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ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

名前

2011年02月04日 | 宗幸雑記

 私の父の名前は、米と書いて “ しげる ” と読む。

 悲しくもこれを、しげると呼んで下さった方は今まで一人もいない。
 よね、こめ、極めつけは、おばあさんの名前を間違えて書いたのでは?と、疑われたりもする。
 父は、私が生まれる以前に亡くなった祖父が、「漢文?に詳しくて」と言っていた。

Photo  その父は、私が生まれた時、衆生に福徳を与える吉祥天のような女性に育ってほしいと願って名前を付けたと言っていた。
 未だに父の願いには程遠く名前負けしているが。

 私たちが初めて授かったのは女の子で、義父は、「私の母の名前から頂いては?と言って下さった。
 当時の私は、初めての孫を持つ母に対する義父の心遣いと思え、ただただ嬉しかったことを覚えている。
 だから、娘は母の名前から一字を貰って付けた。

 <前にも書いたが>、母は、初孫の娘を誇らしげに自慢し続け、「孫馬鹿だなあ」と思いつつも感謝していた。
 息子が生まれた時は、義父は鬼籍にいて、叡智ある男性にと考え名付けた。
 孫を持って初めて義父や母の深い愛情と思いやり、命を紡ぐ仕合せと感謝が、あの言葉の中にあったことを教えられた。

 ところで、昨今の子供への虐待事件を聞いたり読んだりする度に心が震え、悔しくて歯噛みする。

Photo  被害者は、名無しの権兵衛さんじゃない、立派な名前の子供たちだ。
 この世に生を受け、ひとかどの人間になれと名付けた時の気持ちを忘れ、自身の至らなさから生じる憤懣や怒りを、躾と称してあらがうすべのない吾が子に向ける親に言葉もない。

 一番愛情を注いでくれるとものと信じた親に裏切られ、無念やるかたない子供たちの名前を新聞などに見つけるにつけ、“ この子に神の恩寵を ” と祈るのみ。 (

 日は雑節のひとつ「節分」、正恵方を向いて太巻きを丸齧りされた方もあろう。
 そして、今日は二十四節気のひとつ「立春」、春という言葉に誘われそろそろ旅に?
 フィレンツェがいいなあ、あのボッティチェリの傑作、「春 = ラ・プリマベーラ」との出会いを求めて。 (

 風の強い一月最後の日曜日、散歩の途中でふたりが出会った薔薇と椿、淡い桃色の競演に見とれた。

   うすらひ(薄ら氷)の草を離るゝ汀かな (虚子)

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やきもち?

2011年01月24日 | 宗幸雑記

 子や孫の写真を部屋に飾っているお宅は多いと思う。
 我が家も、玄関には R 君と I ちゃんの写真がお迎え、居間、廊下、PCの壁紙から果てはトイレまでも、ふたりの写真が並ぶ。

 R 君は、私たちにとって初孫。
 3歳の頃から、ひとりでお泊りしたことも度々あって、可愛くって私たちの笑いの源になっていた。

1_2  ばば馬鹿と言われようと、「どこが可愛いいの、この子の?と笑われようとも、それは見る方の目が悪いと心から思っていて、誰か?から言わせれば、「とても始末に悪い」ということらしいが、その誰かとて偉そうに言う資格はない。

 余談だが、ペトロの両親は子と孫に恵まれ、幼い子を連れて帰郷してもさらっと接していたが、私の母は長女が初孫、しかも外孫ということで随分と可愛かったようだ。
 その立場になって初めて、母の気持ちが理解できるようになった。

 満4歳にして独りっ子を卒業、お兄ちゃんになった R 君、弟が誕生して1年間ほど、お母さんを取られたように感じたのかナーバスだった。
 今はお兄ちゃんらしくなり、クリスマスなどプレゼントのお礼の電話を掛けてきて、「 I ちゃんに代わるね」と言いながら、「○○ありがとうと言うんだよ」と教えている声が聞こえる。

