想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

盲(めしい)てもなお

2009-12-26 19:04:21 | 
本居宣長の実子、春庭は若くして目を患いついには失明した。
鍼灸医の修行を積み故郷松坂へ戻るが、志は父宣長と同じ国学
の研究を続けることにあった。完全な盲となって後に書き上げた
書物は国学、国語学研究の礎となっている。
(足立巻一著「やちまた」朝日文芸文庫刊、上下)
宣長が古事記伝を書き上げる助けをし、幼少時より教えを受け
て育った長男であるから当然というわけにはいかない。
ただでさえ言語研究は緻密で根気が要るのに春庭は盲なのだ。
足立巻一の執念がこもったこの本のおかげで、これまた執着の
(よい意味での)鬼のような春庭にめぐりあうことができる。




旧事本紀は漢文表記に振り仮名を振って動詞をつけて読み下して
いくので、動詞を間違えれば文意が異なってくる、つまり解釈を
まちがえる。注釈文にたよって読むと、解釈がいくとおりもあり、
おおざっぱななされ方をしたもので誤解、誤読することになる。

やちまたとは、春庭が研究して探りあてた日本語古語の動詞変化
の法則、八方に広がる変則をあらわしている。
たんに多くの事例を引き寄せて検めていくだけのことではたどり
つけない、それは実際にやってみるとよくわかる。
詞を読み取るには霊感、魂の響きが必要である。そのことを宣長
から教わったであろう春庭は、どうしても見えなくても、自らの
手であきらかにしておきたかったのであろう。

数日前にミステリー作家多島斗志之氏が失踪というニュースを
知った。「両眼失明、筆置き社会生活を終了する」と周囲に手紙
を遺してとあった。
まずわが身に置き換えると、心臓の鼓動が高鳴り身動きがとれない
ことは容易にわかった。自分は一歩だって闇のなかで歩くことはで
きないと思った。
思うがしかし、盲目を理由に「終える」のはいけないと思い直した。
意気地なしである。作家は死ぬときまで現役の職業だ。
その後のニュースを知らないが、無事でまた書き続けられることを
願っている。
そんなしだいで春庭のことを書いた。
そして、カメに教わった「たゆまずに歩け、おこたりなく」という
こともまた思い起こさずにいられなかった。

追記:
日々拙文を読んで頂きましたこと心から感謝しています。
今年も残すところ数えるほどになり年始のご挨拶もしたいのですが、
所用にてしばらくブログ更新を休みます。
〆はベイビーの顔で失礼いたします。


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饒舌なアイ・コンタクト

2009-12-25 01:09:16 | Weblog
何を見てもどんな時も、すごーい、すごいー、すげー、っつうかスッゲエー‥‥、
これだけでリアクションする人、なんだか増えた気がする。老若問わず。
江國香織の小説にゴージャス、プリティー、シット(だったかな)しか言わない男、
けれどイケメンらしい彼氏が出てくる短編があるのを思い出し、実際いるよなあと
苦笑いする。ちなみにこの話はハッピーエンドではなかった、もちろん。

うちはアイコンタクトだからもっとも言葉は少ないんだけど、アイコンタクトの種類は
豊富だ。ベイビーは目で合図するので、それを読み取ってわたしも目で返したり、口に
したり、そのときどきだけど、声に出した方が喜ぶ気がする。でもわざと口を開かないで
目だけで返すのをしつこくやるときもある。それはこっちが楽しいからであって、
犬的にはヒトなんだからおっかあはしゃべれよ、と思っているかもしれない。
とにかく、わたしは二つ三つの言葉でしか表現しない人とは一緒にいられない質なので
感情表現豊かなベイビーの目が好きだし、だから楽しく暮らせるんだろうと思う。

動物が何も言わないのをいいことにヒトが勝手な解釈で思い込んでるとよく言われるが、
本当にわかりあうことはあるのである。
人は自分が思いたいように思うものというが、それなら人対動物の場合だけではなく
むしろ人が人に対しての方が思い込みの度合いは深いのではないだろうか。
噂とか陰口とかはそうやって生まれるし、嫉妬の類いも思い込みから始まる。
動物と共に暮せば、勝手な思い込みや妄想が通用しないことはわかることである。

