「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県今帰仁村「百按司墓」の収集遺骨の返還訴訟について・・・

2022-04-21 18:41:47 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所

沖縄県今帰仁村運天にある「百按司墓(むむじゃなばか)」

 

 

 

 

 

 

墓の説明版

 

 

 

 

 

 

百按司墓に通じる墓道

 

 

 

 

 

源 為朝公上陸の地碑

 

 

 

 

 

 

昭和初期に沖縄県今帰仁村の古墳「百按司墓」から

旧京都帝国大(現京都大)の人類学者が持ち出した遺骨を

京大が占有し続けているのは違法だとして、

第一尚氏の子孫を称する県民2人や

琉球民族遺骨返還研究会代表で龍谷大学の松島泰勝教授らが

遺骨の返還と損害賠償を求めた訴訟で、

京都地裁(増森珠美裁判長)は今日、請求を棄却した。

 

 

以前、琉球王朝時代の王や按司の墓や、

羽地朝秀や玉城朝薫など、琉球の歴史上の人物の墓をめぐっていた。

そんな時、今帰仁上がり(なちじんぬぶい)の志慶真乙樽や赤御墓、

大北墓(うふにしばか)などと一緒に百按司墓にも訪れたことがある。

「百按司墓(むむじゃなばか)」は、

沖縄県今帰仁村運天の運天港を見下ろす丘の中腹にあり、

「源為朝公の上陸の碑」の側から細道を下りて行くと樹木に覆われ、

昼間でも薄暗い墓道を進むと

左側の岩窪に積み石をめぐらして漆喰で固めてある。

墓口は無いが天井が開いている。

ここには数基の墓があり、いくつかの時代の墓所と思われる。

 

1、羽地按司に滅ぼされた中北山の戦死者の墓。

2、後北山が尚巴志王に滅ぼされた時の戦死者の墓。

3、尚巴志王統が滅び、その監守たちが葬られた墓。

4、尚徳王の悪政について行けない貴族たちの遁世(とんせい)した墓。

5、薩摩軍の攻撃で戦死した北山監守たちの墓。

そんなことが推測される。

 


沖縄県下地島  「 通り池 」

2017-05-24 12:24:24 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所


























































下地島の通り池は2つの池が自然の橋で結ばれた鍾乳洞で、
底の方は海と通じているので海水である。
池の直径は、小さい方は55mで、大きい方が77mと20mほど大きくなっている。
そんな通り池には色んな伝説が残っている。

◯ 「 正夢伝説 」

昔、下地島に住む男が漁に出てヨナタマという人魚を釣った。
物を言う珍しい魚だったので、 「 明日は隣近所を集めて鑑賞しよう 」 と、
炭火に干しておいた。
その夜、隣家の幼児が夜泣きして 「 いま伊良部島へ行こう 」 と叫んだ。

海の方から 「 ヨナタマ、どうして帰りが遅いのか? 」 という声がし、
ヨナタマが 「 炭火にであぶられている。
早くザン ( ジュゴン ) を寄こしてくれ 」 と答えると、
母子は恐ろしくなり伊良部島へ向かった。

翌日戻ってみると、すべてが津波に流され、
母子の家屋跡は陥没して池になっていた。

「 宮古島記事仕次 」 が書かれた1748年には村の形跡があるが、
そご後、村つくりは無かったという。
その後も1771年の明和大津波に襲われた。



◯ 「 継子 ( ままこ ) 伝説 」

昔、下地島に妻に先立たれ息子と暮らす漁師がいた。
やがて再婚し、三人は仲良く暮らし始めたが、
後妻に子どもが生まれると、継母 ( ままはは ) は前の妻の子を疎ましく思い、
ある日、継母は兄弟を通り池に連れて行き、
前妻の子である兄をツルツルした岩場に寝かせ、
自分の子の弟をゴツゴツした岩場に寝せた。

そしてその夜、継母はツルツルした岩場に寝ていた子を池に突き落とし、
残った子を背負って一目散に家へと向かうと、
途中で背負っていた子が 「 弟はどうしたの? 」 って尋ねた。
継母は驚いて背中の子を見ると、前妻の子をであった。

