想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

うさぎの学習

2011-02-28 21:28:32 | Weblog
先日の強風がウソのようなお天気だったから枝下ろしをやった午後。
いつもは見てるか梯子持ちばかりだったのでチェーンソーを抱えて
木登り体験をしてみると、想像以上の重労働に腹が減ったそうな。



三度三度、よく食うーなーとうさこに皮肉られてもどこ吹く風、
決して食べるのを止めないヤツラであった。
腹いっぱいで修行はできーん、脳みそ停止で思考停止じゃーんと。

ふーん何の話? みたいな顔で焼きそばをかっ込んで、さてお茶でも。
腹いっぱいで停止中だった頭をにわかに始動させた模様なのはカメの
姿を近くにみとめたからであるな。
うさこは離れたところから望遠レンズで見てたんだね~、うふ。

ピーっと口笛を吹いた。
ピースサイン、でもうさこの居場所がわからないので向けた眼の焦点が
今イチ合っていない。

つかの間、春の気配がしたが夜からまた冬に逆戻りだった。また雪。
でも去年の三月も大雪だったからな、別に~ってことか。
2週間以上も万全でない調子の日が続いたまま月末になってしまった。
なんだかワープしちまったような気分で、変な感じ。

あちこちで予定調和などないなあと実感させられる日々。
不調だったmacの復旧に半日を費やし、こんなんじゃアナログの方がいい
なあとぼやいたりしながら、キーボード慣れの指にはペンは持ちにくい。
先に何が起きるかわからない。不安な要素満載な日常が続くと人は考える
ことを止めるんじゃないか、そんなことをふと思った。

先がわからない、だからって生き急ごうというのは道理じゃない。
そういうのは若い頃さんざんやって、思うほど空回りする脳みそに振り回され
るってわかってるからね。
ゆっくりしっかり、そのほうが到達早いんだなあ、結局。
うさぎらしくない考えだって?
そりゃあ学習するよ、うさぎだって。
昼寝うたた寝、それは猫に譲ります。

急がばまわるうさこなり。





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作法かマナーか、KY改善講座か

2011-02-25 00:26:12 | Weblog
(お行儀いいですアタシ、ってシマコちゃんの澄まし顔である)

行儀作法ではなくマナーを習う人が増えたらしい。
いやこれは習う側の動向というより主宰する側がマナーと言ったほうが
受けがいいと考えているのだと思うが。

マナー講座で先生と呼ばれている人が言っていたが、作法は人が作ったホウ
でマナーは人の中で生まれたものでもっと精神的な‥とか。
そりゃないぜ、と思いながら聞いていたのだが終わりまで聞くには辛抱を
要した。
カリスマと呼ばれたりするその先生は自分の話す声のトーンの変化に注意を
払う謙虚さはなかったので、やはりマナーの先生ということだろう。

小笠原宗家の敬承斎先生の本を作ったときのこと、制作サイドは伝統と格式
ある宗家にビビって出されたお茶の茶碗の蓋を取る勇気もないという有様で
あったのに、写真撮影に行った先のレストランではそこのスタッフに横柄な
態度でさまざまな要求をしていた。
一緒のツレなのが恥ずかしくカニ歩きでそっと距離をとったうさこであったが、
どこ行くんですかあーとスタッフがまた大きな声を上げて呼ぶのでよけいに
バツが悪くてその後ずっと無口で通し、一刻も早くずらかりたいオーラを
出し続けて抵抗したのであった。

宗家はまだ若くごく普通の女性にも見える方であったが、内に厳しく外に
穏やかであった。だからお茶など気にせずおかわりどうぞというくらいの
ことであったのだが‥。一人で訪ねた時かいま見たのは家庭人、子どもの
下校時間が普段より遅いことを気遣う母親の顔であった。大きな組織の
頂点にあって人に見られて一分の隙もないようにふるまっていられる人の
どこにも力が入っていないのであった。

そういう人が先生と呼ばれたりするのは当然のことであって、わたしは
ご宗家ご宗家と周囲の皆が呼んでいるのが変にしっくりこず小笠原先生で通し
向こうもそれに応じてよく話をして下さりやりやすかった。
結局、伝統ある作法の出所はどこであるかということになると、それは
神道仏教儒教など諸々の混合した精神文化によって育まれ完成されてきた
心の道であった。堅苦しくもなく、ごくごく道理、そのことであった。

しかし、それを教える側というのは困難であろうことも察せられた。
行儀作法を習いにきている人は形を知りたがる。形に魂を入れねばならない
のであるので師範の方は厳しく注意したいところだろうが、教室の生徒と
師範の関係は一方でビジネスの側面ももつ。
叱られれば生徒は来なくなる、来なければ教室が成り立たない。
柔らかい言葉でわからない生徒ほど注意されると逃げていく。
そのジレンマと悩みながら、しかし師範ともなるとそれさえも修行であると
わきまえていなければ勤まらない。
そういうシビアな込み入った話は簡単に仕舞って、言わぬが花で修行で
ございますからと締めくくられた。言葉が少ない分苦労を察した。


