想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

コブちゃん

2009-09-30 00:02:03 | Weblog
シマコの末っ子はコブ。
コブのようにくっついているから、コブちゃんと呼んでいます。



猫には猫の牛乳を。市販されてます。
タウリン含有、乳脂を分解する酵素を添加してあるそうです。
ちなみにタウリンって、リポDとかにも含まれてる元気の素らしい。

シマコはミルクのお皿をみるとがぜん声が大きくなり、家猫のような声で
クレクレクレ、はよクレと叫びます。
現金ですが、3年計画成就(子猫つれてこい作戦byカメ)の祝いとして振舞ってます。

今夜は先日FMラジオ全国ネットでオンエアされた忌野清志郎追悼スペシャルを
(森の中でラジオの電波が入らないので、がくちゃんがMDに録ってくれた)聴いてる。
チャボが詰まったような声で清志郎君が‥と話す声が、涙を誘う。
まだこうなったという実感がないのです、と話すチャボ(仲井戸麗市)。
誠実な人には誠実な友がいるのだなあ。
「毎日がブランニューデイ」(CD夢助収録)は親友の絆を歌ってたんだね。
長い連れ合いの歌、大事な家族、愛しい人の歌だろうと思ってたけど、そうか親友か。
いいなあ‥‥。


コメント (2)
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50分の1の希望

2009-09-29 01:21:47 | Weblog

草の上が好きなんだよね、オイラ。
草ハムハムのも好きなんだよね、怒られっけどやめないねー。



犬小屋だろなんて言わないで、猫小屋とお呼び。
あたいがいるんだからさ。
ここはあたいがモラッタわ、あの黒くてデカイのには似合わないわよ、ここは。
あっちの原っぱがお似合いなんじゃないの、ここにいるとこ見たことないもの。
それにしても、ここ広いわよ。30畳のリビングって感じぃ?
今、テラスで外眺めてる感じぃ?

それぞれ陣取って、リラックス中。
50個植えた球根がたった一つしか花咲かなかった、たった一つなんてと思った。
でも、一つでも開いたらそれは希望なんだ。
たった一つの希望でも、それがあれば立っていられる。歩いていけるんだ。
ゆったりとしてまじりっけのないまっすぐさを見せてくれる彼らといると
そういう気もしてくる。
(花の名前まだ思い出せない、なんだったっけ)

怒ったり、嘆いたり、悔やんだり、そんなんばっかりだと、一歩も進めやしない。
いや、立ってさえいられなくなるからな。
憎んではいけない。
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植えたはずなんだけどなー

2009-09-28 01:37:00 | Weblog
午後の陽射し、ぶらぶらしていたら足元に白い花。
花壇に覚えのない花があるので、しゃがんでじっと見た。
何これ?



ぶんぶんぶん、ハチが飛ぶ。
お池のまわりにお花がさいたよ、って池はないさね、え?



ぶんぶんぶん、ハチが飛ぶ。
ほんとにヘリコプターみたいに、一箇所でぶんぶんしてるので
さっさと停まればいいのに、遠慮してんのか?
ハチに気をとられて、球根のことを考えるのを一時停止してた。

そうそう、これはいつまでたっても芽がでなくて忘れてたんだ。
春先のまだ寒い頃、N君がまだ先行きが深い霧の中で暗く沈んで
いた頃だったなあ。一緒に球根を50個植えたんだった。
正直に生きるって話をしながら。

見渡しても植えたはずのどこにも咲いてない。
花つけたのがたったの一個ってどういうこと?
植え方、間違ったのかなあ。
ピンと伸びた細い葉だけ出てるのが少しだけあるけど、ほぼ失敗
であるなあ。残念。
なんだかあのときのことを思い出してきたら残念度アップした。

ぶんぶん、ハチはずっと花のそばを飛んでました。
うさこの気持ち、わかっとんのか?
ぶんぶんぶん、お花が咲いてないよ、ぶんぶんぶん。
正直はそんなにむずかしいかい?
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かぼちゃと栗

