想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

山を荒らせば、川が濁り…水は命なり

2021-03-29 22:26:46 | Weblog
(澄んで輝いていたころの水)

苦海浄土をクガイジョウドと読むか、
クカイジョウドと読むか、どちらが
正しいかという話を熊本に住む知人
から聞いた。
ずっとクカイと読んでいたと応えた。

地元アナウンサーの話だとクガイで
定着しているのだという。それから
読み方の話や石牟礼道子の話など、
あれこれととめどなくした。
熊本文学・歴史館で石牟礼さんの
三回忌祈念、追悼のような展覧会
が終わった日でもあって
(海と空のあいだに〜石牟礼道子の
文学世界)石牟礼さんのことで延々
話が尽きないのだった。
また数日して、石牟礼さんと親しく
していた作家の前山さんに聞いたら
と知人が言ってきた。

クガイかクカイと前山さんが尋ねると、
カイでもガイでもどちらでもと
石牟礼さんはいわれたという。
そして石牟礼さんは私はクカイと
言われたそうだった。なぜならば…
という訳まで知人は話してくれたが
それは置いておいて。
ぼんやりして、集中できないまま、
あーそうなのか、と思っていた。

大事なのかもしれないが…わたしは
無知で、ぼんやりで。
人はよく知らないものを考えること
はできない。
目にもの見せられるまで。

水俣、福島、両方とも常に頭から
離れることのない宿題の地だ。
だが、いまごろになって自然環境保護法を
読んでいる。
法は害悪の罪から生命を守るためにある。
よく知っておかなければ、自然も身も
守れないということを実感した日が
あった。

わが風の谷の森が密かに侵されていたのだ。



北東側の崖を登ったところにある丘に、
放射能汚染土の仮置き場が作られた時
大型作業車の唸る音が風に乗って聞こえて
いた。その音に不安を覚えた。
そこから直線距離で1㎞余りだろうと
思った、おそらく。
しかし怪しい水が谷間の渓流に流れ落ち
てくるのを見つけるまで何もしなかった。
愚痴っただけだった、楽園が消えたことを。

汚染土は75%を大熊町中間貯蔵施設
に搬出済みと県のHPにはある。
だが仮置場のその後については書かれて
いない。その跡地の状況が皆目わからない。



村役場の「環境保全課」は水の汚濁を
確認できないとし、調べたければ民間の
検査機関へその水を持ち込むようにと
対応した。

すぐに手配し結果は想像した通り、
色、濁度の数値が安全基準をはるかに
超えていた。
放射性物質は1ベクレルだったが。

山肌を伝い流れ落ち小さな滝のように
なった場所から白く濁った水がざーざーと
山の湧水に、澄んだ湧き水の流れへ横から
流れ込んでいる。
それは目視できるほどだが、役場の人は
現地を見てきたが問題ないと話した。



崖の上は3.11以前は広大な牧草地
だった。緑の草原のところどころに
すみれやネジバナのピンクが混じり
ベイビーはその上にゆったりと寝そべり
私は雄大な山にカメラを向けた。
気持ちよい風が私たちを撫でていった。
何もかんがえないでいられた。




その日は雨だった。
せせらぎの水がいつもと違ってみえた。
濁り、泡が浮いている。
すぐにゴロゴロ石の道を奥へ進み、
突き当たりを曲がり湧水の泉の所へ
行った。

川は流れているのだからそのうち
澄むんだから大丈夫、そうは考えない。
原因をつきとめておくべきだからだ。
自然界にないものが有るならばそれを
除去しなければならない。

役場の人は翌々日の晴れた日に見に
行ったのだろう。それも定かではない
が、濁りはない、問題はないという。
あの雨の日に採取して検査に出した
水は色と濁度がかなり高かった。
有機高分子化合物や金属類、
粘土性物質、鉄さび、有機物質が要因
であるという結果だった。

有機高分子化合物や金属類はどこから
混入したのか。牧草地にはないはずの物質。
除染土の仮置場の排水がどう処理された
のか、地面に染みだした汚染水はどこへ
流されたか。
経路を調べなければならない。
水を見に行ったと話した役場の人は
あの場所の近くに工場などないから
問題はない、と言った。
仮置場のことには触れなかった。
放射能は調べますからといった。

こうして書いているのは、これから
解決するまでのことを記録するためだ。
平成21年に保健所で水質検査した際は
基準値内のきれいな水しかなかった。
比較するとやりきれない気持ちだ。
きれいな水だったのだ。


(スミレ)

山奥の、人が生活しない場所だから
住んだのだった。山にいさせてもらう
暮らしは心地よかった。
こんなことが起きようとは思いも
寄らなかった。

原発事故を他人事とは思ったことは
なかったが、深刻な被害を受けた
人々がたくさんいることを思うと
少ない被害で済んだことを喜ぶわけには
いかなかった。憂いは続いた。
ゼロ地点から92.5km はなれた森。
不安と不穏さが消えない。
移り住んでからあの日までの日々が
どんなにしあわせだったか、わかって
いなかった。
原子力発電所が爆発した日は雪に覆われ
白く静かな森に小雪が舞っていた。
あの美しい景色が遠い思い出となり、
澱んだまま晴れない十年だった。
そして十年たち憂いは本当に我が事と
なった。

放射性物質を含む除染土を運び
低濃度だから安全だからといい、
再利用する実証実験が行われている。
放射能汚染が低かった場所、
汚染がなかった安全だった場所に
わざわざ汚染土を運ぶのは何故と
聞くまでもない。
環境省は自然環境保護法を数値
のみで考え、災害をもビジネスに
変えていく企業に荷担している。
数値の欺瞞は普通の人々にはわかりようがなく
プロセスは隠され、かいつまんだ結果だけを
知らされるのだ。