ゴツゴツしていた岩に寝ていた弟が寝れないというので、
優しい兄は、弟が眠れないのなら自分が寝ていたツルツルした場所と交代した。
そのことに気づかず間違って我が子を池に落とし込んだ継母は、
背中の兄を放り出すと、そのまま自分も池に飛び込んで命を絶ってしまった。



沖縄県竹富島  「 親泊御嶽 ( オヤドゥマリオン ) 」

2017-04-07 00:53:01 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所














以前紹介した 「 美崎御嶽 ( ミシャシオン ) 」 の横にある御嶽だが、
海に面しているだけに航海の安全を祈願する御嶽以外に何が祀られているかなど、
詳細にはわからない。



沖縄県竹富島  「 久間原御嶽 ( クマーラオン ) 」

2017-03-15 12:27:25 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所






















久間原御嶽

神  名  / 東久間真神山
御いべ名  / 友利大あるじ
( をきなわかなしより御渡久間原はつおかみ初る )

久間原御嶽 ( クマーラオン ) は、
竹富島の久間原村の創設の神で、
竹富島で執り行われる神事の中心となる六山 ( ムーヤマ ) のひとつである。

久間原御嶽には、久間原村の氏神である
久間原発金殿 ( クマーラハチンガニ ) と
渡来先の沖縄島から招かれた神が祀られている。

創建の由来は、
琉球王国が1713年に編纂した 『 琉球国由来記 』 に記されている。

六山の神々には数多くの伝承が遺されているが、
久間原発金殿の伝承はごく僅かしか遺されていない。



沖縄県竹富島  「 美崎御嶽 ( ミシャシオン ) 」

2017-01-29 09:00:56 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所










































美崎から見えるアイヌソイ







美崎から見えるイルヌソイ







ミシャシ海岸





美崎御嶽 ( ミシャシオン ) は、
竹富島の玄関口の離島ターミナルから右に
約500mほどのところにあり、
尚 真王時代に、美崎山の聖地に創建された
「 航海安全 」 を祈願する御嶽 ( ウタキ ) である。
1500年、 「 オヤケ・アカハチの乱 」 が起こった際、
神女が美崎山にこもり
琉球王府の軍船が那覇港へ安全に寄港するよう祈願したと伝えられている。




沖縄県竹富島 「 安里クヤマ 」 の墓

2017-01-17 10:34:49 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所














沖縄の 「 安里屋ユンタ 」 のモデルになった安里クヤマの墓である。
墓は、竹富島の西桟橋近くの海辺にあり、
竹富の自然の中に溶け込んでいる。





 『 ザ ・ 阿麻和利 』  比嘉美代子

2016-11-04 08:20:18 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所









琉球の歴史や沖縄のことなどを書いている 「 わわさんのブログ 」
【 がじゅまるの樹の下で 】 で知った本、 『 ザ・阿麻和利 』。

この本は、沖縄キリスト教短期大学の英語劇クラブと、
英語劇ドリームおよびアカバナーのために英語で執筆した
Amawari and Three Other Plays を和訳したもので、
劇での台詞なので、登場人物のやり取りなど解りやすいし、
その情景が如実に浮かんで来るので面白く、
一気に読み進められる本であった。


そんな 『 ザ・阿麻和利 』 の本と、
本の中で登場する主な人物の墓を掲載したが、
実在した人物の歴史を知る上で、
どこで生まれ、どこで育ち、どういう死に方をしたのか、
墓は必須だと思っている。

だが、こうした王や按司たちの墓は、金品目当ての墓荒らしや、
第二尚氏の徹底した骨までをも捨て去った第一尚氏への消滅行為を考えれば、
「 千の風 」 の歌ではないが、
たぶん、これらの墓の中に骨が入っていない空墓だと思われる。