2009-09-27 03:53:44 | Weblog

食べ物の話づいているけれど、このカボチャかわいい!
うちの前の道で拾った毬栗と並べてみたらこの大きさです。
おまけにイタリック文字で刺繍を入れたみたいな模様がグー。
食べる前にじっくり眺めたり、写真撮ったり、十分食べた気分。
実際に調理すると小ぶりだけど味がよくて使い切りやすくていい。
これ、新潟で農業してるO君のお母さんがお土産にと持ってきて
くれたものです、ほかに冬瓜と茄子が。茄子もかわいかった)




今年は青山へ月1で運んできてくれる収穫物をみんなで小分けに
して百~二百円で分け合って新米農家にしては美味いと褒めたり、
勝手なこと言ってたんですけど。
ジャガイモ、冬瓜、茄子、玉ねぎ、みんなホントに美味しく
いただきました。
O君は益々、一生懸命働いているそうです。

車じゃなくて新幹線と歩きで運んできてくれるのには頭が下がり
ます!
孤軍奮闘の彼をいつも応援してくださってる方にも感謝です。
野菜が全部売り切れると自分のことみたいに嬉しいですから。

食べることを丁寧に大事にする、若い頃には知らなかった事だし
むしろどうでもいいやと思ってたのです、うさこはアホですから。
生きることを理解するには腹具合である。
されど、食べることを深く智るのは脳である。
それをつないでいい塩梅にしてくれるのが心であるなあ。
そして作った人のことを思いながらいただくのはまた格別の味です。

あ、櫨の実ジャムはカメにちゃんと召し上がっていただきました、
好評でありました(ほっ)。
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忍び足

2009-09-26 17:43:27 | Weblog
ちょっとアホっぽいなあ、ベイビー。でも似てますよ、
おっかあに。
大好きです、こんな顔してるときのあーたが。



ベイビーは芝生で草をハムハムしてるのだが、そこへそっと
忍び寄る影…、シマコは忍び足なのか変な歩き方。
最近、堂々と横切っていくし、ニャゴニャゴと呼びつけるし。
呼びつけられてニヤケテるのですが。

それにしても、のどかな景色。
ゆっくりと秋らしくなっていくかなあ、まだ緑の葉をつけた
ままの椎の木と散り始めた桜、赤い実をつけたヤマボウシや
半分くらい染まったニシキギ、名前のわからない山椒によく
似た木にも黒い実がたくさん生ってる。
そろそろキノコ狩りのジジババが侵入してくる頃だけど、
毒キノコしかみあたりませんよー、何にもないよー。
と大きな声で言っておこう。
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ごちそうさま

2009-09-24 20:10:25 | Weblog
ほんとうは、小鳥のために植えたんですよ、夏櫨。
ほんとうは、「うさこさんがバードウォッチングできるように」と
この木をいただいたんですよ。
贈り主の宮司さん、覚えていらっしゃるかしら?



忘れましょ、忘れましょ、小鳥たちはみんな遠くへ帰っていき
森では虫が鳴いているばかりです。
もっとも雪が降れば川の上を低空飛行してみせてくれる小鳥が
きますけど、今は烏と山ハトととんびがちょろちょろするだけで。
ガギーガギーと変な声でなく鳥が高いところから見下ろしている
だけで。
なので、小鳥の代りと言ってはちょっとずうずうしい気もしない
ではないですが、うさこがありがたくいただきますよ、今年は。



こんなに美味しいとは知りませんでした。
お砂糖を加えてミルクパンでちょっと煮ただけです。
母が近くにいれば一緒におやつでもしたいところ。
あいにく遠く、電話で報告(自慢?)するだけにしておきます。
なんでも煮て食べようとするところがだんだん似てきました。
(ダジャレじゃありませーん)
酸味が強いので砂糖多めに入れてちょうどよくなりましたよ、
夏櫨の実、オススメです。
お先にごちそうさまでした。
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美味しい夏櫨(ナツハゼ)の実

