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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県那覇市識名 「 名護親方程順則の墓 」

2014-03-02 05:48:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



名護親方程順則の墓









墓の前に立つ墓碑








同じような墓が並ぶ中で一本だけある墓碑が目印になる








識名墓園の最寄りのバス停










程順足は、名護親方と言われるくらいだから、
その墓は、てっきり名護にあるものだと思っていた。
すると墓は、那覇市の識名園に隣接する識名墓園の中にあった。
この類の思い込みは、平敷屋朝敏の墓が与勝半島の平敷屋にあると勝手に思い込んでいたら、
なんと平敷屋から500キロちかく離れた多良間島にあったのと同じだ。
名護も那覇も沖縄本島なので、そこまで離れていないのは助かったが、
何も知らなければ名護を探し回るところだった。

識名墓園のおびただしい数の墓の中から 「 程順足 」 の墓を探し出した。
程順足の墓は、特別な形をしているわけでもなければ、
特別な大きさをしているわけでもなく、
その他諸々の墓と同じような大きさで同じような形をして並んで、
宮古島でいう 「 墓団地 」 状態であった。






長堂橋の親柱に座っている 「 名護親方程順足 」








長堂橋のたもとにある 「 名護親方程順足の教え 」 を書いた説明版





名護市の世富慶から国道329号線を二見に向かって行くと長堂橋がある。
この橋の親柱に名護親方程順則が座っている。
テンペストでも、よく親方という言葉を耳にする。
それに塚本高史が演じる喜舎場朝薫のように、
沖縄では名前に朝 ( ちょう ) がつく人が多い。
朝のつく人は王家の一族で、琉球の士族は一族によって決まった字を
名前の頭につける慣わしがあったことは、
羽地朝秀 ( はねじちょうしゅう ) 、玉城長薫 ( たまぐすくちょうくん )、
平敷屋朝敏 ( へしきやちょうびん ) 、宜湾朝保 ( ぎわんちょうほ ) 、
牧志朝忠 ( まきしちょうちゅう ) など、歴史上の人物から確認できる。



名護親方程順則 ( なごうえかた ていじゅんそく )

   程順則 ( 1663.10.28~1734.12.8 ) は、
  那覇の久米村に生まれ、童名 ( わらびめー ) を思武太 ( うむんた ) といい、
  字名を寵文 ( ちょうぶん ) と言われていた。
  程順則は、近世の沖縄を代表する学者・文人であり、教育者・政治家である。
  久米村の総責任者として子弟の教育と人材の育成に情熱を注ぎ、
  琉球王府を支える多くの人材を世に送り出している。
  また、近世の日本本土で知られた唯一の沖縄人である。

   程順則は21歳の時に中国に留学して以来、王府を代表する使節として、
  5回も中国に赴いている。
  その間、中国の文人たちと交流を深め、いつも貴重な文物を持ち帰り、
  中国文化の普及に努めた。
  程順則みずからも優れた漢詩文を作り、多くの詩文集を編集している。
  新貢正義大夫として4回目の渡中のおり、
  「 六諭衍義 」 と 「 指南広義 」 を自費で印刷し、
  1708年に沖縄へ持ち帰った。

 「 六諭衍義 」 は、後に薩摩を経由して徳川吉宗に献上され、
  室鳩巣に和訳させ、 「 六諭衍義大意 」 として出版された。
  この本は江戸時代中期から明治の初めにかけて庶民教育の教科書として
  全国の各藩、また津々浦々の寺小屋で使われ広まった。
   
   程順則は66歳の時に、それまでの功績によって
  名護間切の惣地頭職を授かり、1734年に亡くなるまでの6年間を
  名護とさまざまな関わりを持った。
  彼は、その人格と素養・徳によって 「 聖人 」 として人々から深く尊敬されていた。
  とくに名護では、旧正月の元旦に役場で 「 御字拝み 」 として、
  名護親方程順則自筆の 「 六諭 」 の書を掲げ、その高徳をしのび、
  新しい年の心構えを誓う行事が催されている。


   「 六諭 」 の読み方と意味 

  孝順父母   父母に孝順なれ。 ( 父母に孝行をしなさい )
   尊敬長上   長上を尊敬せよ。 ( 目上の人を尊敬しなさい )
  和睦郷里   郷里は和睦せよ。 ( 郷里は打ち解けなさい )
  教訓子孫   子孫を教訓せよ。 ( 子孫を教え導きなさい )
  各安生理   各々生理に安んぜよ。 ( おのおの生業に甘んじなさい )
  母作非為   非意をなすなかれ。 ( 悪いことをしてはいけない )    