(オイラもシット、ダウン、ステイ、オーケーだもんね。
ステイって言われんでも待てるもんね、おっかあの目配せオーライ、
空気読む犬だもんね)

マナーマナーと春先になると必ずその類いの仕事が目立って多くなる。
世間の常識もわきまえないのだからマナーというのはその常識の最低限の
レベル並をさしている。けれど習う側は大いばりである。
いや本人にそんな威張ってるつもりはないんだろうけどそう見えるのは
自分は知っているできる、わかっている、そうと思うからである。
できるわかると思っている態度ほど恥ずかしいことはない。
とことんわかっていないわけだ。子どもなら恥にもならないが、大人だから
始末に負えない、豚に真珠の首飾り、豚なら可愛いが。

マナーなど知らないでもいいとわたしは思っている。
作法も知らなくても困らないと。
人に尋ねるたずね方、話し方、そして人とともに過ごす居方(いかた)を
知っていれば失礼にも恥にもならず、なごやかに時を共に過ごしていけるだろう。
言い換えると、仁智義礼信の「五常五行」つまり人の道(経教本紀)である。

クジキを知っていてもそれを生きるのに活かしている人は少ないが、
カメの教えは活かすためのものだし、そもそもの聖徳太子の発心が末世の
人心の乱れを憂えたところにあるわけだ。
知っていれば、心豊かに仲良く和して暮らしていけますよ、という法である。





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田舎であるが田舎者ではないよ

2011-02-23 14:45:03 | Weblog
ひさかたぶりの知人に会った。
いまは田舎で暮らしてるわよというその女性(ヒト)は
かつては都心にいて流行の先端を行く派手好みで鳴らしていた。
「トーキョーなんて久しぶりよ、もう田舎田舎、いいよー、道端歩いてるだけで
ほっとするもんね、落ち着いてるっていうか…」
「田舎から出てきたわよ~」と、会うなり言ったその人の言う田舎は別な意味が
込められているらしかった。

カラッと明るく人が変わったというか憑き物が落ちたように軽やかであった。
「みかけ変わらない、あいかわらずにしか見えないですよ」
美しいままの顔を見て言うと、そうお~とクシャクシャにほころんで笑う。
昔は目だけは笑わない人だったから(私の前でだけだったかもしれないが)
会わなかった歳月の、長かった時の流れを感じた。

センスのいい、愛嬌たっぷりのその人が、わたし、いま何と呼ばれてると思う?
と言って、ぷーちゃんよーと大きく笑う。
え、うちの犬と一緒じゃない、ぷー? ぷーちゃん?

そう、職場の法事の集まりでしーんと静まり返ってるとき、あれよ、
あれやらかしたのよ、あははははは。
我慢できなかったっていうより、油断したわけよね。
あはっ、周りの人、何て言った?
うん、あなた?と言われたから、そう、と答えて、だってそっとするつもりだった
のに失敗失敗、って言ったら笑われたのー、それからずっと、ぷーちゃんとか
ぷーさんとかみんなに呼ばれてる、あはははは。

へーっ、それ、うちの犬も同じ、だから二つ目のあだ名がプーちゃんだよ、
でも話し安くなったんじゃない? みんなよく話しかけるでしょ?
そうそう、そうなのね、とっつきにくくなくなったみたいで。



そりゃそうだろうなあと思った。昔、彼女は美人で気どり屋で、おまけに強気だった。
けれど、本当に隠し持っていたのは今目の前にあからさまになっている朗らかさと
美しい物が好きなだけの女の人のかわいらしさだった。

肩の力を抜いたというより、鎧を脱いだら華奢な女人が現れた、そんな変貌
ぶりに驚くというよりほっとして話がはずんだ。
カフェの店員がコーヒーのお代わりはいかが?と言ってきた二度目を断ると、
また近々会おうと約束して席を立った。
店の外でコートを羽織りながら、楽しかったーっと彼女は言って、そして、
ピョンと跳ねたのであった。

会ったら昔のことを謝ろうと思っていたが、そんな成り行きにはならず、
わたしは新しい友と出会ったような気がし、なんだかワクワクした。
手を振って別れ、帰り道、わたしもピョンとしたかった。
腰骨のコルセットがなかったら、二、三度、跳んでみせたいくらいだった。


