私の父の名前は、米と書いて “ しげる ” と読む。
悲しくもこれを、しげると呼んで下さった方は今まで一人もいない。
よね、こめ、極めつけは、おばあさんの名前を間違えて書いたのでは?と、疑われたりもする。
父は、私が生まれる以前に亡くなった祖父が、「漢文?に詳しくて」と言っていた。
その父は、私が生まれた時、衆生に福徳を与える吉祥天のような女性に育ってほしいと願って名前を付けたと言っていた。
未だに父の願いには程遠く名前負けしているが。
私たちが初めて授かったのは女の子で、義父は、「私の母の名前から頂いては?」と言って下さった。
当時の私は、初めての孫を持つ母に対する義父の心遣いと思え、ただただ嬉しかったことを覚えている。
だから、娘は母の名前から一字を貰って付けた。
<前にも書いたが>、母は、初孫の娘を誇らしげに自慢し続け、「孫馬鹿だなあ」と思いつつも感謝していた。
息子が生まれた時は、義父は鬼籍にいて、叡智ある男性にと考え名付けた。
孫を持って初めて義父や母の深い愛情と思いやり、命を紡ぐ仕合せと感謝が、あの言葉の中にあったことを教えられた。
ところで、昨今の子供への虐待事件を聞いたり読んだりする度に心が震え、悔しくて歯噛みする。
被害者は、名無しの権兵衛さんじゃない、立派な名前の子供たちだ。
この世に生を受け、ひとかどの人間になれと名付けた時の気持ちを忘れ、自身の至らなさから生じる憤懣や怒りを、躾と称してあらがうすべのない吾が子に向ける親に言葉もない。
一番愛情を注いでくれるとものと信じた親に裏切られ、無念やるかたない子供たちの名前を新聞などに見つけるにつけ、“ この子に神の恩寵を ” と祈るのみ。 ()
昨日は雑節のひとつ「節分」、正恵方を向いて太巻きを丸齧りされた方もあろう。
そして、今日は二十四節気のひとつ「立春」、春という言葉に誘われそろそろ旅に?
フィレンツェがいいなあ、あのボッティチェリの傑作、「春 = ラ・プリマベーラ」との出会いを求めて。 ()
風の強い一月最後の日曜日、散歩の途中でふたりが出会った薔薇と椿、淡い桃色の競演に見とれた。
うすらひ(薄ら氷)の草を離るゝ汀かな (虚子)