想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

雪景色2014ver.

2014-02-24 13:25:57 | Weblog
これしきで同情を買ってはいけないので先週の雪本番の
写真ではなく約半分の高さに融けてきた雪景色をば、
ごらん下さい。
一週間経って60cmくらいでしょうか。



このあたりは風の谷銀座通りなので除雪が行き届いて
マシなほうです。
この道は除雪で両脇に雪壁ができ、普通車は両脇を擦り
ながら一方通行、ドア開閉禁止状態です。
いろいろと初めての体験…、秋田か青森だべ、と言いながら
ビビらないように自分を励ますしだいです。



もくもくと除雪する人、業者さんではなくカメ先生です。
敷地の奥の方へはとても歩いていけないので道を作ります。
その前に…フェンスの向こうに人影が見え誰かと思ったら

隣の別荘住人がうちの前の道でスコップで雪かきしている
のを発見。どうしたの?と聞くとこの道、ここまでしか
除雪されてないから家に行けない…
そうか…そうだった、村役場は除雪にてんてこまいで別荘へは
私道なので村道の終点であるここで作業を終えたのでした。
ふだんの冬ならサービスしとくよと言って500m先の別荘まで
やってくれていたのですが…

カメ先生が愛車ユンボで出て来て「だいじょうぶだよ~、
ちょっとまってなー」と雪をどかしてくれました。
この雪はいつもの雪と違って重く深いのでスコップでは
とても無理です。助かった助かったと喜ばれて、こちらまで
ほっとうれしくなりました。わてはなんもしとらんけど…

でも先生はもう若くないのに、若い人が世話になってばかりで
申し訳ないなあといつも思います。
お礼にと酒を持ってこられても…お酒は飲まれませんてww
うれしそうな笑顔がお礼ですね。

こういうとき、自分が男だったらなあと思います。
ヘロヘロの弱腰で雪のなかで猫の手同然でしたから。
ほんとに微力、小さな一つのことしかできないけれど
せいいっぱいやろうと思うのでありました。












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言葉に乗る想い

2014-02-18 12:07:23 | Weblog
吸い込まれそうな瞳、この瞳、今も同じ感覚が伝わってくる。
(2年ほど前のベイビー、ゴロゴロが日課だった)

花屋の店先で、師匠が言った。
「お、アレはどうした、ボウズ、おたくのボウズ、アレは
もういないんだったかね…そうだったよね」

わたし、それに答えず
「お宅の猫ちゃん、生きてる? あの家出するコ、元気に
してる?」
「ああ、元気元気、蹴っ飛ばしてるよ」

そばから店員の兄さんが、「ウソばっか、かわいがってるくせに、
奥さんより命って感じじゃないっすか、猫のことばっかいつも
言ってるんですよ」とまぜっかえす。

師匠は「そんなこたあねえよ、もううるさくってよ、みゃあみゃあ
みゃあってオレが家に帰ると足元にくっついてくるからさー
けっとばしてやんのよ、なんであんなにくっついてくるかねえ」
「師匠、よかったねえ、最近は家出しないの? 怪我してこない?」
「うん、そういやそうだ、どっこもいかねえよ」

また店員、おやじさんのいない時行ってんですよ、と横から言うと
「そうかー、いやあオレのそば離れねえんだよ、うるさいって
言ってんだよ、カミさんとこ行けってさー」
「よかったねえ、好かれてて、お宝だもんね」

「はい、出来上がり。
まいど、ありがとさん。ボウズ、さみしいね」

雪がこれでもかと降って、降りやまない山からようよう
降りてきて、立ち寄ったいつもの花屋でチューリップを
買ったときの、いつものなんてことない会話。
春待ちの淡いピンクの花束を抱えて歩いていると、さっきより
胸のなかがふわっとあたたかくなっていた。

人の言葉におもいがけなく救われることがある。
なにげなく放たれた言葉に、その人の真情が乗ってくる。
意図せず、他意なく、飾らない物言いで運ばれてくる。
そのやさしさの粒粒が染み透ってきて、わたしを明るい方へ
いざなってくれるのだ。

またある日、もらった電話から弾んだ声が聞こえ、
声の主が元気になったことを告げてくる。
ありがとうを何十回も言う代わりに、生き生きと話してくれる。
こちらこそありがとうと、思う。
書いた言葉も声と同じように伝わるとき、よかったと心から思う。

仁、春のこころ。











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青い光波

2014-02-10 00:03:15 | Weblog
残念な夜、
残念だが、無念ではない夜、
一抹の寂しさに郷愁さえ覚えていることを
認めるわけにもいかず
落ち着かないまま夜を過ごす
あなたへ  そしてわたし自身に
吉野弘のことばを 贈ろう
今日をこれまでを生きてきたすべてを
やさしく受容し
祈りを
明日へつなげる縁となる詩を

「モジリアニの眼」(吉野弘)

アメデオ・モジリアニは、しばしば
人物の
見開いた両眼に
澄んだ青をいっぱに満たした
瞳をいれないで


私は、あの眼が欲しい

ゆらめく光のようなあの青に
事物が吸いこまれる
しかし、瞳はなく
網膜に像は結ばず
脳に送られず
脳の皮質から批評を誘い出す可能性もない
ーーあの眼が欲しい

物が見えれば
物を批評せずに済ますことが出来ない
人間が見えれば
人間を批評せずに済ますことが出来ない
自分の愚かしさで手一杯なくせに
他人への批評を億面もなくやってのける私は
今、あの眼が欲しい

あらゆる生きもののうち
最も精緻な出来損ないは人間だ

その人間の所業すべてを
せめて
眼に満たされた青い光波に
ゆらゆらと遊ばせ拡散させていたい
見えるものすべてを
私に、批評させず憎悪させず
ただ受容させるために

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ここ、いいっすか?