2009-09-23 23:02:09 | Weblog
今年の春にたくさんの庭木をいただいて植えたうちの一本、
夏櫨(ナツハゼ)が早々と紅葉し、実が生った。
ツツジ科スノキ属、ブルーベリーとよく似ていているので和製
ブルーベリーと呼ばれているそうな。葉色が綺麗で生け花にも
使います。
実は夏場は赤、秋になると次第に黒紫へと変化し熟していく。
そろそろかなと摘んで口に入れてみたら、まだ酸っぱかった。
それが先週の日曜日。



そしてまた今日、そろそろ熟してきたかな、もういいかなと
摘んでみた。そばで興味津々の親分に、ささ、どうぞと味見させる。
毒見ではない、味見。お先にどうぞという気配りでもある。
目ぢからで催促されてのことではない。
で、食べた。ぶどうが好きだもんね君はね、味はいっしょかな?
お、だいじょうぶだな、旨いんだな?

で、うさこも食べてみる。
おおおおおおお、ブルーベリーじゃないすか!(櫨の実です)
さっそく摘み取ってジャムにしましょう、しましょう。
農薬を使ってなくてよかったよかった、野生児みたいに摘んで
すぐに食べてもだいじょうぶだかんな。
(ドウダンツウジの根元に生えたミョウガは採ってすぐに川で
洗ってむしゃむしゃと食べた。キャンプ気分、ただの散歩なのに)



全部取ってしまうと楽しみがなくなるので、7割がた残しておく。
カメは熟したものをまだ見ていないから。
アレがコレです、と全部ジャムにしてみせてもナンだからな、
木に生ったまま残しておくことにした。
夏櫨は花も可憐でよかったが、どんな実が生るか待っていたのだ。
期待以上の収穫と味、実が生るのって嬉しい。
単にイヤシイだけじゃないかとつっこまれそうだが……。

花よりぞ木の実とはなる、これ六根清浄(ムツノネキヨラカ)なり。
ムツノネキヨラカなるがゆえに、ワガミナカヌシ安らかなり。
ワガミナカヌシ安らかなるがゆえに、アメツチノカミと同じなり。

神様とつながっている木の、その実をいただいて、何よりの
ごちそうさまです。食べたらわたしも親分もみな一つになって
つながって安らかであります。
豊穣の祭り、お供えの原点でありますなあ。
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饒舌な森

2009-09-23 01:31:34 | Weblog
森の奥のつきあたりを登ってゆくと、広大な試験場と牧草地が広が
っている。
雨水は地面を這い、あるいは土中にもぐり濾過されて地表に再び
湧き上がってくる。
大雨の後に水があふれて流れた後にできた亀裂や隆起になにやら
白いものが付着している。裏山の道を歩いていて気づいたのだ。
牧草地の真下にあたる場所だ。以前にもそこから大量の水が落ちて
くるのを見て訝しく思ったことがあった。
それは森に幾筋もある沢の一つに流れ込んでいくのであるが地面が
えぐられむきだしになったヒューム管も途中で切れている。
水はそこらじゅうに溢れ、土をえぐっているのだった。
そして一帯は赤いはずの山土が白カビに覆われているように見えた。
うちの小川への経路と1本ずれた脇の沢に続いていることを確かめ
そのときは考えるのを止めたことを思い出した。今また白い地表が
以前より増えているのを見たのである。

残留農薬のような類ではないか? 心配性のうさこは検査せねばと
考え考えしながら残りの山道を歩いてもはや楽しい散歩ではなくなった。
親分はちと脚にきたか、同じく必死の表情であった。
心配性の杞憂に終わればコレ幸いであるなあ。
 


おしゃべりが聞こえているときにはわからなかった。
それがいったん沈黙にかわると、とたんに懐かしくはっきりと
思い出される快活だった時のこと。

敷地内に農薬を使わないできたのに、夏の前に一度だけ粒状の
殺虫剤を使ってみた。若葉がことごとく幼虫の餌になってしまう
のを憎悪してのことだった。
その薬は園芸や野菜の専門農家や業者が用いているものである。
地中に浸透し茎や葉に虫をよせつけなくなる。

