想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

日本人の徳について 大江健三郎

2015-11-21 20:33:43 | 

「懐徳堂 18世紀日本の「徳」の諸相」
(テツオ・ナジタ著 子安宣邦訳)

大江健三郎往復書簡集「暴力に逆らって書く」
の中で、ナジタへの手紙はこの本についての
感想から始められている。

大江健三郎がこれまで誰にも話した
ことがないのだけれどと前置きし、
戦争末期の夏の日、父が酒に酔って自分が
学問のない商人であることを恥じていると
目の前に座った自分に嘆き、繰り言を
言ったことがあったのだと書いた。

そして、
「無力感と悲しみで聞くだけだった自分」
だった。もしも父親に懐徳堂の話を聞かせて
あげたとしたら、と思う。
ナジタの著作を読んでそう思ったと語る
言葉に、少年だった大江健三郎の身を裂く
ような哀しみがにじんでいる。



創設者の一人「三宅石庵が…「仁」を
《人間の寛容さ、同情、慈悲心の基礎》
としたことをつたえ、
それならお父さんにはあると思う、と
いえたならと夢みます。
そして、この根本の徳につらなる「義」は
《精確であろうとし、それゆえ公正で
原則に基づくものでありまたそれゆえ
恣意を排そうとする精神的な能力に
関係している》商人の求める「利」は
そこから生み出されるやはり道徳的な
ものなのだ、と石庵はいった…
お父さんも、恥じる必要はないと思う、
と励ますことができたならば、と…」
そう手紙の書き出しは続いている。

このナジタとの書簡で「徳」を失った
現代日本を憂え、「西欧のまなざし」に
絡め捕られ続ける中央志向の人々への
批判と警鐘を鳴らす作家の言葉はまったく
予言であったと、国会で安保関連法が
強行採決された今は考えあわせずに
いられない。

2011年からは原発再稼働反対運動の
最前衛を言葉だけでなく行動する作家
の姿を何度も目してきた。
過去の言葉を読むと、デモでの姿が
ダブり、先生!という大声に振り返り
手を挙げられた時のお顔が眼前に
浮かび、そしてまた、哀しみも
ぶり返すように襲ってくる。

悲しみと悔いが人を前へと歩ませる。

「徳」は旧事紀を学ぶ身においては
身近な言葉である。よく知る言葉で
あるがゆえに、二百年前の町人、商人
たちが学の土台にそれを置き封建制度
の矛盾から精神を解放し、公平さと
生きやすさと人間性の可能性を追究
したということに興奮と感動をおぼえる。

さらに、ではこの戦争の世紀は何で
あったか、日本人は何をしてきたのか
ともおもわざるをえない。
仁も義も礼もオモテナシナンチャッテ
にとってかわって、がらんどうだ。

ナジタは懐徳堂のネットワークから
生まれた町人知識人の知恵がその後
どのように受け継がれていったのか、
近代化の波で疎外削除されたのかを
「相互扶助の経済ー無尽講・報徳の
民衆思想史」(みすず書房)で追究
している。
ハワイ生まれの日系アメリカ人である
ナジタが綿密な調査と研究によって
明らかにしたこれらのことは、日本の
未来への希望ではなかろうかと思うが
肝心の日本人は気にも留めないという
のでは、あまりにさみしい。

私の認識している徳においての仁、義と
石庵の解釈とはまったく同じではない。
ただ、商人が集まった学問所においての
講義だということをふまえると、納得
する。
「恣意を排そうとする精神的な能力」
とは私を滅すという意味であるから
骨格は変わらない。
仁も義も人を救うもの、そして当然
自らも救われ、生きる喜びを分かち
合うがためである。
西欧の原罪と贖罪の思想とは異質だ。
始めから明るく、最後まで明るい光
に満ちているのが日本の徳が導く道、
これは儒学でも東儒であり古代日本で
育まれたものだ。




すべてのことが失ってから懐かしく
思われ、失くしてからありがたみが
わかる。
けれど、とりかえしのつかないこと
があるということ。
それを、わたしたちはすでに経験した。
くりかえし過ちを侵せば、戻ることは
難しい。

民衆の力とは、生きる喜びを素直に
感受する力。
そして悔恨することができることだ。
日本人は70年前の悔恨を背負うことで
しか明るい未来はつかめない。
喜びを知るゆえに悔恨し、
悔恨の義があるゆえに、再び喜びに
であえる。

この二つがあれば、二百年前、さらに
千数百年前に、生き生きとしてあった
徳の時代に人の心を戻せるかもしれない、
そんなことを夢想する。
そして、徳には日本という国名も国境も
未だ無く、これからも無い。
だからこそアメリカ人であるナジタの
心をとらえたのだろう。


