海辺に佇む ” 白い貴婦人のような教会 ”
江戸時代末期、岐宿地区では大村藩領から移住した潜伏キリシタン達が
楠原、水ノ浦、打折、姫島などに別れて住みました。
水ノ浦教会の歴史はそのうちの5人の男性とその妻子の移住に始まります。
彼らは仏教徒を装いながら密かにキリスト教を信仰する日々でした。
慶応2 ( 1866年 ) の頃上五島の信者が水ノ浦に来て、
長崎の大浦にキリシタンの教会が建っていることを告げました。
同年11月8日水ノ浦の帳方等3人が長崎に行き、
プチジャン司教 ( 1866年秋・司教叙階 ) に面接し、
司教から“十字架のしるし”をするよう言われましたが
3人とも“十字架のしるし”の知識がありませんでした。
3人はその場で司教から丁寧に教えてもらい、
メダイや十字架を貰い受けて帰島しました。
明治元 ( 1868年 ) 12月25日、水ノ浦のキリシタン達が
帳方の家に集まって祈っているところを役人に踏み込まれ、
4~5日後30余名の男性が捕えられ、急ぎ牢にしつらえた同帳方宅につながれました。
まもなく姫島の信徒もこの牢に入れられました。
また楠原でも同じく帳方宅を牢屋に充て、33名がつながれました。
明治2年の初め一たん出牢を許されたものの、
まもなく再入牢となり大半の信徒は同年6月に出牢を許されたが、
主だった8名は更に2年余を牢内に留め置かれた。
水ノ浦の信徒たちは、禁教の高札撤去から7年後の明治13 ( 1880年 ) に
水の浦湾を一望する小高い丘の上に最初の教会を建立しました。
五島内では、いち早く建てられた教会のひとつで、木造の純日本的な教会でした。
日曜日には地元水ノ浦の信徒に加え打折、惣津からは船で、
また楠原からは歩いて山越えしてくる信徒らで教会に入れない信徒も出るほどであった。
明治17年 ( 1884年 ) 水浦カネは、生家を女部屋 ( 水ノ浦修道院の起こり ) とした。
60年近くの歳月を経て水ノ浦の信徒を見守リ続けた教会は、
容赦なく吹き付ける潮風に老朽化してしまい、建て替えられることになった。
鉄川組の請負建築で、五島出身の名工鉄川与助が設計施工し、
ほとんどの職人が長崎からやってきた。
水ノ浦教会の建設は、当時雲仙に建てる予定だった教会が、
諸般の事情により取りやめとなったため、その資材を、そのまま買い受けて進められた。
建設作業には当時の主任司祭が自ら汗と泥にまみれて陣頭指揮に当たった。
信徒達は大人も子どもも資材の運搬や、整地作業に汗を流した。
敷地を広げるため奥の土手を削り取り、
その土は浜の一隅を埋め立てるためワイヤーを張り、
もっこでつり下ろす当時としては珍しい作業も行われた。
また修道女達も骨の折れるのもいとわず、赤土運びや松材の運び出し、
赤土とセメント塗り、石灰焼きに左官の補助作業など毎日奉仕に汗を流した。
こうして昭和13 ( 1938年 ) に完成した祈りの家は、
与助にとっては、リブ・ヴオールト天井を有する最後の教会になった。
水ノ浦教会は入江を見下ろす小高い丘の上に建てられた白亜の優美な教会で、
沖合いには、百数十年のキリシタンの歴史を刻み今は無人となった姫島も望める。
木造の教会内部はリブ・ヴォールト天井が優しい曲線を描き出し、
大きな窓から差し込むやわらかい光が堂内にあふれている。
尖塔がそびえる水ノ浦教会は、青い空をバックに絵になる美しさで
多くの人を魅了し訪れる人が後を絶たない。
また、ここでは聖母マリアの命日である8月15日には、聖体行列が行われる。
所在地 / 長崎県五島市岐宿町岐宿1644
教会の保護者 / 被昇天の聖母