「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、、文化財および近代土木遺産をめぐる。

福岡県芦屋町 ・ あしや砂像展2018 「 江戸城無血開城と東京遷都 」 

2018-12-07 18:59:14 | 日記 ・ イベント
















  『 江戸城無血開城と東京遷都 ( せんと ) 』  廣岡 佳 



これは廣岡 佳さんの作品である。

1868年、旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争が始まり、
新兵器を備え優位に戦う新政府軍は、
徳川家を滅ぼすために京都から東へ進み、
ついに江戸までたどり着く。
江戸の多くの住民が戦争に巻き込まれる寸前に、
勝海舟と西郷隆盛の会談が行われ、江戸城の無血開城が実現した。
戦火を逃れた江戸城に翌年明治天皇が住まい、
新たな時代の首都 「 東京 」 が誕生した。


福岡県芦屋町 ・ あしや砂像展2018 「 坂本龍馬と船中八策 」 

2018-12-02 20:05:50 | 日記 ・ イベント



























  『 坂本龍馬と船中八策 』  茶園勝彦 


 「 坂本龍馬と船中八策 」 は日本の茶園勝彦さんの作品である。
自らアーティストでありながら、このあしや砂像展で砂像プロデューサーも担当している。

土佐の出身である坂本龍馬は、対立していた薩摩藩と長州藩を仲介し、薩長同盟を成立させた。
武力に頼らず平和的な倒幕を理想とした龍馬は1867年に船中八策を示し、
朝廷のもと徳川家を含めた連合政権の樹立を目指した。
後藤象二郎とともに大政奉還を江戸幕府に勧め、ついに徳川慶喜に受け入れさせた。
新たな歴史が開かれようとしたその時、龍馬は暗殺され、
その先の夢を見ることは出来なかった。


船中八策は、江戸時代後期、龍馬が起草したとされる新国家体制の基本方針。
龍馬は、前土佐藩主である山内容堂に大政奉還論を進言するため、
長崎から兵庫へ向かう船の上で後藤象二郎にこの案を提示した。
それを海援隊士・長岡謙吉が書きとめ、
のちに成文化したものが「船中八策」とされている。

ただし、原文書や写本といったものが現存しておらず、
詳細な成立過程を証明する資料もないため、
龍馬が作成に係わっていない可能性があることも指摘されている。
また、元々のオリジナルは上田藩士で軍学者でもある
赤松小三郎の構想だとも言われている。

原文

一策 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事
二策 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事
三策 有材ノ公卿諸侯及天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ、官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ、官ヲ除クベキ事
四策 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事
五策 古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事
六策 海軍宜シク拡張スベキ事
七策 御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守護セシムベキ事
八策 金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事

土佐藩が公武合体から非佐幕へと政治姿勢を転換した背景には、
時代が薩長同盟により倒幕へと傾いていき、
薩長に遅れをとったことへの焦りがあった。

幕府存続かつ土佐藩の地位の確保できる道はないかと
模索していたところに出てきたのが船中八策だった。
そして、後藤象二郎から前土佐藩主・山内容堂へ「船中八策」が進言され、
容堂は徳川慶喜に大政奉還を建白した。


福岡県うきは市  「 ファームステーション バサロ 」

2018-11-30 13:24:29 | 日記 ・ イベント





























毎年のように柿を楽しみにバサロに足を運ぶ。
それだけ価値のある柿が食べれるということである。
今年も東京に柿を送ったが、
お礼の手紙にその感想が綴られた文面から、
満足した顔を思い浮かべた。

母の誕生日に虎屋の最中と羊羹を・・・

2018-11-29 19:24:58 | 日記 ・ イベント






















昨日は母の誕生日だった。
雪が降っていたのか定かではないが、
 雪の とうい名前だった。

和菓子が好きだった母に、
最中と羊羹をお供えした。



福岡県芦屋町 ・ あしや砂像展2018 「 下関戦争と高杉晋作の活躍 」 

2018-11-29 11:08:04 | 日記 ・ イベント






























  『 下関戦争と高杉晋作の活躍 』  大工園 望 ・ 大工園 昭則 


開国後の日本は物価が上昇し、人々の生活を大きく苦しめた。
また外国人の怒りも強くなり、
日本から追い出そうとする「 攘夷 ( じょうい ) 」 思想が広まった。
1863年、関門海峡を通航する外国船に砲撃を行うが、
アメリカやフランスを中心とした4カ国連合艦隊による反撃を受けた。
この戦いの和議交渉をまとめ上げたのは騎兵隊を組織し、
下関を守っていた高杉晋作であった。
高杉はその後、長州藩の中心人物として、幕府に対する討幕運動を推し進めた。


