ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

生きる力

2007年07月03日 14時57分41秒 | いろいろ
さっき、消費社会とかクレーマーとかの話を書いたけど。それと関連させて。

「生きる力」っていつごろから取りざたされるようになったんだろうって。ここ10年くらいのような気がする。ぼくが子どものころはそんなこと誰も言ってなかった気がするし。確かに今の社会では「生きる力」って大事な気がするけど、でも、ふと思ったのは「それって変じゃない?」って。

ここ10年くらいの流れってバブルの破たん、小さな政府への移行などグローバリゼーションと消費社会への移行がどんどん進んだ時代だと思う。結果、格差社会が進んだって考えると、だからこそ「生きる力」というフレーズが出てきたんだろうな。生きにくい社会、油断をすればとことん落ちていく社会なんだろうな。

そんな言葉が出てきてなかった昔が生きやすかったかというと必ずしもそうはならないと思う。ただ単に、日本での人生においてはマスターストーリーが共有されていて、それにのるかそるかってことしかなかったんだと思う。バブルの崩壊や価値観の多様化なんかがきっとそこで関係するとは思うんだけど。

今、教育では「生きる力」をどう身に付けるかという議論があるけど、それも確かに必要なのかもしれないけど、子どもが置かれている状況、子どもだけでなく人々がおかれている状況を少しでも良くするためにどうしたらええんかってことに知恵を絞る必要がないやろか。市場経済化、消費社会が進む中で人と人とのつながりがサービスを提供する側と受ける側という形で二項対立になってきてないやろか。それって次に何かを生み出すんやろか。

今の現状を肯定して「生きる力」をつけさすことを最優先するのか、「生きる力」を否定はしないけど、それだけでなく現状を変えようとしていくのか。おっきな岐路だと思う。










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消費社会の中で。

2007年07月03日 14時37分51秒 | 人づくり・場づくり
つい先日、読売新聞で「クレーマー急増の背景」って記事があったんだけど。

もので満たされた生活とかコミュニケーションの取り方が変わってきたとかってことがモンスターペアレンツなどが生まれる原因としてあげられ、教師など「サービス」の提供側はその苦情に対応する力や知識をつけないって論じているんだけど。その中で「教育現場でも消費者意識」が出てきたという主張があった。行き過ぎた消費社会、市場経済がおそらく対話する場、公共圏を失わせているんだろうということになると思う。学校選択制なんかも今後、こういった現象にいっそう拍車をかけるんだろうな。よりどころとしての地域が失われていく中で確かに解放された人も多いことは確かだと思う。地縁型の社会は本当に息苦しいことも多い。でも、それが提供者ー消費者という点で人と人を結び付ける社会は本当にそれでええのかなと疑問に思う。

提供者ー消費者という関わりの中には提供者はいいサービスを提供することに力を注ぐだろうし、消費者はいいサービスの提供者を一生懸命選ぼうとする。そこにどういった社会や地域を作るかという視点は入り込む余地はないだろうな。ここに一つ、グローバリゼーションの流れを受けた小さな政府によって経済格差を生み出してるってことを考えると、この流れのままでええんやろかって思う。

サービスを良くすること、消費者が賢くなること、それでほんまに生きやすくなるんやろうかって思う。
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