「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県糸満市 「 チチャマグスク 」

2012-02-29 22:41:30 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡

 






 

 

 


















 チチャマグスクは、フェンサグスクと道路を隔てて真反対側の丘の上にあり、
グスクの発生段階より宗教的性格の強い聖域だといえる。
グスク内はキレイに掃除がされており、信仰者のグスクに対する想いが伝わって来るようであった。
特にグスクの中でも聖域説の代表といえるようなグスクである。
築城者や築城年代は不明であるが、フェンサグスク同年代と思われる。


チチャマグスクへのアクセス
 チチャマグスクへは、フェンサグスク入り口の真向かいの丘を150mほど上っていったところにある。
途中までフェンサグスク参考にしてもらいたい。
 駐車は入り口に広場があり、そこに止めて歩いて上って行ける。





沖縄県糸満市名城

沖縄県糸満市 「 照屋の石彫獅子 」

2012-02-29 22:27:30 | 沖縄の文化財





















沖縄県糸満市照屋




「 安東焼酎 」 を飲んだ。

2012-02-28 17:12:32 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒





夕べ 「 安東焼酎 」 を飲んだ。
ラベルだけを見たときは大分の焼酎だろうと思っていたら、なんと、 “ 韓国 ” の焼酎だった。
別に韓国を意識しているわけではないが、同じ米焼酎でもなんとなくコクを感じる。
度数も21度と普段飲んでいる泡盛の30度と比べても低いのに、キツサは変わらないように感じた。

韓国慶尚北道北部の安東地方は、13世紀に焼酎文化が伝わり、古くから焼酎が造られてきた土地。
水と空気が美しいこの地で銘酒「安東焼酎」は育まれました。
かつて焼酎は非常に高価で、貴族や官僚など特権階級の間だけで楽しまれていました。
安東の地は韓国儒教の総本山、学問の地として中央官僚や儒学者を多数輩出しており、
「安東焼酎」の贅を極めた深い味わいは彼らによって全国に知れ渡っていきました。

1960年代、韓国政府の食糧政策で醸造原料に米の使用が禁じられ、
「安東焼酎」の歴史は一時途絶えます。
その間、蒸留技術の発展で、様々な穀物を原料にできる希釈式焼酎(日本の甲類焼酎に該当)が普及。
「安東焼酎」のような蒸留式焼酎(本格焼酎)は姿を消しました。
約30年後、米の使用が解禁となり、当時の製法を知る人々の情熱で「安東焼酎」は復活。
現在は、希少な蒸留式焼酎の代名詞となっています。

「安東焼酎」は、安東地方の肥大な大地で育った米を使い、
そこで造られた焼酎のみに与えられる称号です。
安東産の高級米「秋晴」、濃厚なコクを生む黒麹、ミネラル豊富な天然水を使用し、
90度の常圧蒸留の後、低温ろ過で臭いを抑えて引き出した深い味わい、
喉を通る純米ならではの凛とした香気。それは、まさに銘酒「安東焼酎」の名にふさわしい、風格ある逸品です。
楓爽とライトな白ラベル(21度)はストレートで、
深いコクと冴えた香りを楽しみたい黒ラベル(40度)はロックでお楽しみください。





沖縄県糸満市  「 フェンサグスク ( 貝塚 )・ 名城 ( なしろ ) グスク 」

2012-02-28 16:55:53 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡







フェンサグスクの全景






グスク入り口にある拝所







グスク内部 1






グスク内部 2





 フェンサグスクは、発掘調査によって出土した「フェンサ上層・下層式土器」から命名されたグスクで、
名城集落周辺にあることから別名「名城グスク」とも呼ばれている。
 グスクは25メートルの丘陵上に築かれており、野面積みの石垣は少し残ってはいるものの、
内部は平坦で拝所などの聖域となっている。

 フェンサグスクは、南山グスクから来たタルサマ王が、名城村の宗家である仲原の始祖であるという。
タルサマ王の子、トゥンビベンサは、名城村の発展に力を尽くした按司であった。
 そのトゥンビベンサが若い頃、隣村の按司・喜屋武クガニーの妹に恋をするのだが、
喜屋武クガニーの持ちかけた「石投げ勝負」に負けて想いを告げることが出来なかった。
 このグスクの北方崖下にはタルサマ王と孫の四郎タルガニーの古墓がある。
 孫の四郎タルガニーは美男子で、遠く勝連城の浜川按司(七代目城主)の姫君で、
絶世の美女と噂の高い真鍋樽(マナンダル)を嫁に迎え、琉球国中の話題になったという。



