想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

野生の友たち

2020-07-31 00:58:57 | Weblog
夜道を走っていたら前方、道の真ん中でミチクサを喰っている!驚くことなく草を食み続けて通せんぼ。
あー、あの庭に来てた瓜坊たちだ。シマシマがとれて独り立ちしたのか、きょうだい仲良く夜の散歩中かよ! 
車をソロソロ前進させる。やっと端によけてくれたが食べるのはやめない。どうにか通り抜けた。
こぎつね、小鹿、ネコ、そしてイノ君。
いつぞやはツキノワグマの子どもが呆然と立ちすくみ、それから慌てて川の方へ、茂みを踏み分けて渡って行った。それきり熊とは会わないが、あのときは夜ではなくまだ明るい時間だったから胸元に白い毛がみえた。熊に注意と書かれた立札がまだ立っていない頃だった。今ではヒトに注意と標を立てた方がいい…




会いたい会いたいと思うときは何にも起きないが、こんなににぎやかな夜はめずらしい、おかげで昼間の出来事でそれまで気分が塞いでいたのがいっぺんに明るくなった。

ここでは野生の中にいることを感じる。混ぜてもらっている側である。
けれど、このところ山道のすぐ近くまで大型ダンプとブルドーザーの音が騒がしく聞こえてくるようになって、雑木林の木々が伐採された。数日で真っ黒な平らな地面が現れる、そういう場所が数カ所ある。何をしようとしているのか工事の告知板がないし、村はずれだから人知れず行われている様子。まるでわからない。
環境省の除染土埋め戻しかもしれなくて、ザワザワと不安になる。イノ君やキツネ、小鹿がいるところが人災の後始末のために侵されるのは腹立たしい。

なぜだろう。
こうして、人はやらなくてもいいことを欲張ってやり続けている。
何故の答えは金のために。
金を天下に回さず、我欲で自分の懐に集めるだけのヤツを守銭奴というと教わった。そういう者は金より価値があるものがあることを知らず、またそれに一生出会うことはない。目の前にあっても気づかないからだ。

野生の友の近くは楽園だぜ、金はないが。
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命について考える

2020-07-26 17:27:34 | Weblog
痛ましく、おぞましい二ユースが
不吉な予兆のように届いた。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者を
死に至らしめて100万円の報酬を
受け取った医師2名の逮捕である。

先頃から「命の選別」という言葉をどう
解釈するか、優生思想であるか否か
というつまらない話が飛びかっている
まさにその最中である。
悪魔が笑っている。

実行犯は元厚労省技官の医師であり、
もう一人は医師免許を経歴詐称で取得
したということも調べ中とのこと。
ネットで契約し報酬を先に受け取って
実行した。

死ぬことの自由を主張する者たちは
それを権利という。
だが、今回の方法は別だ、論外だという
だろうし、あるいはだからこそ法整備が
必要なのだというのだろう。
北朝鮮がミサイルを打ち上げ、政府が
ソレ、と憲法改正をぶち上げ、非武装、
専守防衛を捨てたように、いっきに軍隊と
名称変更せよ、急げよと勢いをつける。
それとよく似た話で、物事を単純化して
誤魔化す手法である。

高齢化社会へ突き進む今、経済力を維持
していくためには命の選択は一つの方法
として必要なのだという思考回路の原点は
どこにあるのか。
経済力は命の選別で解決するわけではなく
選別した先にあるのは喪失の連鎖である。
産むではなく削る方法。削るならば、他にも
削らねばならないものは山ほどある。
優先順位どころか、膿の溜まった現実から
目を背けて、最も弱き者へ矛先をむける
最低な発想である。

経済と金融論に詳しいという大西氏が
高齢者の画一的延命のために医療費を
費やし若者の生活を犠牲にしていいのか、
と叫ぶと自分たちの未来のための政策を
言ってくれていると賛同する若者もいる。
しかし、大西氏はすでに若者ではないし
若者もいずれ若くはなくなることについて
想像力を働かせているだろうか。

