「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

長崎県雲仙市  「 島原国埼灯台 」

2013-03-31 06:50:44 | 長崎の灯台



「 島原国埼灯台 」 赤灯台から白灯台に変わったため塗料の下に面影が残っている



































































所在地 / 長崎県雲仙市南串山町国埼 
塗色  / 白色
構造  / 塔形   
構造材質 / 鉄造
灯質  / 単閃白光 毎3秒に1閃光
光度  / 実効光度 560カンデラ  
光達距離 / 8.0海里 
頂部までの高さ / 12.03m
平均水面から灯火までの高さ / 15.2m
現用灯器 / LD管制器Ⅰ型白
電球 / D-1
設置、点灯および業務開始年月日 / H.10.3.26



島原国埼灯台は、南島原市と雲仙市の境界の近くにある国埼に立つ灯台である。
ここは島原半島の中でも風光明媚な場所で、ヤシやシュロが南国を思わせる。
また、灯台への降り口からの眺望も素晴らしいものである。



沖縄県南城市  「 奥武島の朝 」

2013-03-31 06:49:34 | 離島めぐり



島から見た玉城方面の朝景色









奥武島から見る日の出








奥武島の全景






沖縄南部の探訪に行くと、必ずと言っていいほど奥武島に宿をとる。
第一尚氏、尚泰久王の長男・安次冨金橋の子孫の安次冨さんが経営する 「 民宿おうじま 」 である。
いつだったか、おばちゃんと娘さんと一緒に午前3時まで飲んだことがある。
「 おばちゃん、もう3時だけん 」 って言うと、
「 朝までいいさ~ 」 って言われたことを憶えている。

ここから見る景色が好きで、窓からぼんやりと眺める。




福岡県朝倉市  ・  朝倉三連水車群 「 菱野三連水車 」

2013-03-31 06:46:24 | 近代化産業遺産・土木遺産



朝倉三連水車群 「 菱野三連水車 」
















































福岡県の南東に位置する朝倉町(現在は朝倉市)は純農村地帯で、
筑後川が流れ南に耳納連山が見える風光明媚な所である。
筑後川の北部の広い水田に水を導くために筑後川を斜めにせき止めた「傾斜堰床式石張堰」があり、
筑後川の水を堀川に導流させている。
堀川は、農業用水路で本線約12Kmに及び朝倉の水田の約半分(50%)が恩恵を受けていると言われている。

この堀川に水車群があり堀川の水を高い位置にある水田に揚水しているのである。
水車は全国的に多くあるが、三連水車は珍しい。
ここ菱野三連水車は寛政元年(1789)以前の作というだけで、誰が考案したのかは定かではない。
三島二連水車、久重(ひさしげ)二連水車も同じ頃に造られたと考えられています。

菱野三連水車の直径は上車が 4.76m、中車4.3m、下車 3.98mで標高差のある上の田に揚水している。
県指定の有形民俗文化財であり、平成2年には菱野三連水車と
三島二連水車、久重(ひさしげ)二連水車が「堀川用水路水車群」として国指定史跡に指定されている。

なお、三島二連水車は菱野三連水車の約100m下流にあり、
また、そこから約150m下流に久重(ひさしげ)ニ連水車があります。
 この水車群が水を汲み上げているのは「田んぼ」に水が必要である時期のみで、
6月中旬から10月中旬頃までといわれている。

回ってない水車は迫力がないだろうから、
次回は水を汲み上げている時期に再び訪れたいと思っている。




多良間島 「 土原豊見親のミャーカ ( んたばるとぅゆーみゃの墓 ) 」

2013-03-30 05:15:54 | 沖縄の文化財



多良間島 「 土原豊見親のミャーカ 」








石棺が入るように正面に開口の様式が取り入れられている







天蓋も石板で覆われている







墓の入り口にあるアーチ門







左横にある夫人の墓







石を盛った夫人の墓







墓庭を囲った石垣







入り口にある説明板








地元では 「 ウプメーカ 」 とも呼ばれている











土原豊見親 ( んたばるとぅゆーみや ) のミャーカは、多良間村字仲筋東筋里にある墓で、
土原豊見親は16世紀前半に多良間島に渡って、島を開拓した草分け的存在だと伝えられている。
また、オヤケアカハチらの乱平定に従軍、尚真王より多良間島主にされたと伝わる。