フェンサグスクへのアクセス
 フェンサグスクへは、国道331号線を糸満ロータリーを過ぎて南下し、
県立南部病院から名城バイパスへ向わずに、右に旧国道331号線を入って行く。
そして名城ビーチ方面へ行くと右に自動車の修理工場があり、
そこから約100mほど坂を上ると右にゲートボール場がある。
そこを右折するとすぐにグスクがある。
駐車は、グスクの入り口の広場があるのでそこに停められる。

沖縄県糸満市名城



福岡県赤村 ・ 日本初の時速100キロで走行ができる車掌車 『 ヨ 9001 』

2012-02-27 22:12:19 | 汽車・電車・駅・廃線路












上の説明板を見ればあえてここで書くこともあるまい。
この車掌車が置かれているのは九州で一番古い鉄道トンネル(石坂トンネル)がある
福岡県田川郡赤村の 「 源じいの森 」 である。





福岡県田川郡赤村石坂峠

沖縄県糸満市  「 真栄里 ( まえさと ) グスク ・ 別名 先中城 ( さちなかぐすく ) 」

2012-02-27 22:03:58 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡





























真栄里グスクは、中北山系の伊波按司(伊波城主)の子が、
伊波グスクより分家した時に当初は中城間切りの泊の上方にある台グスクを築いて居城としていた。
二代目の時に中城を築いて移ったという。
そして三代目まで中城城を居城としていたが、
4代目になってからこの真栄里に移りグスクを築いたとされる。
このようなことから、この真栄里グスクの別名を先中城(サチナカグスク)とも呼ばれていた。
 グスク内は野面積みの石垣の間に、ガジュマルの根が絡みついていた。



真栄里グスクへのアクセス
真栄里グスクへは、国道331号線を南に進み糸満ロータリーを過ぎ、
左にある真栄里団地の信号から左折して糸満市立図書館の方へ入って行き、
図書館を過ぎて公園を右側に回って行った所に駐車場がある。
そこから見える「グループホーム寿」の裏がグスクになるが、私有地なので許可が必要である。
駐車は、グスク入り口に公園があるので、そこの駐車場に停められる。

沖縄県糸満市真栄里



千葉舞美の 『 窓をあけて 』

2012-02-26 14:28:56 | 音楽 ・ 映画








毎週、楽しみにしている番組がある。
それは、 「 窓をあけて九州 」 という番組であるが、
いろんな人がいろんな分野で頑張り続けるヒューマンドキュメンタリー番組である。

今日は、昨年末で廃止になった荒尾競馬で走っていたゲーリーチビチャンであった。
なかなか勝てない300キロ台の小柄な競走馬の行く末案じる調教師と、
ジョッキーという職業を廃業か継続かで悩む女性騎手のドラマは、 “ たまらん ” やった。
この番組は、歴史的、教育的見地からいっても資料として後世に残る貴重なものだと思う。

我々の知らないその世界で、もう一歩奥に進んだ驚きや興味にまつわる
情熱、悩み、葛藤、達成、喜びに感動し、涙する作品であるが、
どの作品の根底にも心が震える感動があり、人々の温もりに触れている。

そんな番組のテーマーソングで流れるのが、千葉舞美さんが唄う 「 窓をあけて 」 である。
映像と爽やかな歌声がマッチして、それだけで感動させてくれる。
番組の構成もそうだが、音楽の効果もかなりのモノがあると思う。
編曲がされているものの、作詞・作曲・唄は彼女自身とあって、その思い入れが伝わって来る。

僕自身、以前から気になっていた唄 ( CD ) に出会えた喜びは大きい。




福岡県赤村  ・  近代土木遺産 「 石坂トンネル 」

2012-02-26 14:12:16 | 近代化産業遺産・土木遺産





































































登録有形文化財の石坂トンネル付近





竣工    /  1895年 ( 明治28年 )
技術顧問 /  ヘルマン ・ ルムッシュテル (ドイツ)
第一石坂トンネル 延長 33.2m
第二石坂トンネル 延長 74.2m
■  登録有形文化財


