絢爛豪華なスペクタクルとしての『夜叉ヶ池』ではなく、モノトーンで、静謐な世界。このとんでもなく単純な物語を、物語とすら言えないくらいにメリハリのないものとして、淡々と見せる。キタモトさんによる語りの部分は観客が芝居の世界にのめり込んでいこうとするのを拒絶するかのように、観客と舞台を分断する。きちんとした距離を取ってこの世界を外部から凝視することを強要する。恋愛ものとしてこれを読むことは出来る。しかし、キタモトさんはそんな見方はしない。自然対人間という図式を百合と萩原を介して見せる。2人の純愛に感情移入するのではない。村人の理不尽に怒るでもない。ただ、フラットに流れていくストーリーを見つめていく。
それがキタモトさんのいう「思想としてのドラマ」なのだろうか。そのへんは僕にはよくわからない。だが、この無表情でフラットな芝居は、最後の最後まで、そのルックスに変化を見せることはなく、ひとつの頑固な意志を貫いてみせる。ラストのスペクタクルにしても、大量のスモークのみで表現し、ことさらスペクタクルを強調しているわけではない。洪水により、村が沈んでいく。白雪たち妖怪が夜叉ヶ池を去っていく。村人たちは死んでいく。転生した二人は新しく出来たこの池を守ることになる。学円はただ合掌する。このラストシーンは美しい。そして全てがそこには描きこまれる。
スペクタクルとカタストロフを見せ、芝居としての満足感を観客に与えようというのではなく、この世界のあり方をひとつのドラマとして、静かに示唆する。世界のなりたちを、あまりにシンプルなものとして見せていく。これは世界というもののありようを描く芝居だ。
前作『天守物語』とはまるで違う語り口で、人間と妖怪を接触すらさせず、もどかしくなるくらいに、静かな語りで、描写を徹底させる。萩原と百合の佇まい。それは演じる村尾オサムとこやまあいの、と言っても問題なかろう。彼らの凛とした佇まいがこの芝居の全てを物語る。これは傑作である。
それがキタモトさんのいう「思想としてのドラマ」なのだろうか。そのへんは僕にはよくわからない。だが、この無表情でフラットな芝居は、最後の最後まで、そのルックスに変化を見せることはなく、ひとつの頑固な意志を貫いてみせる。ラストのスペクタクルにしても、大量のスモークのみで表現し、ことさらスペクタクルを強調しているわけではない。洪水により、村が沈んでいく。白雪たち妖怪が夜叉ヶ池を去っていく。村人たちは死んでいく。転生した二人は新しく出来たこの池を守ることになる。学円はただ合掌する。このラストシーンは美しい。そして全てがそこには描きこまれる。
スペクタクルとカタストロフを見せ、芝居としての満足感を観客に与えようというのではなく、この世界のあり方をひとつのドラマとして、静かに示唆する。世界のなりたちを、あまりにシンプルなものとして見せていく。これは世界というもののありようを描く芝居だ。
前作『天守物語』とはまるで違う語り口で、人間と妖怪を接触すらさせず、もどかしくなるくらいに、静かな語りで、描写を徹底させる。萩原と百合の佇まい。それは演じる村尾オサムとこやまあいの、と言っても問題なかろう。彼らの凛とした佇まいがこの芝居の全てを物語る。これは傑作である。