二ヶ月ほど様子をみていたが、施した花木に虫は減った。
全然いないというのではないが、葉という葉にまとわりついていた
糸状の幼虫や黒い豆粒のような虫がみえなくなった。
幾度か見回りしているうちに気づいた。静かでビミョウな気配なのだ。
つまり、生きているモノの発してくる気配が希薄。無いに近い。
ああ、ダメだと強く思った。
花はよく咲いた、虫はついていない、よかった、とはならなかった。
虫除けにニームオイルを使ってきた時は同時に虫取りもする。
面倒だし絶対に欠かせない。
それが面倒であっても騒がしい虫たちと花木の攻防やおしゃべりが
聞こえていた時のほうがよかった。嫌な感じがする。

農家にしても最近は極力農薬を控え、できれば使用しない方法を選択
する時代だ。それはそれなりの理由あってのこと。
その理由を肌で感じた一時であった。悪いことをした。



自然界では淘汰され強い者が生き残るのが法則と言うが、
でもそれはちょっと短絡的ではないだろうか。
弱い者は弱いなりの居場所がある。
強い者が全てを支配し覆いつくすというような強さなど自然には
存在しないはずだ。し得ないからだ。
(スサノオとアマテラスの神話に然り)
それでは偏りとなる。自然は調和し均衡がとれているゆえに自然だ。
強者が生き残るというのは、ごく一握りの亡者、権力に取憑かれた者の
考えにすぎない。つまり人間の思慮を欠いた営みが均衡を破る原因と
なっている。だがそのことも含めて、自然は均衡を取り戻そうと働く。
盛者必衰、驕る者久しからず。

仕事から戻ると、森はまだ饒舌にわたしたちを迎えてくれた。
ほっと安心し、そして感謝している。
(仔猫、今夜は二匹ひっついてきて、縁側でわっしょいしていた
シマコはすました顔をし、わたしはニヤケ、親分は寝ている)
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段菊とてふてふ

2009-09-22 01:31:42 | Weblog
何かに似ていないか?
段菊……だったんかいきょうとてふてふ(韃靼海峡と蝶)。
韃靼海峡と銃口の間を舞う一匹のてふてふ、安西冬衛の詩だ。
ま、オヤジの駄洒落的思いつきである。
が、段菊が好きである。
韃靼海峡も行ったこともないし、これから先一生行かないで
あろうけれど、一度聞いたら忘れられない地名だ。
でも実際の地名に意味はないだろうに、これが津軽海峡では
安西冬衛の詩にはならなかっただろう。ロマネスクの詩人。
刹那な激情を乾いた口調でいい放つ、この詩が好きだ。
かっこよいのである。ニヒルだ。
けれど、撃たないところがいい。
まるで高校生がダチに言うような感想であるが、そういう自分なら
信じられる。
そんなもんである。



段菊は昨年の晩秋、カンセキで売れ残っていたのを買って植えた。
雪にうもれて枯れた塊になっていたを春先に掘り起こして植え替え
ぜんぜん期待していなかったのに、秋になったら見事に紫の姿態を
これをごらん!と大見得切るみたいに咲かせてくれた。
ありがとうありがとう、段菊ちゃん。
蝶々が毎日きているが、毎日、この蛾のようにも見える蝶と白い蝶。
同じ蝶が来ている。
残りわずか、つかのまの命だ。
ひらひら、段菊のそばで楽しんでおくれ。
見ているこっちは楽しいよ、とっても。

(連休で高速も国道も大混雑だけど森はとても静かです)
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末っ子ちゃんと一人っ子