2  そのふたりが、正月に遊びに来た。
 両親が買い物に出かけ R 君と I ちゃんはお留守番。おやつを食べていた I ちゃんが、「Rちゃんばかり?」と突然写真を見ながら言った。それも、ちょぴりべそをかきながら。
 「えっ?」と問い返したら、「 I ちゃんはいない!」と言う。
 壁の写真を指して、「ここにいるよ」と言うと表情が柔らかくなった。「これは I ちゃんの赤ちゃんの時だよ」「 I ちゃんが生まれてからはふたりで写ってるよ」と教えると、安堵したのか嬉しそうに、「ごちそうちゃま」と遊びに戻った。

 言葉が少し遅くて心配もしたが、3歳になりしっかりお喋りも出来るようになり、少し自我も出てきた。
 普段は、「R ちゃん」と呼んでいるが、怒ると、「R!」と呼び捨てに。「私が怒るのを真似ているようで・・・」と、母親が苦笑交じりに話していた。

 ふたりが、「ばいば~い」と帰った後、逞しく真っ直ぐに育って欲しいと願いながら、改めて壁の写真のふたりを眺め、「並べ方も工夫しなきゃ」と思っている。(

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栗の渋皮煮

2010年12月08日 | 宗幸雑記

 味と出来映えはさておき、料理をすることが苦にならない。
 食材を買い揃え新しい料理を作るのも、今ある材料を工夫して作るのも好きだ。

 時間があれば、「さあ、チャレンジするからね」と、狭いキッチンでガチャガチャしだすものだから、ペトロ から、「どちらかと言えば、今は何もしないでいてくれた方が嬉しい」とか「素材の持ち味で食べたいなあ」とか、言われることもしばしば。

Recipe_2  そんな失礼な輩はほっといて、今回は F さん直伝の 《栗の渋皮煮》 に挑戦。

 きっかけは、茶の稽古の合間に彼女の渋皮煮を頂戴し、味も甘さも上品でとても美味しく、形もとても綺麗で感心したこと。
 渋皮煮を作ったことのある方はご存知だろうけど、栗の形を崩さずに拵えるのが案外に難しい。

 今まで、労多くして煮崩れしない完成品は僅か。
 そんなことを話す私に F さん、「簡単にできるのよ」と10個余り栗も分けて下さった。
 また、それまでの失敗談を傍で聞いておられた A さんが、自分の分と一緒に「煮てきてあげる」と引き受けて下さった。
 それが、F さんのものと同じように大変美味しく、仄かにブランデーまで香っていた。

 にわかに刺激され、F さんから、「この通りに作ればいいのよ」と頂いたレシピで挑戦したという次第。
 お二人のものほどこくがないのが残念だが、つぶれたのはひとつもない上々の出来映え? 嬉しくって稽古場に持参、「食べて、食べて」と半ば押し売りみたいに自慢した。

P1090650  それで、F さん譲りのレシピに思いついたことも少し加え、ブログに載せる厚顔振り、お笑いめさるな。
 左党のペトロもひと粒つまんで、「上品な甘さで、美味しい」と言ってくれた。

 ブランデーを加える時には、火を止めてから20~150ccほど、好みの分量を入れる。                                                                                                          保 存したい時は、煮沸消毒した容器に熱いままの栗を茹で汁ごと入れ、出来るだけ空気が入らないように蓋をするといい。
 来年の秋にまた作りたいし保存もしたいと、今から楽しみにしている。                                                                                                       

 写真は、ペトロが散歩の折に撮った冬薔薇(ふゆそうび)。春や秋のバラや、先のミニバラなどに比べて少し侘しくもあるような? そういえば昨日から、二十四節気のひとつ大雪(たいせつ)だそうだ。(

 冬ばらの豪華ならぬが好もしき (圭兒)

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えっ、120歳まで?

