11篇からなる短編集なのだが、これがとんでもなく怖い。いずれも怪異譚だ。だから特異なことを描くのが、それをとてもさらりと描くので、余計に怖い。日常に潜む「何か」が、ほんの少し肥大化したり、ずれてしまったりしたとき生じる出来事。あり得ない話ばかりなのに、ありえても仕方ないと思える。というか、ありえると思える。『雨月物語』の現代版という趣だ。
動けないし、しゃべれない病床の男が、魂になって友人である作家のところにやって来て小説のネタを話してくれる、なんて『菊花の契り』じゃないですか。タイトルの通りいずれも「夢伝い」でやってきて、去っていく。さまざまなかたちで死者や生者がやってくる。それは人間ではない存在になっていたり、時空を超えて来たりする。あっと驚く特別な仕方ではない。それは昔話や民話ではよくあるような自然なかたちだ。でも、それがこんなふうに現実世界にさりげなく描かれると、怖い。小説というふうに思えない。これは現実にあり得そうな(ありえないけど)怪奇譚なのだ。
この本の最後の作品、『母の肖像画』が素晴らしい。選ばなかったもうひとつの人生を描く。自分たちが生きた時間のどこかで生きなかった時間が確かにあり、それがこの人生と影響しあっているなんていう展開なのだ。しかも自分の話が、死んでいこうとしている父親の話と絡み合い、さらには11年前に死んでいる母親の謎とつながる。彼女が失踪していた1週間の謎(昔の恋人の葬儀に行っていた)が明らかになったとき、すべてがつながる。このお話だけではない。いずれのお話も単純な話なのに単純な構成ではないのだ。彼らが向き合う相手との関係が複雑に絡み合うのだ。冒頭の表題作『夢伝い』のラストはこういう象徴的な言葉で締めくくられる。「夢は危険だ。夢を伝って何かがやって来るから」ここからその先の10篇が始まる。
自分たちが向き合う現実の先に誰かが向き合っていた幻想の世界が広がる。そんなばかな、と思うけど、気づくとそれは自分たちの現実もまた幻想のようなものでしかない、という事実につながっていく。幻想と現実は見分けがつかない。