想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

ぷーちゃんの円墳

2013-01-31 23:45:14 | Weblog

少し起きれたので墓参りをした。
日曜は雪がやんでよく晴れわたった。ぷーちゃんの墓は
春先まで雪に被われて、化粧したように美しい。
深い眠りを守っているように。
おっかあも君のせいではなくて、変な病気に罹った。
こんなに寝続けるのは君と出会う前に戻ってもなかった。
熱と痛みでインフルエンザでもないのにシンドイことだ。
思考力もないから君を思わずにすんだのかもしれない。


カメはいつも用意周到で、「ほれ、お線香」と渡されて、
あ、へ、と受け取って嬉しかった。
先生のお線香は特別だから。
なんか、ぷーちゃんにお線香手向けるのって不思議な気持ち。
おさまるところにおさまった感である。
安心しながら、丸い小さな円墳を見つめた。

S君は遠くから拝みますなんてアホなことを言って近寄らない。
サンダーにまだ慰めてもらいたいのかな。





雪が融ける春先には芝タネを撒き、一ヶ月もすると鮮やかな
緑色の小さな墳丘になる。
お線香台や花台は今立っている反対側にしつらえるそうだ。
ぷーちゃんのからだは西を背に北枕で眠っているから東から
お参りするんだよ、とカメが説明してくれた。
埋葬の日、わたしが考えなかったことを全部考えダンドリ
していただいていた。

「死んだら墓はいらない」というのが時流になったけれど、
逝く者の言い分と遺される側の事情は違う気がする。
人間が死者を弔う形を作り残してきたわけが、今わかるように
思う。生き残る此岸と死者の彼岸をつなぐ場。
その場があることで、わたしはサンダーの死を超え、彼を
永遠に胸にとどめることができる。
私自身に墓は要らないと思うのだけれど…。

胸の中で、とてもあたたかい。
すぐそこに息づかいを感じている。
なんてしあわせな時を過ごしてきたんだろう。
ベイビーが爺ちゃんになってヨレヨレになるまで一緒に
いてくれた。ずっとそばにいてくれた。リッパだったね。
悔いが消え、喜びに変わってきた。
そのままをうけとめることが少しづつできるようになっていく。

アホなのは昔からのこと、悔いたりしても何の益もない。
生きてきた道を振り返る節目になったこの月、以前も以後も
虚飾なく行く道であるように、それがサンダーから受け取った
幸福のサインだ。










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地ツ神の元へ

2013-01-24 00:18:26 | Weblog
1月18日金曜日、雪。
 犬神、地ツ神へ還る。さらばじゃ~、とは言わなかった…、
一声、ワンと小さく鳴いた。
久しく、とても久しく犬の声で鳴いた。

門番であり、親分またはベイビーと呼ばれたかの犬の本当の名は
サンダーである。
理想通りに老衰で命を全うした今、森に囲まれた我が家のだだ広い
庭に埋葬された。どうだんつつじと山桜のそばで、いつも私の目に
ふれる特等席に。

あらかじめカメが用意していて下さった場所に、旅立ちの装束も
包む布も、すべて持参して下さって、地中深くに埋めていただいた。
大きな石もいつのまにか傍らに運ばれていて、それがそのためだと
私には告げないまま用意されていたのだった。
先生は、この春がくる前、雪の降る頃にと言われたことがあって、
でももっと先のことだろうと勝手に思っていたのだった。

東京から高速道路で帰宅する途中、車中で息が荒く具合が悪く
なった。以前にも何度か同じように呼吸が苦しくなることは
あって、着いてしばらくすると回復していた。今回もそうで
あるようにと望みながら運転していた。
途中、PAに停めて様子を見た時、いつもと違うことが気になった
けれどもどうしようもないのだった。
顔を見、身体をさすり、話しかける。
それに応えてシッポさえ振ってくれたが、息は荒かった。
よだれがひどく出ていた。それはいつもと違うことだった。

山道に入ると雪が深く、降りも激しくなった。
ずっと声をかけながら、もうすぐ帰るよ、もうすぐ着くよと
おうちに帰ろうねと言いながら運転した。
ぜえぜえというサンダーの声は耳慣れたリズムに聞こえる。
それを聞き続けることの苦痛に慣れようとしてきた。
その時もそうだった。そして、ようやく門の前へ着いた。
ベイビーはまだ生きていた。さあ着いたよと車を停めた。

雪で門から進入できず雪かきをした。
膝まで積もった雪では玄関に横付けできないから抱いて歩く
ための道をとにかく作ろうとしていた。
そして約15分後、ふと車中をのぞくと、サンダーは息絶えていた。
私は己を愚かだと思った。

