アジア・オセアニアNews blog ~お日様とお月様の光と影~

アジア・オセアニア地域の通信社が配信する記事から『中国の領土紛争問題』を伝え日本の安全保障などのニュースブログ。

中国海警船4隻、領海侵入 今年40日目 (時事通信)

2013年08月16日 | 安全保障と東シナ海紛争
中国海警船4隻、領海侵入=今年40日目-沖縄・尖閣沖
(時事通信 2013/08/16-12:17)
 http://www.jiji.com/

沖縄県石垣市の尖閣諸島沖で16日、中国海警局所属の「海警」4隻が日本の領海に侵入した。中国公船の領海侵入は今年40日目となった。

 領海侵入は10日以来6日ぶり。第11管区海上保安本部(那覇市)によると、午前10時~同20分ごろ、海警「1126」「2102」「2146」「2151」が大正島沖で領海に入った。
 海保の巡視船が退去するよう警告したところ、2151は無線を通し、日中両国語で「貴船はわが国の領海に侵入した。直ちに出域してください」と応じたという。


19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した(8)

2013年08月16日 | お日様とお月様の光と影
  徳川宗家(将軍職を世襲的に引き継ぐ家系)将軍継承権を有するのは初代将軍家康が定めた紀州徳川家(現和歌山県と三重県の南部)、尾張徳川家(現愛知県名古屋市)そして水戸徳川家の三家でした。そして家康から100年経過した18世紀1700年初頭7代将軍家継(いえつぐ)が幼くして亡くなり家康の直系の血統が途絶えました。
  それから徳川宗家を引き継いだのは紀州徳川家の徳川吉宗でした。8代将軍吉宗は将軍の血統を絶やさないため実子に田安家・一ツ橋家・清水家の三卿を成立させました。この三卿は領地は無く江戸城内に住み将軍継承のためだけの家系でした。
  八代将軍吉宗から150年経過した幕末の19世紀中頃には徳川宗家は三卿が引き継いでいました。しかし三卿と徳川三家は徳川家の血統が疎遠となり赤の他人同様になっていたのです。

  1853年7月27日、12代将軍徳川家慶が亡くなりました。家慶とうい人は不運な将軍で家慶の実父先代の11代将軍徳川家斉(いえなり)は50年も将軍の在位にありました。そして家慶が将軍に在位に就いたのは45歳の時でした。家慶が将軍に在位に就いた頃から日本近海に列強諸国の蒸気船が頻繁に現れる様になりました。家慶は黒船対策を徳川斉昭に任せていました。しかしそこへペリー艦隊が浦賀に来航し「開国要求」を家慶に付きつけたのです。家慶はペリーが去ったと同時に亡くなりました。
 
  家慶の実子は13人居ましたが多くは幼くにして亡くったりまた他家へ養子になっていました。家慶の正室は楽宮喬子(さがのみやたかこ)院号浄観院(じょうかんいん)は京の公家から将軍家に嫁ぎ一人慣れない江戸に住みまたさらに実子は次々亡くなってしまい心細かった事でしょう。

  家慶の実子で生き残り江戸城に居たのは家定(いえさだ)だけでした。家定を生んだ生母は側室の美津でした。美津(院号本寿院ほんじゅいん)は生き残った子ども家定を溺愛しておりました。ですから本寿院はこの家定に将軍継承させるため強力に薦めていたのです。この本寿院が家定将軍擁立した幕府内の派閥を「南紀派」と呼んでいました。

  しかし家定は子どものころから病弱でまた精神的にもひ弱でとても将軍職を引き継ぐ器ではありませんでした。家定は江戸城の庭でガチョウを追い回したりまた剣付き鉄砲を持って近習を追い回したりと家定の奇行が目立っていまいした。父親の家慶が亡くなった時は家定は32歳になっていましたがしかしその奇行は治まっておりませんでした。ですから国難と言える「アメリカとの国交問題」に対処できる器量を家定は持ってはいませんでした。 