ミャーカは宮古地方独得の墓の様式で、大きな板石を用いた箱式石棺墓が二基あり、
一基は土原豊見親の墓で、もう一基は夫人のものだといわれている。
墓の周囲は高さ60センチほどの琉球石灰岩で囲まれており、入り口はアーチ型の石門になっている。
天蓋も石板で覆われており、沖縄本島の亀甲墓とは違った形体をしている。
どちらかというと亀甲墓よりも家屋を模った厨子甕のような感じである。
また、地元では 「 ウプメーカ ( 大墓 ) 」 とも呼ばれている。
墓の近くには土原豊見親を祀った多良間神社がある。




大分県院内の石橋 13 「 打上板橋 」

2013-03-30 05:13:55 | 大分の石橋































所在地 /  大分県宇佐市院内町高並 打上 ・ 高並川支流
架橋  /  昭和初期の架設と推定
石工  /  不明
長さ   /  2.3m      幅   /  1.m
拱矢  /  1.32m     径間  /  1.36m
板厚  /  18㎝   
単径間二枚桁橋



打上板橋は、打上橋の左岸のやや後方に位置し、農道の下を流れる小川に架かる橋である。
橋自体は小さく見落としてしまいそうな大きさだが、2枚の桁を並べて架けてある。
橋脚となる石柱などはなく、橋台となる土手に直接載せられている状態であった。
石工や架橋年については不明である。

打上板橋へのアクセス
打上板橋へは、打上橋左岸後方約150mくらいの場所になるため、
打上橋を参考にしてもらいたい。
駐車は、橋の上の農道に止められるが、道路が狭いので打上橋と同じ場所が適所だと思う。


熊本県玉名市  ・  菊水堂 「 いちご生キャラメル 」

2013-03-30 05:12:07 | パン ・ ケーキ ・ お菓子



玉名市 「 菊水堂 」 のいちご生キャラメル






























“ いちご ” で有名な 「 横島いちご 」 を使った 「 いちご生キャラメル 」 。
“ ブランドいちご ” だけに高級感が口の中を支配する。
こうして生キャラメルとして売られているのは、
いちごが出回る旬の今の時季に限定されているだけに、ある意味希少価値だと思う。

「 横島のいちご 」 といえば、熊本時代に緒方さんたちと横島干拓で練習をしていた時に、
練習が終わって、イチゴ農家の人に 「 お金を払うからイチゴを食べさせてくれないか 」 と、
訊いたことがある。
「 熟れたつば選んで食ぶっとならどぎゃしこ食うたちゃヨカ 」 って言ってくれて、
4人が500円で腹いっぱい食べたことがある。
かれこれ20年ほど前の話だが、美味しかったのと、安かったのを憶えている。




近代化遺産 「 8620型蒸気機関車 ( SL人吉 58654号 ) 」

2013-03-29 00:11:52 | 近代化産業遺産・土木遺産



人吉駅の 「 SL人吉 58654 」







インパクトのある人吉のヘッドマーク




































直径1.6mの動輪3個と先輪







熊本駅に到着した “ ハチロク ”












所在地 / JR九州肥薩線 人吉ー八代
        鹿児島本線 八代ー熊本
製造年 / 1922年(大正11年)
製造  / 日立製作所笠戸工場


SL人吉は、人吉=熊本間を一日一往復の臨時快速で、
8620型蒸気機関車58654号機(通称ハチロク)である。

大正生まれの国産機関車が球磨川に沿って走る。
本線を走る現役最古の蒸気機関車は、
大正、昭和初期に純国産の旅客用機関車として量産され、日本中で活躍したハチロクである。
58654号は、生粋の九州育ちで、お召し列車を牽いた栄光に耀く。