犬には魂はない。
肉体の限界を超えれば、同時にその気は地へ帰ろうとする。
地はくにと読む。自然を司る地神(くにつかみ)のもとへと
融けいるのである。自然と一体になってゆく。
暖かな身体でそこに横たわっているので、私はすがりついて
泣いたが、俗世での役目は終えていた。長い長い時間であった。
門前に着いた時、背中に聞こえていた荒い息は、その疲れを
じゅうぶんすぎるほど表していた。
よく生き、じゅうぶんすぎるほど懸命に生きた。
そして、律儀に森へ戻ってきたのだった。

亡くなる前の数日、人なつこい目が一段となつこくなって、
もっと一緒にいたいねと言っているように思えたりした。
生活のリズムは諸々の理由でいつになくせわしく、叶わない
まま過ごしていた。
その時の目がずっと胸に残ったまま数日過ごしようやく家へ
戻れる金曜日だった。出かける寸前まで電話に追われていた。

シニアの年齢になっても凛々しかった顔だが輪郭がぼやけてきて
老いが出てきていた。年寄りの顔になった。
まろやかでおだやかな顔になっていた。
まん丸りんご頭とからかわれていた子犬の時も、きりりと成犬に
なったの頃も爺ちゃんになっても、いつのときも大好きな顔だった。
けれども今際の、口を開け苦しい息をし続ける顔は胸を締めつけた。
それが目にふと浮かび私は頭をかきむしり、床に爪をたて呻いて
しまうのだ。
忘れようと、払いのけようとして過ごしてきたけれど今朝、
そうではないのだと気づいた。
苦しみたくないと思うことによって苦しんでいたのだった。

ふっとよぎる顔がかわいい盛りの頃でもなく、精悍な大人の
貫禄を見せていたハンサム君のでもなく、最期が近くなった時、
数日前の姿なのだ。それが辛くてたまらなかった。
とても悔いがあった。サンダーは15年も長生きしたからいいと
思えないのだった。
わたし自身が至らなかったことをいくつも自覚していたからだ。

東京の仕事場へ行き、macを立ち上げると画面の背景は昨年の
雪解けの頃に写したものだ。ちらちらと舞う雪が黒いからだに
映えて、こちらをじっとみつめて立っている。
あわてて環境設定を呼び出し、画面の設定をapple仕様の野の花の
写真に変更した。
画面のサンダーを見た瞬間、情けないが動揺してしまったから。

iphoto には数年分の四季折々の彼の写真が入っている。
どれならだいじょうぶかと試したみたが、どれをみても今は同じだ。
あははと笑っているあの顔でもダメなのであった。
カメラ目線ではない木立のなかで遠くを眺めている風のでもダメ
であった。
彼の姿そのものに、今はふれることができないということなのだ。

いわゆる喪失の悲しみというヤツであるなどと考えたくもなく、
数日、抵抗を試み、惨敗し続けた。
私はなにを悲しんでいるのか。
彼は長いあいだ、病にもめげずに生ききってくれたではないか、
そう思ってなんとか奮い立とうとしているのに、数秒後には瞼が濡れ、
お岩さんのように腫れた眼がさらに痛みを増してくる。
寝ても目醒め、また思う。

しかたがないので、散歩に行こうと思う。と、ここで、散歩道で
サンダーと歩いた場所は避けねばならないと気づいて止める。
キッチンで戸棚を開ける時、「なに?」と期待する気配を背中に
感じ、冷蔵庫のドアに手をかけて、「なに?」と待っているヤツ
の顔が思い浮かぶ。キャベツの千切りをすると、ああ、これが
好きだったと思う。きりがないのである。
どこまでもついてくる、いや、ついてはこず、彼は逝ったのだ。
ここに居て、ぐずぐずとしているのは私である。

仕事は押せ押せであるので集中していればなんとかなるわと
周囲の慰めに答えてきたが、それも違う。
そんなごまかしはごまかしにすぎない。虚勢を張れば反動がすぐ
にやってくるのだ。
じゅうぶんにしあわせだったこと、そして流れにそって今がある
ことを認めないのは、ごく単純にわたしの欲望、願望、執着だ。
わかりきったことをやっているのだった。

生後50日のサンダーがやってくる前、文鳥を飼っていた。
チッチと名づけて可愛がっていた。
それはわたしが人以外の生きものと親しくなる練習になった。
チッチの死と入れ替わりにサンダーは来た。
厭世観が強く内実は人嫌いで、外見の社交性とギャップがあり
偏っていた性格は、サンダーとの生活でかわっていった。
山道をふたりで歩きまわり、土にふれ、風のなかで過ごした。
ふたりだから出来たことだった。
山の暮らしと、彼のそばで生き返ったといつも感じた。

ハイヒールを履いたせいで向こうずねが炎症を起こして
今日は久々に整体師のお世話になった。
帰りにぼーっとした頭で、ああ、帰ってもヤツはいないぜと
思った。かくしてドアを開けても立ち上がる気配はなかった
けれど、わたしは昨日よりもだいじょうぶであった。
その場にへたりこんだりせずに、スーパーの袋から野菜を
取り出し冷蔵庫にしまった。
もうキャベツは君の分は買わない。
そういうことだ。

明後日は君のそばへ帰れる。



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深呼吸で治ります

2013-01-13 23:41:18 | Weblog
ふたりの関係
関係は、親子です。産んではいませんが、うさこはぷ~ちゃんこと親分のおっかあです。親孝行とは子が親を超えることと教わりました。超えるとは、ちゃんとした人になって大人になること...




