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映画・演劇のレビュー

花組芝居『夜叉ヶ池』

2009-01-31 22:58:36 | 演劇
 見ながらこの芝居の見せ方は今の時代のニーズには合わないのではないか、なんて、そんな危惧を抱いた。おしゃれで華やかな舞台はさすが花組芝居だとうならされる。泉鏡花のあの芝居をこんなにもポップなものにして、でも原作を損なうわけではない。自分たちの世界に仕立てている。確かに10数年前ならこういうものも通用しただろう。だが、今、この軽さは受け入れ難い。

 キタモトさんの『夜叉ヶ池』を見てしまった目にはこの『夜叉ヶ池』はただの[ちゃちなもの]にしか見えない。ふたつはまるで別物だとはわかっている。アプローチもまるで違う。だが、同じ台本を使っている以上、どうしても比較してしまいたくなるのは人情だろう。花組芝居のこの作品への違和感が拭えない。こんなにもせつなさのない『夜叉ヶ池』って大丈夫なのか?

必ずしもハイテンションでぶっとんだ芝居だとは思わない。おふざけなんかではない。だが、原作に忠実な世界観を自分たちのテイストで纏め上げたその世界は僕には違和感を抱くしかないものだ。これは意外性ではない。換骨奪胎した中で原作の精神を損なわないという花組芝居の通常のやり方とも違う。なんだかこれでは企画意図が見えないのだ。当時はこういうものが新鮮だったのかもしれないが、今ではありがちなものにしか見えない。

 魑魅魍魎の登場と村人たちとの落差もない。百合と白雪姫との心の交流もあまりきちんと描かれてない。ただカーニバルのような奇天烈な衣装とメイクに包まれたモンスターの競演。そこに白雪が君臨しているだけ。それでは『夜叉ヶ池』ではない気がする。萩原と百合のラブストーリーだけでは駄目なのか?そんなことはないはずだ。そこを中心にしてどう世界を立ち上げるのか、それがこの芝居の成否を分かつ。かってこの戯曲を篠田正浩監督が映画化した時、坂東玉三郎が百合と白雪を2役で演じた。あの一番オーソドックスなやり方からどれだけ離れて、どうして核心に近付くか、それがこの作品の課題だと思う。

 観客を参加させて、ゲストに自由に遊ばせて、それでもぶれない芝居を作る。それって確かに凄いことだ。だが、それだけではあまり意味はない。

 

 

 

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