想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

東電からの定額賠償金

2013-02-25 15:51:29 | Weblog
セラフィーヌの庭
セラフィーヌという掃除婦が霊的に導かれ絵を描く、樹に抱かれ樹を抱く。木の実を砕いてラッカーに混ぜて絵の具を作る。床にモップをかけ、床に這ってワックスで磨きあげる。残り物の肉...


去年の今頃は除染技術の件であたふたと過ごしていた
ことが上の日記でわかる。けっきょくのところ、何も
できずに自前でできるかぎりのことをして現在に至る。
福島のおおかたの人々が何ひとつ解決できないまま、
(放射能汚染のまま)どうしたら明日を生きることが
できるか模索中であることに変わりはない。
避難して新しい土地で生活を立て直そうとしている人、
放射能の影響をできるだけ少なくするよう工夫を凝らし
今いる場所で暮らしを立てようとする人、どちらも
心が晴れてはいないだろう。

先日、ポストに分厚い封書が投げ込まれていた。
電力会社からだから東北電力が木の伐採の件で何か言って
きたのかくらいに思って置きっぱなしにしておいたのを
昨日手に取り直すと、東京電力からだった。
「自主避難等に係る賠償」の通知と請求書が返信封筒と
ともに入っていた。
前回は自治体経由の賠償金で、これは原発告訴人になる
ときに不都合かもしれないとの考えで権利を放棄した。
同意書なるものが微妙な文言で入っているからだ。
金額ももらってどうにかなるものでもない、スズメの
なんとやらであるし、使途のオススメまで書いてあった。
地域経済の活性化に寄与するような使い方を奨励する
というようなことは賠償金という名目と矛盾している。
誰にアタルでもなく、腹立たしくもあり、放っておいた
ら昨年末に期限切れになると払いませんよというハガキ
もきた。

そして今度は原発事故を起こした東電から直接の賠償金
の知らせである。
妊婦と18歳未満は精神的被害を含めるので80000円。
それ以外の居住者は追加的費用等に対する賠償という
名目で40000円であり、わたしは後者に該当する。
追加的費用とは例として屋内外清掃費用等、移動費用等
とある。



最初の話に戻るけれど、何千万もかけた除染技術でも
ゼロの除染は不可能であった。
年間2ミリシーベルト未満ならなんとかなるかというレベル
まで努力したものを横やりが入って実現しないまま利権
争いの道具にされてしまった。
そう、利権に群がるのが除染である、つまり除染とは
金を食う。だが、一般の住民に賠償するときはその費用
は低く低く水道代にもならないくらい低く見積もられる。

土を入れ替え、砂利を入れ替え、樹を伐採し、屋根や壁
を洗いまくり一回や二回ではなく何度も洗い、また春に
なれば注意し監視し、必要となれば同じように作業する。
40000円は現実からは遠い金額である。
「被害を受けられた方が極めて多数いらっしゃることから
定額の賠償にあたり」というのが東電の言い分だ。

合意書云々もまわりくどい言い方でしばるのかしばらない
のか結局わからないことが「言及」されている。
通知書と金額が予め記入された請求書(こちらが出す)を
見るでさらに精神的損害が増してくるんだが。

2年が過ぎた。
半減期30年から2引いて28年、それで半分。
小さな子が土にふれて遊べるまでにはまだまだ遠い…。

忘れないで行こう。
3月10日(日)原発ゼロ大行動 日比谷公園出発











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だいすきっていいたくて

2013-02-17 15:45:09 | Weblog
本棚の前で考えごとをしていた。
大判の本たちに挟まり奥まったところにあった
小さな本が目についた。
入れ直そうと思いひっぱり出した。絵本だった。

(ほるぷ出版刊 絵本「だいすきっていいたくて」)

ずいぶん前にくれよんはうすで立ち読みして買った
はずだ。そのとき何を思っていたか忘れたが、
たぶん手にとって少し読んだとたんにふわっと
別の世界へ連れてってくれたからだろう。
ひさかたぶりに手にとった今と同じように。

毎日サンダーのことを思わないときはないが、ただ
メソメソと思っているのではない。
思うことそのものについて考える。
そうすると己について気づくことばかりだ。
そういう「私」について考えていることもあって、
はたと気づいた。
絵本の題名と同じだということ。
わたしはサンダーが好きなのだ。
それも「だいすき」の好きなのだ。

