習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『夜のピクニック』と歩く

2006-10-06 23:27:35 | 映画
 今、自分が、その時間の中にいる時には気付かないが、時が経って振り返る時、あの時は輝いていたよな、と思える瞬間はいくつもある。学生時代のいくつかのイベントはまさにそうだ。特に高校生の頃の文化祭や体育祭は誰にとっても特別なものだと思う。その日に向けてみんなで必死になってる姿に酔う。「あぁ、今、生きてるよな」と思う。もちろん本当はそれほど感動的なわけではないかもしれない。だけどテンション高めに自分を設定して、そのお祭り気分に自分を乗せていく。

 高校を卒業して30年近く経つと、さすがにあの頃の想いも薄れていく。仕事では毎日高校生と接しているが、いつのまにかルーティーンワークになってしまうことも多い。

 そんな自分が、ただ歩いているだけの高校生の姿を描く映画を見て、こんなにも感動してる。それっていったい何なんだろう。もちろん映画の出来もよかったと思うが、それ以上に作り手の冷静な視線が心地良かったのだ。まるでドキュメンタリーのように主人公たちを追いかけていく。映画自体はこのイベントをことさら感動的に描こうとはしていない。それどころかそっけないくらいである。だが、主人公たちはこのイベントを盛り上げようと必死になっている。80キロも歩き続けるという決して楽しい行事ではない歩行祭というイベントを彼らはひとつの区切りにしようとしている。

 3年生にとっては、これが最後の学校行事で、これが終わると受験一筋の日々になる。思い出を作る最後の機会なのだ。そこで主人公の貴子は融に対して自分の気持ちを伝えようとする。それは恋の告白なんかじゃない。3年間一言も話をしたことのない彼と、たとえ一言でもいいから話する。それだけの事だ。(2人の間には秘密があるがこの際それはあまり気にしなくていい)自分たちの気持ちを昂ぶらせて、このイベントを特別なものにしていこうとする1000人に及ぶ高校生たちの姿を描くこの映画は、思い出になる前の大切な時間を噛み締めるように見せてくれる。この映画のリアリティーはそこに尽きる。
 
 ストーリーはかなり作られたもので、見ていて少し鼻につく。しかし、これはリアルな高校生を描くための映画ではなく、一種のファンタジーなのである。80キロを一昼夜で歩ききるなんていう学校行事は不可能である。だが、そんな無謀な行事があるという大嘘の中から、彼らの気持ちという真実を紡ぎ出して見せてくれる。

 「夜のピクニック」というタイトルが象徴する甘やかな優しさがこの映画の魅力だ。夜という時間はそれだけでファンタジーなのである。いつもと全く違う時間の流れ方をする夜道を歩くという行為の中で彼らは特別な時間を体験する。

 映画の冷めたような視線が主人公たちの熱い演技と重なることで、不思議なリアリィーを感じさせる。歩き続ける映画なのになぜか汗臭くないのも、いい。青春感動大作とは一線を画して、この映画はまるでいつもの1日のようにこの日を描いてみせる。その距離感がとてもいいのだ。大人である僕を感傷的にさせ、あの頃はよかったなんて思わせるのではない。子どもたちの姿をそのまま見せることによって、変わることのない今という時間を切り取って見せてくれる映画なのである。僕はそこに感動したのだ。

 長澤雅彦監督は『青空のゆくえ』でもこれと同じようにたわいない大事件(大好きな男の子が転校すること)を通して揺れ動く少女たちの気持ちを、その日々のスケッチとして描いた。なんでもない日常を丁寧に見せることで、そこにある大事なものを掬い取ろうとする。そんな彼の映画に対する取り組み方が好きだ。子供の目線と大人の冷静な視線が同居する。そこから紡がれる淡々としたドラマが興味深い。

 『夜のピクニック』とともに80キロを歩ききったとき、なんとなく何かをやり遂げたような気持ちになっていた。2時間映画を見ただけなのに・・・

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 楽市楽座『金魚姫と蛇ダンデ... | トップ | 『ピクニックの準備』で準備する »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。