ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

アラマタにまいった?(続)

2010年08月04日 | 本/図書館/言葉

 貸し出し期限に何とか読み終わった。
 少し前、<アラマタにまいった?>で、「アラマタ美術誌」(荒俣宏著・新潮社刊)のことを書いた。

 その折、貸し出し延長が可能かPCで検索して貰ったら待機者が5人もいること、読後のことなど何時かまた書ければ、とも書いた。

 Photoそれで、今回はその続き。
 この本、なかなか手強くノートにまとめながら読んだ。

 絵を鑑賞するのが好きで、特に、光をどのように扱うかに目覚めだしたルネサンスくらいから、印象派後期くらいまでの絵画に魅かれる。

 「アラマタ美術誌」とは、端的に言えば、“ 人間は、なぜ絵を描くのか、描きだしたのか、から始まり、クロマニヨン人の洞窟絵画から現代の美の基準の変遷と時代背景の解説 ” 本だと括れば、簡略に過ぎて著者に失礼か?

 絵画は、三次元立体の現実の眺めを、二次元の平面に表現することで、光と影が大きな要素と解く。
 また絵を、人間の身体に例えれば前だけを見ていたが、この本から背中の部分もあることを教えて貰った。

  ペトロ が、「その背中とやらの中で、特に印象に残ったのは?と聞く。

 Photo_2そこで、受け売り、「あのね、人間が絵をかけるようになる前提って分かる?と。
 それは、“ 重力の支配に打ち克って、空間を自由に動かせる手を獲得したこと ” なんだそうだ。

 どうして獲得したのかって?
 それは、直立歩行を始めたから手は無重力になったんだって。
 無重力状態の中では足は自由に動かせないけれど、重力フリーの手は動くのだという。

 そう言われると、なんとなく見ていたけれど、長い間、国際宇宙ステーションに滞在、先だってソユーズで帰還した野口さん、実験棟「きぼう」中で、手は自分の意思で自由に動かしていたっけ。

 ことほどさように、アラマタにはまいった!(

 写真は、夙川公園の水辺で遊ぶ子どもたち。(

コメント (2)
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