構想45年、あの塩野七生がどうしても書きたかった ≪男≫ だったという。
その著 『 皇帝・フリードリッヒ二世の生涯 』 (上・下巻)を読んでみた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/bb/fdae4676d85d092a10b011cb37ee071f.jpg)
十二世紀末ローマ法王(イノンケンティウス三世)後見のもと、シチリア王にわずか三歳半で即位したフリードリッヒの生涯。
当時のシチリア王国は、現シチリア島のみならずナポリをも含む南イタリアを領土に持っていたという。
≪ローマ法王は太陽で 皇帝は月≫
と称したのは後にフリードリッヒ二世が反逆するこのローマ法王・イノンケンティウス三世だそうだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/3c/66c4ee9d491c7309b2fc70a0b506c044.jpg)
シチリア王国の王であったフリードリッヒが、下図神聖ローマ帝国の皇帝にまで駆け上がる中世とは。
現代もそうであるかのように、中世も国・為政者・宗教などの思惑が微妙に絡まった複雑な歴史を持つ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/32/110952452339884772cfc064df1715ae.jpg)
フリードリッヒは母方から世襲でシチリア帝国の王として君臨していたが、聖権と俗権は地位は王権(諸国の王)より
上とされていた為、世襲権は認められておらず。 各国でこの聖権(法王派)と俗権(皇帝派)による壮烈な
主導権争いが繰り返されていたという。
ローマ法王はあくまで ≪ローマ法王は太陽で 皇帝は月≫との見方なのだが、フリードリッヒ二世は違っていた。
≪皇帝のものは皇帝に 神のものは神に≫ と世俗主義を貫こうとしていた。 現代版の ≪政経分離≫ だ。
神聖ローマ帝国の皇帝に君臨してからも毅然とローマ法王と対峙した姿は まさに≪中世最大の反逆者≫。
ローマ法王の十字軍遠征要請に幾度も延期。約束期日に実行しなかったのを理由に、二度にわたり『破門』。
第六次十字軍で遠征したが外交努力で1229年無血で講和を成立させたことでも知られる。
≪無血十字軍≫と呼ばれている。
しかし当時は、「異教徒との講和などすべきではない」 などと双方に反対の大合唱が巻き起こったという。
( 講和内容より抜粋 )
・イスラム側はエルサレムをキリスト側に譲り渡す。ただしエルサレム市内に東側の三分の一にあたる地域は
イスラム教徒のものとして残し、非武装のイスラム教徒が管理する「イスラム地区」とする。
・双方の捕虜たちの全員の交換も話し合う。
・巡礼と通商を目的とする人々の往来は、双方ともが自由と安全を保証する。
・この講和の有効期間を十年間とし、その後も双方が同意すれば更新する。 ・・・・・・等々。
キリスト教側に巻き起こった反対の凄まじさは、イスラム側の反応をはるかに超えていたとも言われている。
しかも エルサレムを奪回したにもかかわらずだ。 悲しいかな いつの世も変わらないものですね。
事実講和成立の1229年~1248年までの二十年間、共生は完璧ではないにせよ継続できたと歴史は語る。
これを破ったのがイスラム側ではなくフランス王のルイ九世だった。 第七次十字軍を率いてエジプトに侵攻した。
しかし、十字軍は未曾有の敗北。捕虜の身に堕ちたフランス王の釈放を願う手紙を送ったということだが、
フリードリッヒ二世はこの1年後に他界。 第七次十字軍については何も書き残してはいないという。
塩野七生が描くヨーロッパ、特に中世を描かせたらピカイチですね。 それにしてもかなりフリードリッヒ二世に心酔・
恋しているようで、逆にすべてこれがフリードリッヒ二世かと、どっぷり信じ込むにも一抹の不安は感じますがね。
≪あばたもえくぼ≫ っていいますからね(失礼)
でも さすがの筆力にはいつもながら感心します。 一気に読まされました。
塩野さんといえば、結構過激ではあるが的を得た記述で当ブログでも紹介したことがある。