好きだという単純明快な言葉をあまり使わなかった。
好きすぎると言わないというアレであろうか。
人間より君といたほうがいい、なんてことは言うが
そういう遠まわしな言葉と胸中にある「好き」は違う。
較べるものを置くことなく無条件に好きということ
があるのだ。

好きという感情を掘り下げ突き詰めていったとき、
好きではなくなる部分に気づいてしまって、それを
どう処理し飲み込んで好きをどうにか優先しようと
苦心するなんて事を人は時としてやっている。
自分の利害をカムフラージュしてしまう人工甘味料
みたいな「好き」もあるわけだ。
それは都合によっては剥がれてしまう。

その逆は何にどうつきあたろうと、何でもして
あげたいし、何でも受け入れる。
それに時の重みが加算され大きな好きになっていく。

死を境に言えずにいた。
相手がいなくなって「だいすき」が宙に浮いていた。
忘れたみたいに考えもせず、死に様や来し方にばかり
思いを寄せて整理しようとしてきた。

整理がつかないながら、少しづつ落着いてきたのだが、
ふとしたときに悲しい感情に襲われ、整理したはずが
崩れていく。
どうしてなのか、わからなかった。
体験した多くの人が書いたり語ったりしている中に
同じようなことはあったけれど、そんなものだからと
思っても片がつくわけではない。わかりたかった。
悲しみたくないのであった。

だいすきの中に込められた諸々、別な言いかたを
すると、諸々を含んだだいすきである。
「無垢の実在」などこの現世でありようもなく、
生きていけるわけもない。
だからサンダーを手中の玉のように慈しんで生かし、
代わりに穢れを祓うように無垢を分けてもらった。
たからものであった。
いごこちのいい住処はいつも一緒だったからで
どこにいるときも変わらなかった。
しばし離れていても、居るときと同じだった。



いくら悲しんでもしかたがないわけだ。
忘れられないはずだ。
忘れそうになるのは道から外れるときだろうから、
その時は太い大きなシッポの音がパシンと聞こえ
気づかせてくれるだろう。

森の風に乗り、やあやあと犬神の吐息が後へ先へ
とまとわりついて胸の中にだいすきが生き続ける。

白い雪で埋もれているあいだだけ、しばらくは
涙が乾かないかもしれない、あまり自信がない。
だけど、なーんだというくらいだいすきで決着
した気がした。

激しく降っていた雪が止んだので、外へ出た。
めぐりあえてほんとうによかったよって、円墳の
周囲をグルグルと歩き、長靴で足跡をつけながら
言った。
「ベビーベビーサンダー、ベビサンダー」と節を
つけて歌を歌った。
このハナウタを聴くと、うとうとすやすやと眠り
についた。
成長してからも、これを歌うと甘ったれた顔を
して可愛かった。










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温もりは消えない

2013-02-14 10:11:48 | Weblog
09.09のベイビー、まだマッチョだったなあ。

iphotoでベイビーの写真をゆっくり眺め、できるだけヤツが
笑っているのを選んでみた。
未使用のものがたくさんあるのでせっかくだからみんなに
君の笑顔を見ていただこうかな、と幾つかを書き出しした。

ベイビーが小さかった頃はデジカメよりビデオ撮影を主にして
いたので、幼い頃の写真は少なくて、ほぼ動画で残っている。
筆先が少し長くなったくらいの小さなシッポや短い足でよく
転ぶ、頭でっかちにまんまる鼻のチビがいたずらしたり、
みんなにイジラレてお腹を見せているのが映っている。

6月に生まれて8月には森の住人になっていた。
そして10月には開墾して間もない雑木林の一画でみんなと
サッカーをした。
岩ズリという石を入れ土を固め山土特有のブカブカとした
地面を頑丈にしていくのにサッカーはちょうどいいのだ。
遊びながらローラーで圧をかける手間を省くのである。
たった数ヶ月で柴犬より一回りくらいは大きくなったベイビー
はボールにじゃれて独り占めするので、ヒモでつながれて
しまって見物するようにと命じられ、不満で吠えている。
再生した動画からキャンキャンというその声が聞こえる。

サンダーは大人になるにつれ、ほとんど吠えなくなり、
時に彼が吠えるときは伝えるべきことが確実にある時だけで
危険や異変を教えてくれる時だけになっていた。
最期に車中で聞いた声はお別れだよ、もうすぐバイバイだと
わたしに知らせたのだった。
あまりに久しぶりの声は太く低かった。
わたしはバカなので別れなどないと思い込んでいるみたいに、
お家に帰るよ、もうじきだよと答え、必死で運転していた。

