ここに提示された破局は今ある現実をなぞっているわけではない。架空の災害を設定して、横山さんは敢えて現実の出来事としてではなく、フィクションの中で、震災に取り組む。そして、そこでの日常を切り取ろうとした。それは、自分の中にある漠然とした不安とより明確に向き合い、それを形にして提示しようとしたためだろう。
誰もいなくなった仮設住宅で夫の帰りを待ち、今もひとり暮らす女。そこにやってきた男を彼女は夫だと思い込む。男もまた、彼女の期待に応えて、夫のふりをする。だが、こんな偽りの生活は続かない。外部から他者がやってきて今ある平穏は簡単に崩れる。まず、ボランティアで仮設を回り、絵を描いている男がやってくる。そして行方不明になっていた夫が帰ってくる。しかし、彼女は夫を夫として認めない。現実を受け入れず、幻の中に逃げてしまう。しかも、それは幸福な幻ではなく、偽りと知りながらそれに縋る幻。
彼女の心はきっと冷静で、誰よりも目の前の現実を受け入れている。終わりがやってくるとき、それでも幻のなかに未来を見てしまう。ハイツブリは来ないと、信じている彼女のところにハイツブリがやってきたとき、彼女は反対に動揺する。
ハイツブリを希望とすると、作品全体はとてもわかりやすく、きれいに終わるのだが、横山さんは敢えてその後にエピローグを用意する。もう一度日常に戻ってくる。そこに描かれるその後の彼らの時間は説明補足ではない。その後も変わらない日々は続き、そこで日常はくりかえされる。人生には、ドラマのような終わりはない。人に営みについて、どうしようもない災害の先に何を見いだすのか。簡単な答えはいらない。