石坂トンネルは九州で一番古い鉄道トンネルである。
その路線が走る豊州鉄道は、北九州と田川、伊田、添田などの産炭地を結ぶ鉄道として
1895年(明治28年)に開業したもので、その後1901年(明治34年)に九州鉄道に合併され、
後に国鉄田川線となった。この区間は将来複線化を念頭に建設されたため、
2本あるトンネルはいずれも複線断面で建設されたが、結果的には単線で使用したまま今日に至っている。
 この2本のトンネルは、九州最初の鉄道トンネルとして記念すべき存在で、建設当時の姿を良好に保っている。
構造と断面は隣接したトンネルでありながら両者で異なっており、
第一石坂トンネルは側壁と迫石の下半分が素掘りの岩盤になっているほかはすべて煉瓦構造で、
パラペットの煉瓦には装飾的技法が見られる。
一方、第二石坂トンネルの履工はすべて煉瓦積みであるが、坑門は製層切石積みで出来ている。
断面はどちらも独自のもので、第二石坂トンネルは完全な複線断面であるが、
第一石坂トンネルは山側の岩盤が未掘削のまま残されている。
なお、田川線はJR九州を経て、1989年(平成元年)に第三セクターの平成筑豊鉄道へ経営が移管されている。

 本州鉄道はイギリス人技師の指導により建設したが、九州鉄道建設にあたっては、
技術顧問としてドイツ人でプロシア国有鉄道機関監督の職にあった ヘルマン・ ルムッシュテル氏を招請し、
橋梁、レール、機関車、客貨車などの資材をドイツから輸入し、
ドイツの技術協力による鉄道の建設は当時としては他に類例がなかった。

石坂トンネルへのアクセス
石坂トンネルへは、平成筑豊鉄道の「源じいの森温泉駅」下車、徒歩約3分。
駐車は、「源じいの森温泉」または「研修センター・キャンプ場」の駐車場が無料で利用できる。


福岡県田川郡赤村石坂峠



沖縄県糸満市 「 照屋 ( てるや ) グスク 」

2012-02-26 13:20:54 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡






糸満中学校の上にある目印となる浄水場タンク






浄水場内にある崩れ落ちた石垣






グスク下にある照屋の拝所入り口






照屋の神さま






照屋の神さまの広場にある拝所






照屋グスクは、別名(ティラグスク・ウチバラグスク)と呼ばれているグスクで、
太平洋戦争によりほとんど破壊され、昔の面影すら残していない。
グスク内には「照屋の神様」と書かれた拝所の他に古墓が点在している。
 伝承によれば南山グスク隆盛の頃、照屋グスクは貿易品の倉庫として、
または支配地域の防塞としての出城の役目をしていたところだと言われている。

 グスク下方には報得(むくえ)川が流れており、河口近くには南山王のころ、
中国との貿易のための船着場として利用されていたところがあり、
そのことからこの地域一帯を、唐船小堀(トウシングムイ)または、唐船嶽(トウシンダキ)と呼ばれている。


照屋グスクへのアクセス
照屋グスクへは、国道331号線を那覇方面から糸満方面に進み、
糸満市役所手前の糸満ロータリーを左折して県道77号線に入り、
糸満小学校のを過ぎて左折して糸満中学校の方へ進み、
照屋グスクの看板を道なりに上って行くと水道タンクの見える山に着く。
その水道タンクを回るように登って行くとグスクがあるが、
水道タンクの入り口に鉄条網が施してあるため、
道路より斜面をよじ登ってグスクまで行かなければならない。
 駐車は、グスク入り口が広くなっているのでそこに駐車した。

沖縄県糸満市照屋


沖縄県糸満市 「 国吉 ( くによし ) グスク 」

2012-02-25 20:37:32 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡
































国吉グスクは、南山城の西、約700mのところにある石灰岩の丘陵地に築かれたグスクである。
グスク頂上には広場があり、野面積みの石垣が残っている。
このグスクも八重瀬グスク・照屋グスクとともに、南山城の防禦の砦として配置された城である。
城主は、国吉大屋久(くによしうふやく)だといわれている。
また、護佐丸の遺子、盛親(もりちか)の面倒を見たともいわれている。

国吉大屋久の予言
 金屏風とカデシ川の交換を終えて、得意満顔になって他魯毎王(たるみーおう)に報告する与座大主(よざうふぬし)に、
「この交換は将来禍根を残す事になる」と大屋久は忠告したが、
大主はいっこうに聞き入れようとはせずに、逆に謹慎を申し付けた。
 与座大主にお供して、金屏風を受け取りに行ったときの尚巴志の容貌、堂々とした態度と見事なまでの雄弁、
どれを見ても将来大きな事を成す人に思えた大屋久は「交換された金屏風は尚巴志に返し、
カデシ川を取り戻さなければ、後日憂いを招くことがあるだろう、
そして尚巴志は地頭も按司も望まないというけれど、南山を打ち滅ぼさんと画策しているのは必定であり、
ここで尚巴志に心を許してしまえば、南山はおろか三山までも滅ぼされてしまう」と忠告したが、
聞き入れようとはしなかった。
 ことは大屋久の予言したとおりになり、南山城は尚巴志によって滅ぼされてしまう。