ただ、骨が現存実在するのであれば、
平家の落人が名を変え、身分を隠して生き延びたように、
第一尚氏の家臣たちは王や按司たちの骨を乞食墓として隠し、
世が変わるまでその骨を大事に守ってきたのではないかと思われる。






読谷村古堅にある阿麻和利の岩陰墓






三山統一後に海外貿易の富で力を付けたのは、勝連城の阿麻和利であった。
その阿麻和利に対抗し王都首里を守るため、
護佐丸は首里城と勝連城との中間に位置する中城城に拠点を移し、
中部一帯の守りを固めた。

尚 巴志の死後、琉球は国王の在位年数が短かったため国の基盤が安定せず、
首里城内でも王位継承の争いが起こるなど不安定な状態が続いた。
こうした王国情勢のなか、阿麻和利を崇拝する民の勢力は
尚 泰久にとっては恐ろしい存在だったため、
泰久は娘である百十踏揚 ( ももとふみあがり ) と
阿麻和利を攻略結婚をさせるほどであった。
また、尚 泰久の妻は護佐丸の娘であるため、
百十踏揚は護佐丸にとって孫にあたった。

琉球の王位を望めるほど力をつけた阿麻和利は、
中城城の護佐丸の存在を疎ましく思っていた。
1458年に一計を案じた阿麻和利は、
中城城の護佐丸が軍兵を集めて謀反の動きがあると国王へ訴え、
それを聞いた泰久は、護佐丸を倒すために阿麻和利を総大将に命じて
軍隊を中城城へ派遣した。

その結果、護佐丸は阿麻和利の率いる王府軍に中城城を攻められ、
無実の罪を着せられて自害してしまう。
一方この戦いに勝利した阿麻和利は、王位を奪うための準備をしている最中に、
百十踏揚の家来である鬼大城 ( おにおおぐすく ) にその策略を気付かれ、
逆に王府軍との戦になる。


沖縄県うるま市の中高生を中心にした ” あまわり浪漫の会 ” による
現代版組踊 「 肝高の阿麻和利 」 は、
10万人が感動し泣いた劇は、涙なしでは観れなかった。
勝連、北谷間切屋良村などの固有名詞に、その情景が目に浮かび魂が震えた。

阿麻和利加那は ” 天降り加那 ” とも呼ばれ、地元勝連の人々は尊敬した。
そんな劇の台詞の一部を書いてみる。


勝連のニセター ( 青年 ) 、戦は終わった。
もはや刀や薙刀を振り回す時代ではないのだ。
ところがこの勝連半島は田畑も狭く作物も少ない。
だが、シンカヌチャー ( 仲間たち ) ものは考えようだ。
島が狭いということは、海が広いということだ。
海の向こうには唐があり、ヤマトがある。
世界中に船を走らせ、異国の宝を持ち帰ろうではないか。

勝連は海を走る。
勝連は海に生きる。
勝連は宝の島になる。
肝高の勝連は生まれ変わるのだ。







南城市玉城にある尚 泰久王の墓








中城村にある護佐丸の亀甲墓は、沖縄で一番古い亀甲墓と言われている






14世紀から15世紀の琉球は、
中山・北山・南山の三つのグスクを拠点に按司が支配していた。
その中で特に強い勢力を誇り、
1429年に三山を統一したのが中山の尚 巴志 ( しょうはし ) であった。
その尚 巴志に従い、三山統一に功績を残した人物が護佐丸である。
護佐丸は恩納村の山田城主であったが、
尚 巴志が北山を滅ぼした後、山田城を取り壊した石材を使って読谷に座喜味城を築き、
後に中城城へ移るまでの18年間を居城として過している。






南城市玉城にある百十踏揚の墓





百十踏揚 ( ももとふみあがり ) にまつわる人物

百十踏揚の父親は尚 泰久であり、母親は護佐丸の娘である。
阿麻和利は前夫で、護佐丸は祖父にあたる。
祖父は前夫に滅ぼされ、父は前夫を滅ぼしたのである。
そして、二度目に嫁いだ鬼大城も新王朝に滅ぼされてしまう。
晩年は島尻の玉城村で過ごし、その生涯を閉じた。
王女、百十踏揚は絶世の美女だったが、
その生き様は、ある意味?薄幸の生涯だったのかもしれない。