よく慣れた道なのにハンドルを握りしめていた。
心と脳みそはひどく乖離して、脳はむしろ現実を認めない。
たいていの場合、これであやまちが起きる。脳は予定調和で
執拗に進むようにプログラムされあきらめたりはしない。
意識しなかったが異変を察知して、わたしは動揺したのだろう。
いったん冷静に考えるということをしなかった。
現実を拒否し、プログラム通りに行こうとするスイッチの方が
先であった。
今、その時の自分がスローモーションのようによくわかる。


(伐採作業中にカメにじゃれて甘えるの図 '09秋)

ベイビーが亡くなったと直接伝えた知人は少ないが
その人たちが一様に、号泣してしまったのでこちらは
なんだか慰め役みたいになって泣きそびれた。
それぞれ理由があって思い出のように話しながら泣くのだった。
一様にサンダーちゃんに慰めてもらったと言った。
あんなにやさしくしてもらったのは家族にもないことなので‥
と言った人もいた。

そうなのよね、ヤツは慰めるのが上手だったね、と答えた。
人間はお悔やみの言葉を定型で、ボソボソと口にしたりして
なんだか形へのこだわりから抜け出せなくて、気持ちを表すのが
下手なんだけれど。ヤツはいつもそっと寄り添って優しく包んで
くれたね。悲しだり落ち込んだりしているとそばへ来てくれて。
言葉など使わないで無口な父親みたいな、ただただ優しい母親
みたいな、頼りがいのある仲良しの年上の兄貴みたいな、
なんでも知ってる親友みたいな‥‥君の鼻先でクンクンとすり寄られて、
大きな腕で抱かれたような温もりで胸のつかえを溶かしてもらい
素直な涙を流したんだったね。
うんうん、そうそう、と知人たちは思い出を語った。

君に出会った人たちがこっそり君にだけみせた顔があって、
弱くなった心を励ましてもらっていたことは、それがおっかあの
特権だったわけじゃないことに驚きもするけれど、たからものを
独り占めするより嬉しくて、なんだか誇らしい気持ちだ。

君はみんなの胸のなかで、ふっと明るい灯火みたいに生きて
いるってことだね。







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情、人のためならず‥‥というが

2013-02-10 15:48:18 | Weblog
「共喰い」の味わい
新芥川賞作品「共喰い」は一言でいうと充実した読後感を与えてくれた小説で、ひさかたぶりにほっとする感じでもあった。小説の筋は血しぶきほとばしる凄まじいものであるのに、終始、人の...


物書きなので何があっても書くことは中断しない、といえば
聞こえはいいがプライベートなことは書けない日が続いた。
仕事用は頭のチャンネルをそちらに合わせて集中すれば
かえって自分の内面に触れず、そこから逃れるのに都合が
よいので停滞しなかったが、サンダーの死を悼んで下さる方へは
できるだけ簡略に、簡単に書いて済ませてきた。
どんなに悲しいか、辛いかなど触れたくないのであった。
お世話になった方々への連絡もしないまま、過ごしてきた。

このブログも2008年2月から始めて新年明けて丸5年だ。
それを機会に新装開店といくかと思いながら年始を迎えた。
だがそう簡単に事は運ばず、ドタバタと修羅のような日々で
幕開けして締めくくりそこねてきた。

年始早々に持ち込まれた相談事が修羅場の発端であった。
想風亭は修羅場ではなく聖地さながらな静謐で清浄な場で
あるけれど、時として私の元へ修羅の鬼が迷い込んでくる。
もちろん普通の顔をして、困った風情でやってくる。

他人事であるが、他人事とは何ぞや。
それは人の都合で使う言葉であって他人も何もない。
人の縁とは「袖擦り合う」が如く生じ、その縁にしたがって
素直に応じていくのが人生である。
そしてその行く方向は理に沿ってあるのみなので、都合を
差し挟むよりも、理つまり心をもって生じた縁に沿う。

その心を頼む側は都合よしとし、いわゆる善意を求めてくる。
しかし善意とは何ぞや。善は利害とは無縁である。
だから頼む側の心中に隠した欲得があれば、縁が極まっていく
時、善意は不都合でしかなくなる。
隠したはずのものはおのずと剥き出しになり、バカ正直な者の
前に秘密は晒されていく。
こちらは暴いたりはしないのだが、現れてしまうのだ。