話変わって今年もK氏からリンゴが届いた。
K氏は恩人なので歳暮をいただく立場にないのだが、長年の行き来から数年前からお返し
で冬はりんご、夏は梨が届くようになった。
今ではメールで消息を知らせるくらいになったが、りんごの箱を開けたときの甘酸っぱい
香りと一緒に、どう? 元気にしてるかい?と声が聞こえる気がする。

十年ほど前理不尽な裁判で苦労していた頃、助けてもらった数少ない知人、先輩である。
(裁判などすると友人知人が日ごと減っていくのであるよ、だから希少な存在)
今は交流はほとんどないが、契りの証のように届く贈り物。
申し訳ないなあと思う。けれど、ほっと安堵するのも本当の気持ちである。
いつも前もってお断りしなくてはと思っていると見透かしたように直前に届く、そんな
タイミングが続いていて、いいんだか悪いんだか、まあ嬉しいからいいことにするとして。

ある年のこと、銀座の小さな料理屋でK氏と食事をした。そのときK氏の夢の話を聞いた。
フィリピンに学校を建てる、夢じゃなくて本当にやる、と言っていた。
スラムに住む子たちの話をした。ゴミ拾うしかないのだよ、生きる術がないんだと言っていた。
その頃のわたしは何を思っていたのだろうか。
今ならその話、乗りますと言うかもしれないと、あの時の少しだけ酔っていたK氏の顔を
思い出しながら考える。その頃、正直わたしの興味は別のところにあったのであまり関心を
示さなかったのだ。

   

なぜ君はあんな山の中に通うんだい? というわたしへの問いから始まった話だった。
「子どもが学べる場所を作る、今は大人が集まってるけど、子どもが大事だから」
と言ったと思う。するとK氏はああ、ぼくと同じだね、と先の話をし始めたのだった。
そんなこと考えてたなんて想像もしなかった、だってコンサルタントなんて金儲けの話
ばかりしてるじゃないですか、とわたしが返すとK氏は大笑いした。そうだね、確かに、と。
でもこんなのは行動すればいいだけだからさ、話さないよ、無言実行なのさ。資金はあとから
ついてくる、って実際大変は大変だけど、まあやってるよ、もう始めちゃったからさ。
君も、君ならきっとやれるよと言われた。わたしは、予想外の話に内心驚いたし、そして
この人と出会ってよかった、こういう人だからわたしを助けてくれたのだと知った。
店を出たら雪が降ってて、そうか、あれは冬だったんだ‥‥。
あれからずいぶん会っていない。
けれど「行動だよ」と言う声が、果物の箱を開けると聞こえてくるのである。
      
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冬眠に適した場所

2009-12-22 11:13:32 | 
ここは静かだ。
週末や休暇で近くの一軒家に人が来るのがわかるのは、木陰から明かりが漏れてくる
からで、車のエンジン音も森全体のさまざまな音にまぎれてしまって気づかない。
音を立てるのは、せせらぎ、鳥の羽音、風のうなり、それも雪が降れば消える。
冬は眠りの季節、なのに透き通ってみな光りを放ってもいる。
内がわの光り。



師走の東京、今週はクリスマスで賑わっている。けれど来週仕事納めが過ぎるまでのことだ。
すぐに大移動が始まって都心部は人が激減する。
そして晴れていれば空が澄み、騒音と排気ガスが減った分、いつもより広々と感じる。
同じ場所なのに、違った顔をみせる。どちらが素顔なのかわからないけれど。



静かになっても東京は冬眠するには適さない。事務所の窓からのぞむ青山霊園だって
さきごろは不埒なカメラマンが騒動を起こしたりしてて、霊園だわよ、狂気の沙汰。
でも田舎にはない広大な公園があるよって時々言われるけど、あの小径は人工的すぎて
ドッグランとやらでオイヌ様仕様になんかするから座敷犬が走り回ってるし。
鳥まで都会の鳥はなんだか違うことを考えてるように見えてしまう。
野良猫は生き延びようと処世に長けたか、若い猫も顔から野性味が薄れてる。
どこもかしこも、SECOMが必要でうかうか眠れやしない場所なのだ。