国吉グスクへのアクセス
 国吉グスクへは、国道331号線を糸満ロータリーから左折し、
県道77号線の照屋交差点を右折して県道7号線に出る。
そして道路脇の高嶺小学校から右折して南山城を過ぎて700mほど行った坂の頂上を過ぎて
すぐ右に入った所にある。
駐車は、周りが畑なので邪魔にならないように停めれば十分に駐車できる。

沖縄県糸満市国吉




熊本県天草市五和町 「 二江港二号防波堤灯台 」

2012-02-24 20:55:33 | 熊本の灯台































二江港二号防波堤灯台は、熊本県天草市五和町二江港の防波堤の外端に立つ灯台で、
初点は昭和44年12月1日である。
頂部までの高さは9.31mで、平均水面から灯火までの高さが13.64mとなっている。
灯質は単閃緑光で、毎5秒に1閃光の割合で照らしている。


二江港二号防波堤灯台へのアクセスは、
天草下島を国道324号線 ( 通称・ロザリオライン ) で西下すると、右手に通詞島が見えてくる。
県道47号本渡五和線と交わる辺りから二江港の方に入って行くと灯台が見えるが、
防波堤が離れになっているため岸から見ることになる。


熊本県天草市五和町二江



沖縄県那覇市  「 玉 陵 ( たまうどぅん ) 」

2012-02-23 17:28:51 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所
サンゴの砂利が敷き詰められた墓庭からの玉陵全景







王や王妃、世子などが納骨されている東室






王家親族が納骨されている西室






玉陵に入る最初の門







玉陵 ( たまうどぅん ) は、西暦1500年前後に、
第二尚氏王統の陵墓として第三代である尚真王が父の “ 尚円王 ” の遺骨を
西裏側の見上森 ( みあぎむい ) から移葬して造ったものである。
岩山を背に横穴を掘り、前面を破風造りにした破風掘り込み墓である。
墓域は約6000坪で、規模といい、壮麗さといい、沖縄随一の墓である。
墓室は三基に分かれ、中央はシルヒラン(洗骨前の遺体を入れる墓)で、
向って左側の東室には、洗骨後の王・王妃・世子・世子妃を、
右側の西室には、それ以外の家族が納骨されている。
最後の納骨は、昭和9年の尚典夫人であった。


玉陵は内郭と外郭があり外郭は石垣で出来、玉陵を囲んでおり、
中央に一つ目の門があり潜り抜けると正面に石垣があり、中央に第二の門がある。
ここから先が内郭になっており墓堂があり、その墓堂は東室・中室・西室と三つに分かれている。
王族が崩御すると中室に安置され、時がたった頃洗骨を行い、
厨子甕(ずしがめ)に遺骨を納めて葬られていた。
第二尚氏王統の陵墓として語り継がれているが、歴史を読み解くと不可解な部分もあるようである。
その時代の跡継ぎ問題などが垣間見える内容の碑文が玉陵内にあるというが・・・
まぁ、その時代に生きた者でなければ解らないこともあるだろう。
4月の清明祭には、第二尚氏王統の子孫分家の門中が 「 神御清明 」 として拝んでいる。

ここ玉陵も第二次世界大戦・沖縄戦の際に大きな被害を受けたが、
戦後に復旧された現在に至っている。

沖縄県那覇市首里金城町1丁目




沖縄県糸満市 ・ 琉球三山統一の切っ掛けとなった嘉手志川 ( カデシガー )

2012-02-23 08:47:51 | 沖縄の文化財













































三山統一のキッカケとなった嘉手志川 ( カデシガー )




嘉手志川がある大里は、今から七、八百年前は一軒の家も無く、
樹木の生い茂る森であった。
ある年、数ヶ月も日照りが続き、川の水さえも干上がってしまうほどで、
人々は水飢饉で苦しんでいた。
そんなある日、老婆の家に長らく飼いならした一匹の犬が、
全身をずぶ濡れになって帰って来た。
翌日も同じことが起こったので、老婆がこっそりと犬の後をつけてみると、
そこには豊かな水をたたえた泉があった。
老婆は喜び勇んで、近所の人々にそのことを報せた。

