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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

鹿児島県奄美大島 「 名瀬港立神灯台 」

2014-03-27 06:54:41 | 奄美群島の灯台



ピラミッドのような島の頂部に灯台が立つ







沖にある三角形の島は興味をそそる







名瀬港沖防波堤の向こうに立神島が見える







50cmほど高さの手すりの鎖を頼りに細い道を上って行く







頂部に近づくにつれて断崖は険しく狭くなる







頂部に近づくと灯台が目の前に見える







立神島頂部と灯台下部







初点が昭和12年とあるが当時はかなり困難であったろう







灯質が群閃白光で毎6秒に2閃光の灯器







登りはそうでもなかったが下りはシビレた馬の背ほどの幅の道







下から見ると壁のようにそそり立つ岩壁







途中のヘアピン付近からの光景







立神島の周りは青い海が広がる





「 鹿児島県立大島高等学校 」 の校歌

立神を 繞 ( めぐ ) りて清き
新潮 ( にいしお ) の 香にたつあした
相和 ( あいわ ) して われらうたわん
夢若き 自律の調べ
研学の 理想に燃えて
見よ挙 ( こぞ ) る 大島高校

上の歌詞は、先日、春の選抜高校野球大会に出場した
鹿児島県立大島高等学校の校歌であるが、
その歌い出しに出て来る 「 立神 」 にある灯台である。



灯台表番号 / 6941
ふりがな / なぜこうたちがみとうだい
標識名称 / 名瀬港立神灯台
所在地 / 過去島県名瀬市 ( 名瀬港立神島 )
北緯 / 28-24-30
東経 / 129-29-55
塗色 / 白色
灯質 / 群閃白光 毎6秒に2閃光
光度 / 実効光度640カンデラ
光達距離 / 8.0海里
地上~頂部の高さ / 8.87m
平均水面上~灯火の高さ / 39.03m 
地上~灯火の高さ / 8.38m
業務開始年月日 / 平成12年2月1日
現用灯器 / LD管制器Ⅱ型


名瀬港立神灯台は、憧れの灯台である。
「 あの場所に行ってみたい 」 そんな思いで見ていた灯台であった。
名瀬港のシンボル的な島にある灯台の初点は昭和12年と古い。
その当時にあの島の頂上に灯台を作ることは困難であったと思われる。
それゆえに灯台まで辿り着いた時は感慨ひとしおだった。

この島まで来ることに協力して頂いた森崎さんに心から感謝を申し上げたい。
本当にありがとうございました。


名瀬港立神灯台へのアクセス
名瀬港立神島灯台へは、近くの浜辺や防波堤から遠望を撮るか、
瀬渡しで島に上陸するかのどちらかである。


鹿児島県奄美市 ・ 「 胸の大島 」 大島高校野球部

2014-03-27 06:53:41 | 野球












 「 胸の大島 」   鹿児島県立大島高校野球部



九州本島の鹿児島から
300キロ以上離れた奄美大島
その島を代表して
いやいや鹿児島の離島を代表しての
甲子園出場だ

大島紬が低迷するなか
甲子園出場に島が沸く

胸の 「 大島 」 は
我ら島人 ( しまんちゅ ) の誇りだ
負けはしたが
その活躍を
代々まで熱く語れ





第86回選抜高校野球大会より


胸に書かれた大島の文字。
その文字を見る度に、 「 本当に甲子園に出場したんだ 」 という思いが込み上げてきた。
かつて石垣島から八重山商工が出場した時もそうだったが、
離島からの出場は特別な思いがある。

名瀬、伊津部、大熊、朝仁、宇宿、芦花部、大勝、戸口・・・
目を閉じると奄美の景色が浮かんで来て、懐かしさに魂が震えた。



「 横綱鶴竜誕生! 」

2014-03-27 06:52:41 | スポーツ












稀勢の里との対戦の仕切りで、同じ大関でありながら、
鶴竜を見ていて横綱のような雰囲気を感じた。

そして、その時はやって来た。
第71代目となった 「 横綱鶴竜誕生 」 である。
二場所連続して1敗で優勝争いにからみ、
今場所は念願の優勝を果たした鶴竜。
その結果と本人のひたむきな努力を重視しての横綱昇進であった。
これで白鳳・日馬富士・鶴竜のモンゴル三横綱が誕生したわけである。