冬眠って、春がくるまで眠ってることだかんな、死んだふりして内側でピカピカと。
森は静か。養生するなら森です。
新しく生まれる時まで。

PS:
キリストさんは関係ないけどお祝い続き、明日は姉、明後日はあちき。
マッターホンのケーキごちそうさまです。
キー坊、お誕生日おめでとう。時々(笑)心配してくれてありがとう。
これまで生きてこれておめでとう。そしておかあさん、ありがとうございます。
イヴ生まれは、ハハハハ、損なのか得なのか、わかりませーん。
覚えてもらいやすいことは確かだけど、だからなんなのさってことでもあるし。
この歳になって誕生日をなぜ祝うのか、わかってきた愚か者だしな。
そういえばとても好きな本、川上弘美の短編集「おめでとう」をまた読もう。
「おめでとう」は時を超えて遠く、万葉の時代も超えて、もっと遠く飛鳥より前の
この世でもなくあの世でもなくひとつづきの世界を思わせる。
そんな感覚がわいてくるのはわたしだけかな。
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仁は愛のこと、老犬ラブ

2009-12-21 14:48:01 | Weblog
あったら怖いものの一つ、デブ賞(そんなの競ったら早死にしますぜ)。
変換でのざれごとはさておき、ベイビー(といってもアゴが白いね)は玄関で出不精、
思案顔である。犬とてあまりに寒いと考えるらしい。
そこが大人になった、いや歳をとったとわかる所以なのだが笑える。



結局、誘惑に負けて縁側に陣取る。いいメーワクである。入ったり出たりで玄関から外気が
入ってくるからだ。彼に言ってもしかたがないのでしばらくはつきあうことにした。
オヤツのみるくぱん(犬用)を二個召し上がり、思いのほか早く腰をあげる。
やはり冷えがこたえるのか、それからしばらくは出たがらなかった。

以前ここでも書いた『チャーリーとの旅』(ジョン・スタインベック著)に登場する中型プードル犬、
チャーリーもまた老犬だった。当然、旅の相棒としてはやや心配の種を抱えている。
人間も犬も老齢になると排泄機能が衰えるのは同じで、チャーリーもまた思い切りよく小水が出ない。
木陰に用をたしに行ってなかなか帰ってこなかったりする。
スタインベックの愛犬に寄せるやさしさは昨今ちまたに溢れているペット溺愛のそれとは
異なる次元のものである。
犬とかヒトとか関係なく向けられる、差別のない愛情はどこからくるのだろうか。

わたしは何度も書いたと思うが、うちのベイビーに愛を教わった。
もちろん人にも教えてもらったが、一番教わったのが犬である彼からだ。
彼は無垢であるし、すべてにおいて受け身であり愛されなければ生き続けることが難しい。
けれども媚たりしなかったし、むしろ毅然とした雄犬であった。
(ラブラドールは比較的温和な犬種だがそれは調教すればの事で、飼い主との信頼関係が
なければどんな犬とて雄犬は猛々しいし、強い腕力を発揮するものだ。ベイビーは純血の
警察犬の子で父親はまるで熊みたいな黒犬、母は美顔のイエローラブ、どちらも巨体だった)
とにかく元気で体力をもてあましているのである。

そして、そのまま、あるがままを貫いている相手とどうにか通いあいたいとわたしは思った。
その望みはいいかえると仁、おもいやりであるが、おもいやろうなんて思ったわけでない。
彼をさらに理解するきっかけとなったのは、通い合いたいという気持ちであった。
仁と智はともにつれだって現れる。
時に、腹立たしく、時に情けなく、時に疲れ果て、しかし彼と通いあいたい気持ちが
勝っていたので義、わたしは自分の尊大さ(人であるという)を引っ込めざるをえない。
そういうこちらの気持ちの揺らぎや移り変わりをじっとみつめている黒い瞳はいつも
無垢なままで、かけひきなどまったく存在しないのであった。
波打ち、迷っているのは常に人の側である。
人対人ならばもっと葛藤は強くなるか、あるいは結論が早いだろうけれど、犬を相手に
する時は独り相撲なのである。己の弱さや醜さや勝手さが跳ね返ってくるだけだ。
そうしてわたしは1~2歳児のベイビーに、人間でいえば小中学生の小僧に教えられた
のであった。
あの時間があって、いま寒さがこたえたり排泄の苦労をするようになったベイビーを
前よりもっといとおしく思う。
赤ちゃん犬、子犬の映像など見ると人並みに可愛いーとつい言葉に出るが、本音でいえば
ツーカーで気持ちがわかりあえてゴーゴーといびきをたててそばに寝ている老体の今の方が
好きである。