(盆栽の紅梅の16年目、大きくなった)

自然界にはない有機高分子化合物
も当然含まれているだろう土を
あちこちにばらまけば新たに
大地を汚すことになり、川を伝い
海の水を汚すことになり、
もろもろの生命を損なうことと
なる。
それが目に見え、人々にわかった
時は、哀れんでも恨んでも遅い。
水俣病に何も学んでいない国の姑息さ
はとうに諦めもしたが、人口少ない村の
職員までが知らんふりするとは……。
自然のなかに暮らしていると、それは
あたりまえすぎて、かけがえのない
宝だとは気づかない、その典型ではないか。

対岸も他山も、人の為すことは全て我が事と
自覚しなければならない。
事実から逃げようと、生きる場所はここなのだ。
地球という星の一隅。





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節電で暗かった日々

2021-03-11 11:53:00 | Weblog
十年を節目にしたいなら、
あの日からしばらく節電で消えた
東京の街の灯り、電車内の照明、
イルミネーション、電飾に私たちが
しだいに慣れていき
前みたいにアカアカとしていないのが
けっこう居心地いいなど言い出して
原発の電気はなくても
けっこうやっていけるんじゃない?
などなど世間話したことを覚えているかい

そのうち真っ暗闇を少しずつ忘れていった。

ほどほどを知らない。
行けるならどんどんいく。
いったもん、やったもん、勝ち。
目立つには明るくなきゃ。
暗闇ディナーは単なるイベント
冷蔵庫エアコンはエコタイプで罪ではないでしょ、必需品はないとね
妻が言うからさ
洗濯機のない生活、やれるわけないよね
だからほどほど、電気はいるよ

ほどほどは太陽光パネルの林を造り
福島のあの、美しかった福島の
森を黒く染め、森は樹々を失くし
やがて森は水も失くす

首都圏の人々は今もこれからも
福島を買う
ただし魚、野菜、果物、米、キノコ
九州や西日本からでなんとかなって
福島に森や海がなくてもなんてことない
なんなら、水だって他から買えばいい

遠く、といってもたかが二三百キロ
ひと続き
境目のない空でつながり
ヤマメを自由に獲れない源流から
首都圏の太い河口まで
ひと続き

取り戻しようもない幸福を
狭くなった仮の住まいで夢にみる
欲張りが欲を貪らなければ
こんなことにはならなかった








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きょうなすことはきょうのうちに

2021-03-11 00:10:04 | Weblog
高速道路がところどころ波打って
整備が悪いね
知ったかぶりの非難は
あとで思えばあきれるほどの暢気
先週より少しあったかいねと機嫌よし

山の一軒家へ向かう途中
何も心配なくていつものように
街からどんどん離れていく愉快爽快
パトカーが脇につけ、先へ回り込み
先導されても笑っていた

木々の芽が膨らみ一雨ごとに春が近づく
森までこのまま走る
突然の道路封鎖で渋々止まり
ゆっくり国道を行くも楽しいもの
停電で点滅しない信号機

路肩に止まった車を抜いて
ラジオから聞こえる速報に
ゆっくり頭にスイッチ
赤信号、赤信号……まだ気づかない

もう少しで森の入口、ここを抜けたら
と、突然の壁…土の壁、崖崩れ
生まれて初めて、巨大な崩れに遭遇
引き返して、森への迂回路を探し
よろよろ走る

村のよろず屋兼ガソリンスタンドで
満タンにして、そろそろ走る
森はしんとして、わが家は無事に建っていた
鍵を開け
安堵と恐怖が一度にやってきた。

2011年3月11日の午後2時46分から
少し経った頃が境、高速道路の途中まで、
あの阿呆で幸せな自分に二度と会えない日が始まった。
十年が過ぎた。
高速道路を明日走るのは怖い。












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地震のあと……夕暮れに

2021-03-02 20:22:44 | Weblog
13日の地震から七日、恐れていた余震は無かったが大低気圧の強風と雪が来た。
森庭に拵えた薔薇の越冬用のハウスが数メート離れた所に飛ばされていた。
ぐにゃりと萎んだビニールと金属パイプの支柱はひとかたまりになって椿の木に覆い被さって、はだかの薔薇たちが陽射しの下にいた。
災難に見舞われた彼女たちを春の萌を匂わせる陽気が包んでくれているのが、そのときに居なかった私への慰めだ。
ここはやはり厳しいところだ。
かつて人が暮らすのを諦めた場所だという事を忘れてはいない。作っては壊れ、壊れたら修理する繰り返し。繰り返しはさまざまにある。
季節ごとに繰り返す作業を怠れば、住むことは出来なくなる。「山を買って」キャンプするのとは違って、暮らすためにすることは多い。


それから1週間経ち、地面や木々の気配は春が遠くないと教えてくれるが、変わらず寒風が吹いている。
夜半に目覚め、庭に木の陰が長く伸びている。地面が白くて。雪が降ったのだ。
寒いけれど、寝間着に玄関に置いたウインドブレーカーをひっかけ、外へ出てみた。

月に照らされ、静まりかえる夜が華やいで見える。





裸足のサンダルが冷え切って、月を眺めている場合ではないと気づいた。
すぐに風邪をひくのだから。

老いて去るとき、一点に集中し、月を仰ぐときのような心のまま
いきたい。
この世のことを忘れていくのは罪ではない。



翌朝、コイツが来た。なついているのではなく
腹が減ったからである。一ヶ月ぶり以上か?
生きていて、なによりじゃ。
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