※懐徳堂は1726年に創設された。
「徳の意味を深く心に省ること(懐徳)」
をめざす学校として大阪商人のとその子弟
たちのために開かれたが、その後西日本
全域にわたる学術交流の場として発展した。
100年の長きに渡り、「徳」の研究学問所
として全国に知られるところとなった。

※「徳」は明治維新後に道徳、修身などに
置き換え歪曲される以前の、純真なる徳
であった。それが注目に値することだ。


※往復書簡の当時、1999年は国旗国歌法が
成立、その直前に周辺事態法・防衛指針法
(日米新ガイドライン法)が成立。
不安定な自民党政権が右傾化へ急ぎ、
きな臭さが露骨になってきた頃である。





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なおみです

2015-11-18 21:53:31 | Weblog

ジョリコはどかない。
ここが好き、ここはあたいの。



エンジンをかけてもどかない。



どうすべーか…
遅刻するよ…薄目を開けてるが、
知らんふりを決めこむ。



今日はマイペースのジョリコじゃなくこっち↑。
ハナクソ印→チャップリンの髭→チャプと
名づけたんだけど、呼びにくい。
チャプチャン→チャチャン→チャになってる現状。
しかし、よーく見ていると誰かに似ている。
ある人の顔がダブって見えることに気づいた。

そう、あのオモカワイイお笑い芸人の渡辺直美。
かぎりなく膨張しつづけているなおみちゃんです。
大口開けても変顔でも激しすぎる思い込みでも
決して嫌になれないなおみちゃん。
なんでかな~、あの好感度は何故か?
カメにそれとなく言ってみたら、ああ、それはね
クニツカミだからさ、と一言で返ってきた。
ナイス! 了解っす。

そゆことならわかる、ナットクした。
うちのぷ~と同じなのである。クニツカミ。
地祇とも国つ神とも書きますが。
なおみの底抜けの天然ぶりは、たしかにそうだ。
天真爛漫とか言うのはちょっと違う。
あの食欲と笑いのツボは爛漫というより。
天真だけ、そんだけ、今だけ、な感じ。

で、決定。
チャ改め、なおみです。



帰るとまずやってきて、ウンギャウンギャと
だみ声で呼ぶ。
そして一番先にご飯をばくばく食べる。
後で来た子がもらうとまた顔を出して、
バクバク。
顔が横にだだ~んと広がっていく…。
似てるなあ、なおみだね、ほとんどなおみ。

食べ過ぎるから、手のひらを広げてバッと
出すとシュンとして止める。
まんまるに膨らんだからだでシュンとする
それがすごくおかしくて。
しばらくすると、ウンギャウンギャと
話しかけてくる。

声がでかい、でかすぎる。
つい笑ってしまう、真剣な顔なんだろうけど
おかしくて、かわいい。
ジョリコは美人でお澄ましだけど、なおみは
ほんとに笑わせてくれる。

なおみカムバックトゥミィ、いつでも
ウエルカムだよ。
と言わんでも、帰らないなおみ。
縁側に居座り、空になったお皿をずっと
見張っていました。

秋もそろそろ終わりかけ冬したくを始めます。



フェイスブック社長に誘われてプロフに
三色旗氾濫中。
パリだけではない、カザ、レバノン、
パキスタンもというコメントが数多く
ついているようで、当然だと思う。

三年前シリアで取材中の山本美香さんが
銃撃され死亡したが興味本位レベルの
扱い。後藤さんと湯川さんが惨殺されても
日の丸の出番はなかった。
政府が有志連合各位に金バラまいて敵組に
リストアップされただけ。
故人への追悼は今もない。
個々人の、ふつうの人々の胸の中には
あるだろうけれど…
で、トリコロールかぶせてる人たちは
何思ってるんだろう。

EU連合ロシアアメリカのいったい何が
正義なのかい? 
シリア空爆から逃れ、ボートで地中海を
渡り陸路で鉄条網を潜り、着の身着のままで
歩くシリアの人々を映像で見るたびに
虚しいばかり。
歴史は繰り返す…

