの虚弱な体質から
観る、ということを修めてきた。受け身も鍛錬しだいで上達する。
中途半端に「私」がないと襲われるだけなのだが、「私を滅す」と魂が働いてくれる。

死んだように生きている人に比べれば、見えすぎた方がまだましである。
感じないということは、生きていることにはならないのである。
「生きているって言ってみろ」と友川かずきも歌っているではないか。



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親分さんの処世術

2009-04-16 09:32:10 | Weblog
        右を向いても、



        左を向いても、



     どちらを見ても世の中、楽しいじゃござんせんかー、おっかあ。
     親分は散歩中も、家の中にいても、ちらりちらりと流し目を送ってきます。
     目が笑っています。
     口を開けて笑わなくても、目が、生きてて楽しいことだらけと言っています。

     親分のお腹には二つもおできができていて良性だという希望的観測を
     医者ともどもして見守っている次第。
     毎晩、お腹をなでながら不安がよぎらないわけではない、ですが、
     親分はどう思っているのだろう。

     今を生きる。生きている今が大事。
     それを理屈抜きに教わる毎日です。
     もうおひとかた、わたしにそれを伝え続けてくださっているのは
     もちろん知る人は知っているカメ。
     和光同塵の人、だから誰もカメがリキんでいるのを見たことがない。
     まるでいつも遊んでいるみたい。
     その実は毎日、働かない日はないわけで。

     働いているぞー、忙しいぞー、大変だぞー、とちっとも誰にも感じさせない人が
     一番働いているのであると、しみじみ思います。
     明け方、目覚めてすぐ、ふいに
     「ああ、先生は誰のためにあれほどに働いているのか」といまさらに思い
     起き抜け、己に腹が立つ。それを超えてさらに腹を立てている場合ではないと
     ニコニコしてそばにいる親分に促されて一日を始動。
     己の働きの少なさに自己嫌悪はありますが、それまた言い訳をするより行えと
     即、行えという教えがありますけんね。

     さあ、今日も親分と一緒にがんばるべー。


     (収納棚を作っているカメを二階からパパラッチ、口笛を吹いたのできょろきょろ)

      ※ふるごと更新しました。
      
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腰湯じゃないです

2009-04-15 09:24:38 | Weblog
    親分は、ミネラルたっぷりの小川で腰湯。
    雪解け水でちょっと嵩が増えていてふだんは足湯なのだが、むりやり座ると
    腰高にあがってるなあ。でも冷えるだろうなあ、まだ早いのになあ。
    どうしても浸かりたいらしい。浸かったあとは、土の上でひなたぼっこ。
    親分もこのごろは湯が好きになってきたが、この日は暖かい陽射しで冷たい天然水でも
    浸かれば温泉気分なのである。

    


    足湯とか腰湯とか、いつから誰が言い出したんだろう。
    温泉好きは「癒し」流行の追い風で中高年だけでなくうら若き乙女ちゃん達も
    取りこんで勢いをますばかりである。
    なにせ日本列島、火山国であるからなあ。

    桜島の噴火で、鹿児島は大変なことだ。
    温泉→癒し→楽ちんではなくいきなり↓↓↓だものなあ。
    心配しています。友人の実家もあるしなあ。
    鹿児島は観光で行くにはとてもいいかもしれない、暮らしたことないのでそれしか
    わからないが、人当たりの良さが気に入った。 
    数年前、桜島を眺めながら大浴場で朝風呂って最高!というのを味わって
    やっぱ温泉いいわ~と遅ればせながらの温泉好きになったわたしである。
    仕事を終えて(城山観光ホテルという大ホテルに夜中チェックインし、
    翌朝にはアウトといういつもながらのハードスケジュール
    でも最高でした、夜中と早朝の温泉で気分一新)