2010年09月26日 | 宗幸雑記

 成人病予防の検査や健康診断をきちんと受けたことがない。
 経年劣化じゃないが、この年になればどこかに不具合があるのが自然。殊更、悪いところを教えて貰うこともないじゃない、と思っていた。

 しかし、今年の夏はことの他応えた。
 それで、何時もお世話になっている先生から勧められ、節を曲げ検査を受けた。

Photo_4  後日、「レントゲンや心電図、血圧も、糖尿病や肝臓の数値も問題なし。言うことなしよ!とお墨付きを頂いたが、その際、思わず「120歳まで」と言ってしまった。

 ひと、ホモ・サピエンスは、病気は勿論、ストレスもなく息災に過ごせば、120歳まで生きる動物らしいこと、何かの本で読んだことがある。
 それで、思わず口から出てしまったのだが、先生からは、「うん、大丈夫!と、冗談にしろ太鼓判を押して貰った。

 健康なのは喜ばしい限りなのだが、少し釈然としないところもある。
 湯上りに、「臭いよ~」と鼻をつままれながら膝や腰にハップ剤を塗り、効き目が早いと聞いてはドリンク剤でビタミンなどを補給するものの、その日の疲れがその日の内にリセットできないことが多くなった。
 正直なもので、身体のパーツは年齢相応に傷み、折に触れて軋み悲鳴を上げる。

Photo_3  元気にボランティアに走り回っている友のメール、「心の学びはあるのだけれど体力が続かず、来年はどう関ろうかと考えている。まだ答えが出ない」を前に、「そうなんだよなあ」と独り言つ。

 若い頃には、肉体も精神も字にかけるようにはっきりしたものだったが今は違う。

 自分の身体と相談しながら、甘やかしもせずさりとて無理もせず、前を向いて歩んでいかないといけないのだが、困ったことになかなか気持ちが納得しないのである。

 その後に診察を受けたペトロ、この話を先生から聞いたらしく、「120歳!周りが迷惑でなければ結構なことで」と、彼にしては至極全うに答えた後、「俺の生き血を吸っているからなあ」と呟いたらしく、「奥様はドラキュラ、それともモスキート?と、診察室が大笑いになったという。

 写真の彼岸花と紫式部、ようやく開き始めたが、例年よりかなり遅いようだ。(

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八分の楽しみ

2010年09月19日 | 宗幸雑記

 奈良のMさん、この九月の末にご自宅で 《茶事》 をされる。                                                                    

 以前、小プログ<皐月の茶事>でも書いたが、点前は茶道の中の一部分。
 稽古を積み重ねていくと、勉強したことのトータルとして 《茶事》 にアプローチしたくなってくる。

 Photo_5という訳で、私としてはMさんが、「お茶事をやってみたい」と思われたことがとても嬉しい。

 茶事や茶会は、「亭主、八分の楽しみ」と言われている。
 目的やお招きする客を考え、道具組み、懐石の献立など、季節を踏まえながら少しずつ固めていく。

 献立表の書き出しひとつとっても、何度も何度も訂正、案が出たり入ったりして頭が痛くなることもあるけれど、これらのひとつひとつの過程が楽しく、そして、勉強になるのだ。
 写真は、献立の一案、白花豆です。

 斯Photo_8くいう私も、献立を考えるときよく予行演習をした。
 家族から、「稽古台かいななんて言われながらも、味の反応などを確かめながら固めていったものだ。

 その 《茶事》、この年齢になってみれば、「体力と気力がなければ」出来ないこととしみじみ思う。
 だから余計に、「やってみよう!と思われる方が続いて下さるのが嬉しい。

 家庭にある物や手持ちの物を最大限活かして、料理も手近にあるもの、無理なく手に入るもので考える。
 これが、私がお仲間の皆さんに言っていること。

 秋彼岸も過ぎた月の晦日、嬉しくも楽しい 《茶事》 がある。

 写真のお花、今月のお華の稽古に使った 《蔓梅もどきと竜胆と蘭の葉》です。(

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♪ いい湯だな、で終わるはずが

2010年08月13日 | 宗幸雑記

 前の週はとんだ厄日続きだった。
 事の起こりは日曜の朝、洗面の時、頬の下に赤いかぶれが、金曜にベランダで水遣りした時に虫がついたようで、手で払った記憶はある。

 月曜の朝、ペトロ が1円玉ほども赤くなった頬を目ざとく見つけ、「へえ~っ、珍しく虫に好かれて」とからかう。
 汗っかきの彼、同じ場所に居ても自分だけが蚊に刺される、その意趣返しみたいに言う。