猫集会に混ざりたい。










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透明

2015-11-12 17:20:16 | 
詩集「雁の世」より
川田絢音 作 思潮社刊
今朝、朝の光の中で
「列車で 」を読む。

「線路の脇に白い花が
いや 紙屑
小屋で踊っていた男は
亡霊の気配で降りていったが
川は流れて地上のものだろうか

ほら牛が
あゝ耕やしているね
キャベツよあんなに
心で交わされる僅かなこと

老夫婦のか細い声も溶かして
どこをさまよえは と思ううちに
やり直せなくなって
向こうから
暗闇かひかりか
すがることもできないものに囲まれる。」

*********
詩のテーマとは関係ないが…

昨夜、遅くまで母と電話で話した。
寂聴さんの古い本を読んでいるという母に、
父さんなら何というか? とたずねた。
たぶん「恥知らず」というね、とわたし。
母は笑った、そうだろうね。

作品の事か、作者なのか、読む自分なのか。
ただ、そうだろうね、笑って言う母。
そのくらい時が流れた。

父さんと母さんであり
男と女であったふたりは
ちいさなわたしに、諍う恋人同士の
よじれてほどけない、せつなさを
植えつけた。

両親の年齢をとうに追い越して、
秋の森にいる。
時が流れ、ふたりはなお強く結びつき
透明のなかで呼びかける。

時が消え、いとしさが極まる。






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もっと言って小泉さん

2015-11-05 01:37:35 | Weblog
「原発が安全というのはうそだった」と元首相が
発言しニュースになった。何度も聞いたしその度に
ニュースになる。けれども小泉さんの発言の趣旨は
なんなのだろうか。そう思うのもいつものことだ。

放射能の風に包まれると書いたのは
事故から1年経った2012.5であった。
それからさらに約3年半が過ぎた。
何が変わったか?
何が解決したか?
政権が再び自民党に戻った。
廃炉へ向けて進むはずが再稼働を積極的に
押し進めている。

しあわせだったころの写真を見たくなった。





2009年11月の森で撮った、ベイビーが
とても元気だった頃、お気に入りの写真で
ブログにも使ったことがあるけど、再登場。



そして、江戸ちゃんのママ、シマコとベイビー。
縁側のベイビーの席をいつのまにかシマコが
使うようになった。
まだ猫まみれではなかったこのころは微笑まし
かったが…
いまでは彼女の一族に占拠されている。



シマコはカメ先生がとても可愛がっていた。
2011年の夏の終わり、庭石のうえにねそべって
いたのを見たのが最後である。
先生は時々間違えて、江戸ちゃんをシマコと
呼んだりする。
シマコは先生の胸のなかで生きている。
おそるべし、魔女。

写真に撮った紅葉の秋は今年もやってきた。
カエデ一族も順々に染まっていったし、
きいろちゃんも美しかった。
けれど、この森とわたしとの間には、以前は
なかったモノがある。
樹々のなかで大きく深呼吸させないモノがある。
この写真には写っていないモノが今はある。

それは原子力という名に隠された「罪」。
人間の、罪。
欲望の果てに産み出したモノ。

小泉さんにもっと言ってほしい。
知らなかったことは罪である。
意識せず、何もしなかったというのも罪である。
わたしたちは大きな罪を犯したことを忘れては
ならないと。













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宇宙望遠鏡と古事記

2015-11-04 10:27:00 | Weblog
(続)
冥生玄極、あるいは微方玄極。
(先代旧事本紀大成経72巻本より)
この世の始まる以前、すべてが始まる前の
静まりかえり、ただ存在するだけの世界を
表した四文字。これをどう現代語にすれば
いいのか。読み下しではなくふさわしい言葉…。
それをこの数日来、考え続けている。

ハッブル宇宙望遠鏡のなかった時代に記された
これらの文章にあるこの世のはじめは、今日ほぼ
証明されつつある。
後継機のジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡は
さらに詳細に宇宙の初めを解明するだろう。
ただし、それは物質の世界の初めだ。
それ以前の状態をさすのがこの四文字である。

八世紀の稗田阿礼も太安万侶も、この旧事を
目にしたはずだが、どこにも書かれていない。
めんどうで省いたのか、奈良時代すでにこの
旧事は深く隠されてしまっていたか。
当時の伝承としてすでに「天地初発の時、高天原に…」
と語り継がれ、どたばたと神々が登場する喜劇しか
手元に無いということだったか。

いずれかはわからない。
神代のことなどわからない。
わからないままでよかった。
わからないことをあることのように定めたところ
から神はずっと不在となった。

敗戦から70年で再びこの国を古事記世界へと
誘おうとする者。強大な権力を以て我が身を
神になぞらえようと、その神の概念がすでに
ニセモノの神なのだと知らない。
人のやることに関わりないのだよ、神とは。

宗教などというシロモノは、人が人のために
為したものだから、不在には変わりない。
偽りを言わない宗教者は名を残していない、
知る人ぞ知るである。
ほんの片手で数えるほどしかいないし、
いずれも組織に属さなかった。

