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映画・演劇のレビュー

トランスパンダ『ひとつでもいい』

2007-11-18 21:47:54 | 演劇
 これは、とても幸せなラブストーリーだ。でも、それって、これが甘いお話だ、ということではない。それどころか、これはいつもながらのとっても痛い話でもある。ここに居るのに、誰もいない。自分がひとりぼっちで、自分すら見えない。

 ナカタアカネさんの作る世界は彼女自身にとてもよく似ている。自伝的なお話だから、なんていうことではない。だいたいそんなことは一観客には分からない。ただ、自分をここまで痛めつめなくてもいい、と思う。そういう意味ではナカタさんは南船北馬一団の棚瀬さんとよく似ている。もちろん作る芝居は似ても似つかないが。

 主人公のミサト(なかた茜)は、みんなからチヤホヤされて、男の子たちを周囲にたくさんはべらせて、しかも彼女のことをみんな好きで、それは表面的な愛情ではなく、心から大事に思われている。(なんだか、それはそれで鼻持ちならない奴でもあるか)交通事故で半年分の記憶を失くし、その時の加害者であるユリコ(服部まひろ)と今は同居している。ユリコは自分にないものを持つミサトに心引かれる。みんなに囲まれ、大事にされ、なのに彼女はひとりぼっちだ。描きようによっては、やっぱりこれはとても嫌な女になりそうな話だろう。しかも、作、演出、主演をひとりでこなし、自分のやりたい放題、これでは独りよがりにすらなり兼ねない。

 『ナカタさんは自分のことが大好きで、自分が一番大事で、自分のためだけに芝居を作っている。まるで女王様状態の芝居。』そんな誤解を招きかねない芝居だ。だけどそんなこと承知の上で、そこに挑戦していく。彼女は周囲に媚びたりしないで、わがままを押し通していく。それは可愛いだけの女のわがままではない。きちんとした自分の世界観を持った作家としての一徹さだ。表面的な次元でこの芝居を判断するような人はいないと思うが、この心地よい空間の中にある痛々しさは、彼女にしか表現できないものだろう。

 自分を題材にして、作品を作り続けてきたナカタさんがこの10年の軌跡の末に到達したひとつの答えがここにはある。こんなにも素直になっていいのか、なんて言わない。ここに至るまでの長い長い道のりがあったからこそ、こんなに素直で、ストレートな答えが恥ずかしくなく言える。ここで照れてしまったり、媚びてしまったりしたら、駄目だし、観客に退かれてしまったら話にもならない。とても微妙なバランスのもとで成立する。ハヤシダ役の木原勝利さんが彼女を受け止める。この目立たない役が上手く機能したからこの芝居は成功した。

 「恋愛ジャンキー」だったミサトの過去の記憶が戻ってくるなんていうラストではなく、この1年間の日々の中で、ユリコや周囲の男たちとのかかわりの中で、積み重ねた時間が彼女を変えていく。夏から秋にかけての流れゆく時、そこにいるひとりひとりがとても愛しい人たちに見えてくる。そんな優しい人たちに囲まれて、彼女の孤独は極まる。

 ワンポイント・リリーフに近い上原日呂から、この芝居を動かしていくユリコの兄シンジ役の夏まで。6人の男たちが見せる物語はとても心地よく胸に届く。ユリコとミサトの関係を図式化することなく、自然に描くのもいい。なのに、この二人の関係性が作品のテーマにしっかり迫ってくる、という絶妙な作りとなっている。

 理屈ではない空気感のようなものがこの芝居を作る。それは『ナカタさんの世界』としか言いようのないものだ。その中でひとつの物語は明確な形を作り紡ぎあげられていく。このとても幸福なハッピーエンドがとても爽やかで優しい。

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