今まで勝ち越せばよかった大関とは違い、
負けられない横綱という立場との戦いになって来るだろう。
その重圧に負けないように心を鍛えて来場所から土俵に上がってほしい。



「 月と星のランデブー 」

2014-03-27 06:51:41 | 朝の風景とその他の風景













今朝5時過ぎに散歩に出ると、
東の空に月と星が仲良く浮かんでいた。
その微笑ましい光景に自然と頬が緩んだ。

今日は良いことがありそうな予感がした。







沖縄県嘉手納町 「 嘉手納高校野球部グランド 」

2014-03-26 05:30:41 | 野球



嘉手納高校野球部グランド















応援した沖縄尚学は何とか勝ってくれたが、
沖縄の美里工業と奄美大島の大島高校は負けてしまった。
美里工業は勝てる試合だっただけに勿体ない気がした。

今回、沖縄から2校出場しているが、
4年前の興南高校と嘉手納高校が出場した時を思い出してしまった。
ご存じだと思うが、興南高校が春夏を連覇した年である。
嘉手納高校は、池原ー真謝のバッテリーで、
甲子園でも十分に戦えると期待したが、
浮き足立ったわけではないだろうが、1回戦で負けてしまった。
それが、今回の美里工業と重なった。

大島高校は、序盤で勝てるんじゃないかと思う試合だったが、
終盤に打たれ、体力尽きた。
やはり大舞台では力が違ったのかも知れない。
だけど、奄美大島からの出場したチームの試合が観れただけでも満足である。
今度は、徳之島あたりの学校に頑張ってもらいたいものである。


大分県姫島村 「 姫島港A防波堤西灯台 」

2014-03-26 05:29:41 | 大分の灯台
































灯台表番号 / 5253.8
ふりがな / ひめしまこうAぼうはていにしとうだい
標識名称 / 姫島港A防波堤西灯台
所在地 / 大分県国東郡姫島村 ( 姫島港A防波堤外端 )
北緯 / 33-43-03
東経 / 131-38-51
塗色 / 赤色
灯質 / 群閃赤光 毎6秒に2閃光
光度 / 実効光度120カンデラ
光達距離 / 5.5海里
地上~頂部の高さ / 8.43m
平均水面上~灯火の高さ / 12.7m 
地上~灯火の高さ / 9.1m
業務開始年月日 / 平成3年3月29日
現用灯器 / LD管制器Ⅱ型


姫島港A防波堤西灯台へのアクセス
姫島港に着くと港を右に進み、東防波堤を歩いて行くと近くから見る事ができるが、
渡船で上堤するか、フェリーの上からが無難かも知れない。


熊本県美里町 「 舞鹿野田橋 ( もうかんだばし ) 」

2014-03-26 05:28:41 | 熊本の石橋



















所在地 / 熊本県美里町二和田
架橋 / 不明
石工 / 不明
長さ / 6.7m  
幅  / 1.8m  高さ / 1.5m


舞鹿野田橋は、橋の上部が扁平で通りやくす施行されていて、
九州でも珍しい扁頭アーチの型である。
一説には多くの石橋を手掛けた石工たちが、
自由な発想で造ってみたのではないかといわれている。


舞鹿野田橋へのアクセス
舞鹿野田橋へは、大窪橋から緑川ダム方面に約500mほど行った所にある
右側の店の裏にあたる。路標が目印になる。
駐車は、店の裏が空いているので停められる。


