今は亡き彷書月刊の田村さん(編集長)には
仕事の上で、ずいぶんお世話になった。
知人の紹介で会いに行った日に、カレーは
好きかい?と聞かれ、返事も待たずにカレー屋
へ誘われ、ごちそうになった。
用件の話は帰りしなにほんの数分で終わった。
神保町は昔から旨いカレー屋があって、
インクや紙の匂いとカレーの匂いは
なんだかマッチしていた。
彷書月刊は田村さん亡き後、廃刊になった。
古書界の人に通じ、本に通じた田村さんだから
できた手堅くもやわらか頭のユニークな編集を
引継ぐのは難しいことだ。
財政面での苦労もずいぶんされていたし。
しかし今手に取ってみても、捨てる気にも
売ってしまう気にもなれず月刊なのでかなりの
数だが大事にとってある。
山王書房のことなど、知っているのはおそらく
何かの座談会で出たからだろうと思う。
「昔日の客」のことも手に入れば読みたかった。
それが夏葉社から復刻されたのを買って
何度も読んだ。何度も読める本は数少ないが
読んでいるのか、山王書房主人の話を聞いて
いるのか、その空間にすっぽりと包まれて
数十分過ごす。
バッグに入れて持ち歩き、昨日は新幹線の中
で読んでいた。
タイトルの客人が、実は野呂邦暢だというのも
なんだか泣ける話だった。
四十二歳の若さで亡くなった作家の生き様が
関口氏が書かれた短いエピソードによく表れて
いるのであった。
山王書房主人は日がな古本の棚に囲まれ、
さながら人の心の海を渡るようにして、
過ごしておられたのだろう。
繊細な人である。
「父の思い出」「大山蓮華の花」が特に胸に
沁みる。
短い出会いのささいなやりとりから、
その人の一生分の一番大事な想いを掬って
受け止め、文章に紡いだ。
それは、人を見る目とかいうものとは違う、
心をそのまま受け止める才能なのだろう。
そこにはミリオンセラーで豪邸を建てた
ような作家が登場していない。
そういう本は希少本にはならず10円均の
箱行きだから商いにならないからという
ことではないだろう。
人知れず美しく咲く花のような希少本を
手に入れ、さらに高値で売ればいいものを
売らずにとっておき、最後に近代文学館に
そっくり寄贈してしまったのだから。
何が大事か、何が美しいか、本物は何か、
この本にはそのことがさりげなく書かれて
いるのだが、著者自身はそんな気負いは
さらさらなくただ書いたのだろう。
そこがまたいい。
売れてナンボの価値観とは一線を画した
世界がそこにはあって、人生捨てたもん
じゃないと思わせてくれるのである。
それが昭和28年から53年の、とうの昔の
事であっても、心は伝わってくる。
そして良き本は時代を超えて読み継がれ
人の背中を押したり手を差し伸べたり
道案内したり、役に立つものなのだと
改めて思う。
売れる本が求められるご時勢だが、良き
本の居場所がなくなったわけではない。