ハチロクは、1922年(大正11年)日立製作所笠戸工場製(製造番号 62)で、
同年12月26日に浦上機関庫に配置され、長崎本線で使用された。
その後、九州各地を転々としたのち、
1949年(昭和24年)6月21日付けで西唐津機関区に転属し、唐津線で使用された。
1961年(昭和36年)4月20日には唐津線でお召し列車を牽引している。
1964年(昭和39年)に若松機関区に転属し、筑豊各路線で使用され、
1968年(昭和43年)6月1日付けで人吉機関区に転属した。
湯前線での使用を最後に1975年(昭和50年)3月31日付けで廃車され、
肥薩線矢岳駅前の人吉鉄道記念館(人吉市のSL展示館)に展示されることになった。
新製から廃車までに走行した距離は300万km余りであった。

1988年(昭和63年)8月28日から平成17年8月28日には「SLあそBOY」として活躍し、
大改修を経て平成21年4月25日「SL人吉」牽引機として復活したものである。

ハチロクの特徴は、小柄な割に大きな動輪にある。
直径1.6mにおよぶ動輪3個を先輪1個が誘導する高速向けの足回りである。
明治期に大量に輸入された外国製の蒸気機関車を乗りこなし、
保守管理するうちに、遂に国産の大型機関車が作れるまでに成長した日本の証でもある。
C57、D51などと称される前の古い形式の機関車が、
定期便として現役で本線を駆け抜けていることは驚異的であり、
大切に未来へ伝えたいものである。


臨時快速「SL人吉」は、肥薩線”熊本”~”人吉”間を約2時間32分で運行。
日本三大急流の一つ、球磨川に沿って走っている。
3両ある客車は1号車と3号車に展望ラウンジ、2号車にはビュッフェを備えており、
その客車デザインは、鉄道デザインのスペシャリスト水戸岡鋭治が手がけたものである。



鹿児島県加計呂麻島   「 諸鈍 ( しょどん ) グスク 」

2013-03-29 00:05:17 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



しっかりと組まれた石積み








海に面した正面入り口







蔦が絡まる高さ2mほどの石垣








使用した石にサンゴ礁が付着しているのが分かる







グスク前に植えられたデイゴ並木







元来のグスクの主郭があったといわれる場所







グスク入り口にある諸鈍小学校と中学校







諸鈍小学校と中学校がある小学校側の校門







平 資盛を祀っている 「 大屯神社 」







神社内にある資森の碑( 墓 )







グスクに面した諸鈍長浜





諸鈍グスクは、奄美大島の南に浮かぶ加計呂麻島の東にある諸鈍湾に面した場所に築かれたグスクである。
グスク城主は、平家の落人である平 資盛(すけもり)だといわれている。
この諸鈍グスクの他にも平の落人伝説やグスクが残っており、
奄美諸島と平家は切り離せない関係にあるようだ。
そんなグスクは使用人などが暮らしていた住居跡を囲む石垣しか残っておらず、
元来の主郭といわれていた資盛の居城跡には現在民家が建っており、昔日の面影は残っていなかった。
諸鈍集落の入り口には、資盛を祀った 「 大屯 ( おおちょん ) 神社 」 があり、
一説には、この神社の裏がグスクではなかったのではないかと言われているが定かではない。


諸鈍グスクへのアクセス
諸鈍グスクへは、奄美大島の古仁屋港から瀬相港、または生間港行きのフェリーに乗り、
そこから諸鈍小学校を目指して行けば、諸鈍長浜海岸のデイゴ並木の前にある。
ちなみに港からの所要時間は、瀬相港から約30分、生間港から5分くらいである。
駐車は、グスク前(デイゴ並木)の空き地に駐車できる。