法も宗教も未だない時代は、人は神とともに
あったということ、それは遠い遠い遠いむかし。
そこへ行ってみたければ、死して生きる如く
目を瞑っているしかない。

カメ先生は、ほほう、死のうと思ったか、
それはいい、死んで生きれるようになれば
カンツビト(眞人)と笑って言われた。

とりあえず猫の耳…をめざしたいと高望みにゃ。

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猫に似てくる…

2015-11-03 15:35:34 | Weblog

浮かれ暮らしているときには気づかない。
困ってからあたふたとして、慌てるだけで
何もできない。
そーゆーひと、はい、わたくしでございます。



浮かれてはいない。浮かれる理由もなし、ただ…
ぼんやりして、ざわっとした周りになじまずツブに
なって沈んでいる…
というのが実際のところである。
子どもじぶんから治らない性質のような気がする。
三つ子のたましい。

ぼんやりとしているからおとなしいと思われる。
なのに、何も見ていないかというと、ちゃんと
見ている。ちゃんとというか、眺めている。
そして、急にとびついたり…また離れてじっとする。
じっとしてからがまた長いこと…。

ぼさーっとするな! とガッコのセンセにチョーク
投げられても、窓の外を見続けていたので
職員室に呼び出されたことがあった。
センセは首をかしげて、オマエなー、と言って
怒っているようで、やさしいようで、わたしを見て
くるりと椅子を回して背を向けた。
そのまま立っていたら、他のセンセが帰っていいよ
と言ってくれた。
困っていたのかもしらんと、センセくらいの歳に
なった今、思う。
治ってません。

帰っていいよと言ったセンセにそれから10年後に
オトナ同士として再会したことがあった。
よそ見してもテストの成績が良くて、あの時は
叱るわけにもいかなかったんだよと言った。
国語だけ満点、な。オレのは赤点だったな、と。
覚えていなかったので、へえええ~とびっくりした。
赤点というなら、一応点を貰えたのか…物理。

ガッコはいわば家からの避難所だった。
緊張の夜から解放され、昼間は教室でゆるんでいた。
勉強しようとはつゆとも思わない頃だった。
窓際のうしろの方の席で、景色を見ていたのは
しっかりと覚えている。



犬の代わりに猫が身近になったこのごろ、猫を
見るともなく見る。時には観察する。
そして、ある時、猫に似ている我に気づいて
「しまった」と我が不覚さにがっかりである。
な~んでか、わからないが似てしまっている。
猫の行動は謎めいている。
我が家ではいまだ解明されないことばかりだ。
テレビでやってる猫の飼い方や特質がここでは
あてはまらないことが多いのである。

猫がいるからといって、犬の不在を忘れたわけ
ではない。不在が存在の意味を鮮明にする日々。




古代史、古伝、記紀、それらに関連する著作の
数々を読んできた。
そして、いささか疲れてもいる。趣味ではなく
資料としてなのでいやもおうもなしに。
けれども、こんなことをしても無駄だという
気持ちが強くなって、限界に近い。
比較から比較、それを繰り返している著述ばかり
なので、元々のところが間違っているのなら
議論のための論に過ぎない。
書くためのタネに過ぎない。
思考の果てに発見のないものほどつまらないもの
はないのだが、安易に批判してはいけない。
ある人にとっては新しい出会いにもなるのだから。
しかし、疲れた。

つまらない、と言ってみたら、カメ先生曰く。
あなたは確証を得ないと書けない言えない人、
だから回り道ではないよ、確かめてようやく
気が済んだら、自分の言葉にできるでしょうと。

そうでやんす、とわかってはいたが…
言っていただいて少し気は晴れるが、
文明というか、文化というか、人がこしらえて
きたものは人が破壊する。それも容易に壊す。

壊されて葬られてきたものを蘇らせたいという
望みが、それもハンパじゃない強い望みが
つまらなさと反比例してふくれあがってくる。
みんなそうなのかもしれない…とも思うので
静かに仕事を続けなさい、と自分に言い聞かせる。

苦しい。
苦しい。
とても、苦しい。

せかいじゅう、この長い歳月、不在の時を
過ごしている。
認識することが存在の証ではないから不在は
正しい言い方ではないが。

消したのは誰かは、どうでもいいともう思う。
7世紀後半から8世紀にかけての変革期を経て
あれからというものの、より神に近づけたのは
詩人である。専門家である宗教者ではなく。
生きにくい世で肩身狭く、貧しく、清く、
日を送り死んでいった詩人たちが書き遺した
断片のなかに、証を探すほうがまだましである。









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