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土の温み、純なヌクミ

2011-02-22 10:19:22 | Weblog

地熱と樹の体熱で根元のほうだけ雪が融け始める。
ふもとの道は除雪されて根雪はないが、ここは春先まで
雪は凍りついて根雪になり、重なって朝晩の雪が積もる。

表面は陽に照らされて融けるのだけど、白一色の地面は
しばらく続く。
それがなければ味気ない枯れ果てた景色になってしまう。
樹の根元を見ると春が近づいているのかと思ったりするが
なんの、名残りの雪ぶりかえしの寒さがやってこないわけ
がない。例年より確かに雪が多い気はするが。



陽が暖かいと、嬉しいのは猫も人も、ここでは同じである。
親分はここんとこ、うさこがおとなしくしているので
そばにひっつきやすくて、甘えん坊になっている。
こっちも甘えん坊でくっついると、ときどきパタンパタンと
尻尾で合図を送ってくる。
ただただ純粋な塊に同化していると、腰のこわばりが癒されて
くるようである。

鼻息とよだれなど、ぜーんぜん、かまわない人にはオススメの
治療法かもしれんと思うこのごろ。
人の邪気が一番の毒なので、中和するにはもってこいでは
なかろうか。
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境を越える猫、入るに咎有りや。

2011-02-21 20:36:13 | Weblog
野良なのになー、なんだかなーのシマコちゃん。
すりすりしながらどさくさにまぎれて滑り込んできます。



背後で娘、ブチャ姫がびっくり眼でみているのだが
シマコの進入作戦は止まらず。



しかし…。
いらっしゃーい、と三枝師匠じゃなくてサンダー師匠が
でんと座っている。



なによ、どこみてんのよ、とガン飛ばして去るシマコで
ありました。

境界の境、この字は旧事本紀ではとても重要な意味を
持ちますね、境(みのえ)と訓みまして五鎮(ごちん)の
一つです。おお、五鎮かあ!と思うあなたはちょっと
知ってるんですね、いっぱい知ってる人はおおおっとは
ならなく次へ進みますけんね。

第二 境を貞す。五鎮道にあります。
この境をあいまいにし、出、入り、を誤まることによって
乱れます。誤まるのは欲のままに行うからですね。
すると、流れは変わり、筋道は狂い混沌としてもつれます。

話の後先をごちゃごちゃにしたり、自分の言ったことを
忘れたのか知らんふりなのかコロコロと変えて結局何だか
結論の出ない支離滅裂な袋小路へ持ち込んでしまう人が
いるけれど、話し方にも書くものにも人の性質はおのずと
表れてしまうもの。

支離滅裂であっても相手の言ったことはよく覚えていて、
忘れない、虚で聞いてると。
袋小路をするすると抜けることは難しくなく、筋の通らぬ
話をする人にとっては話を戻されるからいやな相手らしい。
たいていはご立腹…、らしい、いや大人だから隠すけど、
怒ってるのは伝わってきて、ははー都合が悪いんだな、と
ほんとは鈍いうさこにもわかってしまうのである。

カメの話を繰り返し聞き、講演を文字に起こす時はさらに
繰り返し聞き、そうこうして2,3年したら脳内で変化が
起きてきた。ニューロンたちが取捨選択をしたらしく、
整理整頓が済んだのか、なんだかやたら記憶力がよくなって
集中するのである。これは便利だった。
いつもボーっと聞いていて、けっこう覚えてしまうので、
話の筋が違えたなと思ったらモトイ、で?と聞き返すので
嫌なんだろうなあ、ずるいヤツにとっては。

言った言わないでごまかされなくていい、なんて生易しく
なくて、どちらかというと不愉快さの方が多い。正直で偽り
のない人の方がぐんと少ないのが世間一般だからなあ…。
政治家に限ったことでなく、恩知らずと無責任、世間に
蔓延ってウイルスだ。(キヨシローノウタニモアルナア)

さて、境は大事である、とてもとても。
五鎮のどれ一つと取り上げていうのはおかしいが、
「神心理気境」の境、これはふだんの暮らしの中でわかり
やすく凡人と賢人とが分かたれる原因である。
凡人(おろかびと)はこれを貞すことを知らない。

シマコちゃんの進入は確信犯であるがそこに咎は無し。
野良猫は天道を行くんである。



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ボチボチです、勉強です

2011-02-17 17:17:31 | 

具合はボチボチでんねんって、大阪か!いやここは風の谷じゃ~。
友人はインフルエンザだったとメールしてきたし、知り合いはほぼ中年
ばかりなので元気に盛り上がる話はあまりないね、ここんとこ。

そんな中、カメカメとうさこが勝手に呼ばわって書いてきた源宗先生の
講演会のビデオを観た方から礼状が届いた。こっちは盛り上がってた。
なんで今頃気づいたんだろ、ってなうれしいのと悔しいのとでも嬉しい
のがちょっと多め、元気いっぱいの感謝の言葉が綴られていた。
わかるような気もする。