またたくまにあらわになる下衆な魂胆にわたしは普通に反応し、
善にそって人らしくあるようにだけ勧めた。
「ごもっとも」と鬼は応じてくるが、口先だけで実行はしない。
そこから先が悲惨で、暴力的なまでに相手は口封じのための策を
講じ、奔走した。疑り深いので余計に悪が晒される。
利害関係のないわたしが何をどうするわけでもないのに怖れる。
嘘に嘘を重ね、どこまでも騙そうとするので頼み事だったはずが
相談した相手のわたしを憎むようになる。

簡単に善意を利用できると思うのが愚かである。善と利用とは
水と油であって、利という言葉の意味するところには「私」が
入っている。善は私があっては成り立たない。
昨今の政治家は舌の根も乾かぬうちに再三の嘘を塗り重ねるのを
処世術だと思って憚らないが、一般の市井に生きる人はそうは
いかない。それをやると暴力にしかならない。
偽善を装うための建前を持たないただの人が嘘をつくときには
相手を悪者にして被害者になるというのが常套手段である。

昨夜はそういう目にあった。
鬼の娘が電話をしてきて、母を脅すのかと言ってきたのであった。
笑止であるが、脅される理由が何かあるのか、脅すタネは何か
というようなことをわたしは言わなかった。
「関係ございません」と答えてもこれ以上関わるなと重ねて
念押しというか、それこそ脅しの口調で、テレビドラマの様な
ことを言うなあと思いながら聞いていた。
それを気に入らなかったのかまた電話があり、娘だと名乗った。
娘が何人いるのか知らないが、知らない名前の人が次々に名乗り、
邪魔たてをするな、手を引けと罵り、母が困っていると言う。

その母なる相談してきた当人は鬼と化していたが、その十分ほど
前の当人の電話では、実におだやかな声で話をしていたのだった。
手のひら返しというか、見事というか、あきれ果てる。
娘が言うにはあなたに無理なことを言われて母は断りきれず怯えて
いる、偶然実家にやってきたら母が困っているので電話したと
いうのだった。
邪魔をしないでくれ、関わらないでくれとドスの聞いた声で念押し
するので、煩わしさが募って電話を切った。

おおよその成り行きを想定していたので驚きはしなかったが
悲しいことであると思った。
娘もその母親の当人も、ただただ金が欲しいだけで興奮しているのだ。
金の持ち主は病床に臥せっているその人の姉である。
長く働いて積み立てた老後の生活資金で、ただ一人の身内である妹に
預け、自分の余生の世話を託した。
姉が死ねば相続する立場であっても生前にその財産に手をつけては
盗みであり、犯罪である。わたしに知られたと思い、口止めしたい
ばかりに焦っているのだった。

そうした親族の使い込みで満足な療養生活を送ることができないまま
体よく施設へ放り込まれて死ぬ人は多い。いっこうに改善されない
貧困な介護行政のしわ寄せはそういう形にも現れている。
つまりそこらじゅうにころがっている話の、その一つだ。
しかし公然と世間に通用する話であるわけがない。あくまでも隠し
通したい話なのだった。

電話を受けた場所は病室だった。
独り動けずに寝ている人の傍らで、がなりたてる声はスピーカー
ホンを通して聞こえていた。居合わせた看護士も聞いていた。
皆一様に眉をひそめ、うなづき神妙だった。
残される病人のことを頼んで退室する時、看護士が声をかけて
くれた。わかっていますからだいじょうぶですと。
娘はわたしが病院にいると知ると関係者でないのに面会を
させるなと病院に抗議したらしい。
あわてふためいてあちこちへ電話をかけ、かえって薮蛇という
始末だ。悪事は隠しようがない。
誰も何も言わない。
言わないのに騒ぎ立て、無惨な醜さを露呈していった。

病室で休んでいるその人は、やさしかった。
明るくやさしい人であった。まっすぐだった人生を想像することが
できる表情だった。
妹を信じているから全部を預けたと言った。
人生の残りわずかな時をどうか心静かに過ごせるようにと願う
ばかりであった。
人は生きている時がすべてではない。
人の霊魂は死を境にして、生きてきた道の続きを歩む。
もう小さな身体に縮んでしまったその人の、魂の行く先が明るい
ことをみてとれたことは、わたし自身の救いであった。