所在地 : 鹿児島県大島郡瀬戸内町諸鈍


「 2台の Cyber-shot 」

2013-03-29 00:03:05 | 日記 ・ イベント



新しく購入したサイバーショット







左が以前使っていたサイバーショット






右が新しいサイバーショット





10日ほど前に以前買ったサイバーショットの調子が悪かったので修理に出したことろ、
「 修理費が4万8000円かかりますが、どうしますか? 」 と連絡があった。
キタムラで購入した時に、5年間保証も入っていたのだが、それでも修理費が発生するという。
「 新品で3万9800円だったのに、中古カメラの修理費が4万8000円とは、おかしいでしょ! 」
というと、部品代とその交換などの技術料だという。

そんな馬鹿げた修理をするわけ行かないので、早速送り返してもらい、
ネットで同じ機種の新品カメラを1万2000円で購入した。
この機種にこだわるのは、使い勝手がいいことと、
交換バッテリーを4本持っているので、それをフルに活用したい。というのが大きな理由である。

以前のカメラも撮影には支障を来たさないので、上手く両方を使い分けて大事にしたいと思っている。




長崎県南島原市  ・  近代土木遺産 「 口之津灯台 」

2013-03-28 00:09:43 | 近代化産業遺産・土木遺産






























































近代土木遺産 『 口之津灯台 』




■ 所在地 / 長崎県南島原市口之津町土平崎
■ 竣 工  / 1880年 ( 明治13年 )
■ 設計者 / 不詳
■ 海上保安庁指定保存灯台


島原湾を見下ろす小高い丘の上に気品あるスクエア灯台が、
かつての石炭積み出し港の栄華を映し出す。
瀟洒な白い外観からは想像できないが、煉瓦積みの灯台である。
大航海時代から南蛮船も寄航した口之津は、明治11年に長崎税関口之津支庁が設置されると、
大牟田の三池炭坑から次々と石炭が運ばれるようになって来た。
明治22年には特別輸出港として発展を遂げる。
そんな時代に造られたのが口之津灯台である。
地上から塔頂までの高さは6.6mだが、存在感に溢れており、
シンプルで美しい灯籠部と蛇腹を回した8角形の灯塔は独特で繊細なディテール。
全国的にも珍しい煉瓦造りと初期の洋式灯台に見られるような縦方向だけの美しいフレームに心を奪われた。




所在地 / 長崎県南島原市口之津町土平埼 
塗色  / 白色
構造  / 塔形   
構造材質 / 煉瓦造
灯質  / 群閃白光 毎7秒2閃光
光度  / 実効光度4700カンデラ  
光達距離 / 12.5海里 
頂部までの高さ / 6.6m
平均水面から灯火までの高さ / 40.0m
現用灯器 / LC管制器Ⅱ型
電球 / C-1
設置、点灯および業務開始年月日 / M.13.5.10


口之津灯台へのアクセスは、
口之津港から旧税関がある方向に向って行くと口之津公園がある。
そこに入らず通り過ぎると、左に入って行く農道がる。
ジャガイモ畑の中を道なり行くと灯台が見える。
道が狭くて駐車場がないので農作業の邪魔にならないように駐車しなければならない。
車を止めた場所から灯台まで歩いて行ける。



熊本県人吉市 ・ 人吉城 「 御下門跡の桜 」

2013-03-28 00:06:52 | 花・鳥・虫・魚・猫






























写真も動画も御下門跡の桜であるが、「下の御門」とも呼ばれていた。
本丸・二の丸・三の丸に登るための唯一の門で、城主や家来専用。
櫓の床下が門になっていたらしい。

人吉は、相良氏2万2000石(実収12万石)の城下町で700年の歴史を持つ、
中央を流れる球磨川のなめらかな水面に、人吉城の石垣が影をおとしている。
この人吉城は別名繊月城と呼ばれ、球磨川を天然の外堀とした見事な規模を持った城です。
春は桜の名所でもあり、町中には武家屋敷など往時を思わせる史跡も残っています。