もっと早くまじめに勉強すりゃよかった、そう思うんだよなあ…。
気づくと。理解できておもしろくなると、脳みそががぜん活発になるし
それプラス、魂的な喜びも加わるからそりゃあ盛り上がるよなあ。

よかったです、アーカイブスをこれから学ぶ人に役立ててもらえれば
あの頃(レクチャーマラソンという連続講演会のイベント)大変な思いを
してみんなで取り組んだ甲斐があったというもので。

何かやりたくても一人ではできない、志を同じくする人が集まっても
船頭ばかりでは船、山に登る。
和して同ぜずでいかねばならないわけで。
取組そのものが学ぶ機会になったことは確かだけど、目的は旧事本紀を
学ぶことを広めようと源宗先生に講義していただいたのだった。
先生もお忙しい中を長い間おつきあいいただいて申し訳なかった。

その有志の仲間、わたしたちはその目的を果たしてはいない。
道なかば、自分たちも未熟で歳ばかり取っているのであるね。
集英社が創業80周年記念に戦争×文学(コレクション戦争と文学)
全20巻を刊行するようで、その目録を眺めつつ、ゴーゴーと音立てて
時が流れていく気がした。全20巻、日清日露戦争から9.11以後まで
ヒロシマ・ナガサキを含んで、前線も銃後も語る文学者たちの声。
目録だけでいっぱいいっぱいになりそうだけど、ぜひ読もうと思う。

そして我が本題の旧事本紀はもっと壮大であることを思い起こさずには
いられない。ゴーゴーと鳴る「時の風」どころではなく地響きとともに
存在すらもっていかれそうな気がする。そもそも消えてないものを形に
してうちたてようとしているのだから。

旧事紀(くじき、旧事本紀大成経の略称)には神道仏教儒教の三つの
法が縦横に出てくるので素養がなければ読めない、そこがネックで
一般の人に読んでよと言っても無理な難題ふっかけているようなもので
ある。そこんとこを源宗先生がかみくだいて今必要なこととして話して
下さる。そうして興味を抱いた人が、そうかそうだったのか(どこかで聞いたな?)
と自ら図書館や本屋で仏教入門書でも探すようになる。

ただ素直に読んだらだめである、ダメ出しするために読むべき、そこが
ポイントで入門書にダメ出し、それでいい。
かならずや疑問が出てくるし、ぜんぜん言ってることがわからなーいと
いうのでいいのである。
わかるように書いてあるものは少ないし、わかってしまうものほど怪しい。
あっさりとわかりやすく結論づけている仏教書など、そもそも仏教をナメ
とるのか、ということだ。そこにあるのは、疑問の提示である。

なんにも考えずに生きてきた人が考えざるをえない状況にあることを
教えてくれる。仏陀、お釈迦様の命題はシンプルで、生老病苦、これ如何に。
これに答えがあろうはずがない。(ないけど、ある)
当然、直面してからバタバタとする人の方が多いので、そこにつけこむ
神仏の商売にだまされたりするのである。
だまされまいと、神仏にそっぽ向いているのに、困ると神仏を探す。
それではあまりにも情けない。保険屋のCMが増えて当然である。

生きることを根底から考えて知る、それはなんとかレッスンとかいう
今はやりの習いごとをするより、よほど身になると思う。
でも、なんとかレッスンがあんなに人気なのはなぜなんだろうか。
そういううさこも青山でパンとデザートの教室のチラシをもらい、ふむふむ
とスケジュールを眺めたりもしてたのだが。

直接的に実用的にためになること以外のことが教養である。
習い覚えたら金に代えられると妄想を誘う類のレッスン、目先の楽しみで
終わるのが大方だがそれも楽しみならいい、でも自分という存在について
の答えにはならない。本当に欲しい成果はあるだろうか。
何かに没頭して不安が消えたと思うのは一時的な気休めなんだが。

疑問を抱くために本を手に取り、ダメ出ししたらその疑問を持って
学びはじめるといい。
始めればそこに根底からひっくり返されてしまう答えがある。
それに馴染むのには努力がいるが、その努力相応、それ以上の結果は
上の写真、のほほん顔の親分が証明しているのである。
いやなに、そんなものなんの保証になるものか…、そうお疑いもごもっとも
であるが。


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魔都東京、雪で汚れないように‥

2011-02-15 10:36:56 | 
雨の日用を着ました! ぼた雪が降ってる東京にいるのは何年ぶりかな。
山ん中で毎日見ている雪、飽きずにまた眺める、でも山の雪は汚れないが
東京の雪を歩くと薄汚れた犬になっちまうのである。
オイラは楽しい雪ん中、どこでもいっしょなんだが。