    前にも書いたけど、このあたりには温泉パイプが引かれた分譲地があちこちに
    ある。よってうちにも引けるのである、パイプはね。
    パイプから流れ出て来るのが冷たい水なので、引かないんだが。
    温泉法が厳しくなる前のことだったので偽温泉なのだが、それでも温泉だと
    思い込んで引いて使っている人が約2名ほど。騙されたと気づいているけど
    お金だしちゃったもんね、しょうがないもんね、沸かせばいいもんね、ということ
    らしい。苦笑いしているが、腹の中はあったかい温泉どころではないだろうなあ。    
   

    



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君のうなじ

2009-04-14 07:51:55 | Weblog

    首周りのサイズ、特大です。
    うなじは一応あります、ツボです。
    指圧、よろしく。



    オットマンって、いらないようで必需品だと思います。
    庭石に腰掛けて、親分においでと声をかけると、
    親分はマッサージかと思い、わたしは足乗せで楽になると思い
    お互いに期待しています。



    が、そうはいかないので親分が、まだかよ! となります。
    気持ちいい背中です。
    首周りが太いところなんざ、だきつくのに最適です。
    決して大飯喰らいでもなく室内を汚したりせず、たまに洗濯籠をひっくり
    返して遊んでいるくらいなものです。
    君以下でも君以上でもなく、君がいいのです。
    君のうなじをみていると、時が止まったような
    おだやかな瞬間がふいに訪れます。

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花より団子‥でもなくてよ

2009-04-13 22:38:15 | Weblog
     (先月末にやまざるさんちからいただいてきた水仙、りっぱです)

    無類の饅頭好きのうさこである。
    しかし、花好きでもある。
    花を贈られるとたいそう喜んでいるこの頃、
    贈ってくださった親切な方は、
    「花より団子、いやたしか饅頭だったはず‥‥人並みに花も喜ぶのか、
    そうだったのか」と、うさこの意外な反応に胸騒ぎを覚えておられる
    かもしれない。

    Sさんにいたってははっきりと、とても明快に満面の笑みでもって
    「信じられません。こんなにバラを好きになられるなんて、まあほんと
    わからないものですわー」と言われた。たじたじである。
    
    そこで、花に親しんでいることに嘘偽りのないことを記してみたい。
    (ブログの写真で証明になるかというと、それまたあやしい限りであるが)
    疑えばきりがないよ。
   (ついこないだ「疑うなかれ、されど疑え」と言ったけどね‥)



    Sさんに今年用のバラ苗を5本、直立系なので我が家には少なく購入予定
    なのを千里眼で見通されたのか、いいタイミングである。
    ありがたく頂戴した。Sさんはわたしより腕の力が強いので苗鉢を丁寧に
    梱包してくださった。二重にありがたかった。



    しかしこの谷間を吹き抜ける大風と雨にすぐにやられてしまう恐れがある。
    しばらくはプランター暮らしで、この地の風に吹かれてもらおう。
    以前に挿し木のモッコウバラをいただいて植え付けたが、ダメだったので
    今回のモッコウバラもしばらく植木鉢暮らしで、過保護に育てることにした。
    (モッコウバラの画像はありません、花がついてから撮ります)


      (星咲きゼラニウム、可憐な花をつけてます)

    最後の鉢は、鉢だけ可愛いわーといただいた時に思ったゼラニウム。
    Hさんがこの鉢を紙袋に入れて電車に乗って持ってきたのである。
    紙袋を差し出されたときに、中身が植木鉢だと知ってぎょっとした。
    ア、ハハハハ、と笑うHさんにいつものように気圧されて受取ったが
    帰り道は腕がちぎれそうになった。
    鉢の土に思いやりの水が施してあって重いのである。
    しかし、ゼラニウムちゃんにしてみれば、貰われっ子になるのだから
    喉が渇いて気づいたりしないようにというHさんの配慮である。
    気がきくようで利かないHさん、いつもではないが、この日はまさに
    そういうことだった。
    うさこは腕に湿布薬を貼って寝たが、ゼラニウムちゃんに恨みはない。