ちなみに今の彼はかけひきをする。わたしに倣ったというか見て学習したというか覚えて
しまったのである。互いにフェイントをかけあって、だまし合いをして遊ぶ日々である。
一度使った手でそうそう騙されたりしなくなって、無い知恵を絞らねばならなくなった。








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雪のち晴れ

2009-12-20 16:08:19 | Weblog
雪が降るたびにこの場所から撮り続けて何年になるかなあ、
小川が雪に埋もれる景色が好きで。
午後には陽がさして青空が見えた。雲は依然として居座ってるから
つかのま。おてんとさまは屋根の雪を融かし、時折ドカッとすごい音を
たててつららと一緒に落ちてくる。
こうなるとおてんとさまがありがたい。
ビバ!ソーラーパワーとか言ってみる(現金なヤツ)



笑いが止まらない。雪、雪、雪、と走り回るんだねー。
おいら興奮してないってば、ってしてるでしょ。
知らないよ、後でぐったりきても。



ガガガ、ドカっと大音で落ち続ける屋根の雪。
驚いたシマコが腰を浮かし二、三歩移動、そしてまた戻る。
縁側ひなたぼっこ、まったりしてます。
ミルクも所望したりなんかして、ミャ、ミャ、ミャ、と小さく鳴くのが
ゲットする秘訣。あくまでも控えめなワタシでいくわけよ。
決してジーっとにらんだりしてはいけない。
(猫用ミルク、ヒト用より割高なり、シマコのかわいい声でカバーする也)

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雪の朝でした

2009-12-18 23:42:11 | Weblog

早朝、地震があったような気がするが体がいうことをきかなくて
即行飛び起きるいつものあたいらしくないのであった。
「ああ、神戸で地震にあった人たちはこうやって眠りから覚める
ことができなかったのかもしらんなあ」とか考えていた気がする。
次に障子をあけ窓の外を見たらすごいことになっている気がした。



気がした、で始まった朝であったが積雪はほぼ3センチほど。
目の錯覚、寝ぼけて雪まんまんと早とちりしたのである。
目もおかしくなっている。
いろいろと体のあちこちが変な具合であるが、風邪でなくても
「変じゃないわたし」でもないので気にしない。
地震は伊豆だったらしいが、東北地方ではゆれはなかったのか。
あれも錯覚か、夢かと疑うが調べる気力なし。
死んでなくて幸い。まだやることがあるので今は死ねないのである。

☆生きていたい☆死ねない☆死にたくない☆生きたい。
いずれかを選ぶかという問いは、意外に難問であるよ。
チョー簡単に、生きたいと大きな声で言ったS君は何ゆえ?とさらに
問われ、えーっと生きたいからっすと答えたしだい。
それではオマヌケである。問答の答えには理由を述べよという決まり
あるでしょうが。
決まりを知っていても知らなくても理由なしに生きたいというだけ
なら刹那であるな。末梢神経しか使わないのか。
たとえ言葉を持たずとも、ひびくまことで生きたいと叫ぶならまだしも。

死ねないなあと思うので、考えを整理整頓する。
もう一度くらい恋をしたいのよ、なんちゃんってウソウソ。
もっとハタライテ自分を使い切ってから死にたいのである。
そうしないと生んでもらって育ててもらって大事にされてきて
申し訳ないのである。
あなたが大事にしてくれたあほな子はいちおうがんばりましたよと
言えるようになりたいのである。
まだ言えないので死ねない。

この38度前後くらいの熱がいちばんやっかいで、そこそこまだ
冷えピタなど額に貼ると思考ができるので大げさなことを考えるのである。
夜中にどーんと降って明日こそ、雪まんまんを期待して今夜はあきらめて
休むことにします。


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宵の雪見

2009-12-17 20:01:47 | Weblog

まだ宵のうちだが灯りがないとすでに真っ暗闇。
夕刻に舞い始めた雪が積りはじめてほんのりと明るい。
予報ではこれからもっと降るそうだけど、予報は予報。
今を撮りたくて外へ出た。



照明は自動点灯する外灯。ベイビーが走り回るので点いたり消えたり
忙しい。いっそ消えたままで撮りたかったのだけれど、すぐに点く。
いくつになっても雪におおはしゃぎのベイビー。
(自分のことは棚に上げてます、はい)