肉体の不都合はこれからどんどん起きる。若いなんてことがありがたく
思えたりするようになるわけで、(いやーやっぱ思わないかなあ)。
持病があるので肉体系、体育会系とは縁遠くてナヨナヨとしながら
歳取っていくのであるが、いいこともあるんで。

苦海浄土の第三部には、水俣病患者川本輝夫氏につきそった石牟礼さんが
東京チッソ本社内で座り込み行動中に体験した一部始終が細密に描かれ、
自主交渉(実地交渉と彼らは言った)の苦難がこれでもかこれでもかと
綴られている。嗚咽なしには読めない。そしていつも最下層の民は持てる
者どもに踏みつけにされ、いや持てる者はその足の下に必ず踏み殺傷した
人が累々といるのだという世の悪習が証明されている。
腰が悪いくらいのことでなんか悩ましいことを言ったりしたらアホらし。

腰は、背骨は、身体の中心線であるから重要である。そこを17歳の時から
悪くして完治などしないものを抱えてきたのは、あるときは自分は罰当たり
なのだと思ったりもしたが、肉体のなんたるかをよく考え知るには必要な
ことであった。自在に走ったり飛んだりできないことが卑屈な、負の感情を
誘うこともあったが、なにせ慣れるしかなく、諦めるしかなく、そこから
始めるのである。

肉体を超えた先を思うのに、十全に働く機能を備えた身体とはどういう役に
立つだろうか。驕りという魔物からどうやって逃げ切れるのだろうか。

患者の苦悩を我がものとして歩み続けた石牟礼さんは視力を失ない隻眼と
なられ、そのことをむしろ良きことと何度も書かれたりしゃべったりされていて、
決してきれいごとや偽善ではないことがよくわかる。
深奥を見通している者に肉の眼は不要で、むしろ忌まわしい世なら映らない方が
いいと思われるのであった。悲しみなんてもんじゃない、絶句するしかない苦海
ならば。内に浄土を抱く者に辛いのは不完全な肉体ではない、非情と厚顔の
悪がのさばり歩く現世にいつづけ、眼をそらすことができぬことである。
息が苦しい。

わたしはよく想像する。
眼は近眼くらいで済んでいる。耳は外耳炎の癖くらいで済んでいる。
口はきけるから黙っとくように注意が必要。皮膚はアレルギーがあるが
世間にいくらでもある程度の弱さだから注意すれば済む。
鼻はすごくよく効き誰もにおわぬ匂いを嗅ぎ分けたりするし病を発見する
特技があるわけだが金になるわけでなし、おまけにやや低め。
それはいいとしてこの中のどれかを失しなうことになれば、どうやって
感じるのだろうか、どうやって考えるのだろうか、生きる現世を。
そんなことを思い試したくなる。自分の弱さを。
そして、強さを。

眼を閉じ、闇のなかで眼を開ける。
耳を塞ぎ、一点へ集中し、そしてそれを忘れ果てる。
仰向けになって養生するしかない時間、自分はなんと恵まれていることかと
思って、寝ていることが申し訳なくなる。
たいしたことはできない人生かもしれないが、申し訳が立つほどには
はたらきたいものだと、悔いたりする。

されど腰の重みと、歩けばギッチンギッチンと歪む足の運び。
誰にともなく、空に向かって、詫びる時を過ごすしかないがそれでも
足らないのである。



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失敗なのだ、がしかしおいしかった

2011-02-14 12:26:08 | Weblog
子どものとき、母にせがんで作ってもらっていたソーダまんじゅう。
「そうだ!まんじゅう!」なんつってダジャレではなく、ソーダは重曹のこと。
ふくらし粉の役割で昔はベーキングパウダーではなくソーダだった。
この味が突然うさこの脳裏によみがえり、食べたいなあと探せども都会には
売ってなどいないし、会津の蕎麦屋でみかけたときは、ふーん‥くらいの反応で
特に欲しくはなかったのだった。
ヒトの欲望とはいつも突然であるなあ。

うさこは母に電話し、どうやって作るの? と尋ねた。
メリケン粉たい、と一言主のような答えでハハハハハと笑っている。
作ろうとしていること自体を信用していないのであるね、たぶんね。
メリケン粉なんぞないよ、小麦粉のどれよ?と聞いてもなんね、メリケン粉よ、
と言うばかり。重曹のことも、その他何が必要かも言わず、蒸し器はあるか、
とか砂糖を入れるとおいしい、そりゃ贅沢さ、とか、ふんわりするよ、とか
いろいろ聞いていないことを連発して話してくるのであった。
だからさ~、と順番に手順を話してくだしゃんせ、そうでないとわからんよ
こっちは初めてなんだかんね、と強調すると、は~そう、と落ち着いてきた。



