想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

考えてるようで考えない猫

2018-07-31 17:43:10 | Weblog
森庭で初めての三毛猫である。
江戸ちゃんの子ども。
2週間くらいで足が長く伸び
体全体が縦横に大きくなった。



余裕である、カメラ目線、
逃げない。

そして母親たち。



尻尾はジョリ子、頭は江戸ちゃん。
ヒトの足に絡みつき、ご機嫌取りの
最中である。
ヒトはちょろい、とくにこやつは
アッサリとミルクをくれる。



ジョリ子はときどき江戸のお乳を
ねだったりするのだが、4匹の
子猫を連れてきた。
総勢7匹の子とママ2匹の世帯。
たぶん、三毛猫が居残って跡継ぎ。

一見、平和。
原発事故から7年余、放射能汚染は
片付いたわけではないが、
この景色だけみていると
何もなかったかのようだ。




事実を知らないということは、
つまりそういうことになる。
知ることは必ずしも歓びばかりとは
限らず、ある時は苦痛を伴う。
それでも、知って生きることの方が
喜びの可能性は大きい。


人の一生が見る世界と
この森猫の一生と
どちらが幸せか…
この比較を思いつく分だけ
人はすでに不幸であることよ。
思うことによって複雑化し「私」
を作り出すのがヒトだから。

その意識はどこからやってくるか、
という命題を追求した名著、迷著?
「ゲーテル・エッシャー・バッハ
あるいは不思議の環」の新版が
出ていた。
20年前のと違いは序文があること。
序に本の要旨、著作の目的を著者が
書いている。

脳の研究で意識が解明できるわけ
ではないという点において同感。
また無機物から有機物が生じる事に
着目しているところなど、
旧事本紀の記述に類似する。
こっちは6世紀以前の文献だぜ、と
この著者にみせてあげたいなあ
などと思いながら、読んだ次第。
頭の体操、ニュースのイライラから
解放されたい時に読むのもいい。

知って考えてそして空になる。
この先をいわゆる悟り、覚りとも
書くけれど‥‥
知らずに考えないヒトは愚かだが
考える向きを間違えると、空ではなく
欲が増えていく。
愚かより始末が悪い。
欲には苦が伴うからである。

この苦を痛がらずに楽しめれば
これまた幸せなことだろうけど。



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自然と猫生と人生と

2018-07-24 00:10:00 | Weblog
子ねこたちは見ている。
おっかあがミルクをねだる。
ああやって、こうやって…と。



おっかあの脇からすり抜けて
侵入を試みる。



捕まっても逃げない。
ぽや〜んとしている。



おっかあは、自分のためか
はたまた、お乳をあげるためか、
せっせとおねだりする。
そして、先に食べ、先に飲み、
腹いっぱいになって
お乳をあげる。
……けど、またおねだりする。
子どもは口実のような気がして
ならない、とカメ先生は呟かれるが
酪王牛乳は欠かさない。
言っておきたいが猫担当はわたし
ではない。犬神さまとのちぎりが
あるので、猫にはかまけない…
つもりだ。ちょっとつきあっては
いるが。

しかし、子ねこを間近に見るのは
実にたのしく飽きない。





みていると、江戸が割り込んで
ちょうだいちょうだいが始まる、
それさえなければ、ずっと見て
いたい。



徳冨蘆花の「自然と人生」について
書こうとしたら、子猫の話になった。



写生帖の中の「國家と個人」最後の行
願わくば陛下の赤子をして
餓えへしむる勿れ。


次にある「断崖」の(一)最後の行
断崖、断崖、人生到る処この断崖多し

國家と個人を読むために自然と人生
(文庫版)を求め、さらに謀反論を
読んだだけで、蘆花の文学者としての
真の貌はほとんど知らないままで
きた。
今もまだよく知らないのだが
以前に比べると、はなはだ好意を
抱くようになった。

生誕150年記念の今年だが、蘆花
人気が起きる気配も無し。
旧字、旧仮名遣い、文語体と
読みにくい。だが内容はといえば、
わかりやすく、親しみを覚えさせる。
少しも高飛車でないし、さすがの
ミリオンセラー大作家である。