喜びにわきかえった人々は口々に、その泉を “ カリユシの泉 ” と呼び、
そこから嘉手志川と名づけられた。
この泉を頼って人々が集まり、大里集落が出来たという。


また、『中山世譜』には、次のような話が記されている。
 山南を滅ぼす機会を窺っていた中山王・尚巴志 ( しょうはし ) は、
自分の持っている金の屏風と嘉手志川を交換しようと、
山南王・他魯海 ( タルミー ) に話を持ちかけていた。
見事な屏風が気に入った他魯海は、すぐさま尚巴志の申し入れを受けることにした。
こうして金屏風と嘉手志川を交換して嘉手志川を手に入れた尚巴志は、
嘉手志川の使用を規制する御触れを出して山南の人々を困らせた。

金屏風欲しさに川と引き換えた他魯海に対して恨みを持った住民は、
尚巴志にとって計算どうりであった。
さらに自分に味方する者には自由に水を使わせ、
山南の民衆を中山である自分の味方に付けてしまったのである。
こうして満を持して大軍を引き連れて山南に攻め入った尚巴志は、
他魯海王を打ち滅ぼし、三山統一を成し遂げる。


沖縄県糸満市大里



純米焼酎  「 風白馬 ( かぜはくば ) 」

2012-02-22 17:16:50 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒






酒売り場の棚で目を惹いた「風白馬 」。
迷わず買い物カゴに入れたのは云うまでもなかばってん、
宮崎県西臼杵郡高千穂町岩戸にある神楽酒造の純米焼酎は、
同じ米焼酎の“白岳しろ”よりも濃ゆく感じる。

純国産100%の米を減圧蒸留で仕上げ、、
香味の特徴としては香りの主成分であるバニリンや吟醸香と呼ばれるフルーティーな香りが特徴である。
また、米の甘味がマッチし、他の原料と比べ柔らかい酒質がポイント。
爽やかな酒質故にどんな料理にでも合う商品。
商品名は弊社麦焼酎 「 ひむかのくろうま 」 に対し白馬をモチーフにしたものである。





沖縄県糸満市  「 南山城跡 」

2012-02-22 16:48:19 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡


グスク内にある桜が揺れる南山神社






神社裏にある 「 南山城址碑銘 」






墳墓あるいは拝所をまとめたものと言われている






仁天屋懈大神と書かれたグスク内にある拝所






野面に積まれた内部の城壁






根が絡みついた石垣






大きな石で頑強に作られた城壁








沖縄 「 南山城跡 」





南山城は歴代の山南王の居城として栄華を誇ったグスクであるが、
歴史上で山南王の実態が明らかになったのが、
1380年ごろから登場してくる承察度(しょうさつと)からである。
中国の明の記録「明実録」に記されていることによれば、
山南王・承察度は大里按司のことと考えられる。
その根拠は、承察度は方言で(ウフサト)と発音され、
大里按司も(ウフサト)と発音される事から、ほぼ同一人物だと考えられた。
では何故、大里を使わずに承察度を使ったかを考えれば、
盛んに中国との貿易をしていた関係上、
ウフサトと読める中国風の承察度の名前を使ったのであろう。

 南山城は、糸満市の大里集落の南方にある標高60mの石灰岩台地に築かれたグスクは、
高嶺小学校一帯を含んでいる。
グスク北側は崖があり、崖下には尚巴志との因縁の戦いになった嘉手志川(ガデシガー)が流れている。
石垣は切り石積みと野面積みの石垣が確認されている。


落城伝説
金屏風と嘉手志川を交換して嘉手志川を手に入れた尚巴志は、
嘉手志川の使用を規制する御触れを出して山南の人々を困らせた。
金屏風ほしさに川と引き換えた他魯海(タルミー)に対して恨みを持った住民は、
尚巴志にとって計算どうりであった。
さらに自分に味方する者には自由に水を使わせ、
山南の民衆を中山である自分の味方に付けてしまったのである。
こうして満を持して大軍を引き連れて山南に攻め入った尚巴志は、
他魯海王を打ち滅ぼし、三山統一を成し遂げる。

南山城跡へのアクセス
南山城跡へのアクセスは、糸満市の高嶺小学校を目指して行ってもらいたい。
駐車は、中学校側のグスク入り口付近の路上に駐車した。

沖縄県糸満市大里