(ご心配いただいてどうもすみません、たちの悪い風邪だけど病は気から。
気だけは元気。鼻水たらしても熱あっても元気ですけん。
どうもありがとうございます。)

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軒天と桜の木

2009-12-17 01:54:30 | Weblog
みかけよりたくましいんですね、意外や意外。
と丸太になった桜を見て口々に言ったのであった。
上に伸びた枝を屋根の上から順々に伐っていき、軒天をつきぬけていた部分を
ようやく伐り終え、切り口の年輪を見て、あらためて歳月の流れを思った。
1997-2009 一番太いところは雨のあたらない井戸小屋にしばらく置いて乾燥。
さて何になるんだろうなあ。



桜を切ったあとは穴みたいになった軒を修理せねばならない。幹に押されて少し
傷んでいる。軒をつくらないと雨だれが窓のほうへ落ちてくる。
雪もどかっと落ちてくる。急ぎ仕事になった。



寒かったけどなんとか終えることができた。
カメは一人でやるからだいじょうぶと言っていたが、はりきっている人がいたから
ささっと進んだのだった。
年内予定だった樹木手入れ仕事はほぼ終了することができたのもよかった。
はりきっていたのは、黒くてデカイ方だけではありませーん。
うさこは鼻水と熱が引かないので窓から見てただけ~、スンマセン。
これでいつ雪がどかっと降っても大丈夫かな。

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寒波襲来と寄る年波

2009-12-15 13:33:47 | Weblog
墨絵のような遠景になってきた。
見た目も実際も寒々としている。いっさいが雪に被われて美しく輝くようになれば
また気持ちも晴れるのだが、まだちらちらと降るばかりなので
しばらくこんな感じの日が続く。
今は門まで郵便を取りに行くのも寒くて駆け足で急ぎ巣に戻る。



この方だけはあいかわらず元気でお外が大好き。くんくんしながら散策して歩き、
あげく冷たい川の中まで入ろうとするから目が離せない。
気持ちとからだがアンバランスの老体なんだから、しかたがないなあ。

歳をとったら若いときに想像していた通りにはならない、そういう声をよく聞く。
そして実際、そのとおりだとかなり前から気づいてはいたが、誰もみなそうだとは
思い至らなかった。知らなかった。
年寄りは年寄りらしく、大人らしく、というなんだかわからないけれど「らしさ」に
沿っていけるものだと思っていたのだ。
いつまでも気持ちが幼いというか変わらないのは自分くらいのもので、アホだかんな、
やっぱりアホなんだなあ、というくらいに思っていたのである。
他の人はそれなりに大人っぽく見えたりするもんだから。

しかし、気持ちは歳取らないのであるよ、誰もみな。
だから見かけはすっかりオバさん、なのにヨン様とか黄色い声で追っかけたりしてる。
それってしごく当然でもあって、別にどうってことではないわけだ。
だってヨン様は日本人じゃないから気恥ずかしさも半減するってこともあるだろうし、
ジャニーズ好きのオバさんを知っているけど、追っかけて出待ちなんかした日には若い人に
バッカじゃねえーとツバ吐かれるから怖いと言ってた。ヨン様なら若いファンは少ないから
その分安全、安心である。
とまあ、韓流ファンがわかりやすいから例えただけだが惹かれる気持ちやときめきは幾つに
なっても消えることはないらしい。分別(フンベツ)臭くなって気取っている人ほど、
押さえている分、反動が大きくなってハメを外したりなんてことになるかもしれない。

でもなあ‥‥、歳とともに内面が磨かれていけば、単に追っかけて接触して満足しようという
のとは違った気持ちの表しかたに変わっていくんじゃないだろうか。
それに比例して興味の対象もまた奥深くなっていく気がする。若々しい容姿や顔形だけでは
満足しなくなるという具合に。
いや、ジャニタレの顔入りウチワを大事にしてるオバさんの純情単純はよくわかった上で、
それはそれとしてである。それらは手にとりやすいようにパッケージされた淡い恋の対象、
商品であることを若くなければ誰しも承知しているはずだから。

目立たなくとも大げさではなくとも、惹かれる気持ちには変わりない。
むしろ静かで熱いというのが大人なわけで、自己満足というより自己昇華につながる恋心を
いつも胸の奥に持っているというのがいい。
そして成熟していく喜びと、一方で肉体の老いが同時進行することを受け入れていくことが
できるならば、満ち足りた時はより長く続くような気がする。