教わった通り、重曹と小麦粉を水で練り耳たぶくらいの固さにし、餡こを包み
ぬれ布巾で包んで蒸し器に入れた‥結果が上の通りである。
なんでこうなったのか! それはですねー、中力粉(メリケン粉)の練り方が
堅すぎて、おまけにアンコがなくて缶詰のゆであずきを使ったので包めなかった
のであります、そうまでして食べたかったのであります、直ぐに。

そして驚くべきは、美味しかったのであります。こんな姿なんですがー。
重曹の色が黄色くついて、表面がテラテラしてる、これがこのまんじゅうの
個性ですね、これが記憶にしっかりと焼き付いていて、重曹独特の味もします。
何がうさこを呼んだのか? まんじゅうとはとても言えない堅めの団子もどきの
コレを食べながら、母の方が背が高くて、その腰のまわりにまとわりついていた
小さな自分が思い浮かびました。

お母さん、あれ、しょっちゅう作って作ってと言ってたよね、でも忙しいって
言われてたよね、と話すと母は言いました。
「なんの、あんなんは忙しいて、すぐに作れるとよ、お金がなかったとよ、
材料を買うお金がね、小豆は米の値段と一緒じゃけんね」と。
眼から鱗。うさこの耳から花が咲いた。
子どもはなんにも知りません。
三度せがんで一度の確率で作ってもらえたまんじゅうを忘れられないのは、
何にも知らないはずの子どもがちゃんと母の気持ちもいっしょにパクパクと
おいしいおいしいといただいていたからであります。

お金に換えられないものだけが、心に深く残り、慈しみとなります。
母の手のような慈愛が自分にあるかどうか、とても自信がありません。
たぶんないでしょうね、歳をとったのになんだか頼りないこどものような我。

PS:ひさかたぶりの腰痛発作が続いて二三日椅子に座り続けることができませんで、
更新も間があきました、ちょっと快復してきたところです。
カメこと安房宮源宗先生の講演アーカイブスの上映も予定通り順々に行います。
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おやすみサザ之介ちゃん

2011-02-09 18:11:16 | Weblog

友人がかわいがっていた飼い猫を亡くしたという話を聞いて
さぞかし落胆したことだろうと思う。きのどくなことだ。
迷い猫、野良だった子を餌付けして保護し飼ったと聞いていた。
猫の話をするときには和らぐ友人の顔を思い出す。
部屋のなかに気配が残っているだろうか、それともぽっかりと
穴が空いたままだろうか。

愛情を独り占めしてくれていた者が目の前から消える。
そして消えてなお脳裏のあちこちから現れる。
記憶なのに温もりが伴って、懐かしさや悔恨が寂しさを誘うだろう。
忘れることはできない。
触って確かめられた時間を超越して不動のものに昇華していく愛だ。
悲しみの分だけ、より強くなっていくのだろう。


(子だくさんはもうオシマイのシマコ記念写真)

ゆっくりおやすみ、そしてありがとうサザ之介ちゃん。
&ちまたの猫たち。



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ダルユルな時を

2011-02-08 22:42:49 | Weblog
通りすがりの景色を撮ろうと車を止め、カメラを取り出そうと
して視線を感じた。
う~ん、ベイビーのダルユルな、その目線が好きだ。
なんだか風景写真はどうでもよくなって、君を撮ってしまったよ。


プレゼントのJ.P.エヴァンのチョコレートとベイビー。
好きなんが二つ、並べて撮ってみました。チョコありがと。

いわゆる、癒しっていうんでしょうか、世間では。
でも癒しで孤独は消えるかっつーと、どうかなあと思います。
ベイビーの体温を感じて暮らすのは確かに寂しさを救ってくれる。
けれども先に言った孤独って、絶対的な孤独。
存在に影のように張りついているものだ。それはまぎらすことはできても
消せやしないのだと思う。


どこからわたしたちがやってきたのかということを知ることしか
孤独から解き放たれることはない。
永遠の記憶。それは純善である。

わたしたちは悪にまみれて生きているけれど、わたしたちの中に
確かにある純善を思い出すこと。
知って、ああ、そうだったと思い出すことだ。
細くて頼りない糸をたぐるようにして、かすかにでも感じることから
始めることだ。

眞縁(まよざし)の故郷を、胸の真ん中にしっかと抱きしめられるまで
求めることだ。求め続けていればあたたかな、熱い故郷があると知る。
それは眼で見る地平ではなく、感じる慈愛。
人の情愛も悲しみも超えた純善の真っ白な世界がある。

