習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

空の駅舎『太陽雨』

2007-09-12 22:36:33 | 演劇
 中村さんの意図したものが、効果的に機能し、方法論とテーマが上手く融合したバランスのいい作品になっている。ラストでバタバタと謎解きがなされるが、芝居はミステリではないから、謎が解けたからといって、ほっとさせられるという類のものではない。

この作品にとって大切なのはお話に仕掛けられた謎が解明されていくことの快感ではなく、その事実を通して、ここに住む人たちの内面に抱えた痛み、実情がより鮮明に我々の胸に届くことにある。

この芝居の途中で流れを断ち切るように現れるチカとサユキという2人の少女が、実はこのマンションを去っていった一人の少女の2つの内面であり、彼女が今同棲しているカラスヤマが、彼女の母親に会いにくる、というドラマに繋がっていくという構図が明確になるとき、このエピソードはここには二度と戻らない彼女自身の痛みを代弁することになる。ラストでの母親の告白とシンクロするこのエピソードは、この芝居の要でもあるが、そこに全てを象徴させるわけではない。自治会の住民達のそれぞれのエピソードの一つとして彼女の話も全体の中に埋もれていく。

毎夜路上に停められてある自動車。誰一人としてその車に乗っている人の顔を見た事がないのに、いつも駐車路に停まっている。このエピソードを中心にして、自治会のメンバーたちの噂話や、苦情箱に寄せられた様々な問題が語られていく。

マンションの自治会。総会に向けての集会が開かれる。そこに現れるマンションの亡霊。さらには管理会社の男が住民達の身上調査をして、このマンションに合わない住居者に退去を迫るエピソードも含め、かなり歪なホラー風の展開をみせる。一見、奇を衒ったものにも見えるが、そういう仕掛け自体を楽しんでいるわけではない。それは不確かなものに踊らされているような現実を提起するための方法でしかない。ありえない展開を通してこの芝居全体のテーマが語られていくことになる。

ここに住む住人は同じ建物の中で生活しているのに、他者との交わり、関わりを持とうとしない。彼らは必要以上に近隣住人との関係を拒絶する。出来ることなら、自分たち以外の人間がこのマンションに住んでいないかのように思いたい。ここに居るのは自分たちだけで他の人たちは幻影でしかない。だから、他者の立てる生活音に対して必要以上に過敏に反応し、それを拒絶しようとする。隣の住人のたてるほんのちょっとした物音すら許せない。

彼らは、この大きな建物の中で共同生活を送っているはずなのに、全く他者と向き合おうとしない。集会室には大きな窓がある。この異様に大きな窓は、この芝居の「巨大な空洞」の象徴である。そこからはエントランスにある人造池が見える。覗き込む。水面が揺れている。雨が降ってきたのか、と思う。だが、そうではない。アメンボが跳ねているのだ。

 このエピソードはフライヤーにもしっかり書かれている。それは「異常な人口密度の都会で暮らす我々の様」と公演案内の解説にはある。一つの今を象徴する空間を舞台に、作演出の中村賢司さんは、この巨大な空洞でしかないマンションで暮らす人々の心の闇を掬い取ろうとする。人と人がここには生きているはずなのに、それは幻のように儚い。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 恩田陸『木漏れ日に泳ぐ魚』 | トップ | 上品芸術演劇団『約束だけ』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。