そこで、寄る年波と皺に悩める女心はそう簡単にいかないということを
思い知らされる話なんだけど。
映画「ベンジャミン・バトン」はハンサムなブラピ(ブラッド・ピットね)が特殊メイク
で老け役から美青年まで演じ分ける。時間が逆回りに進む奇妙な物語である。
誕生から始まりその死のときまで語られる話は徹底していて、よくあるトンデモ話や
奇想天外とは一線を画していた。
劇場公開時に観たいと思いながら行けずにいて、そのうち忘れてしまっていたのだが
レンタルDVDの安いコーナーをぶらぶらしていて見つけてすぐに借りたしだい。
劇場で観ても終わった後満足しただろうし、もう一度じっくりみようとも思う。
ケイト・ブランシェットは好きな女優だが、この作品では断然ブラピの存在が大きい。
そして母親役が黒人ファミリー特有のママの偉大さをよく表していて、好感が持てた。
時の流れと人生、そしてアメリカという社会の断面図を切り取っていて、映画の短い
尺のなかによくもうまく閉じ込めたものだと思った。
ラストがニューオリンズのハリケーンと重なっていたことも感慨深かった。





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カレーライスの原則

2009-12-14 10:29:17 | Weblog
たぬきねこ、腹いっぱいなので寝る。



〈君も猫もぼくもみんな好きだね、カレーライスが~、君はとんとんじゃがいもにんじん切って
涙をうかべてたまねぎを切って、ばかだなばかだな自分の手も切って、ぼくは座ってギターを
弾いているよ、カレーライス。猫はうるさくつきまとって、あたいにも早くくれにゃーにゃーあて、
とってもいい匂いだなあ、ぼくは寝転んでテレビを見てるよ、そしたら誰かがおなかを切っちゃって
痛いだろうね~、fumumumumu、~つづく〉
そう歌ったのは遠藤賢司ですね~、懐かしい歌「カレーライス」(意味深な歌なのよ)


そこでだ、カレーライスのルーと水の比率は決してあなどってはならない。
ここを雑にやると、うすーい、骨のない味になる。
カレーライス大好き日本人ならば、これほどがっくりくることはない。
ご飯粒に辛いコクのあるカレーがからまって舌をしびらせ、胃の腑に落ちていくまでの
快感をどうしてくれようぞ、となってしまう。
ルーが5皿分、そこへ水を規定より0.5カップ(100cc)多く入れたとする。
たった100ccくらい、というのならばカレーライスに失礼である。
100ccも違えば、もうスパイスだけでは補えないのである。
出汁のはいってないみそ汁みたいになる。

かんたんにカレーでもしましょなんて言うのはまちがいである。
細心の注意と丁寧さをもってのぞむべし。
失敗から人は多くを学ぶもの、わたしとて例外ではなく水とルーの厳密なる比率に
ついて注意を払うようになったのにはそれなりの過去があるからだ。
具材を応用することで、様々な味を楽しむことができる。具材から出る水分を考慮に
いれさえすれば、こんなに便利で飽きない料理もないわけだ。愛される理由だろう。
この基本的態度がすべての料理、そして行動に通じることはいうまでもない。

水が多すぎてのっぺりした味になってしまったカレーなど出されると、責任者を出せと
言いたくなる。責任者はたいていうなだれて、とんかつソースなどを差し出して、
「これで勘弁してくだせえ」と言か、あるいは固形コンソメを慌てて砕いたりするかも
しれないが、すでに遅しである。
料理は引き算が出来ない。カレーは特にそうである。
コンビニもスーパーもない山奥で、追加のカレー粉あるいはルーが手元にないときには
「今夜はカレーだ!」とスパイスの匂いに鼻をくんくんして待ちわびる猫その他諸々の
期待が一転怒りへと変わるのを覚悟しなければならない。
だからね、水とルーの比率に注意しなければならんのであるよ。

これはこれでいいんじゃないかなあ、と言ってしまった君、いいわけない証拠にいっぱい
余したでしょ。一度くらい鍋の底をこそいでも食いたいと言われるようなカレーを作ってくれ。
美味しいカレーを知らないなんて、君はふしあわせなんだねえ。
食いもんをあなどるな、と言いたい。
おいしいものをおいしいおいしいといただけることくらい、しあわせなこともないのだから。

