えーと、タイトルから樹木希林さんを連想された方々
ありがとうございます(笑)
ジュリーは今もジュリー、なおのことジュリーで…
すてきです。3.11後のジュリーは変わったわけではなく
もともとのジュリーです。
ジュリーは有名無名に関わらず人を大切にし、約束を
守ろうと努力する人だ。
それはポーズや人気取りではなく、誰も見ていないところで
ふつうになされていること、それを見聞きした人が伝え、
知ってる人は知ってるという話。
あたりまえがなかなか無い世間で、ごくあたりまえに
そういう生きかたをしているスター。
あたりまえのことを言うスターが年々消えていくのが
さみしい、と健さんが亡くなり文太さんが亡くなりで
思ったことだった。
ジュリーが歌い続けて、あの声が聞けるのは嬉しいことだ
そう思っていた。CDやDVDの声ではなく…。
けれども…けれども…
イスラム国に拉致されている後藤さんと湯川さんを思って
の発言だったのだろう。ジュリーはステージ上から客席へ
「皆さん大変な事態になりました…」と呼びかけた。
客席からは「歌って~」という声。
そして、「黙っとれ!誰かの意見を聞きたいんじゃない
嫌なら帰れ」と言い放ったという。(日刊ゲンダイ)
そこまでならいい、あっぱれジュリーと拍手だ。
けれど、「楽曲を楽しみにしているファンに向かって、
嫌なら帰れはやはり暴言だろう」と記事は結ばれている。
ぼんくらやな~、どんくさいやっちゃと思ったのである。
記者は何歳くらいなのだろうか、歳は関係ないか、近頃
はいい歳をしたアホがたくさんいるから。
後藤さんの二度目の写真と音声が届き、湯川さんの死が
伝えられた。
テレビニュースでは、政府に要求がないので対応しようが
ない、長期戦。と政府関係者のコメントを告げている。
あいたくちがふさがらない、とはこういう時出てくる言葉。
ぼんくらである。
いや、こちらのほうはもう人として壊れていて、
ぼんくらやないか~、ではすまされない。
結局、捨てられる。棄民である。
首相の中東訪問には大企業担当者が何人随行したのか、
何を買いに行ったのかは報じられないが2億ドル。
そんな金あるんだったら、使いみち、ちがうだろと
思うのは私だけではないだろう。
国内には鶏小屋の被災住宅。
広い田畑に囲まれた家を失い、薄い壁の箱のような住居で、
冬を過ごすお年寄りたちがたくさんいる。
カツカツの利益を回しながら操業し続ける零細企業が
円安でたちゆかなくなり、シェアする仕事を失った人々は
補償も手当もない、地方はずっと苦しいままだ。
若い人が希望がなく、働く場もなく、都会へ出て行く。
非正規雇用がこれほど蔓延すると、奴隷、という言葉が
リアルに感じられるようになった。
日本は戦前へ逆戻りしつつある。
国家という組織に義務を負って生きてきた国民が、
いとも簡単に捨てられる、日本はそういう国ではないか。
安心安全だと思って暮らしている人は、自己責任という
言葉を真似、したり顔でいう。
自分で行ったんだから…と。
ほんとにそう言えるか? そう言っていいのか?
