4年間の記憶を失うという事実が大切なのではない。このリアルとはほど遠い映画がおもしろいと思えるとしたら、それはこの映画が【忘れてしまう】ということを巡る寓話として機能したときだ。誰が私にキスをしようが、しまいが、そんなことどうでもいい。彼女はそのことを覚えていないことが気持ち悪い。
たかが、キスのひとつやふたつで大騒ぎするほどのことはない。だいたい元カレが彼女の部屋に忍び込んできて、記憶のない彼女に「君は僕の恋人なんだよ」とか言ってキスしてくるのを拒みもせず受け入れてしまうくらいの無防備なんだから、誰とキスしようが、彼女にとってはそれが体制に大きくは影響するはずはないではないか。
だから、問題はキスをしたかどうか、ではなく、誰としたのかが思い出せない、ということにある。忘れてしまうという事実を巡るこの映画は、反対に、その事実によって人は何を手にすることが出来るのか、ということを描くこととなるのがおもしろい。どんな大事なことだって人はいつか忘れてしまうのだ。忘れることは生きる上で大事なことなのかも知れない。忘れることで生きていられる。大事なのはそっちの方だろう。
アメリカンスクールを舞台にした日本映画なんて今まで1本もなかったはずだ。しかも、監督はハンス・カノーザ。あの『カンバセーションズ』を作ったアメリカの新鋭である。今回も、一見凡庸で、たわいもない青春映画の枠組みの中で野心的な試みを提示する。写真を映像に重ね合わせる手法は、記憶を巡るこの映画にとって有効な手段となる。だが、それが映画の本質にまでは関与しない。ただの思いつきでしかない。しかも、それは前作で映画の全編を分割場面で構成したほどには大胆ではない。
ヒロイン堀北真希を巡り3人の男の子を配して、彼らの誰が記憶を失う直前に彼女とキスしたのか、を思い出すための心の旅が描かれるのだが、失ったものを取り戻すことで、何を手にするのか。さらには、失ったものに何の意味があったのか。そんな抽象的で象徴的な問題をもっと突き詰めて描くことでこの映画は単純な青春映画から逸脱して可能性を広げることが出来たはずだ。なのになんだか中途半端だ。
松山ケンイチが、彼女が記憶を失ったから彼女に近づく、という設定がおもしろい。だから、もっと焦点を絞り切って、記憶を無くしてしまいたい男と、取り戻したい女の出会いの物語として、すっきり描けたならよかった。
たかが、キスのひとつやふたつで大騒ぎするほどのことはない。だいたい元カレが彼女の部屋に忍び込んできて、記憶のない彼女に「君は僕の恋人なんだよ」とか言ってキスしてくるのを拒みもせず受け入れてしまうくらいの無防備なんだから、誰とキスしようが、彼女にとってはそれが体制に大きくは影響するはずはないではないか。
だから、問題はキスをしたかどうか、ではなく、誰としたのかが思い出せない、ということにある。忘れてしまうという事実を巡るこの映画は、反対に、その事実によって人は何を手にすることが出来るのか、ということを描くこととなるのがおもしろい。どんな大事なことだって人はいつか忘れてしまうのだ。忘れることは生きる上で大事なことなのかも知れない。忘れることで生きていられる。大事なのはそっちの方だろう。
アメリカンスクールを舞台にした日本映画なんて今まで1本もなかったはずだ。しかも、監督はハンス・カノーザ。あの『カンバセーションズ』を作ったアメリカの新鋭である。今回も、一見凡庸で、たわいもない青春映画の枠組みの中で野心的な試みを提示する。写真を映像に重ね合わせる手法は、記憶を巡るこの映画にとって有効な手段となる。だが、それが映画の本質にまでは関与しない。ただの思いつきでしかない。しかも、それは前作で映画の全編を分割場面で構成したほどには大胆ではない。
ヒロイン堀北真希を巡り3人の男の子を配して、彼らの誰が記憶を失う直前に彼女とキスしたのか、を思い出すための心の旅が描かれるのだが、失ったものを取り戻すことで、何を手にするのか。さらには、失ったものに何の意味があったのか。そんな抽象的で象徴的な問題をもっと突き詰めて描くことでこの映画は単純な青春映画から逸脱して可能性を広げることが出来たはずだ。なのになんだか中途半端だ。
松山ケンイチが、彼女が記憶を失ったから彼女に近づく、という設定がおもしろい。だから、もっと焦点を絞り切って、記憶を無くしてしまいたい男と、取り戻したい女の出会いの物語として、すっきり描けたならよかった。