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映画・演劇のレビュー

浪花グランドロマン『湯たんぽを持った脱獄囚』

2010-03-31 21:42:15 | 演劇
 なぜだろう。今頃別役が、なぜかとても新鮮だった。アイホールの現代演劇レトロスペクティヴがあんなにもおもしろかったにも関わらず、どこかで違和感が拭い去れなかったのとは裏腹に、この同じように古い作品の上演がまるで違和感なく受け入れられたのはなぜか。アイホールの3作品に感じた居心地の悪さは、それらが中途半端に古いことと、時代をくっきりと象徴した内容であったことが影響しているはずだ。それが、今の感覚では素直に受け入れられなかったことも大きい。

 もちろんここで、別役実の作品の普遍性の勝利だ、なんてバカを言うつもりはない。別役作品が不条理劇で、時代の色には染まらないから、というのがこの新鮮さの原因ではない。もちろんそれらはこの芝居のおもしろさの1要素であることは否定しない。だが、それがすべてではない。人間存在の不安なんてことでくくってしまったりもしない。そんな陳腐なものではない。

 たまご☆マンの演出のよさは、この作品からテーマ性を追求しない、という姿勢だ。さりげなく、そのままに、この台本を芝居として見せていく。主人公2人は力むことなく、自然体でこの不条理とむきあう。彼女たちのテンションの低さ、力の抜け方は、もちろん演出の指示なのだが、彼女たちはこの作品が描く現実から目をそらしているわけではない。この訳のわからなさときちんとむきあいながら、そこに巻き込まれて、混乱していく中で、自分を見失わない。不条理の渦に巻き込まれて右往左往し、パニックに陥ることはない。しっかりと、この出来事を受け止めていく。その真摯さがこの作品の魅力なのである。

 へんに理屈をつけて観客を説き伏せるのでもなく、訳のわからない話で煙に巻くのでもない。巻き込んでいる側の細川愛美は、巻き込まれる側の関角直子以上に、この状況の迷宮の中で、自分を見失っているように見える。しかし、彼女は確信を持ってこの現実とむきあっている。それは答えを見つけるためではなく、答えのない現実とぶつかっていくためだ。そういう意味でこの芝居はきわめてアクチュアルな作品になったのだ。

 もちろん戯曲自体の力もある。昔、田口哲さんが別役作品をずっと作り続けてきたあの時だって必ずしも作品をリアルタイムで上演していたわけではない。別役には賞味期限がない。しかし、それが可能なのは、この台本の中に演出家が自分たちの今を見定めるだけの力がある場合に限る。




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