2009-09-22 00:27:15 | Weblog

なかなか眼が開かなかった末っ子ちゃんもぱっちり愛らしい眼に
なった。まだシマコママから離れない。
ほかの子は別宅(たぶん森の奥のほう)でお昼寝してるけど、
この子だけ縁側に連れて来てミルクを飲ませていた。
子猫用フードも少し食べるがやっぱりシマコのお腹の下へもぐり
こんで甘えている。いつまでもお乳をほしがる児っているなあ。
なんだか己の幼少時がダブってしまうなあ、末っ子同士。
敬老の日、長電話して結局母に甘えてる? 三つ子の魂。





こっちは一人っ子ちゃん?(って柄でもないけど)その通り。
やっぱりベタベタと甘えんぼうだが、がまんするとこんな顔。
眉間にシワがよって口がへの字。
訴える目ぢから、猫に負けへんで~(って負けてるよ)。

かけがえのない存在があれば、困難をも乗り超えられるとよく
言うけど、ほんとにそうだ。子を持つ母も強いが、親を思う
子だって同じ。思いが強ければ高い壁をも越える翼が生える。

人の翼は古来、別名、霊(ひ)、魂とも言った。
実在の存在でなければ、信仰が飛ぶ力をくれる。
信じることが人を強くする。
信仰の対象がアニメにまで広がった末世で人が一番信じられない
のは自分自身かもしれない。

自分を信じない、それはいいことじゃないか?
逆説じゃなくてマジで。
自分を信じろ、っていうヤツの話を信用しないのさ。
ただ、自分を信じないで信じる「他」って何なの。
わからないときはやってみる、事実の積み重ねしか愛は
生まれない。信じる証も見いだせない。
やってからの話さ、ね、だからベイビー、猫の次でも、飯はメシ。
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やわらかな光の下

2009-09-18 09:27:38 | Weblog
岸辺の草を払ってもらったので水際がいい。
もうしばらくはここのベンチで過ごせるだろ、とやってくれた。
見上げる空は高く澄んで柔らかい光が降ってくる。
せせらぎの音は時を止めてくれる。

わたしではないわたし、だれでもないわたし。
森にただよう一粒の塵芥になれるまでここに座っている。
静まって、乾いた松の寝台に落ちるまで。
(かたわらで黒くてデカイのも寝ているが)



    虫がいなくなって、そろそろ花も終わるなあ。
    ほんとうに、本気にならねばならない。
    冷え込んできた空気に、背中を押される。
    ましなのは追われるではなく、今は追いかけているのだということ。

シマコ母子は本日、どこかへお出かけ中。
狩の訓練か? 仔猫のしつけをしているらしい。
でも、早く帰っておいでよ~。
    

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父の恋した人

2009-09-17 01:30:54 | Weblog


困っている人がそばにいて、それを放っておくのは面倒見るより難しい。
父は引揚者であったので無一文から身を立て、いや立てようとしながら
わたしたちを育ててくれたのだが、そのさなかに他人の世話をやいていた。
幼いながらに頼ってくる人と面倒見る側の関係はわかっていたように思う。
父自身は人に頼るのを嫌ったのか、家の中では子供といえどもようしゃなく
叱られ自立を促された。歳の離れた若い妻にも厳しかった。
だが、その一方で他人の相談事を断らない。
少し物事がわかるくらいの年齢になって、わたしは母の愚痴をきくともなく
耳にすることがあって、母の当時の年齢を超えた今、それを思い出すことがある。

母は忘れてしまったかもしれないが、そういう母にしてもわたしから見れば
近隣のどの大人より他人に優しかった。
断らない父と、それをあてに訪ねてきた人を迎える母なのだから。

ぜんぜん似ていない、性格も違う二人だったが、なにが共通なのかといえば、
おもいやりの深いところなのであったわけだ。
それがお互いに向けられなかった、諍いはどうしてか、と考えてしまうと残念な
ことだと言わなくてはならなくなる。
でも、そうではないとこのごろわかってきた。
歳はとるものだ。こういうことがじわりじわりとわかってくるから。