命の選択カードを所持することを義務化
して臓器移植のように選別すればいいと
いう意見もあるが、それも同じである。
人は死の時を選べない、一寸先は闇と同じ、
宣告されてもその瞬間は神のみぞ知るなのだ。
身内の臨終のその時を待たねばならなかった
経験のある人はよく知っているだろう。
その瞬間まで人は生きている。
死が隣に忍んでいても、棒のように立って
見下ろしていようと、本人はまだ生きている。
死んで喜ばれるより、その死を惜まれる存在
でありたいのが本音ではないか。
死を待たれるのは寂しいことだ。

誰もみな等しく、自ら生まれたわけではなく
命は与えられ、恵まれたものである。
生命与奪の権利も放棄も人間には与えられて
いない。命のスタートを恵まれて誕生しただけだ。
人が権利だなんだと決める領域以前のことだ。

自死したがる人、自死してしまった人、
それは幸福ではないと思ったからだ。
生きている喜びを感じたいのに、
そうならなかったという思いに苛んでのことだ。
喜びと希望がほんの少しでもあれば、人は生きて
いくのだ。自ら死を望んだりしない。
それはALSで呼吸器を付けなければならなく
なってもだ。寝たきりを不幸だと思うのは
本人では無いはずだ。
そう決めつけるのは周囲なのだ。

事件後、れいわ新選組の舩後議員は
改めてメッセージを出された。
「『安楽死を認めて欲しい』『苦しみながら
生かされるのは本当につらいと思う』と
いうような反応が出ていますが(中略)
強い懸念を抱いております。なぜなら、
こうした考え方が、難病患者や重度障害者
に「生きたい」と言いにくくさせ、当事者を
生きづらくさせる社会的圧力を形成して
いくことを危惧するからです。」

舩後さんは苦しみの末に、自分の経験を
伝えれば他の人に役に立つと気づき、
自分の姿を公に晒し発信していくことを
選んだ。それを使命としてきた。
舩後さんを特別だという人もいるが
そうではない。
有名無名に限らず、当事者の周囲で介助
している人が助けているだけではなく、
自らも助けられ教えられていることに
気づいていく。そういうケースは多い。
それは差別された側が必ずしも被害者
ではなく差別するものを救済する存在
であることと同じである。
差別はいけないというが、難病の障がい
者の命や、人の手を借りないと生活が
できなくなった高齢者の命を、自分の命
とは違うもののように線を引くこともまた
差別だと気づいていないのでは無いか。
大西氏は「政治による命の線引き」政治の
役割だと思うとスラっと口にしている。
舩後議員はれいわの総会後に大西氏を
「高学歴の人にありがちな傲り」が見え、
残念であったと語っている。

弱者に寄り添うという言い方も手垢が
ついてしまって使いたくなくなったが、
弱者も元気な人も頑張らない人も同じ
一線にいる社会を目指す党という初心
からすれば、大西氏の発言は傲慢と
言われても弁解の余地はないだろう。
(れいわは山本太郎が一人で立ち上げ
そこへ大西氏が参議院選候補者として
加わったのが経緯だから立党の初心が
共有されていなくても、まああり得る
ことだ、残念だが)

若者の未来を思うならば、今ある腐敗
政治を叩きのめすべく一致団結する
のが先である。それを棚上げし、中間層
の票を獲得する政策が必須などという
考えを巡らせたのは焦りだろう。
焦っているのは国民も同じである。
明日の保証のない社会にすでに陥って
いるのだから。
その危機に乗じて最もたやすいのが
身近な敵を作り憎悪という情熱をそこ
へ向けさせることである。
策略家はそう考えるだろう。

しかし、舩後議員の目指す「生きたいと
思える社会」は、誰かを排除して自分が
生き残る方法では手に入らないのだ。
安楽死の権利を望む人へ、時間の許す
かぎりを楽しんで生きたいという気持ち
にさせる社会を作るのは容易ではない。
ただ、恵まれた命の使い方としてまっとう
ではないだろうか。まっとうでなければ
政治を志す資格はないと思う。