熊本県美里町 「 岩清水橋 」

2014-03-25 06:45:41 | 熊本の石橋



上流側面からの眺め







下流側面からの岩清水橋






欄干のないフラットな上部






霊台公園内にある岩清水橋





所在地 / 熊本県美里町清水
架橋 / 不明  
移設 / 昭和56年
石工 / 不明
長さ / 4.0m
幅  / 1.0m  高さ / 不明


岩清水橋は、現在は霊台橋公園に移設されているが、
もともと二和田地区に建造されていた石橋で、
小さい橋だが見事な石組みは昔の石工の技術の高さを物語っている。


岩清水橋へのアクセス
岩清水橋へは、行園橋の下流50mほどの所にあるので、
行園橋を参考にしてもらいたい。 駐車場も同じく利用出来る。


「 祝!十両優勝・豊真将 」

2014-03-25 05:09:41 | 相撲






豊真将は勝っても負けても角界一所作のきれいな力士である。
それは本人の性格を表しているものだと思う。

豊真将 紀行(ほうましょう のりゆき、1981年4月16日 - )は、
山口県豊浦郡豊浦町(現在の下関市)出身で錣山部屋所属の現役大相撲力士。
本名は山本 洋介(やまもと ようすけ)。
身長185cm、体重147kg、得意手は右四つ・寄り。
四股名の由来は、〈豊〉は合併のため消滅した豊浦町から、
〈真〉は本人の心、〈将〉は大将、
〈紀〉はものごとの初めを意味する出身校の監督の一字、
〈行〉は父から一字をもらったもので、父母への御礼に従うという意味が込められている。
ニックネームはマショー。最高位は東小結(2012年5月場所)。
趣味は読書、史跡巡り。好物は栗おこわ。


地元の旧豊浦町立豊浦中学校(現在の下関市立夢が丘中学校)には
校庭に立派な土俵小屋があり、山本少年はそこで高校生らと混じって鍛えられ、
地元の大会でも優秀な成績を修めていた。
そのときの後輩には境川部屋の豊響(本名:門元隆太)がいる。
中学卒業後は誘いを受けた埼玉栄高等学校に進学し故郷を離れた。

埼玉栄高校では全国大会に出場して活躍し、
学業では学年約1600人中一桁の成績を取るなど、文武共に優秀であった。
その後日本大学に進学、入学当初からレギュラー格で活躍するも、
蜂窩織炎の悪化により1年で相撲部を退部。
一時は相撲を諦め、警備員や鳶職などアルバイト中心の学生生活を送っていた。
日大相撲部の同期には白石(のちの白乃波)や里山がいる。

蜂窩織炎の状態が良化した頃、白石と里山の大相撲入りに触発され自身も再び相撲を志す。
大学を中退してアルバイト先の社長の紹介で開設されたばかりの錣山部屋に入門し、
2004年3月場所に前相撲から初土俵を踏んだ。
この時新弟子入門期限間近の22歳11か月であった。

約3年相撲から離れていたこともあり、
入門当初は母校でもある出稽古先の埼玉栄高校で、
エースの澤井豪太郎(現在の豪栄道)に歯が立たず、
1年生の佐野マービン・リー・ジュニア(元:幕下大翔勇、現在のマービンJr.)にさえ
分が悪いなど苦労したこともあったが、その年の11月場所では三段目で全勝優勝。
スピード出世で番付を上げ、翌2005年1月場所、初土俵から5場所で幕下に昇進。
幕下上位でも安定した成績を残し、同年11月場所には東幕下3枚目まで番付を上げ、
5勝2敗と勝ち越し。続く2006年1月場所で十両に昇進した。
その場所も好調で東十両12枚目で10勝5敗と勝ち越し、
翌3月場所も12勝3敗と惜しくも十両優勝を逃したが大勝した。
5月場所、初土俵からおよそ2年で新入幕(東前頭11枚目)。

豊真将の入幕は山口県出身力士としては35年ぶりだった。
そのため、地元旧豊浦町とそれを引き継いだ今の下関市はもちろん、
山口県全体で応援をしている。
NHK山口放送局のニュース番組では、場所中連日その日の取り組みの結果が、
豊響ら他の郷土力士の分とともに伝えられ、
特に「やまぐち845」では、トップ項目で扱われる日もある。

新入幕の場所で脚を傷め、また立ち合いに迷いが出たこともあって、
入幕直後は下位でややもたついていたが、
入幕4場所目の2006年11月場所は一躍成長を見せた場所になった。
初日に豊ノ島に敗れたが、その後は11日目まで10連勝で全勝の横綱・朝青龍を追った。
12日目に初めての大関戦となる栃東(現在の玉ノ井)との一番に敗れ2敗に後退したが、
その先も崩れず、優勝はならなかったものの14日目まで朝青龍の優勝を引き伸ばした。
12勝3敗の優勝次点の成績と相撲内容が評価され、敢闘賞と技能賞を同時に受賞した。