知花グスクにある百十踏揚に仕えていた大城里之子 ( 鬼大城賢雄 ) の墓





鬼大城 ( おにおおぐすく ) の活躍と最後

王府軍との戦いで首里城攻めに失敗し、
命かながら勝連城に逃げ帰った阿麻和利への、
鬼大城を総大将とした攻撃もなかなか勝敗が決まらず長引いていた。
そこで勝連城内の地理に詳しい鬼大城自ら城内へ忍び込んで行き、
阿麻和利の首を討ち取ったという。
その活躍により尚 泰久から越来 ( ごえく ) と、
具志川の両間切りの地頭に命じられた。
また、百十踏揚を妻に迎え、越来城を賜った。
( 一説には勝連城を賜ったとも言われている )

鬼大城の死については諸説があるが、
1469年内間金丸 ( うちまかなまる ) がクーデターを起こし、
尚 泰久の子である尚 徳王を滅ぼした。
第一尚氏王統の縁故者である鬼大城の越来城も攻められ、
鬼大城は越来城を逃れ知花城に立てこもりそこで自害する。
( 一説には隠れているところを焼き殺された ) とも言われているが、
定かではない。


鬼大城 ( おにおおぐすく ) について
名前 : 大城賢雄 ( おおぐすくけんゆう )
唐名 : 夏居数   ( かきょすう )
喜屋武城主の栄野比大屋子の長男
1454~1460年に尚 泰久に仕えていた。
鬼大城の由来
「 鬼 」とは超人の意の表れであり、武勇に優れ、
強かったことから「 鬼 」と呼ばれるようになった。 



沖縄県南城市 「 ウツーヌアジ墓群 」

2016-04-18 09:12:43 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所






































大城按司のポンドゥ御墓とウナザラの墓との間にあるウツーヌアジ墓群。
古墓に葬られている者の名前など詳細については分からないが、
ここには、大城按司につかえた家臣と先祖墓。
その按司に付いていたノロ ( ヌル ) の墓などが岩陰墓として点在する。


沖縄県南城市 ・ 大城按司の妻 「 ウナザラの墓 」

2016-03-25 04:11:00 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所




















ユインチホテル南城から稲福方面に200mほど行くと、
右手に大城按司のポンドゥ御墓がある。
その前の道路を隔てた場所に 「 ウナザラの墓 」 への案内板と入口がある。

「 ウナザラの墓 」 は、大城按司の妻の墓である。
「 ウツーヌ按司 」 の古墓群から南へ進んだ西側崖下に所在する墓で、
琉球石灰岩の崖の岩陰を利用した掘り込み墓である。

今でも拝み ( ウガミ ) 人が紙コップに酒を入れて拝んだ跡があった。


沖縄県大宜味村 「 根謝銘按司 ( ねじゃめあじ ) の墓 」

2016-03-18 09:39:03 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所







根謝銘グスクの下にある按司墓と彫られた墓であるが、
伝承ではグスク内の中城御嶽にあった骨を集めた墓だといわれており、
後から按司の骨も納められた合祀墓の可能性もあるが、定かではない。



沖縄県那覇市 ・ やちむんヌ人 「 渡嘉敷三良 ( とかしきさんらー ) の墓 」

2016-03-11 06:24:12 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所
























































那覇の国際通りと美栄橋との間の緑ヶ丘公園の中に渡嘉敷三良の墓がある。

この緑ヶ丘公園がある場所は、周囲の地形を見ると王朝以前は、
ガーブ川が作る谷にそびえていた山であったと思われる。
また、十貫瀬 ( 今の久茂地川の流域辺り ) の海岸線を形作っていた断崖で、
沖縄戦で地形が多少変わっていると思われるが、
その山の頂上の平坦地が今の緑ヶ丘公園だと思われる。
その公園内の一際高い丘陵にあるのが渡嘉敷三良の墓である。