最も人間性から逸脱することが殺生である。
殺生は世の中に満ち溢れ、私たちは多くの
命を食んで自らの生命を養っている。
殺生の役割を担う職業を生業にする者は
喜んでそれを行なっているわけではない。
育てた命をトラックに乗せて別れるとき
別れの辛さ切なさがないわけではない。
それらを飲み込み、再び命の誕生を喜び
あい、愛しみ、別れる。感謝と慈しみなしに
できることではない。
ショーケースの中の赤い肉片の塊しか
見ない消費者には解らないことだが。
親を看取り、子を育て、喜んだり悲しんだり
しながら時が過ぎ、また子の世話になる
時がくる。この恵みの連鎖を法で断ち切る
のは、人間存在の根本をゆるがすことに
つながる。

れいわの混乱から考えてきたことを
書いてみたが、政治に物申すというより
古伝に学んだ命のありかたを元に考えた
ことを述べた。
「線引き」など、神に唾する愚かものの
言葉だと思う。
大西氏の言動に落胆したし、それに
賛同する人々が少なからずいることも
危惧している。
れいわ新選組は出来立ての党だが、
それはわたしたち有権者がすべきことを
山本太郎という逸材がやってのけて
くれたから始まったのだ。
それを忘れてはいない。
この国で誰もしなかったことをやろうと
している勇気ある者に、必ず大きな手が
差し伸べられると、心のどこかで
信じている。

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YouTube大西つねき氏 「都知事選総括」を視聴して

2020-07-07 15:50:28 | Weblog
(下野草・シモツケソウが咲いた)

れいわ新選組の大西つねき氏が都知事選を
YouTubeで総括されていたのを見た。
いろいろあるだろう感情的なことは抜きにして
数字の話、今回の得票が持つ意味について。
結論は、れいわの候補者ひとりひとりが山本
頼みではなく自力で訴える力、言葉を持たねば
支持が広がらない、だから自分も含めて、
候補者それぞれがこれから努力しようという
檄であった。いつもの和やかな話しかたで、
そういうことを言われた。



それはそうだろう、と思う。
だが、貧困層へ的を絞っての街宣演説は
中間層の共感を得られず、裾野が今ひとつ
広がらなかったという見方は、果たして
そうだろうか。 アンケートの
「70%が自分は貧困ではないという答えは
そう思わされているからなんですよ」という
コメントを受け、そうかもしれない、確かにと
最後に付け加えられていたが。
であれば、その思い込みを解くためには
どうすればいいか、どう話せばいいか、と
大西さんは言われた。

本当の気持ちは同じなのだろうが
それにしても、やはり選挙で負けるという事、
そしてあの得票率を目の前にすると‥‥
落ち込まないで、次の備えに切り替えて
方向性を打ち出そうとしているのは
頼もしいが、少しだけ違和感が残った。

それはやはり感情の問題なのだった。
理不尽なことに直面したときに誰でも
多少は傷つくから。
しかし感情は初心を忘れさせもする。



山本太郎を支持する理由は一つ。
政治に最も必要で大事なことから的を
外していないからだ。
的を得ている政治家はそんなにはいない。
政治は多忙でもある。
いくつもの法案の中で、何を優先させるか、
政治の眼が確かでなければ的を絞るのは
難しい。利権と結びつくのを当然と思って
いる政治家は自分の都合で的を決める。
山本太郎には今のところ私利私欲という
余計な荷物としがらみがない。

今回の都知事選はコロナ対策を前面に
訴えていたが、それは彼がずっと前から
やってきた貧困対策の延長にあるものだ。
コロナだから急に言っているわけではない。
街中を歩いて人々に声をかけ、話を聞いて
きたから机上のデータや理論で物を言う
のではない。実感をともなった話を、
感情的だという人もいた。そんなことを
いうのは恥ずかしいことなんだが。

本当のことをそのまま言わない日本人の
変な美徳みたいな習慣からすれば、
山本太郎の話し方、演説はキワモノという
悪口になるのだろうが、中身を聞いてくれ
と思う。そして、その中身があなたの胸に
響かないならば、少しも共感しないならば
あなたがどうかしているのだと、私は思う。



仕事場は東京だが、住民票はない私は
もっぱら友人知人に声かけをした。
もう前からだから、ほとんどが即オーケー
もちろんだよ、太郎推しでやってる、という
返事が返ってきた。ああ、とほっとする。