福岡県うきは市  「 道の駅うきは / かかしコンクール 」

2018-11-28 19:15:59 | 日記 ・ イベント



うきは市の 「 ふるさと大使に就任されたタモリさん 」





































福岡県うきは市にある 「 道の駅うきは 」 の裏のデッキで
 『 第9回 かかしコンクール 』 が行われており、
この中には奥さんがうきは市の出身ということから
 「 ふるさと大使 」 に就任されたタモリさんのかかしまであった。


福岡県芦屋町 ・ あしや砂像展2018 「 ペリーの黒船来航 」 

2018-11-26 18:58:08 | 日記 ・ イベント






























  『 ペリーの黒船来航 』 レオナルド・ウゴリニ 



これはイタリアのレオナルド・ウゴリニの作品である。
1853年、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが
4隻の黒船とともに浦賀に来航した。
船舶の燃料や食料の補給拠点とするため軍事力を使ってでも
日本を開国させたいアメリカに対し、江戸幕府は対抗する手段を持っていなかった。
翌年ふたたび7隻の黒船を率いて来航したペリーは圧力を強め、
幕府と日米和親条約を結んだ。
こうして開国した幕府だったが、欧米諸国との不平等条約を結ぶことを余儀なくされた。


福岡県黒木町  「 椿原地区のイベント 」

2018-11-25 06:08:12 | 日記 ・ イベント



椿原地区で唯一の店























































23日の日は黒木町の石橋を主にめぐった。
その中でも笠原地区にある関屋橋を探し出せなくて
あちこちの山や川の周りを探したが、さっぱり見つけ出せなくて諦めていた。
その帰りに椿原天満宮の境内で賑やかな会が催されているのを見て、
そこにいる人に訊ねてみると、2年前の豪雨で流失したという。
黒木に限らず、筑後や日田方面ではこうした石橋が多く見られた。


大野城まどかぴあ  「 昨夜のコンサートで突然井上陽水が登場 」

2018-11-24 14:54:26 | 日記 ・ イベント












コンサートの会場となった「 大野城まどかぴあ 」








出演者が紹介されたポスター








山崎ハコのアルバム 「 横浜から 」





昨日、石橋の探訪を終えた帰りに
大野城まどかぴあで開かれるコンサートに行ってきた。
馴染みのある歌やアーティストに触れたくて楽しみにしていた。


3人がそれぞれ自分のコンサートを行い。
その合間に、パーソナリティーの方が深夜放送の手紙を読んだり、
エピソードなどを語ってくれた。
スタートは佐田玲子で、赤い鳥の 「 翼をください 」 や
中島みゆきの 「 時代 」 などを一緒に唄い。
賑やかなステージを演出してくれた。

二番手は永井龍雲で 「 道標ない旅 」 から始まり、
西郷どんにも出てきた奄美大島出身の母を歌った 「 ルリカケス 」、
それに自らも四国をめぐった 「 お遍路 」 や、
五木ひろしに提供した 「 暖簾 」 など、
心に染みる弾き語りで観客を魅了した。

そしてアンカーは大分県日田市出身の山崎ハコ。
横浜に出てきて故郷の日田を想って作った 「 望郷 」 から始まり、
 「 青春の門 」 の作者、五木寛之が作詞した 「 織江の唄 」 。
その舞台となった筑豊のことが話題に上ると、
田川郡糸田町出身の井上陽水がサプライズで登場した。
突然のことだったので、最初は神無月かと思ったが、
すぐに本物だと分かった。

 「 帰れない二人 」 「 東へ西へ 」 「 夢の中へ 」 の3曲を唄ってくれた。
現在、山崎ハコと一緒に曲作りをしている関係から
陽水のステージギターを担当したのが安田裕美である。

再度、ステージに立った山崎ハコが阿久 悠の未発表の 「 横浜から 」 を唄い、
東日本大震災のことを歌にした 「 縁 ( えにし ) 」 や、
日田での祖母との想い出を唄った 「 ビートル 」 や、
父の想い出で、日田焼きそばの想夫恋など話を聞かせてくれた。

どの唄にも感動で魂が震える良い時間を過ごさせてもらった。


福岡県芦屋町 ・ あしや砂像展2018 「 アヘン戦争 」 

2018-11-23 18:32:09 | 日記 ・ イベント

























  『 アヘン戦争 』 アンドリュース・ペトクス 


1840年、アジアで大事件が起きた。
アジア一の大国である清が、アジアでの勢力拡大をもくろむ
イギリスとの戦争に敗れた。
この戦争を 「 アヘン戦争 」 と呼び、
以降も東アジアへの欧米の進出が進み、
多くの国を植民地としていった。
その波は日本へも到達することになる。