いつか孤独ではないことを知ることができると思う、誰もみな平等に。
生きて学ぶのはそのためだ。


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世俗の塵を払う

2011-02-07 11:40:55 | Weblog

そんな言葉は耳慣れているけれども、実際には都会が好きな
人が多いんじゃなかろうか。
いやだいやだと言いながら人ごみにまぎれ買い物へ行くし、
いやだいやだと言いながらテレビを消さないし、テレビ派
ではないなら流しっぱなしのラジオ。DJの軽薄なおしゃべり
(軽くしゃべるのが仕事だかんね)が続き時々は耳を傾けたり
する。

離島の暮らしをテレビで見て、今度の旅行はあそこにしよう、
自然っていいよねーとか女子会で話すOLさんはまぎれもなく
都会好き派である。ネイチャー、エコツーリングは流行に過ぎず
行って帰ってきても生活も生き方もなんら変わらない人の方が
断然多いのである。
仕方がない、ってことはなく、変えないだけである。



世俗の塵を払わないのは、自分が塵だからであって、塵は塵を
塵と認めたりしないのであるね。



知ることの第一、第一はいろいろ言われている気もするけれど
己を知るの知るは、己が塵同然であることを思うことからじゃなかろうか。

すると、世俗の塵を払うんではなく、離れるということしかできず
払うというのは上から目線であることに気づく。
離れれば孤独である。この孤独を逃れるために人は俗世と交わる。
交わらないと不安なのである。
しかし、それは本当の交わりなのか。縁はそこにあるのか。

孤独は消えたか。
世俗の中にいて感じる孤独と、山ん中にいる孤独とどっちが辛いか?
そりゃあ、いわずもがなのことで前者に決まっている。
それもたいていの大人は知っていることであるね、うさこが
ここで書かんでも。

だからどうする、のこの先はまた今度にしよう、本日お疲れ様の日。
治療院へ行ってあったまって(インディバ療法)きまーす。

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その名はリキコ

2011-02-06 11:17:23 | Weblog
名前は最初リッキーとか言うので男子かと思いきや姫君でした。
パワー溢れているのであやかろうと旦那さんがつけたそうで、
姉貴はそりゃあんまりよと、リキコにしたようです。
そして、夜な夜な暴れ回り、日に日に知恵つけてくるリキコに
寝不足気味だと、メールがありました。

いわくつきの貰い手のない赤ん坊を引き受けてしまった姉貴は
「寝てるときが一番いい子」なんて言いつつ、もうすっかり虜に
なってしまったようで、「いい子に育てる」と言っています。

そこで予言します。
リキコはいい子になるかもしらんが、姉ちゃん、あーたがいい人に
育ててもらえるよ、リッキーに。

犬は人を変えますからねえ。うさこも然りでありましたから。
育てるというのは育てられること、そう思います。
心でなければ通じないということを犬はしみじみ教えてくれて、
バカ犬の飼主は、言っちゃあなんですが、だいたいオオザッパ。
人それぞれでよけいなお世話ですが、ま、これ本当のことです。

うさこは常々、親分の影に見張られているんであります。
一人で運転しているのに、つい後部座席に視線を感じたり、あるいは
吐息を感じたりして、振り向こうとしたり。
歩いているときは左側をピタッとくっついてあるく黒い塊がないと
スースーします。
黒い影はつきまとい、うさこの無駄な暴走を食い止めて穏やかな日々を
継続させてくれる守護神であります。

リキコ、姉貴をよろしく。
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外へ出なさーい

2011-02-05 09:39:55 | Weblog
おもてへ出ろーじゃありません、外へ、です。
寒いのでなかなか出ないうさこに、業を煮やしている親分です。



雪がなかなか融けません、凍っています。



心は凍らないように、あっため合いましょう。
ベイビー、スリスリでいいです、ゴンゴンじゃなくって。
ゴンゴンくると滑って転びますけんね。

勢いがあるときは、そっと深呼吸して丁寧に歩こうと思い直そう、
そうしよう。


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樹はこころ

2011-02-04 01:34:49 | Weblog

この時節、もう白い梅の花がついているところもあるだろう。
森はまだまだ冬真っ盛りだけれど、贈り物にと一枝をいただいた。
来る途中、どこかで折ってきたらしいけれど、
「樹はこころ」なんつって、笑っていた。
あなたが好きだろうと思って、とか言うし。

贈り物は何がいい?と聞かれたら、何と答えるか。子どもの頃には
予定もないのに夢想した。アレコレ、思い浮かべていた時間は楽しかった。
それは届く物に執着しているのではなく、見えぬ何かが喜びをもたらす予感。
それをごちそうのように味わって楽しんでいたのだろう。
実際に物を見ると人の気持ちというのは妙に醒めるものである。
子どもだってそれは同じで、いやむしろ子どもの方が冷静に物を見る。
コレはいる、コレはいらない、欲しくない、と飽きるのも早い。
正直だった。