2007年1月場所は西前頭4枚目の地位で3日目には大関・琴欧洲を初対戦で破ったものの、
7勝8敗と負け越した。
翌3月場所は1月場所に続き、琴欧洲を始め幕内上位力士を相手に内容のいい相撲で
好成績を残し、11勝4敗の好成績で2度目の技能賞を受賞した。
新三役の可能性があったが、西関脇で7勝8敗だった琴奨菊が西小結、
西前頭筆頭で8勝7敗だった豊ノ島が東小結となったため、
翌5月場所は東前頭筆頭に据え置かれた。
その場所は9日目に大関・千代大海との初対戦で勝利したが、
終盤の4連敗で5勝10敗と大きく負け越した。
9月場所は西前頭筆頭で8勝7敗と勝ち越し、新三役への昇進が確実と見られたが、
西前頭3枚目で10勝5敗の琴奨菊が西小結となったため、
11月場所での小結昇進は見送られた。

翌2007年11月場所では東前頭筆頭で3勝12敗、
翌2008年1月場所では西前頭7枚目で4勝11敗と2場所連続で大敗を喫した。
後にこの不振は血中コレステロール値の異常と
その投薬治療によるものであったことが明かされた。
投薬治療を食事療法に切り替えてからは、3月場所、5月場所、7月場所を
いずれも9勝6敗と勝ち越した。

2008年7月場所後に左手首を手術したが、術後の経過が思わしくないため、
翌9月場所は西前頭2枚目の地位ながら自身初の休場(全休)となり、
再出場の11月場所も負け越したが、
幕尻(東前頭16枚目)に下がった2009年1月場所は11勝4敗の好成績をあげて
2度目の敢闘賞を受賞した。
2009年3月場所は序盤まで2勝3敗だったが、6日目からの9連勝で11勝4敗の好成績をあげて、
2場所連続3度目の敢闘賞を受賞し新三役の可能性があったが、
5月場所は東前頭筆頭に据え置かれた。
この場所は初日から14連敗と苦しんだが、
千秋楽の嘉風戦に勝利して1991年7月場所の板井以来となる15戦全敗は免れた。
取り組み後、豊真将は涙ぐみ、館内は大歓声に包まれた。

2010年5月場所で東前頭2枚目に番付を上げたが場所前に首を痛め、
初日から1勝もできないまま7日目から休場した。

2010年7月場所では東前頭13枚目まで番付を下げたが、初日から10連勝し優勝争いに加わる。
14日目の徳瀬川戦に敗れるまで幕内優勝の可能性を残し、
最終的には11勝4敗で4度目の敢闘賞を受賞した。
翌9月場所は東前頭2枚目で7勝8敗と負け越した。

2010年11月場所前には、深刻なアクシデントに見舞われた。
10月23日の秋巡業、尼崎場所で右足親指の傷口からばい菌が入る破傷風で、
30日に突然41度を超す高熱が出た。病院に駆け込んだが、
一時は意識を失うほどの重い症状で、生死をさまよう体験もした。
豊真将自身「三途川で、死んだじいちゃんが出てきた。
あんなことは人生で初めてだった…」と語った程だった。
3日間高熱はひかなかったものの完治して退院、場所前には出稽古ができるまでに回復した。
同年11月場所では東前頭3枚目で7勝8敗と負け越したが、
2大関(琴欧洲・把瑠都)に土をつけた。
なお、琴欧洲戦の勝利は2007年3月場所以来、把瑠都戦の勝利は2006年11月場所以来。

