「共喰い」の味わい
新芥川賞作品「共喰い」は一言でいうと充実した読後感を与えてくれた小説で、ひさかたぶりにほっとする感じでもあった。小説の筋は血しぶきほとばしる凄まじいものであるのに、終始、人の...
物書きなので何があっても書くことは中断しない、といえば
聞こえはいいがプライベートなことは書けない日が続いた。
仕事用は頭のチャンネルをそちらに合わせて集中すれば
かえって自分の内面に触れず、そこから逃れるのに都合が
よいので停滞しなかったが、サンダーの死を悼んで下さる方へは
できるだけ簡略に、簡単に書いて済ませてきた。
どんなに悲しいか、辛いかなど触れたくないのであった。
お世話になった方々への連絡もしないまま、過ごしてきた。
このブログも2008年2月から始めて新年明けて丸5年だ。
それを機会に新装開店といくかと思いながら年始を迎えた。
だがそう簡単に事は運ばず、ドタバタと修羅のような日々で
幕開けして締めくくりそこねてきた。
年始早々に持ち込まれた相談事が修羅場の発端であった。
想風亭は修羅場ではなく聖地さながらな静謐で清浄な場で
あるけれど、時として私の元へ修羅の鬼が迷い込んでくる。
もちろん普通の顔をして、困った風情でやってくる。
他人事であるが、他人事とは何ぞや。
それは人の都合で使う言葉であって他人も何もない。
人の縁とは「袖擦り合う」が如く生じ、その縁にしたがって
素直に応じていくのが人生である。
そしてその行く方向は理に沿ってあるのみなので、都合を
差し挟むよりも、理つまり心をもって生じた縁に沿う。
その心を頼む側は都合よしとし、いわゆる善意を求めてくる。
しかし善意とは何ぞや。善は利害とは無縁である。
だから頼む側の心中に隠した欲得があれば、縁が極まっていく
時、善意は不都合でしかなくなる。
隠したはずのものはおのずと剥き出しになり、バカ正直な者の
前に秘密は晒されていく。
こちらは暴いたりはしないのだが、現れてしまうのだ。
またたくまにあらわになる下衆な魂胆にわたしは普通に反応し、
善にそって人らしくあるようにだけ勧めた。
「ごもっとも」と鬼は応じてくるが、口先だけで実行はしない。
そこから先が悲惨で、暴力的なまでに相手は口封じのための策を
講じ、奔走した。疑り深いので余計に悪が晒される。
利害関係のないわたしが何をどうするわけでもないのに怖れる。
嘘に嘘を重ね、どこまでも騙そうとするので頼み事だったはずが
相談した相手のわたしを憎むようになる。
簡単に善意を利用できると思うのが愚かである。善と利用とは
水と油であって、利という言葉の意味するところには「私」が
入っている。善は私があっては成り立たない。
昨今の政治家は舌の根も乾かぬうちに再三の嘘を塗り重ねるのを
処世術だと思って憚らないが、一般の市井に生きる人はそうは
いかない。それをやると暴力にしかならない。
偽善を装うための建前を持たないただの人が嘘をつくときには
相手を悪者にして被害者になるというのが常套手段である。
昨夜はそういう目にあった。
鬼の娘が電話をしてきて、母を脅すのかと言ってきたのであった。
笑止であるが、脅される理由が何かあるのか、脅すタネは何か
というようなことをわたしは言わなかった。
「関係ございません」と答えてもこれ以上関わるなと重ねて
念押しというか、それこそ脅しの口調で、テレビドラマの様な
ことを言うなあと思いながら聞いていた。
それを気に入らなかったのかまた電話があり、娘だと名乗った。
娘が何人いるのか知らないが、知らない名前の人が次々に名乗り、
邪魔たてをするな、手を引けと罵り、母が困っていると言う。
その母なる相談してきた当人は鬼と化していたが、その十分ほど
前の当人の電話では、実におだやかな声で話をしていたのだった。
手のひら返しというか、見事というか、あきれ果てる。
娘が言うにはあなたに無理なことを言われて母は断りきれず怯えて
いる、偶然実家にやってきたら母が困っているので電話したと
いうのだった。
邪魔をしないでくれ、関わらないでくれとドスの聞いた声で念押し