2014-02-09 00:22:06 | Weblog

いいっすか、いいっすか、と幅きかせてねじりこんでくる。



ネコですがゴリ押し、想像以上に強いオシで…、負けた。



ドヤ顔?
いいえ、これはカワイコぶりっこ。



犬の居場所だった縁側を占拠してはや一年。
猫神さまに守られる日々です。

ところでドヤ顔で思い出しました、国会で参考人招致される
予定のNHK経営委員で安倍首相のお知り合いだという女史、
長谷川千代子氏。
野村秋介氏への追悼文の中で、「現人神(あきつみかみ)」と
いう言葉を使っています。
法でなんといおうと今上天皇は「現人神」、死して神とともに云々。
長谷川氏はこれ以前も「男女共同参画」を批判して注目されています。
本人は精神論哲学論であり政治に関与するものではないと弁明し、
経営委員として問題はないと反論しているようです。

NHK経営委員問題は国会の成り行きを静観するとして、気になるのは
「現人神」という言葉のほうです。
これがクセモノなんでありますよ。

あらひとがみ、とも言い、天皇は生きている神様である、
いきがみさま、だから絶対なのである、従いなさい、という
アレなんですが、これはそもそも間違いです。
戦前、大日本帝国軍とお上が国民を戦争へ駆り立てたとき
都合よく拡大解釈した、というか、こじつけた考え方が根拠です。

完全に間違っているのですが、どうして現代、今の今、それを
国学者、日本文学者、神道学者、宗教学者、等等の関係各所は
訂正しないのか、です。
はなはだ疑問であり、遺憾におもうところでありますよ。

現人神という言葉は古くは万葉集にあります。
あるけれども、それを長谷川氏や戦前の軍隊や安倍首相が
使いたがっているような意味ではありません。

人と神は厳然と違う世界、そのくらいのことは誰にもわかりますし
昔のひとはそんな荒唐無稽なことは言わなかったし書いていない。
古伝にもありません。
万葉集にあるのは、「帝の業績をたたえるためにまるで神のような」と
大げさに比喩した歌ですね。
比喩であることは読めば誰にもわかりますし、比喩が決り文句に
なったということもあります。よくあることです。

国学者折口信夫は戦後の講演でこう言っています。
「なんといっても天皇を現人神とし絶対君主の下で軍(いくさ)
に狩り立てられた庶民の心を(戦後いまさら)神道に戻すのは
難しいことだ」続けて「神は死んだ」とまで言っています。
日本の伝統、古来の思想である神道が地に落ちたことを嘆き
なんとか復興させたいと願った折口信夫でしたが、志を遂げない
まま昭和28年に亡くなりました。

その数年前には論調が変わり、どうも神道はもう今の日本では
難しいと気弱になっています。
時代は朝鮮戦争に突入し警察予備隊は自衛隊へと格上げされ
日本は米軍のための反共の防波堤として再軍備へと逆行し始めます。
サンフランシスコ講和条約を機に公職追放解除されたかつての
戦犯たちは復権し、その政治活動が活発になっています。
岸信介(安倍首相の母方祖父)も復権します。
権力を前に、学者、言論者たちは再び黙ったことが、折口の
変化からも読み取れます。


人の心を権力者が操るために神を騙ったというのは日本史の汚点で
神のあずかり知らぬこと、神には関係なく人の咎。
神人同一、この考えが一番迷惑なのは天皇陛下ではなかろうかと
こういう話が出るたびに思います。
なぜならば祭祀と祈りのために生涯を捧げるお立場、それは
血に泣くということで「私」はありません。のんびりと自由自在
勝手に~なんて全然ない生涯です。
世の中の平穏、人々の暮らしに安らぎのあることを祈念して
やまないのが天皇のあるべき姿であり、それに尽きます。
人の命の大事さを一番ご存知で、神のための死など、ありえない
のです。
(昭和天皇は戦犯合祀後の靖国神社へ参られませんでした。)

そもそも記紀の神話の解釈に苦しんだ国学者が神を擬人化して
解釈してしまったことも「現人神」を誤解する発端、一因であるか
とも思いますが、それもごく一部の国粋主義的な、やはり体制的な
学者にあったことでした。
「古事記伝」の本居宣長は擬人化していません。

けれども江戸時代ではあるまいに、それを訂正することは
科学が進歩した今ならできるのです。
神とははたらきであり、神名はそれを表す記号なのですから。










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