鹿児島県奄美大島 「 名瀬港第二防波堤灯台 」

2014-03-02 05:46:41 | 奄美群島の灯台



高さが5.7mの灯台













6秒に2回の赤色灯が点灯する







群閃赤光で毎6秒に2閃光の灯器







色と形が郵便ポストを思わせる






名瀬港の朝の風景






大きな機械で工事中の灯台付近





灯台表番号 / 6946
ふりがな / なぜこうだいにぼうはていとうだい
標識名称 / 名瀬港第二防波堤灯台
所在地 / 鹿児島県名瀬市 ( 名瀬港第二防波堤外端 )
北緯 / 28-22-57
東経 / 129-29-50
塗色 / 赤色
灯質 / 群閃赤光 毎6秒に2閃光
光度 / 実効光度 61カンデラ
光達距離 / 4.5海里
地上~頂部の高さ / 5.66m
平均水面上~灯火の高さ / 9.55m 
地上~灯火の高さ / 5.28m
業務開始年月日 / 昭和38年11月5日
現用灯器 / LD管制器Ⅰ型



名瀬の街の真ん前にある港の入り口に立つ灯台は小さくて赤い灯台である。
港の外には東西に白と赤の灯台が立っている。
ここは主に名瀬港の漁船などの小さな船の出入り口の安全を示すもので、
初点は昭和38年11月5日となっている。


名瀬港第二防波堤灯台へのアクセス
名瀬港第二防波堤灯台へは、桟橋前のバス停より海に向かって200mほど行った
名瀬港防波堤の外端にある。


熊本県美里町 「 下用来橋 」

2014-03-02 05:45:41 | 熊本の石橋


























所在地 / 熊本県美里町川越
架橋 / 不明
石工 / 不明
長さ / 6.0m
幅  / 2.7m  高さ / 4.0m


下用来橋は、人里離れた川に架かる橋で、
小さいながらにも端正な造りが印象的であった。
川床から約4メートルほどの高さに架けられた橋の姿は、
周囲に生い茂る緑に溶け込んでいた。


下用来橋へのアクセス
下用来橋へは、松橋インターより国道218号線を美里方面に進み、
「万坂」の手前を左へ県道220号線に入り、約1キロほど進んだ左下側になる。
案内板が目印になる。
駐車は、橋の上に路上駐車になる。



「 高齢者虐待から見えて来るもの 」

2014-03-02 05:44:41 | 介護関係
高齢者虐待の現状



要介護施設従事者等による虐待

要介護施設従事者等による高齢者虐待の酒類・類型は、
身体的虐待が70.8%、ついで心理的虐待が36.5%となっており、
被虐待高齢者は、女性が74.7%を占め、年齢は80歳代が42.5%であった。

養護者による虐待
養護者による高齢者虐待の種類・類型は、身体的虐待が63.4%、
ついで心理的虐待が39.0%となっており、
被虐待高齢者は、女性が76.5%、年齢は80歳代が42.2%となっている。
相談・通報者としては、 「 介護支援専門員等 」 が43.4%で最も高い割合を示している。
また、認知症高齢者の日常生活自立度Ⅱ以上の者は、被虐待高齢者全体の47.1%を占め、
虐待者の続柄では、 「 息子 」 が42.6%で、 「 夫 」 が16.9%、
「 娘 」 が15.6%であった。


家庭内の虐待

家庭内の高齢者虐待は、高齢者自身が閉じこもりがちだったり、
判断力の低下などで本人が直接的に被害を伝えられなかったり、
家族をかばったりすることもあったりして、
虐待を見つけること自体が困難な場合が多い。
そのため周囲が兆候に気づき早期に対応することが重要となる。

その適切な対応のためには、虐待の第一発見者になりやすい介護職はもとより、
各専門職の連携が重要であるが、
その対応がこれまで十分になされていなかったのが現実である。

家族からの虐待が疑われても、日本では家庭内への介入をためらう風潮が社会にあり、
そのため対応が遅れがちになることも少なくない。


虐待の背景

高齢者の虐待場合、養護者の人たちも介護疲れなどで地域社会などから孤立し、
ある意味で被害者である場合も多いことに配慮しなければならない。
高齢者虐待のリスクは高齢者が認知症の場合が顕著であるが、
介護に対する知識不足などからも引き起こされるものである。

介護と生活の現場において実際にケアを行っている家族や施設などに裁量として
ケアが任されている部分があり、そこについて周りが口を出しづらい部分があるのも
事実である。

虐待は施設を含め、密室化した場所で起こり、
虐待している人は虐待をしているという意識を持ってなかったり、
被虐待者は虐待者にケアを依存しているので声高に糾弾 ( きゅうだん ) したりせず、
かえってかばうなどで、深刻になるまで見過ごされがちになることが多い。