渡嘉敷三良は、久米36姓と呼ばれる明からの帰化人で、16世紀の生まれである。
琉球に産業を興した久米人の中で、彼は瓦職人であった。
彼の偉業は、琉球の地に瓦産業を興したことにある。
その技術は子孫に受け継がれ、四世の安次嶺ペーチンは、
当時板葺き屋根であった首里城正殿を瓦葺きに変えた人物だと言う。

当時は内地風の黒い瓦で、赤瓦登場は江戸時代まで待たねばならない。
渡嘉敷の墓は、1600年以前に造られたことはハッキリしているらしい。
400年以上前の墓にしては、豪奢なつくりで彼の人物像が伺い知れる。

渡嘉敷の墓の周囲はきれいに整備されていて公園と一体化しているため、
墓というよりも公園内の丘陵と言う感が強く、
その墓壁には沖縄戦での銃弾の痕跡がいくつも遺っていた。


沖縄県那覇市 ・ やちむんヌ人 「 張献功 ( ちょうけんこう ) の墓 」

2016-03-11 04:21:24 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所












張献功は、?~1638(?~尚豊18) 沖縄に帰化した朝鮮陶工である。
和名は仲地麗伸 ( なかちれいしん ) といい、
文禄・慶長の役(1592、97年)で朝鮮から連れ帰った陶工の一人である。


那覇の市街地にある 「 ナイクブ古墓 」 の発掘調査をしている監督に
渡嘉敷三良と張献功の墓の場所を訊ねると、快く教えてくれた。
渡嘉敷三良の墓は公園の中にあり、大きくて立派なものだったが、
それに比べて張献功の墓は小さく、青いビニールシートの車庫の裏の草むらにあり、
場所を聞かなければ見落してしまいそうな墓であった。

そんな張献功の墓は、墓碑に 「 張氏元祖一六仲地麗進 」 と刻まれている。
一六とは、おそらく張献功のことであろう。
豊臣秀吉の朝鮮侵略の時、南原市から18姓43人陶工が
薩摩の島津義弘軍に連れて来られ、
琉球王朝の依頼でそのうち3人の陶工が琉球へ派遣される。
「 一六、安一官、安三官 」 のうち2人は去ったが、
一六だけは残り、湧田窯の創始者となる。
中国、アジアの影響、朝鮮の上焼きという釉薬をかけた焼物、
そうした中で琉球独特の焼物が出来上がっていく。
後に湧田窯も壺屋に移転し発展して行くのであった。

現在も張献功の子孫の方々が韓国方面に向かって座り、
毎年4月には清明祭を行っている。
張献功の関係者の1人は恩納村仲泊に住むが、その子孫は絶えている。
300年前の話であるが、今も仲泊の島袋家には拝所があり、ずっと祀られている。

故郷の韓国に帰ること無く、異国の地で陶芸に励んだ張献功の草に覆われた小さな墓を見た時、
拝み人がいないことに胸が痛んだ。
こうして書いて彼のことを、彼の遺したものを忘れないことが供養だと思う。


沖縄県南城市 「 大城按司のポンドゥ御墓 」

2016-01-16 08:41:54 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



独特な形をしたポンドウ御墓







墓の横にある碑文






墓の横のお香を焚く拝所










南城市佐敷の山上にある大城按司のポンドウ御墓は、
沖縄の王墓や按司墓の中でも、
もっとも独特な形をした墓である。
この墓には今回を含めて、五度目の訪問である。
馬天ノロの墓や平仲大主の墓が見つからなかったので、
ポンドウ御墓に立ち寄ってみたが、何度見ても素晴らしい墓である。

大城按司は14世紀の人で、大城グスクの城主であったと伝えられている。
当初大城按司の亡骸は小石を円く積み上げて建てられた塚に葬られていたが、
地崩れのため幾度か改築され、1892年には現在地に移築されたものである。
上部が塚を思わせる円筒型をしていることから、
俗にボントゥ御墓とも呼ばれている。