また、人吉は源泉が30ケ所もある湯量豊富な温泉町でもあり、
市内には共同浴場も多く点在し、中でも最も古いのが元湯という共同浴場です。

人吉は九州の小京都と呼ぶにふさわしい風情を醸し出す、
歴史と温泉とせせらぎのある落ち着いた町である。




沖縄県宮古島市 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 忠導氏仲宗根家 」

2013-03-28 00:04:21 | 離島めぐり








平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


仲宗根豊見親を祖とする忠導氏は、
旧藩時代には白川氏とともに宮古を二分するほどに勢力をふるった旧家である。
仲宗根豊見親は与那覇原との戦いに勝って宮古を統一した目黒盛豊見親の玄孫で、
白川氏三代目大立大殿にかわって宮古主長になった人物だと伝えられている。
「球陽」によれば、1500年、仲宗根豊見親は八重山のオヤケアカハチを討つ中山軍の先導をした功績により
宮古の頭職に、また、夫人宇津免嘉は初代大安母に任命されたと記されている。
その後、忠導氏とその支流(三男・知利真良豊見親を祖とする宮金氏、
妾腹の子・金志川那喜大知豊見親を祖とする仲立氏)一門からは、
多くの頭職(平良、砂川、下地)をはじめ首里大屋子、与人など、
この島の中枢に位置する数少ない要職をつとめる者がでた。
忠導氏正統仲宗根家の位置する地域の里名は外間(ぷかま)で、
同家を大外間(うぷぷかま)と称していた。
なお、同家に所蔵されている数十点の文書、史、資料類の多くは18世紀ごろのものであるが、
なかには16世紀にさかのぼるものもあり、代々、当主が引き継いできたものである。
同氏の勢力の推移および宮古の歴史の流れを解明するうえで重要な文化財である。




NHK特集ドラマ 『 ラジオ 』

2013-03-27 00:08:00 | 日記 ・ イベント



ふるさと女川からバスに乗って東京の大学へ向う 「 某ちゃん 」





久し振りに考えさせられるドラマを見た。
昨夜NHKで放送された 「 ラジオ 」 というドラマである。


東日本大震災の被災地・宮城県女川町。
ここに今も放送を続ける臨時災害放送局がある。
震災の一か月後に地元の人たちの手で作られた「女川さいがいFM」である。
このドラマは、地域に必要な情報を届けようと集まった、
高校生など若いスタッフと地元の皆さんをモデルにしている。

原作となったのは、「女川さいがいFM」にアナウンサーとして参加している女子高生のブログである。
そこには、震災からの二年間、被災の現実と向き合いながら、
前を向いて歩んで行こうとする若者の胸の内が綴られていた。


<ストーリー>
 震災から10ヶ月。
仮設住宅に引きこもる女子高生「某ちゃん」(刈谷友衣子)を心配した兄貴分の蒲鉾店四代目
國枝(吉田栄作)は、半ば強制的に女川さいがいFMに参加させる。
しかし、ほとんど何もしゃべれない、何も伝えられない…。
落ち込む彼女に、父親(豊原功補)が、「話すのが苦手ならば文字で表現したらいい…」とブログを勧める。
彼女は、自分自身の心情を少しずつ綴り始めて行く。
 
そんな某ちゃんが放送で流したロックミュージック ( 負け犬 ) を、ネット配信で耳にしたのは、
東京で働く飛松(リリー・フランキー)。
なぜか心惹かれ…某ちゃんとのメールのやりとりが始まる。
さいがいFMの仲間たち(安藤サクラ・新井浩文)にも支えられ、
某ちゃんは次第に元気を取り戻し、未来に希望を持ち始めていく。
 
そんな時、瓦礫の受け入れについて書いた某ちゃんのブログが突然炎上する。
普段は10人程だった閲覧者が100万人を超えた!いったい何が起こったのか?
…窮地に立たされる某ちゃん…そして仲間たち…
 