(この方はジーサンになった今も正直です)

大人の世界はそこんところは難しい。
気持ちを形で表すということが下手になっていくような気がする。
世間の常識とやらに振り回されて、形にこだわりだしたらもう夢想できない。
これをアノヒトに届けたいという思いは薄らいで、届ける己に執着し、
恩着せがましくなったり、卑下しすぎたり、私に偏るのである。
もう贈り物どころではなく贈る意味が儀礼と成り下がってしまうから
贈り物が悩みの種という話はよく聞く。お粗末なことだ。

アノヒトの笑顔を思い浮かべて物を選ぶということを何年も続けていると
(たとえば盆暮れ年の二度あるからね)同じ人に同じ物ではなく年々違う
物を選ぶ。それが十年を過ぎるとほぼ一巡して新しい物を探すのが難しい。
サプライズなど狙っていないけれど、気持ちとぴったりくるものが難しい。
迷い迷ってそのうちあっと思いつくのである。
そのときは自分がもらうわけではないのにすごく嬉しい。

届いた後の笑顔を想像し、発する声が聴こえる、あ、コレと決まる。
そして礼状や電話やらが返ってきて、お返しのリンゴなどが届いたりして
ほっと安心する。つながっている線の端と端に物があって、人がいて、
物はヨリシロとなる。幾人かの人とそうしてつながっていれるのは
しあわせに生きている証である。

樹はこころ、手折られた梅の花の白が部屋を明るくして、つい笑いが
こぼれる。

モノは要らぬという方へ、何を贈るかと思案するのは野暮なことである。
要らぬと言われてもそこはソレ、何かをせねば、と思うのはさらに野暮。
礼節の深さ、極めていきつけば志と信しかない。
さて、その二つはどうやって手に入れましょうやとさらに問うたり、
人でなしは心もどこかで売っていると思っているらしい。






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お国恋しや、お国はどこにあるか?

2011-02-02 01:50:08 | Weblog
在日4世のサッカー選手が1ゴール決め一夜で有名になったアジア杯。
翌日夕刻のテレビニュースは話題の人が出演し、ヒーローになりたかった、
なれて嬉しいとコメントした。
帰化して日本代表として出場したわけだが、日本代表としてではない一個人の
出世街道まっしぐらを目指す本音が吐露されていて、ワールド杯からこのかた
一丸となって闘う代表チームと著しく異なる波動に違和感を覚えた。
残念な思いと、激しい競争社会ゆえのいたしかたなさと、あいまってやはり
不快さのほうがまさっていたのだった。

人にとって祖国とは何だろうか、故郷とはどこをさすのだろうか。



わたしの故郷はこの森である。
いや事実、物質的には九州の片田舎であり、この風景とよく似た場所を見て
育った時期が数年でもあるのだが、そこを故郷とは思えない。
愛する人がそこにいるわけでなし、睦い人ももういない。覚えているのは
忌まわしい記憶ばかりしかない所なので、帰らない。
この森がなぜ故郷であるかは、わたしがここを選んだから。
そしてこの樹々がわたしを育んでくれるからだ。

しかし、この森の住所は本籍地ではないし、実際の出身地ではない。
つまり土地そのものではなく、ここに漂う気がわたしを包んでいる。
わたしもこの気に溶けて一体となって自然でいられる。
そのとき、わたしの肉体もわたし自身も一つになって森の中を軽く漂う。
安心していられる。さみしくない。

人の故郷とは、どこにあり、何をさすのか。
祖国とは何か。

わたしは世界じゅうの誰とでも親戚になり友人になりたいと願う。
膚の色や髪の毛が異質でも生まれてきて覚えた言葉が違っていても
わかりあいたいと願う。
そしてそれはかなわざることではないと思っている。

なぜならば、国境とは人が作り、人が書き換えてきた幻である。
これからさきの未来、いくらでも変更可能である。
幻の線をまたいで、幾億年も人は移動し続けているのである。
たかが千年、数百年のことで、敵だ味方だ争いだと言いながら、
人は産み、育て、混ざり合い、増え続けてきた。



在日4世の君が日の丸を背負ってボールを蹴っても少しもおかしくはなく、
在日という肩書きがむしろ邪魔なのではないだろうかと思うのだが。
それがどうしても必要ならば、日の丸をぬいつけたユニホームを着て
栄光は我が物にと望むなら虫がよすぎはしまいか。

若くて感情だけがほとばしる。悲しくも愚かなことであるといずれ
わかるときがきて、そんなこともあったっけと無心に走る、そうで
あることを願っている。
勝利の神が降りてくるのは、無私の働きに対してである。







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