政治家山本太郎を信頼し、期待するのは
世の中を良くしたい、悪がまかり通る今の
現実を変えたいという気持ちがその人に
あるからで、人として当然の選択なのだ。
自分の都合がかかっているからではなく、
良い社会を、と考えるのが人の道である。

住む場所がなく路上にうずくまる人を
見捨てない社会、ご飯を食べられない子ども
個人の小さな店や障がい者や弱い人に
明日への道を開く、そういう道を模索し
考える人に政治を託そうと考えるのは、
その人自身がそう生きたいからだ。

平気で嘘をつく人々が当たり前の顔をして
破壊してきたこの二十年、地崩れする
ように、善悪の分別という社会の基盤が
壊れ続けている。今や、真実は隠されるのが
あたりまえという最悪の状況だ。
中国、北朝鮮と嗤っている場合ではない。

大西さんのいう困難はよくわかる。
しかし、根本理念を支えているのは
山本太郎の優しさであり、清さであり、
そこに集結した前の参院選の候補者
たちも同じ共通点を持っていた。
党紀とかいうもので縛らずゆるやかに
結びつき活動するという方針も、従前の
政党とは異なっている。
それぞれの専門性と経験と個性を活かし
た布陣でのスタートに目を見張った。

都知事選で、れいわの候補者が応援演説
に呼ばれなかった、呼ばれるくらいに
ならないといけないと大西さんは話したが
「大西さん街宣に来ないかな」という
ツイートを見かけたことがあったので、
呼ばれずとも行けばよかったのにと思う。
山本太郎のゲリラ街宣とは別に、自前で
チラシ配り、れいわののぼりを立てて
駅頭演説をしていた渡辺てる子さんの
ような前候補者もいたし、それぞれの
場所で頑張っていた。
それはいいことだと思った。



古い日本の悪しき因習と慣習を破るには
従前の党のあり方ではできない。
野党統一候補の条件に妥協せずに自党
単独での立候補は困難であったにせよ、
妥協して当選しても志を遂げることは
なお困難なのだから正しい選択だった。
この正しさは、そう簡単にできることでは
ない。(宇都宮さんが不本意だろうが、
政策で妥協してみえたのは残念だった)

その不器用にも映る正しい男を熱く支持
する人たちを信者と呼ぶのは間違いだ。
信者とは教祖の色に染まるものだ。
山本太郎はそれを望んではいない。
力を貸してくれ、いっしょに闘ってくれという
だけである。

一緒に闘うとは、どうすればいいのか。
それは山本太郎が打ち出した政策を
よく知ること、よく考えることから始まる。
頼みにしているからよろしくということ
ではなく、自ら知り考え、理解し、共感
してこそ闘う力となるだろう。

一塊の熱を周囲に波及させていくには
知の力は必要である。あの人は信じられる、
いい人、ということではなく政策の話だ。
それはこの国に生きている人に無関係な
ことは一つもなく、まわりまわって自分に
めぐってくる問題だ。
そのしくみを知ることが政治の膿を出す
改革につながる。


(石ころに紛れるセキレイちゃん)

SNSは熱狂だけではない。理路整然と
170字を繰り返して伝える人もいる。
「#検察庁法改正案に反対します」の抗議に
加え、元最高検検事の清水勇夫氏が書いた
意見書は新聞に掲載され大いに話題になった。
虚飾なく、説得力ある名文であった。
ロッキード事件捜査に粘り強くあたった
検事の真骨頂である。
その後、文春砲も効いて黒川氏は辞任に
追い込まれ、また法案も流れたが、
清水先生には、時期を逸せず正しい行動を
とることができる信念の大切さを改めて
教えられ、励まされた。

正しいことを心の底から表す人の言葉に、
声に、人は勇気を得ることができる。
山本太郎を一生懸命支援する人に共通
するのは感動という言葉だ。 そして、
自分が受け取った感動を誰かに伝える
とき、同じ熱量で伝えられるかどうか
自分の本心が問われる。
もらった勇気を誰かにあげるための
本心。

大西さんは数字の話をしながら、冷静に
とか言いながら、冷静ではなかったけれど
やはりいつものように心の話からズレては
いなかったのかもしれない。
大西つねき氏が国会で山本太郎とともに
立つ日が遠くないことを願っている。













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