    Hさんはベランダガーディニングをしている。ケータイであちこちの花
    を撮りまくって溜めている。それがとても美しいのであるが、
    本人は自覚していない。写真は溜まる一方らしい。
    いろいろ自覚していないHさんがくれたゼラニウムは約3週間くらいで
    花が増えてきた。白い小さな星形の花は地味である。
    あまり好きな花でもなかったのに、日々、目に入り水を遣ったりしていると、
    その地味さかげんも含めてなんとなく可愛くなってきた。
    なんだか、不思議な気持ちである。
    そこで本日は写メを撮った。遅ればせながらHさんに送り、お礼申し上げた。    
    Hさんはわたしがゼラニウム嫌いだったということをまだ知らないのである。

    この星咲きのゼラニウムはHさんによると珍しいらしい。
    だが名前がわからない。
    どなたか、ご存知ではありませんか?(Hさんもわからんらしい)
    ‥‥、ゼラニウムも色々あるようだ。
    アメリカ人も色々、フランス人も色々、中国人も色々なのと同じである。
    嫌いなどと一口に言うのは止そうと、水をやりながら思ったのであった。
    Hさんは写メを見て、葉が少ないけど大丈夫かしらん?と心配していた。
    そして枯れたらかえってごめんなさい、と返信にあった。
    枯らすんじゃないわよ! と聞こえてしかたがないので、栄養剤を一本
    鉢に射しておいた。

    カメの周囲に弱った花や木を置くとたいていは蘇えり、挿し木もどんどん
    根づくのであるが、わたしにはとんとそういう力はない。
    ないが花のない暮らしなど、もう考えられないのである。

    
コメント (2)
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孤立する魂のために

2009-04-13 01:26:12 | 
    わたしはこう思うと言うだけでは力不足だと知ってなのか「みんなが」
    という言葉に恃む人は、「みんな」を信じているのか?
    決してそうではなく、相手を屈服させ、同意を得らんがために「みんな」
    を応用し「みんな」に応援を求める。この場合言葉の上だけだが。

    「だって、みんながそう言ってます、みんなもそう思うと思います」
    という言い分を言ってはばからない者には、この言葉の意味など
    一生かかってもわかるまい。(と、棄てたものでもない。とも思うので)
    ここに一片の詩を掲げてみた。

     《真実は個人的なものだ。

      気をつけろ。誰もが信頼に値するわけではない。

      疲労と労苦から浮かび上がり、これから前へ進み、
       私に次のように言う者に抱擁を。
         「私はおまえを騙すために来た。」》
           (ルネ・シャール全詩集「早起きの人たちの赤さ」より)


    みんなが、という話し方をする相手に要注意と心得ている。
    わたしが、と言えば責任が生じる。
    それを引き受けている言葉だけ、耳を傾けるに値する。

    レジスタンスの闘士でもあった詩人ルネ・シャールは私の戯言などとは
    比べるべくもなく数段も数十段もいやもっともっと厳しく高く
    言葉を紡いだ。
    「真実」は個人的なものである、と。
    プロパガンダで一色に塗りつぶされる世情にあって、この言葉は
    重く、抵抗の核心である。

    半世紀以上を経て、なおデモクラシーなど見当たらず、
    これほど「みんな」が蔓延する社会を当時の誰が予想しえたか。
    民衆を信じると、騙される。
    民衆の総意が果たして真実に近づけるか、残念だが否である。
    真実を安売りする者が今日もマイクの前で自分の声に酔っている。

    ゆえに、この言葉は重く大切なのだ。
    「真実は個人的なものだ。」
    それはまた、真実は普遍的なものだ、ともいえるのではないか。

    だからこそ、真実であるのだ。
    だがそれは奇跡のように、一握りの人にしか見えまい。
    悟りが一瞬であるように、そして誰かの幸福を譲り受けたりできないように。

    

    
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