家定が将軍を引き継ぐことは幕府つまり日本の不運であったのです。

 家定の将軍継承に危機感を感じた幕府の閣僚安部正弘は初めて水戸徳川家が国政に参加できた徳川斉昭と共に将軍擁立する幕府内の派閥を作ったのです。安部正弘は斉昭の7男である七朗麿こと慶喜(よしのぶ)を三卿の一ツ橋家に養子にする事に成功したのです。この徳川斉昭・安部正弘が慶喜将軍擁立した幕府内の派閥を「一ツ橋派」と呼んでいました。
 この一ツ橋慶喜は江戸幕府の終焉を見た最後将軍です。慶喜は家定とは対照的で聡明にして賢明な貴公子武士というより政治家でした。幕府の閣僚達は当然の様に家定より貴公子一ツ橋慶喜を次期将軍に相応しいと思っていました。
 
  しかし家定を次期将軍にと強力に薦める本寿院の「南紀派」はここで禁じ手を使いました。徳川斉昭が将軍以外の男性は出入り禁止の大奥(江戸城にある将軍の正室と側室ための御殿)に出入りしたので大奥勤めの女中が斉昭と慶喜を毛嫌いしていると訴えました。この本寿院の一言で一ツ橋慶喜は将軍継承ができなくなったのです。 


 江戸城将軍御座之間に頼り無く心細く家定が座りそばに幕府の閣僚達が控えている。そこに本寿院が入って来て勝ち誇る様に言い放った。

 「家定殿あの一ツ橋慶喜に勝ったのですよ!あなたが将軍です!」
   「あの……母上…」 


 
  「一ツ橋派」の安部正弘と幕閣達は本心ではこのぼんくらな家定に「アメリカとの国交問題」に対処できる器量は持っていない事に危機感を持っていたのです。そして「一ツ橋派」の幕閣達は将軍継承闘争をまだあきらめてはいませんせんでした。

  そして幕府には「アメリカとの国交問題」の意見書が各藩から続々と届ていました。譜代大名の伊予松山藩・越前福井藩また薩摩藩・土佐藩などの外様大名の有力藩からも意見書が届いていたのです。


つづく
 

 お日様とお月様の光と影~東アジア近代化クロニクル(年代記)~ 
 
 第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した
  プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!(1)~(8)

 参考文献 
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社より
 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝 前半 
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半
 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候


筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。

ソウルで市民団体の集会相次ぐ 警察と衝突も (聯合ニュース)

2013年08月16日 | 日韓紛争
 ソウルは反日ではなく反政府デモでソウルは燃え上がっててござる。

ソウルで市民団体の集会相次ぐ 警察と衝突も
聯合ニュース2013/08/15 16:24 KST
http://japanese.yonhapnews.co.kr/

【ソウル聯合ニュース】第68回光復節(日本植民地支配からの解放記念日)の15日、ソウル中心部のあちこちで各界の市民団体による集会やデモが開催され、参加者と警察の間で衝突が相次いだ。

 6・15共同宣言(2000年の南北共同宣言)実践委員会の韓国側委員会は同日午前、ソウル駅前広場で「8・15平和統一大会」を開き、南北離散家族再会事業の推進と北朝鮮・金剛山観光の再開を南北当局に促した。集会には全国民主労働組合総連盟(民主労総)をはじめとする市民団体や野党関係者ら5000人(主催側推計、警察推計3500人)が参加した。

 韓国大学生連合のメンバーらは朝早くから、地下鉄光化門駅近くの世宗文化会館前で情報機関・国家情報院による大統領選への介入を糾弾するデモを行い、会館前の道路1車線を占拠。午前中だけで126人が「集会および示威に関する法律」違反の容疑で警察に連行された。午後も付近の道路8車線を占拠して交通を妨害し、計140人余りが連行された。

 また、ソウル駅で8・15平和統一大会を終えソウル市庁前広場に向け行進していた参加者のうち、約1500人が鍾閣駅付近の8車線を塞いでデモを行い、警察と対峙(たいじ)した。警察は散水車を使ってデモ隊を強制解散させた。集会の現場で散水車が使われたのは現政権で初めて。この影響で、光化門駅や鍾閣駅、乙支路入口駅付近は一時的に交通がまひした。