やはり父は母へ、母はもちろん大好きな父へ、思い合っていただろう。
度が超すほどに思っていたことだろう。
ただ、それを言葉にすることが難しかった。
行動すると、その説明がまた言葉だ。言葉だと違ってくる。
もしも、ふたりの間に、ふたりの生活にあれほど他人がいなかったら、貧しい台所から
子供のミルクを分けてあげたりしなくてよい暮らしぶりであったなら、と考えてみた。
母は黙って父のそばにいただけかもしれないし、父は母が出かけた先の心配など
しなくてよかっただろうし、と思ってみる。

父は満州で暮らしていたときのように、絹の服を母にも買って着せたかったのだろう。
でもそばにいれば、困っている人の面倒のほうが先になってしまう。
それをわかってくれる人と知って一緒になったのだろうなあ。
ふたりが鉄道のスイッチバックのある駅で顔見知りになって、つまり恋に落ちて一緒に
なったという話が、悲しい思い出は溶かして、わたしを幸せにしてくれる。

今年最後のバラと庭の花を、父へ。
(母さんの気持ちに代わって)



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せっせと腐葉土づくり

2009-09-16 01:02:23 | Weblog
おいらと遊びませんかー。
へーい、そこの兄さんがた、おいらがいますですよー、遊んであげますって。



聞こえない聞こえない。



こうやってさ、どんどんとつめてさ、踏んづけてさー、もっと入れるよ。



だからさー、おいらも手伝うよ~、遊んでるわけじゃないよ~
もう腹へってきたし~。
(この後、とっとと家へ戻ってきて、グーグー寝てました)

四角い木枠が50センチほど持ち上がるくらいに溜まってきたので
そろそろ場所の移動ですね。
来月までの仕事、これが終わると木枯らしが吹いて冬。
冬もまた楽しいぞ~(ってまだこれから秋じゃよ)
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木のある場所

2009-09-15 16:07:51 | Weblog
オイラ親分じゃあ、ありやせん。
これからは隊長って呼んでくだせえ。



歩幅、広いっしょ、タイチョーっぽくないすか?
オイラは11歳にはみえんと、若いですねーとよく言われる。
長生きしてね、長生きしてね、と毎晩おっかあが耳元で囁く。
だからこうして歩いてるね。木のあるところは気持ちいいから。
それで、急ぎ足なのは、ちょいと飲みに行こうっと。
なんの、たいしたことじゃないよ、そこのミネラルウォーターさね。
木があるからねー、水もこんこんと湧いてくるのさね。

ところで〈告知です〉
昨年もお知らせした「東京外郭環状道路計画」の工事で損なわれるかも
しれない住宅街のオアシスをいっしょに歩こうという
「外環(予定地)ウォーク」というイベントをご紹介します。

すでに9月6、13日に三鷹、世田谷編は終了したので、10月の予定を。
PDF外環ウォーク実行委員会
参加費(資料代+保険)その他準備などは直接お尋ねください。

時代遅れのゼネコン政治よりエコな環境を守るほうがずっと賢く
未来の東京のためにグーッ(江戸、もとい、エドはるみ風に)ドネ。
おまけ:体脂肪、コレステロール対策などお考えの方、歩きたいけど
どこを歩こうかと思案中の方は意味あるウォーキングです。







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深呼吸の場所

2009-09-14 20:54:46 | Weblog
日暮れの時間が迫るつかの間のとき、まだ家へは入らない。
庭の小径を歩き、深呼吸する。
東京から一直線にやってきたのだから何をおいてもしばし外にいたいのだ。
そして樹々や風の匂いや生きものの気配を感じながら、森に浸されていく。
まとわりついていた都会の、人間たちの、澱んだ空気から解き放たれていく。
ついさっきまで続いていた頭痛が消えた。



生気を取り戻していく我が身体を感じるいっとき。
まとわりついた何者かがはがれ落ち、風に溶けて流れていく。
誰かがまた訪れるにしても、ここでは留まるものはない。
執着から離れるための、地点だから。

明日も誰かがふらふらとやってくる。
迎えるがわは、ひらひら。

見返り求める者は、道に迷ってたどり着けないんだよ。
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