ぼくちゃんは老犬になりましたね、動物医療が進化し
益々もって長生き犬は増えているので、まあフツーに
老犬15才。なので足腰が弱ってるだけなのでそれなりに
過ごしていて、ますます長生きするかもしれません。
‥‥、いえ、一つ問題がないわけではないけれど。

深呼吸の効用の一つに、澱んだ体内をすっきりと目覚め
させるということがあります。それと真逆に、脳内を
空の状態へすることもできます。
静まり、おちついてリセットする方法ですね。
それから過呼吸症候群は極度のストレスが原因ですが、
治し方はやはり深呼吸ですから、いずれも正常な状態へ
戻すことができるといえます。

ロングブレスで痩せようというのが流行っているようですが
痩せるのは深呼吸で身体のゆがみが調整され、代謝が上がり、
血行もよくなる、背筋が伸びる、頭がすっきりする、視力
が回復する、などなど連鎖して身体が気持ちよくなるから
自ずと食欲に偏るということは防げます。
バカ食いをすれば深呼吸もたった1分がめんどくさくなる
でしょう、どちらか一方を選ぶしかないですから。

カメに教わった深呼吸はダイエットのためではなく、心身を
元の正常な状態へ戻すのが目的です。
心身の心の方へ重きが置かれているのですが‥。
あちきは心身の身の方を治しておるんでやんす。
長時間の座業で腰を痛め、あちこちに支障が出ます。
そこで整体師に調整してもらうこともあるのですが、
なぜかどこへ行ってもたいして良くならない…
それではと、基本に戻り正座して深呼吸です。

自分の身体がどう歪んでいるのか、深呼吸をしていると
よくわかります。
偏った自己を、心身を、毎日調整して、一日を終えます。
これは簡単なことなので続けています。
この簡単すぎることをしない時、あちきは災いに合います。
いえ、合う寸前くらいで逃げていますけれど…。

物事はあまり深くくどいことばかりではない気がします。
日本語、それも古語を学んでいると、シンプルなことに
気づかされ、考え方もよけいなものをくっつけて歪んで
逸れてしまっていることに気づかされます。

命という言葉を「みこと」と読ませますが、その意味が
すんなりと胸落ちしたのはつい最近のことでした。
風呂場で本を読んでいた時のこと、深呼吸しながら。
その一文字に込められているのはこの国古来の思想そのもの
でした。
西洋かぶれの学者にはとうていわからない世界ですが
彼らは自分を疑わないから自分の物差しで古代からある
記号をあれこれと解釈します。ほぼ西洋思想で固めて。
フィールドワークをしない学者が増えました。
外へ出て現実を目の当たりにしても観る力がなければ知識に
頼ります。そういう話を聞いているとめんどくさいやっちゃ
なあと思いますが、じっと聞いていますよん。
それぞれの道をそれぞれの命で行くしかないですから。

あ、そうそうぼくちゃんの問題は気管が狭くなる病気、
彼は深呼吸が難しいのです。
神さまはさまざまな命のありようをみせてくれます。


















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未だ備え足らず

2013-01-09 10:24:30 | Weblog
疾中に書かれた言葉
1月3日記。山の天気は変わりやすい。さっきまで日が照っていたのに、ふと窓の外に目をやると吹雪き始めている、そんなことがいつものことで、冬の特に正月明けての数日はそうである。...




新たな年明けにともなってリニューアルしそこなった。
あたふたと年末年始を過ごし、皮を被ったままであるが
七草も終わったことだし近況を。

親分もおかげさまで年越しをすることができたので喜んでいる。

人も動物もみな老いて死ぬ。死ぬことは生まれてくるよりも
難儀なことかもしれない。いや、生き抜くことが難しいから
死ぬことがナンギと見えるのだろう。
一人で死なせないように、老いたものを誰かが看取って送る。
最期を悔いなきようにと過ごすのは、逝く者よりも送る側の
心のありようのほうが問われる、そんなことを日々思う。



悔いなきように、人として自分は確かに行ったか。
一時の感情に振り回されてはいないか。
悔恨よりも事前の自戒がのちのちの喜びにつながる。
逝くものは去ってしまうのではなく、ひとすじの道の上を
先へ進むことなのだ。
生きた喜びを分ちあって送りたい。

犬に教わりつつ過ごした十数年、あとどのくらいあるか、
大切にします。


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