というわけで、本日はおなかいっぱいで至福の時のシマコ嬢。

追記/浦沢直樹の「20世紀少年」のkenji、ケンヂのモデルって言ったほうが近頃はわかり
やすいかな遠藤賢司。作中のBob Lennon も遠藤賢司で聴いたほうがさらにいいなあ。
20th century boys って世界中で知られているから、遠藤賢司も有名になったわけで
よかったよかった、カレーライスもいまや世界中の若者に届いたろうし。
みんなでおいしいカレーを食べよう!
世界平和だーーーーってか。









 
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血は立ったまま眠っている by Terayama

2009-12-10 00:17:40 | 
(さて、これはなんの苗木でしょうか?ヒントその1:鍋ものシーズン)

「小さな陽あたりのいい家の庭で 外に向かって育ちすぎた桜の木が
内部から成長をはじめるときが来たことを」(寺山修司「懐かしのわが家」)
 

(この日射しが懐かしい、2週間前まではこんなふうにひなたぼっこできたのに)

冬の風、冬の風邪、どちらもきてます。
乾燥してキレそう、とんがった空気です。

「いかに死ぬかということは、どう生きるかということである」
日曜のカメの講義をそう要約した人がいたけど、始まりと終わりを知った上での生き方に
決まりがあるってことなのさ。その決まりとやらは懐かしのわが家のようなもの‥。
でも、いかに死ぬかということは‥この言葉がピンとくる、そうそうとうなずく、やはりなあ
と納得するには想像力と経験の重みがいるらしい。
死ぬのは年を取ってからとは限らないけれど、若いときには死ぬとは想像だにしないのだ。
老いはまだ先というだけで、死までも遠いことと考えるのは浅はかなことだ。
そしてその手の浅はかさが若者だけではなくアラ還なんて呼ばれる世代にもある昨今、
驚くけれど、さもありなん。

アメリカ帝国主義への呪詛を書き綴った寺山修司の、ベルボトムジーンズと上げ底サンダル
(あれをなんて言ったんだっけ)が懐かしい。
「血は立ったまま眠っている」戯曲集も再復刊されているようだし、蜷川演出で舞台も
新春早々あるようだ。すでにチケットは完売のもよう、いったい誰が見に行く?
見に行った人は何を思う?
芝居見物かい?
寺山の魂はどこへ葬った? 
劇場でイラつきかねないので自粛して見に行かぬが、戯曲を諳んじて寒空の森で叫ぶことに
する。そのほうがわいにはにおうとる。
23歳の天才が書いた早すぎる遺書。もちろん寺山はその後も肝硬変で死ぬまで旺盛に遺書
(作品)を創り続けた。毎年五月青葉の季節になると人々が寺山を黄泉から呼び戻そうと
図るがそれも浅はか、人は愚かしいと知っていることを虚しいと知っていてもやめない、
かくゆう我も五月と言えば寺山を想うひとりだ。寺山は十二月生まれなのに。
凡人が生き残って稼ぎまくり、寺山はトレンチコートの写真を遺して逝ってしまった。
「ま、いいか」と世間擦れしてうそぶくようになった中高年に贈りたい一冊。

以上、意味不明な方は「いかに死ぬるか」だけをお考えあそばせ。
めんどくせーと言う方はそのままお眠りあそばせ。

熱引かず。
冒頭問題の答えは、柚デス。
冒頭の詩句のその前の行は、有名なこの言葉。
「ぼくは不完全な死体として生まれ何十年かかかって
完全な死体となるのである」



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東京風景ある日の午後

2009-12-08 00:56:18 | Weblog
森タワーの玄関口近くの一角に人が溜まってくる。
この向かって左手に例の蜘蛛のでっかいオブジェがある、あそこである。
写真を撮ろうとしていたので早く去らないかなと思っていたら、どんどん溜まってくる。
次々にやってきて、わたしが撮ろうとしていた場所で、おそらく同じようなアングルで
記念撮影するのであった。



六本木ヒルズへ来て、森タワーから東京タワーを撮る心理、憎めないんである。
好きである、そういうのって。
タワーにはどちらも展望台があるが、だんぜん森の方が高いわけで、東京タワーは
見下ろされる立場になってしまった。
それでも東京へ来たら、東京タワーをバックに記念撮影して帰る出張組のサラリーマン。
ほぼジモッティのわたくしも、いまやプチケーキみたいに見えるようになった東京タワーを
仕事場の窓から見えているのに、ここでも撮らずに通りすぎることができない。
わざわざカメラを持ち出して、この日一緒にいた若い人とその顔の高さに東京タワーをぴったし
収めたアングルで撮った。絵はがきみたいにして。
若い人には気に入りました、と言ってもらえた。
よろこぶ中年、カメラが大好き。