 悪いことは重なるもので火曜日、今度は朝からお腹が痛い。
 Cimg4734_2胃や腸が弱く、少し食べ過ぎただけでも、疲れが溜まってもてき面だ。
 何時ものことと高を括っていたら思いの外で、昼過ぎから酷くなる一方、明日、明後日とお稽古もあり絶食した。

 水曜のお仲間が「毛虫には〇〇薬が効くわよ」と教えて下さる。
 その夜、熱があるとは思えないが寒気がして頭痛、動くとガンガン響く。
 木曜の午前中、かかりつけのお医者さんへ、頭に響かないようすり足でそろそろと。

 翌金曜日、お粥と梅干で少し力がつくようになった。
 自分は食べなくても仕度が要る、「食事はいいよ」と気を使ってくれるが任せたら外食するだろうし、明日のことを考えると気が重い。

 Cimg4753_2そこで前から行こうと話していた “ 有馬温泉行 ” を提案、昨年だったか、西宮市街から有馬温泉へ “ さくらやまなみバスが運行、小1時間で着くらしい。

 それで立秋だった土曜、有馬の湯へ暑気払いとなった。

 温泉は鉄分を含んだ茶色い「金の湯」、気持ち悪がり?の私、そろそろと足を入れたが思った以上にさらさら。
 
白い「銀の湯」の大きな浴場から青い空と山を眺め「の~んびり」、心も身体もすっきりとリセット。

 これで、「気分良く終わる週末」の、はずだった・・・が、夕食の支度で揚げ物の油が大きく撥ね顔面に。
 取りあえずヒリヒリする箇所を、氷を入れたハンカチで押さえながら夕食を終えたが、後で鏡を見ると冷やしていなかった火傷が二箇所もある。

 ペトロは「これで打ち止め!と慰めてくれたが、床だけじゃない、つい先日、換気扇のフードやレンジ周りのタイル、綺麗に磨いたばかりなのに油まみれ、「あ~あっ」(

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数独の12時間

2010年08月09日 | 宗幸雑記

 ペトロ が、苦戦?している。
 今秋、初めてのニューヨークを計画したのだが、なかなか思うように運ばないようだ。
 難関はマイレージの特典交換らしく、NYやD.C.などの東海岸線、半年先まで予約で満杯、キャンセル待ちだとか。
 メトロポリタン美術館などで《フェルメールの旅》 を完結させたいと思っているのだが、ペトロ、「ANAのキャンセル待ちはNOと同義語らしい」と言い、「残念ながら、真夏夜の夢?」 に終わりそう。

Photo_2  ところで、ヨーロッパまでおよそ12時間のフライト。
 この長い機内 「皆さん、どのように過ごしていますか」。
 最初の頃は、まとまった読書が出来ると喜んでいた。
 当然、重くて嵩張る本は敬遠、文庫本になるのは仕方がないのだが、年齢とともに細かい字が読み辛く頭痛になる始末。

 以前は、朝日新聞 ‐ be版に掲載のクイズを切り抜き、機中や長い車中で楽しんでいたのだが、近頃は、数字パズルの 《数独・ナンプレ》 にひたすら没頭している。

 このパズル、遊ばれた向きもあるだろうが、縦横9マスを3×3のブロックに分け、縦、横、ブロックに1から9までの数字を入れる。(上)
 縦列、横列、3×3のブロック内で同じ数字が重複して入ることはないというゲーム。
 中級レベルから進歩しないが、何時でも何処でも鉛筆さえあれば楽しめ、中断しても難なく再開出来るのがこの数独のいいところ。

Photo  外国でも結構、新聞などの数独を楽しんでいる姿を見かけるが、同好の士に会ったような親近感を覚え 「レベルは」と聞きたくなる。
 消しゴムなどを使っている場面に出会うと思わず覗きたくなる。