被災地女川で「ブログ」と「ラジオ」を経験し、
自分自身を取り戻していく女子高生と仲間たちの物語は、震災を描くドラマではない。
「心」の復興を描くドラマである。


何故?某なのか。
このニックネームをつけた同級生の男の子は津波に流されたので、
その意味も解らないままだが、
某ちゃん自身も解らないところがいいみたいだった。

バスから降りて来た飛松さんに「君の本当の名前を教えてくれないか」と訊かれ、
私は、「 某ちゃん 」だと答えた。
それからバスで東京に向うシーンのバックに流れた 「 応援歌 」 に胸が詰まった。

震災から2年の時が過ぎ、忘れかけていたことを改めて考えさせられたドラマだった。
これからも微力ながら東北を応援して行きたいと思っている。




沖縄県北中城村   「 中城若松 ( なかぐすくわかまつ ) の墓 」

2013-03-27 00:04:17 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



中城若松の墓







若松公園の入り口に立つ 「 若松の像 」








切り石に囲まれた墓庭と墓







墓の横に立つ墓標







火ノ神 ( ヒヌカン ) の拝所から見た墓







墓標の横にある若松の説明







若松の墓の裏側にある 「 妻と母の墓 」







墓の奥にある拝所 「 火ノ神 ( ヒヌカン ) 」







火ヌ神からの眺望 ( 米軍施設 ・ キャンプテラスハイツ喜舎場 )












中城若松は、安谷屋 ( あだにや ) の若松ともいい、
玉城朝薫作の組踊 「 執心鐘入 」 ( 1719年 ) の主人公のモデルとなった人物といわれる。
また、中城若松は尚円王 ( 金丸 ) と安谷屋ノロとの間に生まれた子どもともいわれ、
若松が誕生した屋敷は安谷屋グスクの北側の安里原だという。
安谷屋若松は首里王府の小赤頭 ( 給仕役 ) を勤め、母の実家である安谷屋村から通っていた。
稀にみる美少年であるため、首里へ通う彼を見ようと乙女たちは胸をときめかせていたという。

おもろに 「 あはれ ( 立派な ) 若松、肝あぐみ ( 愛されている ) の若松 」 と謡われている。


父が王位に就いてから、若松は安谷屋城主となり、安谷屋按司となった。
その後、異母兄弟の尚真が王位に即位して、 「 中央集権 」 により首里に上り、
上間村( 現在の那覇市上間 ) の地頭職に就き、上間親方を名乗った。
彼は、 「 章氏 」 の始祖となったといわれる。

上間で亡くなったが、死後、遺言により故郷の安谷屋に葬られたと伝えられる。
墓は、安谷屋グスク西方の丘陵の通称ユナハン ( 与那覇 ) にある。
墓口は、岩の頂上付近にあり、岩の前に切石を積んで囲んだ墓庭がある。
また、若松の墓の裏側の岩陰墓には、若松の妻と母の墓がある。




大分県院内の石橋 12 「 打上水路橋 」

2013-03-27 00:01:21 | 大分の石橋










水路橋の橋脚部分







橋の上の水路部分







草に覆われた水路





きれいに揃えられた壁石






橋の下を流れる高並川





所在地 /  大分県宇佐市院内町高並 打上 ・ 高並川
架橋  /  昭和初期の架設と推定
石工  /  不明
長さ   /  12.6m   幅   /  2.5m
拱矢  /   ?m     径間  / 9.1m
環厚  /   42㎝   
単一アーチ


打上水路橋は、高並川に架かる打上橋の一段下にある水路橋である。
橋の架かる高並川の土手が高い崖状になっているため、とても困難な場所であった。
打上橋が文久3年に対し、こちらは昭和初期だと伝え聞くが、
見た目にはそんなに変わらないように感じられた。
草に覆われていなければ、上下して架かる姿は絶景であったと思われる。


打上水路橋へのアクセス
打上水路橋へは、打上橋の一段下に架かっているため、
打上橋を参考にしてもらいたい。