尾根にある 「 勝間田彦六左衛門重晴戦死の碑 」
入り口の路標と説明版
池の横に立つ説明版
入り口にある目印になる溜め池
山に入った場所にある路標
山道を約300mほど歩くと尾根に戦死の碑が見えて来る
通称・勝間田越えと言われる峠に 「 勝間田彦六左衛門重晴戦死の墓 」 があるが、
これは、亡骸が入っていない空墓なので、あえて碑と表現させていただいた。
天正15年 ( 1587年 ) 、
この地一帯で黒田長政が豊前の雄である宇都宮鎮房と戦い、
生涯で初めて敗れた 「 峯尾 ( みのう ) の合戦 」 があった。
この時、黒田方の援軍で備前下津井城主、勝間田彦六左衛門重晴が
討ち死にした場所が勝間田越えである。
旧・椎田町六田から西隣の旧・築城町小山田へ抜ける山道であり、
後世の人々はその武勇を称えて 「 勝間田越え 」 と呼んで、
山越えの近道として利用した。今に残る古戦場の道である。
この戦は、豊臣秀吉の九州平定のさいの国割で、
築城など豊前六郡十二万五千石を黒田官兵衛孝高に与えたのが原因である。
このため、領地を伊予に国替えを命じられた宇都宮鎮房が反発し、
これにより、黒田長政は勝間田彦六左衛門重晴とともに兵三千人で、
天正十五年十月九日、岩丸山上で鎮房と対戦したが敗れた。
勝間田彦六左衛門重晴は、岩丸谷と小山田を結ぶ 「 市道 」 、
( のちの勝間田越え ) で、郷士の野刀と椿の六尺棒で討たれ、
宇都宮軍の新貝荒五郎英之に首級 ( しるし ) あげられたという。
勝間田越えは、築上町役場東側の県道・日出野ー椎田線を南に
約5キロほど入った六田集落から右手へ100mほど登り、
ここの分岐点を左へ約300m入った 「 市道 」 の峠近くにある。
この周辺では、椿の六尺棒 ( おうこ・荷負い棒 ) がすぐに無くなるので、
六左衛門の祟りだろうと祠を建てたが、霊験がないため、
現在では誰も作らなくなったという。