するので、煩わしさが募って電話を切った。
おおよその成り行きを想定していたので驚きはしなかったが
悲しいことであると思った。
娘もその母親の当人も、ただただ金が欲しいだけで興奮しているのだ。
金の持ち主は病床に臥せっているその人の姉である。
長く働いて積み立てた老後の生活資金で、ただ一人の身内である妹に
預け、自分の余生の世話を託した。
姉が死ねば相続する立場であっても生前にその財産に手をつけては
盗みであり、犯罪である。わたしに知られたと思い、口止めしたい
ばかりに焦っているのだった。
そうした親族の使い込みで満足な療養生活を送ることができないまま
体よく施設へ放り込まれて死ぬ人は多い。いっこうに改善されない
貧困な介護行政のしわ寄せはそういう形にも現れている。
つまりそこらじゅうにころがっている話の、その一つだ。
しかし公然と世間に通用する話であるわけがない。あくまでも隠し
通したい話なのだった。
電話を受けた場所は病室だった。
独り動けずに寝ている人の傍らで、がなりたてる声はスピーカー
ホンを通して聞こえていた。居合わせた看護士も聞いていた。
皆一様に眉をひそめ、うなづき神妙だった。
残される病人のことを頼んで退室する時、看護士が声をかけて
くれた。わかっていますからだいじょうぶですと。
娘はわたしが病院にいると知ると関係者でないのに面会を
させるなと病院に抗議したらしい。
あわてふためいてあちこちへ電話をかけ、かえって薮蛇という
始末だ。悪事は隠しようがない。
誰も何も言わない。
言わないのに騒ぎ立て、無惨な醜さを露呈していった。
病室で休んでいるその人は、やさしかった。
明るくやさしい人であった。まっすぐだった人生を想像することが
できる表情だった。
妹を信じているから全部を預けたと言った。
人生の残りわずかな時をどうか心静かに過ごせるようにと願う
ばかりであった。
人は生きている時がすべてではない。
人の霊魂は死を境にして、生きてきた道の続きを歩む。
もう小さな身体に縮んでしまったその人の、魂の行く先が明るい
ことをみてとれたことは、わたし自身の救いであった。
大騒動が明けて、わたしは久しぶりにすっきりとした朝を迎えた。
先月から続いていたやり場のない悲しみが去ったのだ。
サンダーは死ぬ前の数日を、この修羅の人のゴタゴタのせいで
おっかあに甘える時間を奪われながら、まん丸の眼をすこし曇らせ
じっと傍らでみつめていた。
その時の表情が目に焼き付いて離れず、済まないという気持ちと
その人に対する複雑な気持ちと、悔しさが入り交じり悲しみとなって
こみ上げてくるのだった。それが毎日毎日続いた。
サンダーちゃんも我慢していたのだから、せめてあなたがまっとうに
なってくれないか、悪いことはやめてくれないかと思い続けながら
つきあっていた。それが終わった。
サンダーがもう悲しまなくていいと言っている。
サンダーは、明るくおもいやりに満ちた美き世界にいる。
やっとその世界とつながることができた。
もう阻む者はいない。
恨み事は鬼が自分で持っていってくれたということだ。
結局、わたしはわかりきったことをやっていた。
数年前から金の相談しかしてこなかったその人に疑念を抱きつつ、
情というどうしようもない気持ちが底にあって避けなかった。
呆れるほどにわかりやすい堕ち方で、なるようになっただけの
ことである。
天物梁命(あめのこやねのみこと)という神名は
天(たかあまはら)と物(ばんぶつ)を梁(つなぐ)
命(みはたらき)を意味する。
貞善というハタラキである。
貞善は邪を受けつけず、理の前に絶対である。
この神を奉じているわたしのもう一つの顔をその人は忘れたか、
それとも神など信じぬ金の亡者と成り下がったかである。
いつからそうなったのか、戻らないのかと思い続けた気持ちは
人情というどうしようもないものであった。
鬼も泣かせる世界があることを、人は生きている間、わからない。
情は人のためならず、サンダーちゃんに最期に教えてもらったよ。