ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

9月になれば

2009年08月29日 | 季節/暦

 日米安保条約が結ばれて50年になろうとしている。

 その60年代の初め、ラジオの電話リクエストが全盛で、5球スーパーの真空管ラジオに耳を凝らした。
 今の時期に必ずといっていいほど流れてきたのが、「9月になれば」(Come September)だった。

 Photo山重なる田舎で、季節が透けはじめたものの夏の終わりのけだるくもの憂い夜に、ミラノやローマを舞台にしたハリウッドの恋愛映画の主題歌の明るく軽快なメロデイが流れると、外国ならずともまだ見ぬ都会の華やかさに憧れる自分がいた。(写真上:夙川公園で遊ぶ姉妹)

 宇宙に137日滞在した若田さんが、無事地球に帰還したニュースでこの8月は明けた。

 裁判員裁判がはじまり、豪雨禍、日照不足などの異常気象と東海地方の地震、新型インフルエンザが甲子園の高校生達にも影響をもたらし、とうとう死者を出してしまった。(写真中:街中の秋の花)

 そして、衆議院選挙に明け暮れした月でもあった。
 自称責任力の与党と政権交代を媚びる野党が、40日もの間果てもなく続けた椅子取りゲーム。

 Photo_2世評、政権選択が憲政史上はじめて国民の一票によって行使される画期的な選挙、と報道機関を中心に喧しく、実現すれば半世紀に亘り米国に国の安全を委ねてきたこれまでの国の在り様も問われるやも知れない。(写真下:投票日を報じる朝日新聞)

 勿論、そのことは喜ばしいことだが、さて変えてみて如何ほどのものが期待できようかと醒めた部分もある。

 ただ、歴代ところてん総理を筆頭に派閥や族議員のボス、旧態依然と利権をほしいままにする守旧派、一票を請い握手を求めながらもふんどり返りちょこっとおざなりに頭を下げて見せる大物?連中には、この際お引取りを願いたいと切に思う。

 明日はその投票日、棄権からは何も得られず、私達に主権があることを為政者に示さなくてはならない。

 そんなこんなで、夏・8月がいく。が、さて、9月になれば何が見えるの?

コメント
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