2011年7月場所は東前頭9枚目で11勝4敗の成績を挙げ、5回目の敢闘賞を受賞した。
翌9月場所では、東前頭筆頭で10勝5敗と2桁勝利を挙げ、
同年11月場所でようやく待望の新三役(西小結)昇進を果たした。
なお30歳6ヶ月での三役昇進は、1958年以降初土俵の力士としては第4位の高齢昇進だった。
しかし新小結の11月場所は初日から7連敗を喫し、
中日でやっと初白星を挙げるも9日目で負け越しが決定、4勝11敗と大きく負け越した。
東前頭4枚目へ降下した翌2012年1月場所でも7勝8敗と負け越したが、
翌3月場所は西前頭5枚目で11勝4敗の好成績を挙げ、翌5月場所は3場所ぶりに三役復帰、
現在最高位となる東小結に昇進したが、
横綱・大関陣は1人も下せず4勝11敗と大きく負け越した。
11月場所は3場所ぶりに三役復帰(西小結)したが、4勝11敗と大きく負け越した。
翌2013年1月場所は左肩腱板断裂により全休し、翌3月場所は初めて十両へ陥落した。
その場所も怪我が完治しなかったため全休した。
幕下落ちも懸念されていたが、翌5月場所の番付には西十両14枚目と十両にとどまった。
その場所では中盤に4連敗したがその後持ち直し、9勝6敗と勝ち越した。
翌7月場所も9勝6敗と勝ち越し、次の9月場所には西前頭13枚目まで大きく番付を上げた。
西十両6枚目から9勝6敗で9枚の上昇は異例である。
その9月場所では9日目に左肩のテーピングが取れ、
10日目に1年ぶりの幕内勝ち越しを決めるなど
調子を万全に近いところまで戻した様子がうかがえた。
最終的に10勝5敗と二桁勝利を挙げた。
2014年1月場所前の1月3日には虫垂炎の手術を受け、
場所直前の様子は師匠によると「手術した傷口がまだ塞がっていないので、
今場所は、途中から出場することも厳しいと思う」と言い、
このため豊真将は1月場所を休場することを選択した。
そして今場所は2度目の十両陥落となったが、奮起し14勝1敗で優勝した。

以上の経歴を見てもお解かりだと思うが、怪我に泣かされた続けた相撲人生だと思う。
普通の人ならば、心が折れてしまうところだが、
何度も立ち上がり復帰する精神力は凄いと思う。

この経歴を見ると応援せずにはいられない。
三役復帰を目指して頑張れ!豊真将!



「 木立ちの風景 ( その1 ) 」

2014-03-25 05:08:41 | 海 ・ 港 ・ 空 ・ 木々







木々の間を抜ける風
長く伸びた木々の影
そんな木立ちを見ると
何故か気持ちが落ち着く




「 祝!大関鶴竜 初優勝」

2014-03-24 00:02:41 | 相撲













不安だった序盤戦とは打って変わって
日ごとに強さを増した鶴竜。
モンゴルから日本にやって来て12年。
幕内時代は小柄だったが、
肉体改造でひと回り大きくなった。
そして、やっと手にした賜杯。

今まで優勝に手が届く位置まで行きながら
なかなか手にすることが出来なかった。
それをやっと手にすることが出来た優勝だ。

それは、これまでコツコツやって来た結果が花開いた証でもあった。
今までの努力が結果に表れて本当に良かった。
鶴竜の初優勝を心から祝いたい。
「 優勝おめでとう!鶴竜 」

大分県宇佐市 「 豊前長洲港導流堤灯台 」

2014-03-24 00:01:41 | 大分の灯台



豊前長洲港導流堤灯台















































灯台表番号 / 5263
ふりがな / ぶぜんながすこうりゅうどうていとうだい
標識名称 / 豊前長洲港流導堤灯台
所在地 / 大分県宇佐市 ( 長洲港流導堤外端 )
北緯 / 33-34-44.9
東経 / 131-22-15.3
塗色 / 白色
灯質 / 単閃白光 毎3秒に1閃光
光度 / 実効光度25カンデラ
光達距離 / 3.5海里
地上~頂部の高さ / 7.57m
平均水面上~灯火の高さ / 10.6m 
地上~灯火の高さ / 7.5m
業務開始年月日 / 昭和36年11月1日
現用灯器 / LED灯器( Ⅱ型白 )


豊前長洲港導流堤灯台へのアクセス
中津市から海岸線に沿って走る県道23号線 ( 中津高田線 ) を道なりに進み、
JRの柳ヶ浦駅を過ぎて、駅館川を渡ると信号機がある。
その信号機を左に入った突き当たりが長洲港になっており、灯台がある。
防波堤の上を歩いて灯台まで行ける。