けれど、ミナマタ、フクシマ、いやそれ以前にヒロシマ
ナガサキ、いやもっと以前に日本列島の津々浦々で、
命は祖末にされてきたのだ。
それら一人一基の墓碑を建て、社を築く手間を省いて
合祀というカラクリを作って死へ追い立てた戦争は
ついこないだのことだ。死んだ者は物が言えないが、
想えば聴こえるはずだ。想えばつながるはずだ。
弔うとは無念さを想いやり、その命を尊ぶことだ。
「テロと戦う」を大義に仕立てあげたのは軍需産業と
金融グローバリゼーションであるのに。
経済優先とテロに屈しないと演説する首相に追従するなら
真の大義はなくなり、鬼畜の国になってゆく。
嘘をついてはいけない。
それも国家と呼ぶならば、イスラム国を非難する資格が
あるだろうか。
ヨルダン国王が自国の人質を優先すると発言したが、
当然のことである。我が国の首脳陣は、どうしようもないと
繰り返し言い、かたや人命第一と言葉を添える。
生きて帰ってこられることを心から祈ってやまない。
同時に、後藤さんの勇気、やさしさが讃えられる時が
くることも願っている。
ありがとうございます(笑)
ジュリーは今もジュリー、なおのことジュリーで…
すてきです。3.11後のジュリーは変わったわけではなく
もともとのジュリーです。
ジュリーは有名無名に関わらず人を大切にし、約束を
守ろうと努力する人だ。
それはポーズや人気取りではなく、誰も見ていないところで
ふつうになされていること、それを見聞きした人が伝え、
知ってる人は知ってるという話。
あたりまえがなかなか無い世間で、ごくあたりまえに
そういう生きかたをしているスター。
あたりまえのことを言うスターが年々消えていくのが
さみしい、と健さんが亡くなり文太さんが亡くなりで
思ったことだった。
ジュリーが歌い続けて、あの声が聞けるのは嬉しいことだ
そう思っていた。CDやDVDの声ではなく…。
けれども…けれども…
イスラム国に拉致されている後藤さんと湯川さんを思って
の発言だったのだろう。ジュリーはステージ上から客席へ
「皆さん大変な事態になりました…」と呼びかけた。
客席からは「歌って~」という声。
そして、「黙っとれ!誰かの意見を聞きたいんじゃない
嫌なら帰れ」と言い放ったという。(日刊ゲンダイ)
そこまでならいい、あっぱれジュリーと拍手だ。
けれど、「楽曲を楽しみにしているファンに向かって、
嫌なら帰れはやはり暴言だろう」と記事は結ばれている。
ぼんくらやな~、どんくさいやっちゃと思ったのである。
記者は何歳くらいなのだろうか、歳は関係ないか、近頃
はいい歳をしたアホがたくさんいるから。
後藤さんの二度目の写真と音声が届き、湯川さんの死が
伝えられた。
テレビニュースでは、政府に要求がないので対応しようが
ない、長期戦。と政府関係者のコメントを告げている。
あいたくちがふさがらない、とはこういう時出てくる言葉。
ぼんくらである。
いや、こちらのほうはもう人として壊れていて、
ぼんくらやないか~、ではすまされない。
結局、捨てられる。棄民である。
首相の中東訪問には大企業担当者が何人随行したのか、
何を買いに行ったのかは報じられないが2億ドル。
そんな金あるんだったら、使いみち、ちがうだろと
思うのは私だけではないだろう。
国内には鶏小屋の被災住宅。
広い田畑に囲まれた家を失い、薄い壁の箱のような住居で、
冬を過ごすお年寄りたちがたくさんいる。
カツカツの利益を回しながら操業し続ける零細企業が
円安でたちゆかなくなり、シェアする仕事を失った人々は
補償も手当もない、地方はずっと苦しいままだ。
若い人が希望がなく、働く場もなく、都会へ出て行く。
非正規雇用がこれほど蔓延すると、奴隷、という言葉が
リアルに感じられるようになった。
日本は戦前へ逆戻りしつつある。
国家という組織に義務を負って生きてきた国民が、
いとも簡単に捨てられる、日本はそういう国ではないか。
安心安全だと思って暮らしている人は、自己責任という
言葉を真似、したり顔でいう。
自分で行ったんだから…と。
ほんとにそう言えるか? そう言っていいのか?
けれど、ミナマタ、フクシマ、いやそれ以前にヒロシマ
ナガサキ、いやもっと以前に日本列島の津々浦々で、
命は祖末にされてきたのだ。
それら一人一基の墓碑を建て、社を築く手間を省いて
合祀というカラクリを作って死へ追い立てた戦争は
ついこないだのことだ。死んだ者は物が言えないが、
想えば聴こえるはずだ。想えばつながるはずだ。
弔うとは無念さを想いやり、その命を尊ぶことだ。
「テロと戦う」を大義に仕立てあげたのは軍需産業と
金融グローバリゼーションであるのに。
経済優先とテロに屈しないと演説する首相に追従するなら
真の大義はなくなり、鬼畜の国になってゆく。
嘘をついてはいけない。
それも国家と呼ぶならば、イスラム国を非難する資格が
あるだろうか。
ヨルダン国王が自国の人質を優先すると発言したが、
当然のことである。我が国の首脳陣は、どうしようもないと
繰り返し言い、かたや人命第一と言葉を添える。
生きて帰ってこられることを心から祈ってやまない。
同時に、後藤さんの勇気、やさしさが讃えられる時が
くることも願っている。