シリアスなことばかりが脳裏を埋めている日には、アホみたいな日記である。
でも、まあまあ今日はいいほう。
新潟のO君、大根とてもうまかったよ。スライスしてきのこ鍋に入れて食べました。
それに大奮発して買ってくれた皆様もありがとうございました、本当に。
帰りに彼が来年はもっと種類も量も増やす準備をしているのだと言ってたのが嬉しかったです。
前を向いて生きている、あれこれあるけど、生きているわけで。
それをみせてもらって、ほんとうに嬉しかったです。



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灰色の瞳

2009-12-07 09:44:57 | Weblog
「枯れ野に咲いたちいさな花のように、なんてさびしいこの夕暮れ
 届かない思いを胸に抱いて」



待っている、探している、待っている、恋しく切ない言の葉をハナウタに唇に乗せ
枯れ草をそっと踏んでゆく。

すると、恋しくもなかったのに、恋しい気持ちがよみがえってくる。
なぜだろう、悲しくもないのに、すこししんみりする。
立ち止まって、空を見る。

忘れていたのに、会いたくなった。
ハナウタ、そばで聴いたかベイビーがまとわりついてくる。
笑っている君。君がいると、悲しいことも忘れられたんだった。

会いたくても、もう会えないんだってことが悲しいことだと知らなかった。
いえ知っていたけれど、こんなにも深く、胸苦しいものとは。
そのときにならないと、なんにもわかっちゃいないんだ。
思い出すたびに、あなたは生き返る。
触れることができないのに、あなたが現れる。
ハナウタをもっと大きな声にして、わたしはあなたの世界の方へと呼びかける。
さびしさが消えるように、笛の音が届くように。

わたしはあなたの一部であれたでしょうか。
(冬枯れの寂しい日、悔いを恐れて)



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机の下バージョン

2009-12-06 10:49:56 | Weblog
ひっつき虫を体内に飼ってる親分、今夜もひっつきまくります。
机の下へ陣取りました。
この机はごちゃごちゃと資料が積んであり壁にくっつけてあります。
ここに向かうと、親分はわたしの背中しか見えないのです。
静かに後ろで寝ていると思っていたら、いつのまにか入ってきて、そして足を舐める。
ひやっとして気づくと、うらめしげな顔してるんですね。
人がせっかく集中してるとこなのに、そうやって呼ぶんですね、あーたは。

胴体に足をのっけてもどかない。
顔を足で挟んでヘッドロックしてもどかない。
それならとカメラを持ってきて構えたら、なんじゃ! という顔。
でもほんと、すごく狭い場所なのになあ、ひっつくなあ、あーたは。
似てるなあ‥、怒れません。

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いーかにー

2009-12-05 11:07:35 | Weblog

はい、駄洒落の練習中です。
カニをいただきやした。伊勢エビをアップしたせいかもしれないのでカニも載せます、うふふ。
カニが通販で買えたり、スーパーでも売っていたり、今どき珍しくないのでしょうが、
我が家では数年ぶりのカニ、正面からにらみ合ってみました。



なかなかの面がまえとお見受けし、仁義切っていただきます。
茹でて食べる、それだけ食べる、それがカニを食す王道かと存じます。
ごちそうさまでした。

カニ道楽なる店が東京にあって、その看板を初めて見たときの驚きというかとまどいというか
若かりし頃を思い出します。(今もカニ道楽はあるんだと思うけど)
当時、売れっ子の作詞家だった友人が打ち合わせにかかってきた電話口で
「カニ道楽なら行ってもいいわよ」と言っていたのも忘れていません。
彼女は今も同業のようですが、今ならどこだったら行ってもいいわよ、と言うんでしょうかね。
食いもんの力、あなどれません。しょせん人間、そーいうことっす。
ごちそうの力は人を満足にさせます。

一生に一度、口にしたことがある、くらいでいいんですわ、わたしは。
その感覚と記憶をいつでも思い出せれば、それまたごちそうです。


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