この墓は、亀甲墓や破風墓、巨石墓などの沖縄の墓の形式のいずれにも属さない、
独特な形式をしている。


沖縄県名護市屋我地島 「 オランダ墓 」

2015-12-26 02:24:22 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所
































名護市屋我地島運天原の北西の岬にオランダ墓と呼ばれる墓があります。
運天原の船揚場から北に約300m波打際を歩くとセメントの階段があり、
そこを上がるとオランダ墓です。
オランダ ( ウランダ- ) とは、近世において西洋人を指した表現で、
葬られているのはオランダ人ではなくフランス人です。
墓は、大岩の下に北西に向けて亀甲墓風に造られ、
二基の墓碑 ( 各縦75㎝、横51㎝、厚さ8㎝ ) が置かれている。
※ ( 現在置かれているのはレプリカ ) 。

1946年6月6日、フランスの旗艦クレオパト-ル号、サビ-ヌ号、
ビクト-リアス号の3隻は運天港に入港し、交易等の交渉を求めました。
7月5日まで碇泊しましたが交渉を拒絶され、3隻は長崎に向けて出発しました。
その約1ヶ月の間にこの墓に眠る 「 方済各加略 」 と 「 亞各伯 」 は病気で亡くなり、
ここに手厚く葬られたのです。
「 方済各加略 」 はフランソワシャルル ( フランチェスコ・カール ) 、
「 亞各伯 」 はジャーク ( ヤコブ ) と読み、
当時の乗組員名簿からフランソワ・シャルル・ギタール ( 一等助銃工 ) と
ジャーク・シャリュス ( 二等水夫・料理人 ) の二人だということが分かっています。

墓碑は、ニ-ビ ( 砂岩 ) に立派な様式と文字で刻まれていて、
恐らく王府が関わった仕事ではないかと思われます。
この墓の管理は、間切時代には今帰仁間切の運天が行なっていましたが、
今帰仁村の役場が仲宗根に移ったので、
屋我地運天原の人々が管理することになりました。


碑文
 右「 大彿朗西国戦船彿肋加特格肋阿巴特爾 老将貴大爾聖号方済各
   加略之墓 救世一千八百四十六年儒安月二十日病故 」

 左「 大彿朗西国戦船歌爾勿特未客多利阿斯 老将撒虜聖号亞各伯之
   墓救世一千八百四十六年儒安月十一日病故 」

大沸朗西国=大フランス国、彿肋加特=フレガット ( フリゲート )、
格肋阿巴特爾=クレオパトール、歌爾勿特=コルベット、
未客多利阿斯=ビクトーリアス、老将=意味は不明、
貴大爾=ギタール ( キタール? ) 、撒虜=シャリュス ( サーリョ? ) 、
聖号=洗礼名、儒安=JUNE ( 6月 )


沖縄県与那原町 「 聞声大君の墓 ・ 三津武嶽 ( みちんだき )」

2015-07-21 05:01:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



「 聞得大君の墓 」 ( 三津武嶽 )





























三津武嶽の下にある「 我謝公民館 」












与那原にある 「 沖縄カントリークラブ 」 の南端の丘上、
鉄塔付近の岩下に聞得大君 ( きこえおおぎみ ) の墓がある。

聞得大君が琉球発祥の地、久高島に参詣される途中に強い逆風に遭い、
薩摩の国に漂流し、一命をとりとめることが出来たが、
琉球は日照りが続き、これは最高神女が他国に居る所為だと、神女たちはささやき合った。
君真物のお告げで、薩摩に居るからお迎えせよという。
そこで馬天ヌルを船頭に女ばかりで船を出した。
無事に聞得大君を乗せて帰還するが、
その時、既に彼の地で懐妊しており、王府からの招きを快しとせず、
与那原海岸の御殿山に庵を結んで一生を終えた。

三津武嶽は、聞得大君が死後、葬られたと言われる場所であると遺老説伝の伝わる所で、
「 友盛ノ嶽御イベ 」 ともいわれている。
現在は子宝の神として子宝を望む人のお参りが絶えない。