やや、あやうい感じさえする。
文学者以外、何者になりようも
無かったのではなかった。
善きひとだと思う。


東京都世田谷区粕谷にある恒春園、
(蘆花の旧宅と所有地を没後寄贈)
生前、自然を愛でた蘆花を偲びつつ
散歩していると、子どもがするりと
脇をすり抜けるように駈けていった。
危うし。

この世に崖っぷちがあることなど
未だ知らず、
跳ねるように駈けていく。

過ぎ去った時と子どもの今が
木々の間で交差していった。
いっしゅん、時の切れ目から
蘆花が見えた。
土の匂いを愛で、水を心を知って
いた人。














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わるい気はしない

2018-07-23 00:10:00 | Weblog
ついてくる。
さっきまで縁側で子猫に混ざり
ミルクを飲んでいた大人猫が
ついてくる。



わるい気はしない。
ころんころん、なんてご愛敬。
猫語がわからないので、たぶん
お愛想してくれたのだと勝手に
思って立ち止まる。
上目づかいのジョリコのお腹が
レレレ?
おっぱいが……
まさか〜




そうだったのです。
江戸ちゃんの娘のジョリコも
赤ちゃんを産んでいるようです。
まだ、ご来店なさいませんが。
いや、めでたいめでたい。

一昨年は梅雨時期に産んで、
可哀想なことになった。
山のなかで育児するのだから、
雨は大敵であった。
真夏に育児、安心である。

カメ先生はカリカリと酪王牛乳を
たんと買って来られた。
まさしく予言者であーる、
なんつって。猫かわいさ百です。









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育む季節

2018-07-22 14:44:28 | Weblog
江戸ちゃんが初めて三毛猫を
産みましたよ。長女のようです。
それから弟らしいサビ2匹。

春は仁、恵みの、夏は智、育む季節。
旧事ではそう誨があるとおり。
ベイビーラッシュ、どんどん育つ。
巷のヒトハ…どんどん退廃かな。




バラはつぎつぎに蕾をつけ、無事に
咲いてくれては、またつぎの蕾が
育っている。



かつてなかった嬉しさと驚きとで、
都会では感じ得ない感動が湧いてくる。
これこそプライスレスや!とか言って
草いきれの匂いに、懐かしさを感じる
自分に、さらに驚く。
森から遠ざかりすぎていたようだ。


バラ自身もわが代の春、いや夏よ!と
自らの命の勢いに叫んでいるよう。
いや、そんな「私」はなく夏の光や
天の気に任せきっているだろう。


シモツケソウとシャクヤクが、
雑木林の緑と茶ばかりの景色に
彩りを添えてくれる。
でも添えものは失礼というもので、
わたしには宝ものである。



シャクヤクは一輪しか咲かなかった
けれど、その一輪が咲けば大きな
安堵を得る、そして夏が来る。
蕾は甘いのだろうか。
膨らんで咲くまえに虫たちの
ごちそうになってしまい、ついぞ
花を見ることが叶わなかった年の
夏は虫除け(ニーム)の噴霧に
気合いが入るものだ。
後の祭りであっても、だ。
そういう己のヒト臭さがいつに
なればなくなるのやら。
たぶん、生きているうちは
そういうことなのだろう。
虫と分け合うには、わたしは
シャクヤクをあきらめねば
ならないのだから。
まあ、今年はほんとによかった。





シモツケソウは宇都宮の宮司さん
からいただいたドウダンツツジに
ついてきたもの。






ちょっと前に、久方ぶりに
前世があ〜と言った人に
あら、前世はありませんよ、
と口にしてしまったら
大仰に、そんなばかな、では
私はどうなるの、と言った人が
いたが、どうなりたいのですか、
とついでに言ってみたところ、
そりゃあ、虫やら獣やらはいや
だけど、そんなぜいたくは
言わないけれど…ともじもじ、

わたしは生まれ変わりたいと
いう願望を持つ人を前に
すごく居心地が悪かった。
己の強欲さにすこしも悪びれない
のはなんということか、鈍感にも
ほどがある。
毛むくじゃらのシャクヤク喰いが
かわいくみえてきそう。


次回は、さらに子猫が生まれた…
ということに。
なんてこったの巻…
まあ前にもあったことだけど。







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