福岡県芦屋町 ・ あしや砂像展2018 「 鎖国とオランダ貿易 」 

2018-11-21 19:41:30 | 日記 ・ イベント











































  『 鎖国とオランダ貿易 』  マリエレ・ヘッセルス


これはオランダの美人作家マリエレ・ヘッセルスさんの作品である。

江戸時代になり、ポルトガルやスペイン、オランダなどの国と貿易が盛んになる一方、
キリスト教の布教・信仰は徳川幕府により禁止されていた。
ついにはヨーロッパの国で唯一布教活動をしなかったオランダだけが、
日本との貿易を許されることになる。
三代将軍徳川家光はオランダとの窓口を長崎の出島のみに限定し、
海外との貿易を制限する鎖国政策を行った。


福岡県芦屋町 ・ あしや砂像展2018 「 鉄砲 ・ キリスト教の伝来 」

2018-11-18 13:43:37 | 日記 ・ イベント
































この 「 鉄砲・キリスト教の伝来 」 はポルトガルのペドロ・ミラさんの作品である。

大航海時代を迎えた15世紀のヨーロッパ、
遠くアジアにも進出してきた。
日本には中国船に乗ったポルトガル人が種子島に漂着したのが始まりだった。
彼らが持っていた火縄銃は瞬く間に日本各地へと広まり、
内戦の主な武器として重宝された。

1549年にはフランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝え、
人々の生活に大きな影響を与え、信者の支えとなった。


福岡県芦屋町 ・ あしや砂像展2018 「 時代を動かした土佐の男たち 」 

2018-11-12 16:31:20 | 日記 ・ イベント










北渓井坑がある肥前高島に建つ岩崎弥太郎の像





あしや砂像展2018のテーマは
 「 明治維新 時空を超えて 」であるが、
とくに土佐出身者が多く作品として出ていた。
土佐を代表する岩崎弥太郎。
弥太郎は高知県安芸市出身で、三菱の創始者である。



福岡県芦屋町 ・ あしや砂像展2018 「 日本人最初の集団移民 ・ 元年者 」 

2018-11-10 18:01:28 | 日記 ・ イベント



日本人最初の集団移民 「 元年者 」




 

日本最初の集団移民となったのは、
よく知られているように1868年 ( 明治元年 ) 5月17日、
横浜を出港したイギリス船籍の 「 サイオト号 」 に乗った
153人 ( 149人説など異説も ) だった。
この移民は、ハワイ政府の強い要請に基づいて準備されていたが、
移民許可を出した徳川幕府が誤解し、
明治新政府はこの移民を認めなかったため、
無断で出港してしまうという、
国際関係から見ると最悪な事態に陥った。


福岡県芦屋町 ・ あしや砂像展2018 「 最後の晩餐 ・ 近江屋にて 」 

2018-11-09 16:12:21 | 日記 ・ イベント



中岡慎太郎と坂本龍馬
















ふすまの間から隙きを伺う刺客







坂本龍馬はそれまで宿舎としていた薩摩藩の定宿であった寺田屋が
江戸幕府に目をつけられ急襲 ( 寺田屋事件 ) されたため、
三条河原町近くの材木商鮓屋を京都での拠点にしていたが、
慶応3年10月頃には近江屋(醤油屋)へ移った。
このことについて薩摩の吉井幸輔は
 「 四条ポント町位ニ居てハ、用心あしく 」 として
土佐藩邸に入れないのであれば薩摩藩邸へ入るよう勧めたが、
薩摩藩邸に入る訳にはいかないとして龍馬は近江屋に留まった。

11月15日(12月10日)、夕刻に中岡が近江屋を訪れ、
三条制札事件について話し合う。
夜になり客が近江屋を訪れ、
十津川郷士 ( 今井信郎の証言では松代藩士 ) を名乗って
龍馬に会いたいと願い出た。
応対に出た山田藤吉は客を龍馬に会わせようとするが後ろから斬られた。
大きな物音に対し、龍馬は 「 ほたえな! ( 土佐弁で「騒ぐな」の意 ) 」と言い、
刺客に自分たちの居場所を教えてしまう。
刺客は音もなく階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入した。
そして龍馬は額を斬られた。 
( この他、浪士達が2人を斬る前に名刺を渡してから斬ったという説など諸説ある )。
その後、龍馬は後頭部から背中、再度額を深く斬られたところで
刺客のひとりが「もうよい、もうよい」と言い、全員立ち去った。
龍馬は、ほとんど即死。
中岡は全身数十箇所を切られたが、長刀を屏風の後ろに隠していたため、
仕方なく身に付けていた脇差しで防戦。
鞘から脇差しを抜く暇も与えられずに鞘ぐるみで相手の刃を受けていたが、
鞘がささらのようになるまで敵の刃を防ぐが防戦むなしく気絶した。