 ペトロ、昼食にビールをお供にすることがまゝあり、「あれ!今まで本を読んでいたのに」と、思う間もあらばこそ、何時の間にか本を枕にお昼寝タイム。
 狭い我が家、あれこれして邪魔になってはと静かに、そして優しく、「どこが」の声は無視。お稽古のおさらいなどや読書。
 そして、気分転換は、いつもの 《数独》 なのである。                                                          

 ところで、写真の 「藪欄」、お茶の仲間から頂いた。
 ペトロ、この花をみて 「水引草や」などと頓珍漢なこと言っていたが、素朴で好きな花のひとつだ。 (

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献茶式

2010年05月17日 | 宗幸雑記

 何十年ぶりという好天に恵まれたゴルデンウィーク。

 その連休が終わった翌々日の7日、絶え間なく雨が落ちる生憎の空模様だったが、茶道のお仲間と奈良の法華寺に出かけた。

 Photo_7奈良は今、平城遷都千三百年祭で様々な行事が行われている。
 法華寺では、光明皇后千二百五十年大遠忌法要が執り行われ、裏千家お家元が献茶された。

 降りしきる雨の中、お御堂の前に特別に設えられた舞台で、古式に則った舞楽が奉納された後、声明が静かに響くなか、厳かに二椀を献じられた。

 私が茶道を好きになったのは、遠い昔のこと。
 お茶をいただく時、茶碗を二度廻す所作に意味があることを知ったからだ。

Photo_6  人間にも身体の前と後ろがあるように、茶碗にも正面という表の顔がある。

 その、お茶碗の一番良い顔の正面でいただくのは神仏。
 だから、私たちは敬虔な気持ちで、正面でいただくのを遠慮し、二度ほどお茶碗を廻し正面をはずす。

 廻すことで、私もお相伴させていただきますと、一杯の抹茶を感謝しながら、神仏とともにいただく感覚がよい。

 日曜礼拝、ミサの最後に神父から、「キリストの体」として与るホスチア(聖体)とワイン(聖血)。
 それにも似た感覚があって面白い。

 面白いといえば、茶道は、陰陽にもとづき道具を置くことが多く、一つひとつの所作にもその陰陽と関係がある。
 そのことについては、また、別の機会に書いてみたい。(

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二文字押切灰

2010年05月03日 | 宗幸雑記

 五月晴れの空に鯉のぼり。
 花の頃のお天気が嘘のように好天に恵まれた大型連休、その真っ只中。

  この連休、日頃手が届かぬところの掃除や冬物の整理が目白押し。
 ゴールデンウィークや盆休みなど、少しまとまったお休みは、日頃、気になっても時間がなく出来ていないことを片付ける、カタリナデーだ。

 Photoペトロ の散歩にも機嫌よく付き合いながらも、後延ばしに出来ないのが、茶道具を風炉の仕様に変えること。
 なかでも一番神経を使い、時間もかかるのは風炉の灰形作り。

 昨日は午後から、雑念を払い集中。
 あれこれと用を言い付けてくるペトロを暫し打っちゃって、なんとか、《 二文字押切 》 に灰形を完成させ、中心に火箸で水の卦を描き終了した。

 Photo_2 写真でお見せ出来ないのは推して知るべし。強引に完成させたと認めざるを得ない出来映えゆえに。

 半年先には、この頑張って仕上げた灰をあげて、風炉を片付ける。
 またその次には、炉に灰を入れる作業を、と、飽きもせず繰り返していることだろう。

 好きこそものの上手なれと言う。茶道は好きだが、灰形は相変わらず下手だ。
 いつか、我ながら上出来と褒めてやれる灰形が完成したら、頼まれなくとも是非お見せしたい。

 このブログを機会に、「茶道」のカテゴリーをペトロに設けて貰った。
 お茶にまつわることなど、折々に綴りたい。皆さんとの交流の場になれば嬉しい。

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