大騒動が明けて、わたしは久しぶりにすっきりとした朝を迎えた。
先月から続いていたやり場のない悲しみが去ったのだ。
サンダーは死ぬ前の数日を、この修羅の人のゴタゴタのせいで
おっかあに甘える時間を奪われながら、まん丸の眼をすこし曇らせ
じっと傍らでみつめていた。
その時の表情が目に焼き付いて離れず、済まないという気持ちと
その人に対する複雑な気持ちと、悔しさが入り交じり悲しみとなって
こみ上げてくるのだった。それが毎日毎日続いた。
サンダーちゃんも我慢していたのだから、せめてあなたがまっとうに
なってくれないか、悪いことはやめてくれないかと思い続けながら
つきあっていた。それが終わった。

サンダーがもう悲しまなくていいと言っている。
サンダーは、明るくおもいやりに満ちた美き世界にいる。
やっとその世界とつながることができた。
もう阻む者はいない。
恨み事は鬼が自分で持っていってくれたということだ。

結局、わたしはわかりきったことをやっていた。
数年前から金の相談しかしてこなかったその人に疑念を抱きつつ、
情というどうしようもない気持ちが底にあって避けなかった。
呆れるほどにわかりやすい堕ち方で、なるようになっただけの
ことである。

天物梁命(あめのこやねのみこと)という神名は
天(たかあまはら)と物(ばんぶつ)を梁(つなぐ)
命(みはたらき)を意味する。
貞善というハタラキである。
貞善は邪を受けつけず、理の前に絶対である。
この神を奉じているわたしのもう一つの顔をその人は忘れたか、
それとも神など信じぬ金の亡者と成り下がったかである。
いつからそうなったのか、戻らないのかと思い続けた気持ちは
人情というどうしようもないものであった。
鬼も泣かせる世界があることを、人は生きている間、わからない。



情は人のためならず、サンダーちゃんに最期に教えてもらったよ。



















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雛壇芸人という立ち位置

2013-02-05 14:35:21 | Weblog

お笑い番組、バラエティ番組に雛壇のような席があり、
そこで賑やかし役を担うのを雛壇芸人というらしい。
雛壇からタイミングを図って、口をはさみ、番組を盛り
あげるのであるから、機転がきく人でないと芸にならない。
ただウルサイだけの人にならないためには技がいるが
主役を食って出過ぎてもいけない、ビミョーな役目である。

うちの食客は歴代4代目になる江戸ちゃんである。
彼女はどちらかといえば声がデカい。日本的な顔立ち
に似合わない声を発して、というかわめきながらやってきて
縁側の定位置に座る。
自分の方を向いてくれると少しだけトーンダウンするが、
しゃべりつづけるのをやめない。
何かちょうだい、みんみんみるくちょーだい、あれちょーだい、
あたしあたしあたしあたし、あたしがいますよー。

ふだんこれに打ち勝って無視するには気力を要するが、
ぷ~ちゃんが息をひきとった日からあと、意外な活躍をした。
雛壇芸人の面目躍如というのか、するりするりと割り込み
静寂をぶちやぶって、ひとり声高くしゃべり続けた。



兄貴がいないのを知っているのだろうけれど、ずんずんと
入ってきて私の椅子の脇の、ぽっかりと空いた処をくるりと
回ってみせる。
侵入域を広げ、すりすりと確認しては縁側へ戻る。これを
繰り返した。もちろんしゃべりながら。
その後も、顔をみればバタバタと縁側を行き来し、わめいていた。

「江戸ちゃんが来てたのでけっこう騒がしかったです」と
カメに報告すると、「江戸は、ヤツの代わりにはなれんよ、
雛壇芸人だかんな、にぎやかしだよ」と言われたのでした。
はは~ん、ぴったりだわ。と、その時から彼女は雛壇芸人と
いう扱いになっている。
江戸ちゃんはにぎやかしです。
にぎやかしてくれて、ありがたやありがたや。
猫のごはんは買ってもおやつまでは買ったことがなかったが
くるねこ大和さんとこの猫ちゃんたちが時々フィーバーする
「焼きかつお」というのを思い出して、初めて買い求めた。
御礼にさしあげました。
江戸ちゃんもお祭りでした。

ps:「かかか」を更新しました。講義「徳について」の覚書です。
美徳の決め手は人の生死にある。という一行が胸に響きます。
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