右クリックしてみて下さい。 なるほどザ・ワードⅡ(塩野七生編)
その著 『 皇帝・フリードリッヒ二世の生涯 』 (上・下巻)を読んでみた。
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十二世紀末ローマ法王(イノンケンティウス三世)後見のもと、シチリア王にわずか三歳半で即位したフリードリッヒの生涯。
当時のシチリア王国は、現シチリア島のみならずナポリをも含む南イタリアを領土に持っていたという。
≪ローマ法王は太陽で 皇帝は月≫
と称したのは後にフリードリッヒ二世が反逆するこのローマ法王・イノンケンティウス三世だそうだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/3c/66c4ee9d491c7309b2fc70a0b506c044.jpg)
シチリア王国の王であったフリードリッヒが、下図神聖ローマ帝国の皇帝にまで駆け上がる中世とは。
現代もそうであるかのように、中世も国・為政者・宗教などの思惑が微妙に絡まった複雑な歴史を持つ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/32/110952452339884772cfc064df1715ae.jpg)
フリードリッヒは母方から世襲でシチリア帝国の王として君臨していたが、聖権と俗権は地位は王権(諸国の王)より
上とされていた為、世襲権は認められておらず。 各国でこの聖権(法王派)と俗権(皇帝派)による壮烈な
主導権争いが繰り返されていたという。
ローマ法王はあくまで ≪ローマ法王は太陽で 皇帝は月≫との見方なのだが、フリードリッヒ二世は違っていた。
≪皇帝のものは皇帝に 神のものは神に≫ と世俗主義を貫こうとしていた。 現代版の ≪政経分離≫ だ。
神聖ローマ帝国の皇帝に君臨してからも毅然とローマ法王と対峙した姿は まさに≪中世最大の反逆者≫。
ローマ法王の十字軍遠征要請に幾度も延期。約束期日に実行しなかったのを理由に、二度にわたり『破門』。
第六次十字軍で遠征したが外交努力で1229年無血で講和を成立させたことでも知られる。
≪無血十字軍≫と呼ばれている。
しかし当時は、「異教徒との講和などすべきではない」 などと双方に反対の大合唱が巻き起こったという。
( 講和内容より抜粋 )
・イスラム側はエルサレムをキリスト側に譲り渡す。ただしエルサレム市内に東側の三分の一にあたる地域は
イスラム教徒のものとして残し、非武装のイスラム教徒が管理する「イスラム地区」とする。
・双方の捕虜たちの全員の交換も話し合う。
・巡礼と通商を目的とする人々の往来は、双方ともが自由と安全を保証する。
・この講和の有効期間を十年間とし、その後も双方が同意すれば更新する。 ・・・・・・等々。
キリスト教側に巻き起こった反対の凄まじさは、イスラム側の反応をはるかに超えていたとも言われている。
しかも エルサレムを奪回したにもかかわらずだ。 悲しいかな いつの世も変わらないものですね。
事実講和成立の1229年~1248年までの二十年間、共生は完璧ではないにせよ継続できたと歴史は語る。
これを破ったのがイスラム側ではなくフランス王のルイ九世だった。 第七次十字軍を率いてエジプトに侵攻した。
しかし、十字軍は未曾有の敗北。捕虜の身に堕ちたフランス王の釈放を願う手紙を送ったということだが、
フリードリッヒ二世はこの1年後に他界。 第七次十字軍については何も書き残してはいないという。
塩野七生が描くヨーロッパ、特に中世を描かせたらピカイチですね。 それにしてもかなりフリードリッヒ二世に心酔・
恋しているようで、逆にすべてこれがフリードリッヒ二世かと、どっぷり信じ込むにも一抹の不安は感じますがね。
≪あばたもえくぼ≫ っていいますからね(失礼)
でも さすがの筆力にはいつもながら感心します。 一気に読まされました。
塩野さんといえば、結構過激ではあるが的を得た記述で当ブログでも紹介したことがある。
右クリックしてみて下さい。 なるほどザ・ワードⅡ(塩野七生編)