僕はこんな小さな映画や小説が好きだ。(この映画の原作も素晴らしい。窪美澄の同名短編小説だ。)『DUNE 砂の惑星』のような大きな映画を見た後だから、余計にそんな気分になったのかもしれない。大作より小品というわけではないけど、同じように丁寧に作られた映画だという意味では共通する部分もあるだろうけど。較べる必要も意味もないけど、なんとなくそんなことを思う。でも、この2作品はたまたまだけど、少年少女の成長物語という共通項を持つ。そして、その途上でいきなり終わるところもよく似ている。
彼女は、どこかにたどりつくわけではない。まだ、その途上だ。だけど、ここで確かに一区切りがついたのだな、と思うとほっとする。よかったな、と思える。高校一年生の少女がほんの少し大人になる。というより、今まで背伸びして大人のふりして無理ばかりしてきた。だけど、もうそんなことしなくていいんんだよ、と言われた気分になり、ちゃんとこれからは16歳の女の子として成長する、ことにする。お父さんやふたりのお母さんを認める。あたりまえの生き方ができる。好きな男の子に好きと言う。彼の気持ちがどうのこうのとか、大事なことはそこではない。自分の気持ちをちゃんと伝えることが大事だと気付く。それは3歳の時に別れたままの生みの母親と向き合うことや、新しいお母さんをちゃんとお母さんと呼ぶことや、そんなことのひとつひとつを乗り越えることで達成した。子供の頃以来となる誕生日パーティーをみんなを呼んで行うこと。そんなプレゼントを受け入れられること。映画はそこまでのお話だ。
今泉力哉はこの小さな映画を大事に大事にして作る。長回しの多用はもどかしい想いをちゃんと掬い取るためだ。君が納得いくまでいつまででも待つよ、というサインだ。だからそれはもどかしくはない。観客である僕らもまた、ちゃんと彼女と向き合うことができる。ここに今泉映画の最高傑作が誕生した。