沖縄県本部町 「 大米須親方の墓 」

2014-03-24 00:00:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



沖縄県本部町渡久地にある 「 大米須親方の墓 」







「 大米須親方之墓 」 と書かれた墓碑









沖縄県本部町の渡久地公民館の隣の崖下に
「 大米須親方之墓 」 と書かれた墓碑が建っている。

大米須は、金丸 ( 尚 円王 ) の義兄にあたり、
伊是名島から首里へ上り、第一尚氏最後の王、尚 徳王に仕えた。
その尚 徳王が死去し、義弟の金丸こと尚 円王が即位したが、
先王に対する節義を重んじて退隠。
首里を離れ、渡久地で暮らして浜元のヌルを妾にした。
このヌル墓は渡久地北岸にある食堂 「 まーすやー 」 の裏にある。

大米須は息子の米須里主と一緒に渡久地に来たという。
里主は結婚して米須子をもうけ、米須子の長男が顧氏比嘉筑登之親雲上助輝である。
里主は辺土名ヌルとの間に翁氏国頭親方盛順をもうけたという。
米須子とは異母兄弟になり、辺土名ヌルの墓は辺土名にあるらしい。

里主は喜界島大屋子 ( 村役人 ) を勤め、その子孫が喜界島に多いといわれている。
墓も喜界島にあるという。
だが、 「 国頭郡史 」 では、喜界島に居たのは米須子で、
渡久地の墓は、米須里主の墓とも言われている。

墓は、清明祭に顧氏、翁氏門中が那覇から来て拝んでいる。



大分県中津市 「 中津競馬場 」

2014-03-23 05:58:41 | 競馬・ボート












































中津競馬場が2001年3月22日の開催を最後に閉鎖されてから今年で13年になる。

伯父さんが中津競馬場で馬を10頭ほど走らせていた関係で、
中津競馬場は中学生の頃から通った競馬場である。
スタンドやパドックだけではなく、厩舎や馬房にもついて行っていた。
そこには未だ見ぬ大人の世界があった。
ボロ ( 馬糞 ) と寝藁の匂いが独特で、
その匂いを嗅ぐたびに 「 競馬場に来たんだな 」 と、思ったものである。

入場ゲートをくぐると、馬券の発売を急かすように曲が流れ、
場内に馬券の締め切りを知らせるベルが鳴り響くと、
大人たちは我れ先にと穴場の小さなアーチの小窓に手を突っ込んで
せわしく馬券を買い求めていた。

馬券の発売が締め切られると、
さっきまで誰もいなかったスタンドに、どこからともなく観客が集まって
あっという間に小さなスタンドを埋め尽くした。
ゲートインが始まると観客は予想紙やスポーツ新聞を片手に
固唾を飲んでスタートを見守った。
ゲートが開いたのを合図にそれまで静かだったスタンドが一斉に賑やかになる。
ある者は立ち上がり、ある者は大声で応援する馬や騎手の名を連呼し、絶叫した。
それは4コーナーを回るとより一そう激しくなり、
あちこちで怒号のように響いていた。

ゴールすると大人たちは歓声を上げたり、ため息をもらしたり、さまざまだった。
そして誰に聞かせるでもない愚痴や推理を呟きながら
蜘蛛の子を散らすようにスタンドから姿を消して行った。
誰もいなくなったスタンドにはパンチで打ち抜かれたハズレ馬券が
白く赤く翻りながら風に踊り、
スタンドの隅の暗がりには煙草の白紫の煙だけが残されていた。
それがボクの中津競馬場の 「 心象風景 」 だった。
そして中津競馬場が 「 ボクの競馬の原点 」 だった。



馬の詩より ・ 「 勇者の行進 」   カンテツオー

2014-03-23 05:57:41 | 馬の詩 ・ それぞれ...







「 勇者の行進 」  カンテツオー



昭和63年5月1日
九州は中津の草競馬
この日カンテツオーが
サラブレット日本最多勝を達成した

日本最多勝をかけて
幾度となく挑んだカンテツオー
相手がニッポースワローじゃ歯が立たぬ
だが日本一を目指すカンテツオーの強い意思と
関係者の熱意で大願成就
生まれはあのホリスキーと同じ
栃木県のなべかけ牧場
ホリスキーに勝るとも劣らぬ
金字塔を打ち立てた
勇者の行進はまだまだ続く




当時最多勝 : 1988年5月1日 37勝 ( 中津競馬場にて )
1991年5月25日 42勝を挙げる ( 中津競馬場にて )
※ オールカマーまで34戦32勝 ・ 3着1回 ・ 着外1回