聞得大君は、NHKの 「 テンペスト 」 の中で高岡早紀が演じているので、
テレビを見た人は大方の人物像が解ると思うが、聞得大君について書いておきたい。


聞得大君(きこえおおぎみ、きこえのおおきみ、チフィジン)とは、琉球神道における最高神女(ノロ)である。

「聞得」は大君の美称辞で、「君」は「カミ」の意で、従って「大君」は君の最高者という意味であるという説がある。
琉球方言で、チフィウフジンガナシ(聞得大君加那志)と称した。
宗教上の固有名詞となる神名は 「 しませんこ あけしの 」 「 てだしろ 」 である。

聞得大君は琉球王国最高位の権力者である国王のおなり神に位置づけられ、
国王と王国全土を霊的に守護するものとされた。そのため、主に王族の女性が任命されている。
琉球全土の祝女の頂点に立つ存在であり、命令権限を持った。
ただし祝女の任命権は国王に一任されていた。
また、琉球最高の御嶽である斎場御嶽を掌管し、首里城内にあった十御嶽の儀式を司った。

就任儀礼

沖縄本島最大の聖地である斎場御嶽において就任の儀式である 「 御新下り 」 が行われた。
「御新下り」の本質は琉球の創造神との契りである聖婚 ( 神婚 ) 儀礼と考えられている。
宗教観念上は、この聖婚により君手摩神の加護を得て、聞得大君としての霊力を身に宿すのである。
就任後は、原則として生涯職である。

由来

琉球王国では、尚真王代に中央集権化と祭政一致が行われた。
この際に各地に存在していた神女をまとめるため神女組織が整備され、
その階位の頂点として新たにこの役職が設けられた。
ちなみにそれまでの琉球王国における祝女の最高位は佐司笠 ( さすかさ / または 「 差笠 」 と表記 )
職と国頭地方由来の阿応理屋恵(あおりやへ / または「煽りやへ」と表記 / 琉球方言読み:オーレー)職であり、
これらは聞得大君職制定のあと、全祝女の中で聞得大君に継ぐ第二位の格付けと降格されている。

その神名 「 しませんこ あけしの 」 は勢理客にあった既存の祝女職と同じであることが判明しており、
聞得大君職の元になった宗教概念が以前から存在したと考えられるが、
その詳細については不明な点がある。
また 「 てだしろ ( =太陽の依代 ) 」 はそれまで馬天祝女の神名であったが、
聞得大君職の制定とともに馬天祝女から剥奪された。

盛衰

尚真王の妹である音智殿茂金(神名、月清)が就任したのが最初である。
王国崩壊後もこの役職は存続し、戦時中の1944年に18代、
思戸金翁主が就任したのを最後に不詳年に廃職されている。


聞得大君の一覧

初代:月清(生没不明) 就任:尚真王代
二代:梅南(不明 - 1577年) 就任:尚元王代
三代:梅岳(不明 - 1605年) 就任:1577年
四代:月嶺(1584年 - 1653年) 就任:1605年
五代:円心(1617年 - 1677年) 就任:1653年
六代:月心(1645年 - 1703年) 就任:1677年
七代:義雲(1664年 - 1723年) 就任:1703年
八代:坤宏(1680年 - 1765年) 就任:1723年
九代:仁室(1705年 - 1779年) 就任:1766年
十代:寛室(1719年 - 1784年) 就任:1780年
十一代:順成(1721年 - 1789年) 就任:1784年
十二代:徳沢(1762年 - 1795年) 就任:1789年
十三代:法雲(1765年 - 1834年) 就任:1795年
十四代:仙徳(1785年 - 1869年) 就任:1834年
十五代:仲井間翁主(1817年 - 不明) 就任:1870年
十六代:安里翁主(1825年 - 1909年) 就任:明治年間
十七代:安室翁主(1874年 - 1944年) 就任:大正年間
十八代:思戸金翁主(1887年 - 不明) 就任:1944年。戦後廃職

(出典:「歴史・伝説にみる沖縄女性」比嘉朝進著、那覇出版社)